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紅茶は浄水よりも普通の水道水を使ったほうが美味しくなります。特に我が国の水道水は紅茶との相性がベスト・オブ・ベストです。
リンボ・シティの周囲は、巨大な水晶の壁に囲まれている。
水晶の壁は外の世界からは【拒絶の壁】と名付けられ、その幻想的かつ非常識的な構造物は外の世界とこの街を分かつ一種の境界線の役割を担っている。拒絶の壁は魔導協会総本部が古くから有する防御機能の一つであり、街に入るにはまず魔導協会や彼らと提携関係にある旅行会社等とコンタクトを取って部分的に壁に穴を開けてもらう必要がある。この壁がある限り、外界の人々はリンボ・シティに許可なしで立入る事は出来ないのだ。
……と思われていたのは過去の話である。
実はこの拒絶の壁はリンボ・シティの周囲を完璧に覆い尽くしている訳ではなく、不定期に壁の何処かに 不可視 の隙間が発生してしまう。それは協会側にも把握出来ていなかった欠陥であり、防御機能に関する技術的ノウハウの多くが失われてしまっている所為で補修する事も出来ない。
100年前に起きた大災害……【異界交喚祭】はロンドンを失ったこちら側だけでなく、リンボ・シティが存在した向こう側にも甚大な被害と大きな混乱を齎したのだから。
不可視の隙間は壁全体から見れば小さなものだが、人間から見れば船の一隻が楽に入れてしまう程の大きさだ。とある船舶が偶然見つけた壁の隙間の情報は瞬く間に世界に広まり、我先にと各国の諜報機関や密猟者達が壁の隙間からこの街への侵入を試みるようになってしまっていた。協会側も黙って侵入者共を見過ごせる筈が無く、一定時間毎に壁を再展開して隙間の位置を変え続ける、隙間が発生したと思われる位置に大規模な罠を仕掛ける、見張り番の魔法使いを配置する等して対抗している。
……それでも僅かとはいえ外部からの侵入を許してしまっているのが現状であり、エイトの協力者である動物屋のように壁の内側から隙間の情報を提供する内通者の存在もあって協会の皆さんの苦労は絶えない。
金の為なら何でもする輩は、何処にでも居るのだ……。
◇◇◇◇
「こちらが、この一ヶ月の間で不自然に行方不明になった異人たちのリストです。実際の数は恐らくもっと増えるでしょう……」
「困ったものね……」
魔導協会総本部、その最上階にある賢者室。秘書のサチコは大賢者にある書類を手渡した。それはこの街で人身売買の被害に遭った被害者のリスト……この街はそういった商売を生業にしている者達にとってまさに宝の島だ。だが、普通の人間だけでは異人に抵抗されれば為す術なく返り討ちに遭うだろう。
しかし、それも異人種の協力者を雇えば済む話だ。
異人達も人間様だ。当然、生きる為なら何でもする者も大勢いる。そもそも彼等の大多数は異界門に巻き込まれ、不本意にこの街に放り出されてきた【漂流者】だ。彼等がまともな職にありつけるかどうかの保証はどこにもない。他の異人達に情けをかける理由もないし、その余裕もない。この世界では異人種の人権は認められているが、彼等全員の生活を保証できるだけの体制は未だに整えられていないのだ。
「彼らだけではなく、何種かの新動物が違法に捕獲された形跡が見られました。【動物屋】のものと思われる積荷も先日、回収されています……犯人は未だ確保できていませんが」
「全く、どこの世界も同じね。金持ちは誰も子供のよう……欲しがっているものがどんなに危険なものか、まるでわかっていないんだから」
「大賢者様……」
「本当に、気に入らないわ」
大賢者はリストを見ながら物悲しい表情で言った。その言葉を聞いてサチコも胸を痛める。賢者室が重苦しい空気に包まれていた時、不意にドアをノックする音が聞こえた。
「入りなさい」
「失礼します! 違法に捕獲されたと思われる新動物のリストができました……!!」
額に汗を浮かべた男が慌てて飛び込んでくる。彼は協会の事務員で、戦闘員ではないが立派な魔法使いだ。息を切らし、今にも倒れてしまいそうな程に憔悴しきっている事務員の姿を見て大賢者の脳裏を嫌な予感が過ぎる……。
「これを……!」
秘書官に書類を手渡し、男は頭を下げると急いで部屋を出た。サチコは渡されたリストに軽く目を通すが、突然ページをめくる指を止める。彼女の眉は大きく歪み、口元が小さく引きつった。
「……何がいたの?」
「大賢者様、その……ヒュプノシアです。ヒュプノシア種と思しき新動物一頭が、保護区域から運び出された形跡が……」
その名前を聞いた途端、大賢者は目の色を変える。一体どこの暇な富豪がその生き物に手を出そうと思うのか、金があれば何でもできると本気で思っているのだろうか。
「至急、情報部に探らせなさい。どんな小さな痕跡でもいいわ……その頭の悪い密猟者たちの足取りを掴んで」
「了解いたしました」
サチコは連絡端末を起動し、連絡を入れる。
大賢者は席を立ち、重い足取りで数歩進むと声を荒らげて言った。
「ああもう……今日は! なんて日なの!!」
◆◆◆◆
「ん……」
薄暗く、冷たい何処かの部屋でルナは目を覚ます。そこは中心にパイプ椅子と簡素な机が置かれ、そして部屋を照らす為の電球が吊るされているだけの殺風景な部屋だった。ルナの両腕は後ろで縛られ、これでは魔法が使えない。彼女は周囲を見渡し、彼の姿を探した。
「ウォルター……何処?」
彼の姿は見当たらない。どうやら、別の部屋にいるか、自分だけが連れ去られたようだ。部屋のドアを開けて、二人の男が入ってくる。運び屋のエイトと動物屋の黒コートの男だ。
動物屋。その名のとおり、生き物を商品として売り払う者達。商品として扱うのは普通の動物だけではなく、この街特有の新動物や異人種も含まれている。そして、彼等の商品を買う者や商品の確保を依頼するクライアントも普通の者達ではない。この世界の贅を己の金で舐め尽くした結果、それらに飽きて本来持ち出してはいけない筈の生き物に手を出しはじめた暇人達である。
「おや、これはまた……」
動物屋は彼女に近づき、彼女の顔をまじまじと見つめる。
「大当たりだな。君は高く売れるぞ」
「だろ?」
エイトは薄ら笑いを浮かべて言った。その言葉を聞き、ルナは自分がこれからどんな目に遭うのかが容易に想像できた。
「ウォルターは、何処?」
「うぉるたー? あんたの恋人か? 悪いな、そいつは……」
「待て、ウォルターだと?」
その名前を聞いて動物屋は血相を変える。
ウォルターという名はさほど珍しい名前ではない。だがこの街の住人である以上、その名を聞いて真っ先に思い浮かぶ人物は十中八九あの眼鏡の男である。その他大勢の善良なるウォルターさんへの風評被害は計り知れない。
「ウォルター・バートンか!?」
「は? 誰だよそいつ」
「……お前、いい加減に少しはこの街のことを調べろ。有名人どころの騒ぎじゃないぞ!」
エイトにはそれがどんな相手か全く想像も付かなかったが、商売仲間の様子から只者ではない事だけは察した。誘拐屋に不意を突かれて一撃でやられていたが。
「そうか、やばいのか……。で、それが何か問題?」
「大問題だ」
「そっかー、でも関係ないだろ? そいつは今頃 死んでるよ」
エイトは軽い態度で言い放つ。その言葉を聞いたルナは目眩を覚えた。
「それに、見ろよこの娘。な? やばい値段がつくぞ」
「……全く、お前の図太さには尊敬すら抱くよ」
「おいおいおい、俺たちは何のためにこんなことをしてるんだ? ん??」
動物屋の肩を軽く叩き、エイトは言う。だが、口に出した言葉とは裏腹に彼の目は濁り、その表情は様々な感情が入り混り笑っているともつかない複雑なものだった。彼の顔を見て、動物屋は思わずたじろいだ。
「金のためだ。俺は金が稼げるなら何だってする、あんたはいい商品が手に入ったと素直に喜ぶ。そんで、商品を金に変える……それでいいじゃねえか」
「それも、そうだな」
動物屋はエイトに彼女を任せ、部屋を出る。だが、部屋の外で待っていた誘拐屋のリーダーの表情は暗く沈んでいた……。
「どうした? 具合が悪いのか」
「あいつらから連絡がない」
「何?」
「仲間からの連絡がないんだ」
誘拐屋のリーダーはこの商売をしてもう10年になる。メンバーとの付き合いも長く、やっていることは決して許されることではないが、彼と仲間達との間には確かな強い絆があった。彼の仲間は先刻、とある老執事の手にかかり恐らく全員死亡してしまったが……。
彼らもまた、異界門の影響でこの街に望まずにやって来た漂流者だった。
「……ここまでだな」
「おい、まだ仕事はあるぞ……明日には」
次の仕事の話を聞かされた誘拐屋は振り向かずに数歩進んだ後、絞り出すように言った。
「俺たちはもう、疲れたんだ」
「……金はいつもの口座に入れておく」
「……助かるよ」
動物屋にも、誘拐屋の気持ちが少しわかった。彼も門によって元の世界からこの街に放り出されたのだから。元の世界に、家族を残して……
「でも、仕方ないよな。ここで生きるためにも 金が要るんだ……」
そういって動物屋は寂しく笑いながら廊下を歩いていった。その廊下や建物内部の様子から、彼等がいるこの場所は何処かの廃れた工業施設という事が窺い知れた。
「ウォルターを殺したの?」
ルナはエイトに何度も同じ事を聞いた。彼女にとってウォルターとはそれ程迄に特別な存在であり、彼を失う事は即ち彼女自身が生きる意味を失うに等しいのだ。
「さあな、死体は見てない。やったのは俺じゃないからな」
「どうして、そんなことをするの?」
「んー、そうだな……」
その言葉に男は少し考えた後、彼女に顔を近づけて言う。
「金のため、だ」
「お金のため?」
「そうだよ、金がなきゃ生きていけねえもん。そのためなら……」
「そんなにお金は大事?」
予想だにしなかったルナの返答にエイトは固まってしまう。少し硬直した後、彼は彼女の顔を乱暴に持ち上げ、威圧するように言った。
「そうだよ?」
「……ッ!」
「金は大事だ、それがなきゃ生きてけねえ。わかんないかな? 金がなくても生きていける……そんな世界を俺は知らねえんだよ!!」
その言葉とは裏腹に、エイトの胸中には自分でも良くわからないもやもやした感覚が駆け巡っていた。確かに金は必要だ、金がなければ生きていけない。男は幼少時からそれをその身に刻み込まれながら生きてきた……だが最近、彼は考えるようになっていた。
「だからさ、あんまり乱暴させんなよ? アンタには高く売れてくれなきゃ困るんだよ」
「……」
「そうそう、大人しくしてりゃ何もしねえって。商品を傷物にするのは商売人として失格だからな、そこは信用してくれていいぜ」
エイトはそう言うとルナを放し、溜息をつきながら椅子に座る。そしてポケットから取り出した携帯端末で何かを調べ始めた。
「……ウォルター」
「諦めな、それにもう少し我慢したら新しい男に会えるって」
「……ウォルター」
「しつこいね! あんたも!!」
エイトはルナの言葉を聞いている内に、段々と苛立ちを覚えていった。彼には理解できないのだ。そこまで他人の事を心配できる理由も、誰かの事を信頼できる理由も。
「ううん、あれ……ルナ?」
「お目覚めですかな?」
ウォルターを車に乗せ、何処かへと向かうアーサーは少しイラついていた。ウォルターは後頭部に走る鈍い痛みに、顔をわずかに歪めながら体を起こす。
「……ルナは どうしたんだ?」
「ご覧のとおり、お側に居られません。攫われたようです」
「そうか……」
濁った目で外の景色を見ながらウォルターは溜息混じりに言う。
「僕を……軽蔑するかい?」
「正直に言ってもよろしいのですかな?」
「いや、それを聞くのは後にしよう……」
ウォルターは小さく笑った。その笑いは自分に向けての嘲笑だ。ウヴリの白杖を使えば、昨日までのルナは役目を終える。その事実を彼は誰よりもその身に刻んでいる。先日も、そうなることを承知の上で杖を使ったのだから。この街のために……
「はっはっ……」
それでも、二週も続けて使うのは滅多にある事ではない。ましてや、あの杖を使った事で彼女とは一週間も一緒に過ごせなかった。
「情けないなぁ、本当に……」
「全くですな」
「はっはっ……」
だが、そんな彼女を憂う気持ちが彼から冷静な思考を失わせていた。その結果がこれだ。
笑うしかなかった、そして笑う事で自分への嫌悪感を更に深めていた。何とも両極端なメンタルの持ち主である。今の彼の姿をカズヒコが見たら、一体どんな反応を示すであろうか。
「はっ、いつまでも感傷に浸っている場合じゃないな」
「当然です、あなた様にはまだまだ頑張っていただかないと」
「僕一人じゃ無理そうだから、アーサー君にも手伝ってもらうよ?」
「仕方ありませんな、旦那様一人に任せると碌なことになりませんし」
老執事の言葉を聞き、ウォルターは頭を掻きながら苦笑いする。そして携帯電話を取り出し、マリアに連絡する。今すべき事は、自分を嘲笑して過去を悔やむ事ではない。ルナを無事に取り戻すことだ。
彼にとっても、彼女は特別な存在なのだから。
「やぁ、マリア。実は……あれ? もう向かってる??」
「既に連絡しておきました」
「さすがはアーサー、ところで杖の方は?」
「ウィンチェスターMA社製のイエロー・マンⅡライフル杖を一つと、ロイヤルスモールガジェット社製 エンフィールドⅢ銃型片手杖を二つ ご用意させています」
「エクセレントだ、アーサー」
「ご冗談を……見えてきました」
辿り着いたのは10番街にある寂れた廃工場。数十分前までエイトと動物屋が会話していた場所だ。
私も最近知りました。