8☆
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。誰だろう? 朦朧とした意識のエイトにはわからなかった。
やがてぼんやりと見えてくる、青い瞳を持った美しい少女の顔……。
「ああ……ウサギ女か、まだいたの」
「しっかりしなさい、もう大丈夫。助かるから……」
エイトは足が動かない事に気が付き、ふと視線を向けるとそこには足がなかった。
どうやら二人を庇った時に溶かされたらしい……既に痛みは感じなかった。
「はっはっ、やっぱついてねーな……」
「目を開けなさい」
「いいんだよ……俺は」
「駄目よ、私を見て」
自分を抱き抱える少女を見て思った。どうして彼女は、こんな自分をここまで心配してくれるのだろう。彼女は自分に何をされたのか、もう忘れたというのか。エイトにはわからなかった。
「何でだよ、なんで俺にそこまで構ってくれるんだよ」
「……」
「あんたの愛するうぉるたーさんが見てるだろ? いいからそっちいけって」
「……似ていたから」
「あ? 何……?」
エイトの意識は再び朦朧としていく。もう彼女の顔がぼやけ、よく見えなくなっていた。
「大好きなおじいさんに似ていたの。とっても素敵な、思い出の喫茶店のオーナー」
「はっ、なんだそりゃ……。そんなにおれは老け顔かよ……」
「好きだったの。とっても優しくて、彼の淹れてくれる紅茶は最高だったから」
「そりゃ……良かったな。また、飲みに行けるじゃないか……」
「もう……いないの。彼は、天国に行ってしまったわ……」
「ははっ、そりゃ 運が……なかったな……」
彼はふと思った。もう輪郭はぼやけてわからなくなっていたが、自分を抱きしめてくれるその少女はとてもとても美しいと。
「ああ……くそ、悔しいなぁ……」
「どうしたの? 駄目よ、目を開けて」
「俺にも……あんた、みたいな女……いてくれた ら……なぁ……」
どうして金が欲しかったのか? 金を手に入れて何をしたかったのか? その答えはわからなかった。生きる為に必要だから、これだけ稼げば楽しく暮らせる、そう思って彼は金を集めた。だがどんなに金を集めても彼は満足できなかった。
どうしてだろう?
そんな事を考えているうちに今日を迎えた。やはりどうして金が得たかったのか 今もエイトにはわからない。しかし、どんなに金を集めても満たされなかった彼の心は 何故か満たされていた。
「ルナ、行こう」
「……」
「彼はもう、寝かせてあげないと」
「そうね……」
「……すまない、僕は」
「謝らないで、私は嬉しかったの。貴方が助けに来てくれたとき、やっぱり私も貴方が好きだと思った……本当に」
ルナはそう言うと、ウォルターの胸に背中を預けて小さく呟いた。
「でも泣き虫で、少し頼りないのは相変わらずね。何十年経っても……変わらないんだから」
「ああ、僕も そう思うよ……」
ウォルターは彼女を抱きしめて空を見上げた。夜空には、小さな星が一つだけ輝いていた。
事態は収まり、眠りに就いたヒュプノシアは魔導協会の職員達によって光を通さない素材で作られた専用の檻に入れられて移送される。それを疲労困憊の面持ちで見るスコット達。
「なぁ、今度協会に殴り込んでいいか?」
「俺がいない日ならいいよ?」
「うふふふ、さすがに今日は キレそうですわ」
協会がこの廃港に来れなかった理由、それはクライアントがスティング卿だった事が大きい。
彼は世界の富の5%を保有する大富豪、当然その影響力や一度に動かせる金も大きい。万が一、魔導協会に勘付かれてしまった場合に備えて様々な妨害工作を用意していたのだ。自分が死んでしまった場合の事までは考えていなかったようだが。
その妨害工作の一つが新動物に似せて造った凶暴な合成動物を数頭、街中に解き放つ事。
魔導協会の手にかかればすぐに鎮圧されるだろうが、要はこの廃港から気をそらせればそれで良かった。中には運悪くヒュプノシア・フロウに似た姿の動物も混じっていた……。
金さえあれば色々な事ができてしまうこの世界。自分を満足させる為ならば、街一つを大混乱に陥れる事くらい彼らは平気でしでかすのだ。
今日出荷される予定だった他の商品は、ウォルター達が廃工場を後にして次に向かおうとした場所で発見されて全員無事に保護された。魔導協会は肝心な時にいつも出遅れるが、決して無能ではない。相手や状況が毎回最悪なだけである。
「いやはや、今日は疲れましたな」
「あら、アーサー君。どうしたの? その怪我」
「ただのかすり傷です、支障はありません」
「あらあらー、とくに何もしていないようだったのにかすり傷? 一体何処で何をしていたのかしらー、もうお爺ちゃんだから何もないところでも転んじゃうのかしら??」
「申し訳ありません、実は無様に逃げ回るおばさんの姿に気を取られてしまいましてな。いやはや、あまりに見苦しく情けないお姿で……笑いをこらえるのが大変で大変で」
アーサーとマリアは静かに談笑する。しかしその雰囲気は険悪そのもので、近くに居たアルマとスコットの居心地はとても悪かった……。
◆◆◆◆
『……昨日 廃港に出現した怪物ですが、その出現には動物屋と呼ばれている違法の密猟者団体が関わっており 彼らの一味と思われる男の死体が』
翌朝、灰色の肌をした巨漢のニュースキャスターが昨日の怪物騒動について話していた。
「いやぁ、あれは本当に死ぬかと思ったよ」
「本当ね」
「全くですわ」
「いやはや、生きて帰れてよかったですな」
ウォルター達はニュースを見ながら朝食をとっている。ルナの朝食から香る甘ったるい香りに少々むせつつ、ウォルターは半熟の目玉焼きを頬張る。
「あらウォルター、黄身がお口についてるわ」
「ん? ああ……」
「動かないで」
ルナは優しくその黄身を舐めとる。数秒硬直した後、照れくさそうに視線を逸らすウォルターの顔を見て、彼女は幸せそうに微笑んだ。今の彼女は比較的素直に感情を表に出し、かなり大胆な行動を取る 積極的なルナ になっていた。
「相変わらず仲睦まじいことですな」
「ええもう、アル様が見たら嫉妬しちゃいそう。うふふふふ」
「いいのよ、起きないあの子が悪いんだから」
ウヴリの白杖を使う度にそれまでのルナは役目を終えるが、それはまた新しい彼女との出会いを意味する。いずれ訪れる別れの時まで、新しいルナはウォルターと共に自分だけの思い出を築いていく。そしてその思い出が今までの彼女とはまた違う彼女を構築する。
ウォルターとルナの日常とは、そういう事の繰り返しだ。
ルナと双子の姉妹であるアルマも、老執事のアーサーも、メイドのマリアもそんな二人の奇天烈な日々を面白半分、憂鬱半分に見守りながら暮らしている。常人には共感を得難い生き方であるが、彼らはそんな生活に充足感を見出す者達なのである。変人呼ばわりされても文句は言えまい、むしろ変人でなければ受け入れられない。だからこそ彼等の居場所は、此処にしかないのだ。
「……」
「どうかしたの? ウォルター」
「いいや、君に見惚れていただけだ」
「本当にそうかしら?」
「ははっ、ルナにはかなわないなぁ」
「ふふふっ」
ウォルターは小さく笑うルナを見て思った。確かに、今までの彼女達はもういない。
だからこそ、今の彼女を精一杯幸せにしよう。今度は必ず守ってみせる、彼のように……
それが、今までの彼女達の為に自分ができるただ一つの事なんだから。
「ああ、今日はいい日になりそうだ」
窓から覗く青空を見て、ウォルターは笑顔でそう言った。