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「うーん、今日もいい天気だね」
朝食後に出される香り高い紅茶を堪能しつつ、ウォルターは笑顔で言った。
マリアは料理の才能は絶望的に無いが、ティーテイスティングの才能は光るものがある。紅茶にうるさいルナが認める程で、マリア自身もちょっとした特技の一つとして挙げている。
だが食器を片付けるマリアは彼の言葉に少々機嫌を損ねた。
吸血鬼にとって雲ひとつ無い快晴とはとても不快な天気であると同時に、その暖かい日差しを心地良いと感じる事ができなくなった自分の体への嫌悪感が、否応なしに彼女の心を憂鬱にしてしまうのだ。
「今日は屋敷でのんびりと過ごしたい気分だわ……」
「あれ、どうしたんだいルナ。僕は散歩にでも出かけようかと思うんだけど」
「いってらっしゃい」
「うふふ、いってらっしゃいませ」
「散歩なら車も必要ありませんな」
どうにも今日のルナは少々憂鬱気味のようだ。愛する眼鏡の提案にも乗らず、ソファーで横になりながら気怠げに小さく手を振る。
今朝の誘いをやんわりと断られた事を、彼女は根に持っているのかもしれない。
「旦那様、杖はお持ちにならないの?」
「ああ、じゃあいつものを頼むよ。術包杖も対人用のものでいい」
「かしこまりましたわ」
マリアはリビングの奥に置かれた木製のアンティーク棚の中からいつもの杖を取り出す。
この棚にはウォルターの私物である魔法杖が多数飾られており、中には既に生産が終了しているものや、正規な手段では手に入らない貴重品もある。この棚の他にも屋敷の地下室に箱に入れられたままの杖が大量に保管され、気分次第で棚に飾る物を変えているらしい。
「はい、旦那様。お気をつけて」
「ありがとう、じゃあ行ってくる」
手渡された杖をコートにしまい、ウォルターは屋敷を出た。
暖かな日差しを浴び、彼は見送りに来たマリアに手を振って散歩に出かける。今日は変装をしていないが13番街の人々は良いも悪いも彼に慣れてしまっている為、いつもの格好でもそこまでの騒ぎにはならない。
騒ぎにならないだけで、避けられてしまう事には変わりないが。
トレードマークであるバーバリー・リンボのキャメル色のロングコートにオースチン・リードのブランド物のシャツと紳士ズボン、そして骨董品屋で見つけた銀のフレームが特徴的な丸眼鏡を着用したお気に入りの服装。これは13番街の人々には 畜生眼鏡スタイル という忌名で呼ばれており、特にキャメル色のロングコートは彼専用の特注品……というより風評被害のせいで彼以外誰も買わないという憂き目に遭っている。
「やぁ、おはよう。今日はいい天気だね」
「……」
「……」
「おはよーっ!」
「いけません! あの人に声かけたら駄目よ!!」
「えーっ、ママ何でー?」
道行く人々に笑顔で挨拶をする。挨拶された通行人の多くは慌てて目をそらすか、足早に歩き去るか、臨戦態勢を取るが何人かは返事をしてくれる。彼にはそれだけでも十分だった。
ウォルターは嫌われているが、彼自身は街の住人を嫌っている訳ではない。
この街を愛している彼にとって街の住人達も守るべき対象であり、出来るだけ彼らとも交友関係を築いていきたいのだ。彼の性格や街中に知れ渡る悪名が災いして大抵逆効果に終わってしまうが……
「おはよう、ウォルターさん! 今日は一人なんだね、ルナさんはお留守番かい?」
「ああ、ちょっと一人で歩きたい気分なんだよ」
「一人で歩いてると案外普通の人に見えるんだけどねー! はははは!!」
「いやぁ、僕は普通の人だよ」
中には今喋りかけてきた、自転車に乗った耳長の新聞屋の男性や
「おはよう、ウォルター坊や。今日は一人なのね」
「やぁ、アケミさん。坊やはいい加減やめてくれよ」
「何言ってるの、私は貴方よりもずうっと年上よ? それに比べたら坊やよ、坊や!!」
「ははは、それを言われたら辛いなあ」
彼女のような齢500歳を超える上半身が妙齢の女性、下半身が大蜘蛛の半人半虫の姿を持つ婦人といった一部の住民は笑顔でウォルターの挨拶に応じている。嫌われ者の彼だが、この街で一人ぼっちという訳ではないのだ。
「そうそう、聞いてよウォルター坊や。最近、玄孫にようやく子供が出来たんだって」
「へぇ、おめでとう。またアケミさんそっくりの美人かな?」
「あははは、美人でも一度に100人も産まれたら驚くわよねぇ。これから一人一人の名前を考えなきゃ! と躍起になってるわ」
「ははは……」
アケミ婦人に手を振り、ウォルターはこれから何をしようかと考えた。
今日は警部からの電話もなく、ニュースも比較的平和なものばかり、下手に遠出でもしない限りはトラブルに巻き込まれる心配もないだろう。異界門の発生予報も今週は20%未満と低めだ……
低いだけで、発生しないという保証は全くないのだが。
「うん、ここはビッグバードかな」
行き先に悩んだらビッグバード。これが彼の基本方針だ。その店の名物店長ことカズヒコはウォルターと長い付き合いだが、付き合いを重ねるごとに彼の事を嫌いになっていくようで今や顔を合わせただけで殴りにかかる程となっている。アレックス警部も同様だ。
「またあの怖い目つきで睨まれるかなぁ、たまには優しい瞳で出迎えて欲しいものだけど」
それでもウォルターはカズヒコの事を気に入っていた。何だかんだで二人の付き合いは長く、ある種の悪友めいた関係であるらしい。カズヒコは頑なに否定しているようだが。
◆◆◆◆
リンボ・シティ13番街 喫茶店【ビッグバード】前
「おや、珍しいな。この店は土曜と祝日以外は毎日営業していると思っていたけど」
目的の喫茶店に到着したウォルターは、closedと書かれた看板が立っている事に気付いた。
店内に人の気配はなく、いつも楽しそうな雰囲気が魅力だったその店は、開店以来無縁であった筈の静寂さに包まれていた。しかしお構いなしに彼はインターホンを鳴らす。
「そういう日もあるってことか。まぁ、せっかくだから今日は彼の家にお邪魔させて貰おうかな」
ビッグバードは二階建てのシックな店舗兼用住宅であり、二階はそのままクロスシング夫妻の住居となっている。店が開いてなければ彼の家を直接尋ねればいいというのが畜生眼鏡の思考パターンだ。閉めても訪ねて来るのだから、カズヒコが嫌になるのも無理はない。
「……はい、どちら様でしょうか」
「やぁ、こんにちはシャーリーさん。僕だよ」
ウォルターの声を聞いた途端、インターホンは切れた。
「……あれ?」
ついにシャーリーにまで嫌われたのかと彼は少し不安になった。カズヒコが彼をどれほど蛇蝎のごとく嫌おうとも、シャーリーは暖かく迎え入れてくれた。そんな彼女にまで嫌われたらさすがに傷つく……と思っていたら
「ウォルターさぁぁぁあん!!!」
シャーリーは涙目で店から飛び出してきた。
マリアよりも大きいその豊満な胸を揺らしながらウォルターに駆け寄り、華奢な彼の体に抱きつく。一体何が起きたのかわからないが、彼女がここまで取り乱すという事は相当なトラブルに見舞われたに違いない。
「どうしたんだい、シャーリーさん」
「あのっ……! あのっ……!! あの人が……!!!」
シャーリーは肩を震わせている。彼女自身に目立った外傷は無く、店も客はいないが無事である……という事は恐らくカズヒコの身に何かが起こったのだろう。
「入ってもいいかな?」
「どうしよう! どうしよう!! このままだと……!!!」
「落ち着いて、まずは彼に会わせてくれないか」
シャーリーは泣き腫らした顔を擦りながらウォルターを店に入れる。
どんな事があっても笑顔を絶やさず、優しく落ち着いた雰囲気が魅力的だった彼女は今や見る影もなく憔悴しきっている。一体カズヒコに何が起きたというのか、魔法が直撃しようとも死なないどころか怯まずに突進してくるような男が重篤な身体的損傷を受けるとは思えない。まさか未知の病気でも患ってしまったというのか。
「うっ、ううっ……」
「泣かないで、シャーリーさん」
「私、私どうしたら……」
「僕の前で泣くんじゃない。君がその顔を見せて良いのは、カズヒコの前だけだ」
ウォルターはシャーリーを励ましながら、二人の愛の巣に続く階段を一歩一歩踏みしめるようにして登っていった。
「……やぁ、カズヒコ君。元気かい?」
二階のリビングの片隅で膝を抱えて蹲る男性にウォルターは声をかける。男は顔を上げるが、その表情を見てウォルターは背筋が凍る感覚に襲われた。そして思わず声に出す……
「えっ? 誰この人??」
「……主人です」
「えっ?」
「えっ??」
いつもなら怒りの表情を浮かべ、全力で殴りかかるか罵詈雑言を投げかけてくる筈のカズヒコが、まるで少年のような無垢な瞳でこちらを見つめている。その目にはお馴染みの殺意の波動や絶対に殺すというドス黒い覚悟の色も浮かばず、星屑の如き眩い輝きを宿していた。
「……主人、です」
「ああ、うん。とりあえず……僕が誰だかわかるかい? カズヒコ君」
「お兄さん、誰?」
ウォルターは耳を疑った。
目の前にいるのはカズヒコ・クロスシング、齢36歳、妻持ち。笑っていてもいなくても怖い顔つきに筋骨隆々の逞しい肉体。そして190cmオーバーの長身……そんな男から発せられた無垢な少年のような一言。
「すまない、もう一回言ってくれないか?」
「お兄さん、誰??」
「オーケー、怒っているんだね? いやぁ、あの時はすまなかった……まさかアーサーがあんなお客様を君達の愛の巣に
「ここはどこ? 僕はどうしてこんなところにいるの??」
ウォルターはシャーリーの方を見る。彼女は震えており、その瞳には大粒の涙が浮かんでいる。
「……なるほど、ね」
ウォルターは事情を察した。どうやら、カズヒコの心は無垢な少年時代にまで戻ってしまっているらしい……少年どころかもはや幼年期にまで遡っている可能性もある。
「朝のゴミ出しから帰ってこなくて……探しに行ったら……うううっ!」
シャーリーは顔を手で覆って泣き崩れる。愛する夫がゴミ出しに出たら幼児退行を引き起こしていた……誰だって頭を抱えるであろう。ウォルターも頭を抱えた。
「お姉さん、泣いてるの……?」
カズヒコは泣き崩れるシャーリーを見て心配したのか、覚束無い足取りで彼女に歩み寄った。
鍛え上げられた筋肉の鎧を纏いし強面の男が身を屈ませ、彼女の顔を覗き込もうとしている。あまりにも痛々しいカズヒコの姿を前に、さすがの畜生眼鏡も沈黙してしまう。
「泣かないで、お姉さん」
「……ッ! ごめんなさい、ごめんなさい……!!」
「なんだよ、この光景……」
ウォルターは堪らず心境を吐露した。
こんな光景は見たくなかった……シャーリーが居た堪れなくなり思わず目を逸らす。彼が視線を逃がした先にはレトロな赤いブラウン管テレビが置いてあり、点けっぱなしのテレビ画面にはニュース番組が映し出されていた。
『ええ、臨時ニュースです! シティ13番街周辺で謎の集団幼児退行事件が……!先月からの記憶喪失事件との関連性が疑われ、警察は記憶泥棒による犯行と』
青肌で、頭に角を生やした女性キャスターが街に起きた異常事態を伝えている。13番街といえばずばり此処だ。何やら今日も面倒事がこの街に起きているらしい。
「記憶泥棒か」
「ウォルターさん……どうしたら……」
「彼を頼むよ、シャーリーさん」
「わ、私……」
ウォルターはしゃがみ込むシャーリーの肩を叩き、励ましの言葉をかける。店の事、夫の事やこれからの事、その全てに関する答えの出ない悩みに押しつぶされて涙する彼女を少しでも力づける為に。
「今は、君が彼を守ってあげてやってくれ」
「……ッ」
「お姉さん、大丈夫? お兄さんは???」
「ああ、僕はウォルターだよ」
「おるたー??」
カズヒコの頭をポンと叩く。カズヒコはウォルターを嫌っている、それはもう殺す勢いで。だがウォルターは彼の事を嫌ってはいない。
「ああ、トモダチだよ。君のね」
「ウォルターさん……」
「少し待っててくれ、彼を取り返してくる」
ウォルターは立ち上がり、夫婦を部屋に残して静かに階段を降りていく。
記憶泥棒……先月頃から街に現れるようになった怪人だ。
その詳しい姿を知る者はおらず、彼にたどり着く情報は殆どない。異界からの訪問者なのか、それとも元からこの街に潜んでいたのかも不明。
判明している事は【記憶を盗み出す】能力を持つという情報だけ。
記憶を盗まれた人間は、文字通り盗まれた記憶を【喪失】し、思い出す事も不可能になる。程度によってはそのまま日常生活に戻れるが、人生の大半を占める程の重要な記憶を盗まれた者は適切な処置を施さなければ廃人になってしまう危険性があるという。現在のところ、そこまで深刻な状態に陥った被害者は確認されていないが、記憶を盗むという行為は決して軽く見ていいものではない。
「気に入らないな……」
ウォルターはそう吐き捨てると店を後にした。