2☆
誰にだって忘れたい記憶の一つや二つはあるものですよね。
ニュースを見た限りでは、カズヒコも記憶泥棒に襲われたと判断するべきだろう。
襲われた人物が幼児退行を引き起こしたという話は聞かないが、どちらにしても記憶泥棒を捕まえて問い詰めてみれば白黒はつくだろう。
「さて、残念ながら君の出番だよアーサー君」
ウォルターは携帯電話で屋敷に連絡を取る……しかし誰も電話に出ない。
彼の連絡に誰も応じないというのは今までなかった事だ……というよりあってはならない。嫌な予感がした。まさか屋敷に記憶泥棒が現れたというのか。
「はいはい、どなたですか?」
と思ったらマリアが軽い調子で電話に出た。一先ず安心したウォルターは胸を撫で下ろしながらホッと一息ついた。
「やぁ、マリア。実は今すぐアーサーに車を出して欲しいんだが」
「……」
「マリアさん?」
「旦那様、聞いていただけますか?」
嫌な予感は的中したらしい。ウォルターは深く息を吸い、気持ちを落ち着かせてからマリアに聞いた……。
「オーケー、話したまえ」
「アーサー君が! アーサー君がボケてしまいましたの!! どうしましょう!!!」
どうやらアーサーが記憶泥棒の毒牙にかかったようだ。彼がどうなってしまったのか、それを聞く勇気はなかった。
「何なんですの、これは! どうすればいいんですの!?」
「僕が聞きたいくらいだよ!」
「旦那様はどうして無事なんですか!?」
「僕が無事だといけなかったのかい……」
「あぁぁああー! 頭が、頭がどうにかなりそうですわ!! 旦那様、早く御戻りになって」
ウォルターはそっと通話を閉じる。
流石に今回の件はそこそこ堪えているようで、彼は力なく喫茶店のドアにもたれ掛かり、乾いた笑いをあげる。恐らくアーサーも、何らかの用事で屋敷を出た時に襲われてしまったのだろう。
「ははは、これはきついなぁ……」
だがここで膝を折る訳にはいかない。全てが手遅れになる前に、これ以上被害を増やさない為にも一刻も早く記憶泥棒を捕まえなければ……。
ウォルターはとにかく屋敷に向かう事にした。街を歩く人に声をかけると、ある者は逃げ、ある者は警戒する。彼らの記憶はまだ無事のようだ、その事だけで少しは気が楽になった。
だが油断はできない。記憶泥棒は今、13番街の何処かに潜んでいる。不意に建物の影から現れて自分の記憶を盗もうとしてくるかもしれない……ウォルターは周囲を警戒しながら足早に歩を進めた。
「聞いてくれ、聞いてくれ! お願いだ! ほんの少しの間で構わない!!」
すると、ビッグバードから少し離れた所にある大通りで何やら大声で叫んでいる男を見つけた。
「君たち、聞いてくれ! そう、そこのお兄さん!! ちょっと吾輩の話を……ああっ!!!」
色んな事が起きるこの街で、今更街中で大声を出す人物がいたぐらいでは誰も驚かない。
特に13番街はウォルターが住んでいる影響もあるのか住民達の度胸も相当据わっており、叫んだ男が突如爆発する、もしくは巨大な怪物に変身して暴れまわるでもしない限りは 変な奴が居るな くらいにしか気に留めないだろう。
「やれやれ、楽しそうだね」
ウォルターは彼に一瞥もくれず、足早に屋敷へと向かおうとするが……
「君ターチ! 聞いてくれ!! ちょっと!! ちょっとくらい話を聞いてくれてもいいじゃないか、吾輩が本物の記憶泥棒!! ゲインズ・バック・ゲイザーだよ! 本当だって!!」
その言葉を聞いてウォルターは足を止める。通行人は全く興味がないのか、それとも冷やかしだと思っているのか必死に訴える彼を無視して歩き去っていく。
「吾輩はっ! 記憶泥棒のゲインズ・バック・ゲイザー!! そう、吾輩がっ! 本物の記憶泥棒だ!!!」
その男は黒い羽帽子と時代錯誤気味な貴族風の衣装を身にまとっている以外は至って普通の人間に見える。肌色も健康的だし、頭に角も生えていなければ、腕が二本以上ある訳でもないお洒落なモノクルをかけた ごく普通 の壮年男性。彼は自分が記憶泥棒だと主張して回っている。ウォルターの足は自然とその男の方に向かった。
「ちょっと! 其処の……はて? 何処かで会ったかね、君」
「やぁ、初めまして。僕の記憶が君に盗まれていなければ、お互い初対面のはずだよ」
「いや、吾輩は君の顔に見覚えが……ッ」
自分の目の前に立つ、笑顔が似合う眼鏡の男を見て自称記憶泥棒は仰天した。
「ま、まさか君は、ウォルター・バートンかい!?」
「まさかも何も、僕はこの13番街に住んでいるんだけど」
「そして、吾輩を記憶泥棒だと認識した上で話しかけてくれているんだね!? そうだろう!!?」
「そうだね」
その男は感涙に咽ぶ。どうやら誰にも信じてもらえずに無視されてきたらしい。当然と言えば当然であるが。いきなり街中で 私が記憶泥棒です! と叫んで正直に信じてくれる人間がいるであろうか、というかそう叫ぶ泥棒もいるであろうか。
「どうやら、君が記憶泥棒のようだね」
「ああ……ありがとう、やっと話が通じt
「じゃあ話をしようか」
ウォルターは杖を彼の顔に向ける。記憶泥棒ゲインズは硬直し、その顔は次第に汗ばんでいく。ウォルターは笑顔を浮かべていたが、自分に向けられるその瞳には冷たく明確な殺意が秘められている事を彼は一瞬で理解した。
「わかった、話を聞こうじゃないか。吾輩に聞きたいことがあるなら言いたまえ」
「一つ目、君は今朝 何をしていたんだい?」
「今朝からずっとこの調子だよ、必死に訴えかけていたのに誰も聞いてくれないんだ」
「二つ目、今朝からこの13番街で起きている集団幼児退行事件、それは君が起こしたことかな?」
「滅相もない! 吾輩はそのような下劣な犯罪行為をしでかす男ではないよ!!」
「三つ目、君は今この瞬間までに何個嘘をついた?」
「嘘はつかない主義なんだ……信じてくれないかね? 駄目??」
ウォルターは杖を降ろす。通行人達は彼らを避けるようにして歩いていく……流石に慣れすぎでは無いだろうか。
「わかった、とりあえずついて来てくれ。此処は人目に付きすぎるし、警察に通報されてしまっているかもしれない」
「吾輩の話を聞いてくれるのかい?」
「君が真面目な話をしてくれるならね」
◆◆◆◆
13番街 喫茶店【ビッグバード】店内
ウォルターはビッグバードにゲインズを案内する。
シャーリーは幾分か落ち着きを取り戻したようで、二人にコーヒーを振る舞った。彼女の淹れるコーヒーは紅茶派のウォルターでも口にする程の一杯で、その仄かな苦味と酸味、そして程よい甘さが荒んだ彼の心を癒していく。目の前にいる自称記憶泥棒の顔が少々気に障るが。
「ありがとう、シャーリーさん」
「うむ、芳醇で深みのある香りを醸し出しながらも爽やかな酸味のある実にエレガントなコーヒーだ。是非とも毎朝味わいたいものだよ」
「あ、ありがとうございます」
「ははは、緊張しているのかな? 無理もない、吾輩h
「多分、君の喋り方が気持ち悪くて拒否反応が出ているんだと思うよ」
帽子を脱いで露わになったゲインズの髪は深い茶色のアップバングヘアで、黙っていればそれなりの男前に見える。しかし絶妙に人を苛つかせる独特な仕草と、妙に気障な態度がウォルターの神経を逆撫でする。
「あの……、本当にこの人が?」
「初めまして、お美しいお嬢さん。記憶泥棒のゲインズ・バ
「そうらしいよ。彼が嘘をついていなければね、あと彼女は人妻だよ」
「ふぁっ!? ……申し訳ない、奥さん」
ゲインズという男は相当なお喋りで暑苦しい性格の持ち主だった。
何より感情表現がウザ苦しい程に豊かであり、彼の一挙一動がウォルターをイラつかせていた。しかし、その表情や先程の行動から鑑みるにどうやら彼にも何らかのトラブルが起きているようだ。
「まず、記憶泥棒である君に見てもらいたい男がいる。この男を見てどう思う?」
ウォルターはシャーリーの後ろに隠れるようにしてこちらを覗くカズヒコを指差した。
シャーリーの身長は163cm、そんな彼女に隠れてこちらを警戒する190cmオーバーの顔が怖い筋肉モリモリマッチョマンの男性。しかし瞳だけが眩い光を宿した無垢な少年のようだった。
「正直に言っても良いのかね?」
「ああ、そういう意味じゃないよ? あれを見て、可愛い目をしているねとか図体の割に繊細な男なんだねとかいう素直で率直かつストレートに真理を突いた意見を聞きたい訳じゃないんだ」
「ウォルターさん?」
「ジョークだよジョーク。ただのグレートブリティッシュジョークだからね?」
「なるほど……少し、いいかな」
ゲインズは席を立ってカズヒコに近づくが、少年ゴリラはシャーリーを盾にしてゲインズから逃げるように距離をとる。シャーリーは困った表情でウォルターを見るが、ウォルターもその姿に困惑するしかない。背の高い筋肉質の男性が腰を引かせながら愛する妻を盾にするという、筆舌にし難い光景を前にどのような言葉をかければ良いというのだ。
「ふむ……君、吾輩の目を見たまえ」
「……」
「大丈夫よ、カズヒコ君。この人は悪い人じゃないから」
「そうだとも、吾輩は悪人ではない」
ウォルターは敢えて何も言わなかった。
人の記憶を盗むという笑えない犯罪を仕出かしておきながら、よくそんな言葉が吐けるものだ……。そう思いながらも、ウォルターは静かに成り行きを見守っていた。
「おじさんは?」
「吾輩はゲインズだ……ふむふむ」
「何かわかったかい? オジサン」
「間違いないな、彼は記憶を盗まれたようだ。それも、年若い少年の頃を除いた大部分のものをな……」
「目を見ただけでわかるのかい?」
「ああ、私は目を見ればその者がどういう人物でどういった記憶の持ち主かが大体わかるんだ」
ウォルターの問いかけにゲインズは自信に満ちた表情で答えた。彼の誇らしげな顔を見てシャーリーは思わず後退りし、ウォルターの口元も大きく引き攣る。
「辛い記憶や思い出を抱えている者の目は夜の海のように暗い色をしているからね。他にも自分を偽り、表面だけ繕っている者は傷のついた宝石のような鈍い色、他にも
「その辺にしておいてくれないか、肌が粟立つよ」
「つまり、今の彼にはそういったものがない。正に純粋無垢、白いキャンパスだ。恐らくは自分の名前すら忘れてしまっているだろう……全く酷いことをするものだよ、エレガントさの欠片もない」
ゲインズの言葉を聞いてウォルターはまず何処から指摘しようかと悩んだが、一先ず真っ先に言いたい事を口にした。
「記憶を盗むのは記憶泥棒ゲインズ・バック・ゲイザーの仕事じゃないのか?」
「ああ、確かに吾輩は記憶を盗む。だがそれは【悪い記憶】だけだ」
「どういうことかな?」
「このように記憶の大半を、彼の人生の殆どを盗むようなことは絶対にしない」
ゲインズは怒りの篭った声で言った。しかし、気になることはまだある。
「なら、カズヒコは誰に記憶を盗まれたんだい? 記憶を盗む能力者が君以外にもいるのか??」
「うむ……そこなのだ。実は、記憶を盗む為の道具があるのだが」
ウォルターは察した、このあと出てくる言葉は容易に想像がつく。彼はその答えを聞く前に目の前に立つ男をどう吊るし上げるかを考えた。
「あの、もしかしてそれを無くしてしまったとか……」
「うむ、実はそうなのだがそれは────」
その言葉を口にした瞬間、ゲインズに向けて青い光の弾丸が放たれる。
「ぬぅおっ!?」
彼は本能的に自分に向けられる殺気を感知したのか、その光弾を海老反りの姿勢で回避し、続けて連射される青い光の弾幕を華麗に避けながら店内を駆け抜ける。
「ウォルターさーん! やめてー!! 落ち着いてぇえええー!!!」
「はははは、大丈夫だよシャーリーさん。僕は至って冷静さ、何もおかしい所はないよ。大丈夫、大丈夫、だから離してくれないか? あの男が上手く狙えない」
「駄目よぉおおおー!!」
何もかも諦めた笑顔を浮かべ、ウォルターはゲインズに向けて魔法を連射する。
非常事態に備えて特別に頑丈な建材を集め、建築業者やカズヒコが汗水垂らして築いた店が畜生眼鏡の放つ魔法で徐々に破壊されていく。そんな半狂乱状態のウォルターを、シャーリーは涙ながらに抑えていた。
「ふわぁ……」
少年カズヒコは状況が理解できていないのか、棒立ちで目を輝かせながら魔法を連発する畜生眼鏡の姿を見ていた。
「ま、待ちたまえ! 話を聞いて!! 聞いてください!!!」
「オーケー、話したまえ。そんなに動き回っていたら話し辛いだろ? ちょっと足を止めてくれないかな?? 大丈夫、君の話はちゃんと聞いてやるから」
「やっぱりウォルター・バートンは危険人物じゃないか! 心無い事実無根の悪評が一人歩きしているだけだと思ってい……ぬおおおおおおっ!!」
「ウォルターさぁあああああん!!!」
シャーリーにも我慢の限界が来たのか、彼の腹部に手を回して一際強く抱きつく。そして彼の体を持ち上げてそのまま上半身を逸らし、倒れこむように彼を後頭部から床に叩きつけた。
「ぶぎゅるぁっ!」
後頭部を強打したウォルターは珍妙な叫び声を上げて動かなくなった。彼の足は激しく痙攣し、頭部からは赤い血が流れ、冷たい店の床が彼の血で赤く染まっていく。
「わぁ、お姉さん凄い……」
「ジャーマン・スープレックスだと……。奥さん、見た目によらず肉体派なのだね」
「あっ!」
正気に戻ったシャーリーは顔を真っ赤にして起き上がる。豪快なプロレス技で乱射魔を一撃のもとに沈めた彼女の姿を、眩い瞳で見つめるカズヒコとドン引きするゲインズ。ちなみにこの技は彼女が趣味で覚えたものだ。
「ウォルターさーん! しっかりー!!」
「ああ……、リーゼ……僕は どうすればよかったんだい? あの時、君を……」
「ウォルターさぁああん!!」
シャーリーは臨死体験中の彼を必死に揺する。この場合、揺すった方が容態は悪化してしまう恐れがあるが、既にパニック状態に陥っていた彼女に冷静な判断を求めるのは酷だ。
しかし彼はウォルター・バートン。この程度の出血とダメージで死ねる男ではない。
「はっ、僕は一体……」
「ウォルターさぁああん!!」
「ああ、シャーリーさんか……ところで僕は何をしていたんだっけ??」
「あれを食らって生きているのかね、君は……」
「すごいよ! お姉さん!! もう一回、もう一回やってみせて!!」
少年カズヒコは目をキラキラと輝かせながら、子供のような声で言った。
紅茶を飲みながらそんな事を考えていたら、この話が出来上がりました。