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魔導協会総本部。今や世界中に支部を持つ魔導協会の司令塔にしてリンボ・シティのシンボルであり、この街の秩序と平穏の維持を担う生命線。協会の構成員は幹部から秘書官、事務員、警備員、果てはエントランスの案内係に至るまで全員が魔法使いである。
まさにその目と鼻の先に、小規模な異界門が発生した。
調査班所属の観測手による空間調査から、近日中に50%の確率で発生する事は予測されていたが、さすがに本営前に開くのは想定外だった。幸い、異界門から【向こう側の存在】は未だ現れていないが油断はできない。何も起きなかったからと注意を怠った結果、不意に現れたナニカによってこの街が壊滅寸前の危機に陥った事もあるのだから。
「本当に、朝から素敵な光景だわ……」
総本部の最上階。賢者室と呼ばれる特別室の窓から異界門を眺める女性がぽつりと呟いた。
「このまま閉じてくれれば助かるのだけど」
彼女の姿はとても美しく、雪のように白い長髪と青い瞳、左の目尻に小さく出来た泣きぼくろが淡い肌色と相まってその美貌を更に強調している。そして身に纏う複雑な刺繍が施された純白のローブにも似たドレスも相まって、彼女の容姿は神々しさすら感じさせる程に美しかった。
この女性は魔導協会の代表である【大賢者】。現時点での魔法使い達の頂点に立つ、世界最高位の魔法使いだ。
「大賢者様、温かい紅茶をお淹れしました」
秘書の黒髪の女性が大賢者にお茶を勧めて話しかける。瞳の色は薄いグリーンで、整った顔立ちをしている。しかしその表情は固く、人らしい感情の起伏が読み取りづらい。
彼女は白地の生地に金色のラインと刺繍が施され、肩に【生命の樹】を象ったエンブレムが刻まれたロングコートを着用している。その特徴的な服装は魔導協会職員の正装であり、特に白のコートは特に地位が高い者に与えられる特別仕様である。
「調査班によると、どうやら既に収縮を始めているそうです。今回は本当に偶発的に開いた唯の穴のようですね」
彼女の名はサチコ。若くして大賢者専属の秘書官という協会でも特別な役職に就く人物だ。
「ありがとう、サチコ。これなら」
その瞬間、異界門から異音が轟き出す。収縮を始めて狭まってきた黒い丸穴から5mはあろうかという機械と生き物が歪に混ざり合った異形が這い出てくる。全身から突き出したパイプのような突起からは緑色の廃液のような液体が漏れ出し、筋繊維が剥き出しとなった有機的な肉体に食い込むようにして機械部品が張り付いている。
〈ヴァア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ────!〉
その瞳は白目を向き、どう見ても知性を有しているとは思えない悲鳴にも似た恐ろしい叫び声をあげていた。その醜悪さに、大賢者は目を細める。
「……前言を撤回します」
秘書官は眉をわずかに歪ませて、申し訳なさそうに呟く。
「油断しなくてよかったわ、今日は誰がいたかしら」
紅茶にほんの少し口をつけた大賢者は、その場で漂流者の処遇を決定する。あの異形とは、意思疎通が不可能だと彼女の直感が告げていたからだ。
「はい、本日はスコット氏が執務室におられます。彼に対処を?」
「頼んでちょうだい。くれぐれも油断しないように、今回のあれは少し面倒そうよ」
その言葉を聞き、秘書官は連絡端末を起動。協会の職員であるスコットに処理を依頼する。
「……ふぅ」
紅茶をゆっくりと啜り軽く頬を緩めた後、暴れまわる機械の異物を睨みつけて大賢者は静かに言う……それはとても冷たい声色だった。
「あなた、気に入らないわね」
◆◆◆◆
ほぼ同刻、リンボ・シティ13番街の大型ショッピングモールにて
「そろそろかな……」
ウォルターは離れた場所で黄色い粒子が消滅するのを確認してから落下死した男に近づき、血の海に沈んだ魔導書を拾い上げた。
「まぁ、上出来だね」
「ウォルタァァァ────ッ!!」
一仕事を終えた達成感に浸るウォルターに警部が叫びながら走り寄る。
「やぁ、警部。終わったよー、約束の紅茶を」
「このクソ野郎が!」
警部は怒りで顔を真っ赤にしながらウォルターの襟元を掴み、そのまま軽く締め上げながら問い詰める。
「お前、ふざけるなよ!? 屋上に向かってあんな魔法をぶち込む奴があるかぁ!? 人質たちも巻き添えになってるだろうが!!」
「ハッハッハ、苦しいよー警部ー。やめてくれよー」
「そのへらへらした顔をやめねぇか! マジで締め落とすぞ!?」
「アハハー、締め上げる相手が違うだろー? ほら、さっさと人質を助けにいきなよ。あのバカ共もついでに病院なりブタ箱なり好きな所に連れて行くといい」
「建物の中にもまだ人質やあいつらの仲間が居るかも知れないんだぞ!? 屋上と連絡が取れないことに気付いたら人質が……」
「だからもう終わったよ。中の奴らも動けなくなってる」
ウォルターは建物内の人質を心配する警部に笑顔で返答した。
「……何?」
「あの黄色い花びらはね、ちょっと触れただけで砕けてしまう程に脆いんだ。だから屋上のダクトや窓、建物のちょっとした隙間から破片が入り込んで建物内に充満していくんだよね」
「はぁ!?」
警部は声を荒げる。この街に長く住んでいる彼は今まで様々な魔法を見てきたが、ここまで悪質かつ凶悪な魔法を目の当たりにしたのは久し振りだ。
「ただ、あの花びらを発生させるまでがちょっと手間でね……それに麻痺の効果は一定だ。一度触れれば痺れが取れるまでどんなに浴びてもそれ以上症状は悪化しない。とんだ見掛け倒しだよ」
「……」
「範囲は白蔦の樹が発生した地点を中心にショッピングモール一つを覆えるくらい。花びらが消滅するまでの時間は5、6分と言った所かな。名前は」
「もういい、聞きたくもないわ!!」
先程の魔法について長々と解説するウォルターに嫌気が差し、警部は彼を乱暴に突き放す。そして苛立ちながらショッピングモールの中に突入しようとするがウォルターに呼び止められた。
「警部、忘れ物だよ」
乱れた襟を整え、ウォルターは警部に先程拾った魔導書を渡す。
「これは」
「あそこで安らかに眠っているBAKAの忘れ形見さ。後で魔導協会に届けるなり、警察署に持ち帰るなり好きにしてくれ」
「……この血は、あいつのか」
「死ぬ直前まで手放そうとしなかったよ。よっぽど気に入ってたんだろうねぇ……」
「いや、俺に渡されても困る。お前の方で処分してくれ」
「いいのかい? このまま貰ってしまうよ?」
「魔法の道具は苦手なんだよ、誰かさんのせいでな!」
警部は問題の魔導書の処分をウォルターに丸投げする。本来なら警察側で回収して魔導協会に提出するべきだが、大の魔法嫌いである彼は血塗れの魔導書など受け取りたくもなかった。
「魔法の道具は便利だよ?」
「……だから嫌いなんだよ。使い方を覚えるだけで、ああいう馬鹿が調子に乗るからな」
「はははっ、それは道具が悪いんじゃない。調子に乗る馬鹿が悪いんだ」
ウォルターはそう言い残して警部と別れた。ニュース報道陣のカメラに笑顔でピースサインを送りながら老執事の待つバリケードまで向かうと、執事の隣で唖然とした表情で固まっている刑事に声をかけた。
「何をボーッとしてるんだい? さっさと人質のみんなを助けにいきなよ」
「えっ、あっ!?」
「ほらほら、そこのポリスメン共! ここからは君たちの仕事だよ! 税金泥棒呼ばわりされたくなかったらみんなの前でカッコいい所を見せてみろ!!」
ウォルターは両手をパチパチと叩き、若い刑事のように呆気にとられている警官を一喝する。我に戻った警官達は急いで突入の準備に取り掛かり、老執事は警部の頼まれ事を卒なくこなしたウォルターを笑顔で称賛する。
「お見事です、旦那様」
「帰ろうか、アーサー。僕たちの出番はここまでだ」
「紅茶はもうよろしいのですかな? 警部さんが奢ってくれるそうですが……」
老執事の言葉を聞いてウォルターは固まる。無言で警部の方を振り返り、彼は少し考えたが……
「いいさ、次に奢ってもらおう。今日はこれで我慢してやるさ」
今日は拾った血塗れの魔導書を報酬代わりに受け取るという事で良しとした。ショッピングモールに突入していく警部達を見送り、ウォルターは小さく笑う。
「そうですか、では屋敷に戻りましょう。車までご案内いたします」
「ところで、車は何処に停めたんだい?」
「すぐ近くですよ、ほら彼処に」
老執事が指差す先には、13番街の大型服飾店のショーウィンドウを突き破って強引に停められた彼の愛車の姿があった。
「……」
「少々道が混んでおりましたので」
「弁償してもらえるかな?」
「車のですかな?」
「店のだよ」
「はっはっはっ」
ウォルターが爽やかな笑顔で発した言葉に、老執事は妙に活き活きとした笑い声で答えた。
「ふむ、違法書の割には随分と凝った装丁だね」
老執事が運転する車の中でウォルターは魔導書にこびり着いた血をハンカチで丁寧に拭き取っていた。赤い染みが取り除かれて顕になった黒革の表紙には金の装飾が施され、ご丁寧に書物の題名まで金の文字で刻まれている。
「……黒海蛇召書。成る程、あいつを呼び出す本のコピーか」
「あいつとは?」
「スキアオピス、異界に潜む半霊体の【異世界種】さ。一昔前に有名になった生き物だね、懐かしいなぁ」
「ペットとしてですかな?」
「そうだよ、暗殺用のね。餌をあげればすぐ懐くし、口さえ開かければどんなものでもすり抜けてしまうから汚れ仕事には打って付けの動物なのさ」
ウォルターは爽やかな声で物騒な事を口走るが、老執事はさも聞き慣れたかの様子で軽く聞き流した。
「ただ、こいつを呼ぶ魔導書のオリジナルは魔導協会が保管しているし……コピーもその殆どが回収されたか処分された筈だけどね」
「まだ闇市場で出回っているのかもしれませんな」
「怖いなぁ、こいつは餌をやり過ぎると恐ろしいことになるんだよ。おっかない奴の手に渡ってないといいんだけど……」
「もう渡りましたがね」
老執事はルームミラーに映るウォルターの顔を見てほくそ笑みながら呟く。
「それはどういう意味かな? アーサー君」
「旦那様、もうすぐお屋敷に着きますぞ」
「ちょっと今の言葉をもう一度言ってもらってもいいかな?」
「旦那様、門が見えてきましたので合言葉の準備をお願いいたします」
「……」
執事の運転する高級車は大きな屋敷の門前で停車する。この年季の入ったジョージアン建築風の一軒家はウォルターの所有するもので、彼はこの屋敷にかなり長い間住んでいる。
「旦那様、合言葉を」
老執事は薄い水晶の板にキーチェーンを取り付けた不思議な道具をウォルターに手渡した。この道具は屋敷の門の解錠に使う音声認証鍵であり、車で外出する際にはいつも執事に預けている。
「はいはい、ええと……」
水晶の鍵の色が無色透明から緑色に変化した。
「旦那様、合言葉が違います。あと二回間違えると車が吹き飛びますぞ」
「……『ただいま、リーゼ。今日もこの街は平和だったよ』」
鍵の色が青色に変わり、鍵が解錠されて門が静かに開く。ウォルターは溜息混じりに水晶の鍵を老執事に手渡し、座席にどっと倒れ込んだ。
「……今日も平和だったよ」
「そうですな」
ちなみにあの鍵を使わなくとも この屋敷に住んでいる者 であれば門に触れるだけで解錠できる。車に乗りながら門を開けられるという点で言えば便利な代物ではあるが、無くてもそこまで困らないという微妙なアイテムである。
「……明日の合言葉は何だったかな」
「私に聞かれましても困りますな」
「ええと、確か……」
「明日までに思い出していただけると助かります。この車は気に入っておりますので」
車が門を抜けて屋敷に入ると同時に屋敷の玄関が開き、メイドのマリアが眩しい笑顔で彼等を出迎えた。
ちなみに紅茶にハマる前によく飲んでいた飲み物はMONSTERです。今もよく飲みます。