17
何歳になっても、面白いものが手元にあれば遊びたくなりますよね。
「彼らは、外に出たがっていた。ずっと私に外の世界について聞いてきたんだ。私だけじゃないな、恐らくは私の前に居た者も、その前に居た者にもだ」
「何だって?」
「私の前に塔に居た監視役達だよ。この塔にたどり着いた鏡の所有者の記憶は、彼らの監視役になる。その監視役が何らかの理由で居なくなった場合は、次に塔を訪れた鏡の所有者が新しい監視役に……後はわかるね?」
最初の記憶泥棒となった男の記憶は、誰も居ないこの塔に辿り着いてしまった。
彼は望まぬまま監視役となり、塔の中で延々と彼等の声を聞いていた。白い人から逃れる為に塔から出ても、この世界から外に出る術を持たない彼は『鏡の外の自分』が、巨人の餌となる記憶達を送り込むのをただ見ているしかなかった。鏡の牢獄で過ごす内に限界が訪れた男は白い人達に懇願し、それに応じた白い人を向こう側の世界に解き放った。その願いとは、鏡の外の自分を殺す事だ。
願いが聞き入れられた後、彼は塔を出て二度と戻らなかった。恐らくは、自分から巨人の餌になったのだろう。これでもう鏡の中に餌が送り込まれる事は無い……そう思いながら。
だが、鏡の外の男は殺される直前に言い放った。
「頼む……吾輩は死んでも構わない! だが吾輩の意思だけは、この意思だけは鏡に残させてくれないか……」
「 」
「吾輩の意志を継ぎ、過去の記憶から人々を救う者を生み出すために!!」
鏡の中の男にとっての不幸は、鏡の外の自分がどのような人物であったか全くわからなくなっていた事だろう。彼もまた、暗い過去だけを押し付けられた記憶でしかないのだから。単なる気まぐれか、それとも男と鏡の中で過ごしていたからか、白い人はその願いを聞き入れた。鏡をしまう為の容れ物を用意し、男が死ぬ準備を終えてから記憶を奪って彼を殺害。そして鏡をしまった容れ物を何処かに隠し、時間切れの為に白い人は再び鏡の中に戻っていった。
「……救わなければ。吾輩が、救わなければ。彼らを。救わなければ。吾輩が、彼らを、彼女を、救わなければ。吾輩が、吾輩が、吾輩こそが。彼のために、救わなければ彼女のために消さなければ。記憶を、記憶を、悪しき記憶を。吾輩が」
この世界に送り込まれたその男の記憶は、ただ人々を救いたいという気持ちを抱えて30年もの間、草原を彷徨っていたのだろう。自我を持ち得るだけの情報は無かった為、それを埋め込まれたゲインズにも草原で彷徨っていた時の記憶は殆ど受け継がれていないのだ。
「彼らとは長い時間を共にしてきたからね、私も友人として願いを聞き届けてあげたくなったんだよ。まぁ、さすがに一人が限界だが」
「聞かせてくれ、あの巨人は……一体何だ」
「あれこそが分身だよ。彼らのために用意された、外の世界で活動するための肉体だ。此処に運ばれてくる記憶を食べるのは、その記憶を動力源としているからだろうね」
「……ッ!」
「少し表現に無理があるが、白い草原は巨人を栽培するための畑といったところかな? 地面を掘り返せばきっと面白いものが見られるぞ、ははははは」
白いゲインズはこの世界の秘密を知っていた。知っている上で敢えて何も言わず、ウォルターや此処に訪れる記憶達が苦悩する様を見て楽しんでいたのだ。もはや彼は曲者どころか、狂人の域に達している。
「その白い人たちは一体何なんだ」
「そこまでは私にもわからない。だが、彼らはずっと前からこの塔の中にいた。何処かの世界から追放された囚人かな。もしかするとこの鏡の世界こそが、彼らの生まれ故郷なのかもねえ……それは無理があるか はははははは」
「どこまで知っているんだ! ゲインズ・グレイマー!!」
「彼らは外に出たいとしか言わないんだ、私にもわからないよ。でも彼らはこのままでは外の世界で長居は出来ないことだけはわかるよ」
白い人は鏡の外の世界での活動には制限があり、一定数の記憶を集めなければ巨人は外に出られない。
そして巨人が記憶を取り込み、その体に力が溜まっていくにつれて白い人は外の世界での活動時間が増え、最終的には黒い手鏡を使用せずともこの世界に送り込む能力を身につけてしまうというところまでは当たっていた。だが白い人こそが巨人の本体で、この塔が彼等を監視し、場合によっては外の世界に開放する為の施設だとは想像も出来なかった。
「白い人は新しい監視役が生まれることで一人ずつ、外に出られる権利と肉体である巨人を与えられる。何らかの理由で監視役が居なくなっても、外に出る権利を得た白い人と、彼に与えられた巨人は新しい監視役を鏡の中で待ち続けるのさ……ここから出してもらうためにね」
「……13番街で発生した、鏡の世界と繋がる門も君の仕業か?」
「門?」
「そこから出てきた巨人が倒されると、みんなの記憶が門から飛び出してきたんだ」
「その件については私にもわからないよ。私だってこの世界の全てを知っているわけではないのでね」
あの巨人は白い人が必要としない限り、ただ遠方で直立しているだけのシュールなオブジェでしかないという点は白いゲインズにもウォルターにも知り得ない事だった。前の泥棒の記憶が、30年も草原で彷徨っていたのに無事だったのはその為だ。
「……君が、嘘を吐いていないという保証は?」
「私は嘘を吐かない主義なんだ。そこまで気になるなら、君が彼らに直接聞きたまえ」
何れにせよ、この鏡の世界から何らかの方法で白い人を外に解き放ったのはこの男で間違いない。白いゲインズの言葉が真実なら、彼はもう白い人を外の世界に送り出すことは出来ないようだが……。
「さてウォルター君、ここからは個人的なお願いなのだが……そろそろ私を休ませてくれないか。彼らと過ごす日々は楽しかったが、さすがに疲れてしまってねぇ」
「君の体に、戻ろうとは考えなかったのか?」
「こちらから願い下げだね、それこそ今此処で死んだほうが幸せというものさ」
「……」
「気に病むことはないよ? 私はもう、鏡の外に何の未練も無いのだから」
白いゲインズは疲れたような笑みを浮かべ、ウォルターに懇願した。彼が監視役となってから、一体どれほどの時間を白い人達と過ごしたのだろう。その瞳に光は宿っておらず、生きる気力は既に失われていた。監視役の記憶は、気が触れる事すら出来なくなるのだろうか。
それとも、最初から白いゲインズは狂ってしまっていたのだろうか。
「ウォルター・バートン、君はあの世界……あの街を愛しているようだが私は違うんだ。私が愛する世界は、彼処ではない。わからないかね?」
「……ああ」
「愛する者も、誇るべき仕事も、何もかも失い……その果てにあの街で掴んだものは何だったと思う?」
「……」
「私は、あの街が大嫌いだった。それこそ彼らに明け渡したくなるくらいにだよ」
白いゲインズが考えていた事、それは白い人を利用したあの街への復讐だ。
門によって望まぬまま異世界に放り出され、異人種に囲まれながらその日を生きる為に闇商人にまで身を落とした。元の世界では貴族お抱えの仕立師であった彼の心に深い絶望を与え、あの街を憎悪させるには十分すぎる理由だった。
その派手な身なりや優雅な素振りは伊達や酔狂では無く、忘れ得ないかつての矜持を今尚貫こうとする彼なりの悪足掻きなのだ……。
「……ゲインズ・グレイマー、最後に言い残す言葉は?」
「ああ、言わせてもらおうか」
ウォルターの質問に、彼は最高の笑顔を浮かべて言った。その瞳は黒く濁り、まるで白い人の顔にあった二つの暗い穴のようになっていた。
「向こうでゲインズ君に会ったら伝えてくれ、どうかお幸せにとね」
白いゲインズの頭部を、青白い弾丸が貫いた。ゲインズは笑いながら椅子にもたれ掛かり、動かなくなった。ウォルターは塔から出ようとするが、その時初めて彼等の声を聞いた。
「出たいよ」「外に出たい」
「外の世界が見たい」
「どんなところ?」「ゲイザーは嫌なところだって」「ゲインズが寝ちゃった」
「出たいな」「でもゲインズは楽しいところだって」
「やっぱり、楽しいところだよね?」「ゲイザーは嘘つきだって」
「見たいな、外が」
「外が」
「外へ」
「外に」
次の監視役になったウォルターは後ろを振り返らずに塔を後にした。外に出ると、彼の肌は既に色を失っていた。白い草原の彼方に大きな人影が見える……それが動く気配はなかったが、どうやら次の白い人の為の新しい巨人が用意されてしまったようだ。
「本当に、気に入らないよ」
彼はそう吐き捨てると、空を見上げる。気が付くと元の体に戻り、マリアの膝の上で目を覚ました。反射的に飛び起きたウォルターの顔面は、そのまま彼女の胸に埋まった。
「おかえりなさい、旦那様」
「……」
「どうかしましたの?」
ウォルターは自分の気持ちを整理することで精一杯だった。
何を話すべきか、何から伝えるべきか。だが、一つだけはっきりしている事がある。マリアから少し離れ、大きな溜息を吐いた後に彼は疲れた声で言う。
「マリア」
「何でしょうか」
「人間って怖いな……」
「うふふふ、今頃お気づきになって?」
彼女が涼しい顔で発した返答に、ウォルターは苦笑いした。
彼はマリアから黒い手鏡を取り上げると、無言でそれを床に叩きつけて割った。マリアは仰天してウォルターを問い詰めたが、彼は何も答えなかった。
◆
「はい、記憶泥棒は二人組でした。彼らは私を呼び止め、楽しそうに会話をしながら黒い鏡を見せてきました……」
「どんな会話をしていたの?」
賢者室に呼び出された事務員の人は、その夜の記憶を思い出していた。
「どうだい? この街は凄いだろう、吾輩も驚いているんだ」
「凄いね! ここはとっても楽しそうだ!! 向こうのゲインズが言ってた通りだよ!!」
「その向こうとはどんな所なのかね?」
「え、あの……貴方たちは」
「つまらないところ! 早く外に出たいよ!!」
「つまらないところか、それは不憫だね。これも何かの縁だ、吾輩に出来ることなら何でも手伝おう」
「やったー! ありがとう!! じゃあ、もっとたくさん集めて!!! まだまだ足りないの、全然足りないの!!!!」
「えっと……聞いてます?」
「ああ、すまない。今助けてあげるからね……ほら、この鏡を」
大賢者とサチコは沈黙した。やはり、ゲインズは拘束するべきだろう。
ゲインズは何処かに監禁されていたのではない。夜な夜な白い人と共に13番街に躍り出ては、趣味で記憶泥棒をしていたのだ。家に彼の姿がなかったのは、白い人と街のホテルで外泊していたからだ。もし正体がバレても、手鏡さえあれば他人の記憶はどうにでもできる。
記憶泥棒は、二人組だったのである。
白い人は塔の中で白いゲインズと交流を深めていた為、こちら側のゲインズに対しても大変友好的だった。前の所有者の記憶の一部も植えつけられているので尚更だ。そんな白い人の為に、ゲインズは街を紹介して回る事も兼ねて一週間も外泊していたのだろう。事務員の人の証言から察するに、和気藹々とした様子で記憶を盗んでいたに違いない。
「ああ、目眩がしてきたわ……」
「大賢者様、お気を確かに」
「あの時、ヘリから落としておけばよかったかしら」
そうして遊んでいる間に協会の追跡を意図せず躱し続けていた。実は協会が掴めていたのは彼の名前と所在だけであり、詳しい容姿までは判明していなかった。スコット達もゲインズ・グレイマーの名前は知っていたが、こちらのゲインズの名前は少し違っていた。……サチコからは知らない人呼ばわりされたが、そこは冷静さを欠いていたから仕方がないという事にしてあげよう。
今回は大賢者専属秘書官に落ち度はない、ただ状況が最悪過ぎたのだ……。
最終的に飽きたのか、それとも少ししか記憶を盗まないゲインズに嫌気が指したのか、彼は捨てられてしまう。だが殺されずに記憶を少々奪われただけだ。流石に長年共に過ごした友人を、二度も殺そうとは思わなかったのだろう。
「サチコ、ゲインズ・グレイマーが違法道具の密売行為をしていたのは、何処だったかしら?」
「……主に13番街です」
白い人はゲインズと行動を共にしている内に自然と逃げ道を記憶し、13番街から出なかったのも『ここでなら絶対に捕まらない』と本気で思っていたのなら多少は合点が行く。そして事務員の人の報告にあったその口調から、大賢者には白い人がどのような精神構造であったのかが何となく推測する事ができてしまった。
白い人は、子供なのだ。それも世界を滅ぼしかねない程の力を持ったやんちゃ坊主だ。
その推測通りだとすると、自由に行動できるようになった途端に単独行動をとり、計画性も一貫性もなく手当たり次第に相手の記憶を大量に奪い、ウォルターの囮作戦に引っかかり、逃げればいいのに広場に留まってスコットと戦っていた理由にも大体の説明がついてしまう。白い人にとってはこの一連の騒動も、ただ好奇心の赴くままに遊んでいただけなのかもしれない。……あくまでも独自の推測に基づく仮説だが、何故か納得してしまっている自分に辟易し、大賢者は目頭を押さえながら椅子にもたれ掛かった。
「ふ、ふふふふ、まるで 子供みたいね」
「大賢者様?」
「ふふふふふ」
もし白い巨人と化した彼がこの街に降り立っていたら、どんな風に遊び回っただろうか。想像しただけで大賢者は思わず笑い出してしまった。そして、最後に気になっている事は……
「……サチコ、彼の住居の元の持ち主の名前はわかる?」
「ゲイザー・レイバック氏です。情報によると、彼は異界の美術品を集めるコレクターだったそうで……恐らくあの手鏡も何処かの商人から手に入れたのでしょう」
「彼は、どうなったの?」
「……30年程前に、行方不明になっています」
つまり13番街は、白い人の外の世界への好奇心、ある男の行き過ぎた善意、そして二人のゲインズという男の身勝手な行動によって大混乱に陥ったのだ。
「サチコ、確かゲインズはスコット君たちと何処かに泊まっているのよね」
「はい、一応呼び止めたのですが……」
「彼らに連絡を取って。……その男とウォルターを拘束させなさい」
「わかりました」
「あの……私は」
記憶を取り戻した事務員の人は弱々しい声に戻っていた。一体どんな記憶を奪われたのか、それはわからない。かつての自分を取り戻すのは、良い事ばかりでもないようだ。
「とりあえず、休みなさい……」
「は、はい!」
あの黒い手鏡が何時、何処で、何の為に作られたのかはわからない。
そして白い人達が何故、あの鏡の世界に閉じ込められたのかを知る術もない。わかっている事は、それは異界の技術で生み出された物であり、人々の記憶を弄ぶ道具であるという事だけだ。リンボ・シティには、まだまだ詳しい仕組みや生み出された意図が解明されていない異界の道具が多数存在する。この手鏡はその中の一つでしかない。
「サチコ、忘れかけていたわ」
「大賢者様……?」
大賢者は窓の外から朝焼けの空を見た。彼女の目には、朝焼けに照らされる街を囲う広大な水晶の壁と、その近くを歩く途方もなく巨大な人影が映っていた。あの人影は、街がこちら側の世界に出現した時に確認されるようになったもので、協会の有する防御機能とは何の関係もない。気がつけば、既に巨人は其処に居たのだ。
「夜明けの巨人……ですか」
「一応は生き物らしいわよ……冗談のような大きさだけどね。あれに比べたら白い巨人も可愛く見えてくるわ」
夜が明ける、朝焼けの時間にだけ現れて朝日が昇りきると幻のように消滅する。その正体は未だ不明で、最大4体まで出現する。その姿が確認されてから現在に至るまで敵対的な行動を取った記録はないが、もしもあの巨人が気紛れにこの街に侵攻してきたら……
「……怖いわね、この街は」
「はい、本当に」
「でも、それ以上に怖いものは────」
大賢者は何かに疲れた笑みを浮かべ、遠くを見つめながら呟いた。
そこに紅茶が加わると、もう大変な事になります




