プロローグ☆
今回から第二章です。お気に入りの飲み物と一緒にお楽しみください。
暗がりがうっすらと明るくなりはじめた早朝。
夜と朝の間、まだしっとりとした夜の匂いが残る時間に目が覚めた。
昨日まで、何をしていたかしら?
私には よく思い出せない。まるでまるで、今まで長い夢を見ながら眠っていたかのよう。
思い出せるのは、少し言葉が乱暴な可愛い双子の妹。怒りっぽくてすぐ拗ねてしまうけど、本当は優しくて良い子なの。あの子は自分がお姉さんだと言い張るけれど、私の方がきっとお姉さん。体だって、胸だって私の方が大きいもの。
若くて素敵な執事。あの子は最近になって私たちの屋敷に雇われたの。とても鋭くて凛々しい目をした人間の子。この街に引っ越して来たばかりでわからない事が沢山あるらしいの、案内してあげないと。この街は楽しいところよ。
とても綺麗なメイドさん。胸は私より大きくて、背も高いわ。笑顔が素敵で、いつもにこにこ愛想がいいの。家事もなんでもできて凄いのだけど 一つだけ苦手な事がある。あの子も年を取らないみたい……私と同じで、いつまでも若い姿のまま。
そしてそして、私の大好きな【彼】。綺麗なエメラルドグリーンの瞳とあどけない顔立ち、ブラウンの頭髪の上にピンと伸びるアンテナのような癖毛。どんなに櫛でといても治らないの、面白いでしょう?
彼と過ごす毎日は本当に夢のよう。確かに、体は少し頼りないけど誰よりも強くて素敵な人。
でも、そんな彼にも困ったところがあるの。何年、何十年一緒に暮らしても治らないもの。
彼は少し、泣き虫なの。
隣で静かに寝息を立てる彼の頬にキスをする。怖い夢を見ているのかしら、その顔は苦悶の表情を浮かべていたわ。目尻には薄っすらと涙が浮かんで……可哀想、慰めてあげないと。
「泣かないで……、貴方だけは」
「……ッ」
「貴方には、笑っていてほしいの」
着ている衣服のボタンを外し、私は服をゆっくりと脱いでいく。でも、こんな服着ていたかしら。
夜、眠りに就く時にブラジャーはつけない。寝ていると苦しくなるし、下着の締めつけがとても不快に思うから。本当は起きているときも着けたくないのだけど。
履いているパンティーもするりと脱ぎ去る。上を着ていないんだもの、下だけ履いているなんて不格好だわ。彼はせめて下だけは履いていてとよく言うけれど。
「大丈夫、私はずっと貴方の側にいるわ……ずっと」
寝ている彼を抱き締める。その寝息が私の胸を撫で、静かに鼓動が高鳴るのを感じた。
大丈夫、怖くない。ただの夢だから……私はそのまま、彼を抱きしめて眠りに就いた……
……
……
……
……誰かが優しく頭を撫でる、その感触で目を覚ました。
目に映るのは、大好きな彼の少し困った顔。
どうしてそんな顔をしているのだろう、私にはわからなかった。
「やぁ、お目覚めかな。今日もいい天気だよ」
彼の声が優しく耳に入ってくる。素敵な声、大好きな声、その声を聞くだけで幸せを感じる。
「ん……、おはよう」
まだ体は少し眠っているよう。思うように動かなくて、彼に縋りつくのが精一杯だった。
本当は今にでも飛びついてキスがしたいくらいなのに、残念だわ。
「ところで質問いいかな?」
「なぁに?」
「どうして君は裸なんだい」
彼はまたそんなことを聞く。裸の方が、気持ちがいいから……特に貴方と触れ合うときは。
「その方が、貴方のぬくもりを感じられるからよ」
「いやぁ、でもね……」
少し照れるように私から目を逸らす。もうずっと一緒にいるんだから慣れて欲しいものだわ。でも、そんな彼がまた愛おしく感じられる。
「恥ずかしいの?」
「正直に言っていいのかい?」
「言って欲しいわ」
愛しい彼の困った顔がもっと見たくて、少し意地悪をしてみる。彼はどんな風に返すかしら……それを考えると心が小躍りしそうになる。
「アーサーが困っているから服を着てくれないか」
アーサー、それは新しく雇われた素敵な執事の名前。
どうやら私達を起こしに来てくれたみたい。残念ね、もう少し彼をいじめたかったのに。今朝はここまでのよう。
「何なら、少し時間を置いてからまたお窺いしましょうか?」
彼の声を聞いて少し違和感を覚えた。そんな声だったかしら……確かに低めの声だったけど、もっと張りがあって……
「……?」
開いたドアの前で待つ執事を見て、私は驚いた。そこにいたのは老人。髪は真っ白で、顔は皺だらけ……。
「……アーサー?」
私は戸惑った。その名前の執事は若くて、まだ25歳にもなっていない青年だったから。
「どうなさいました? ルナ様」
でもその老人の瞳の凛々しさは、間違いなくアーサーそのものだった。
「今日も、素敵だわ」
「ご冗談を、それでは私はこれで……」
咄嗟に出たその言葉。本当に夢を見ているよう……でも、その老人を素敵に思ったのは本当のこと。彼も歳を取れば、今のアーサーのような素敵なお爺さんになるかしら。
「驚いたかい?」
「驚いたわ」
彼はまるで私が戸惑うのを見透かしていたかのように声をかけた。彼は今のアーサーの事をよく知っているみたい。
「……」
また違和感を覚える。確かに目の前の人は私の大好きな彼だけど、その目には私の知らないものが宿っていた。彼は私の頭を優しく撫でて、こんな言葉を囁いた。
「ところで、僕の名前は覚えているかい?」
とても優しい声。でも、その表情は何故か寂しそう。それにしても、何故そんな事を聞くのかしら? あなたの名前を、忘れるわけないのに。
「そうね……」
忘れるわけがない、愛しい彼の名前……どうしてだろう、その名前が思い出せなかった。
そんな筈ない、誰よりもこの人の事を知っている。誰よりも彼の側に居たもの。
きっと誰よりも彼の事が好き。それなのに、思い出せない……私は目眩を覚えながらも絞り出すように言った。
「ヴェルトール、だったかしら?」
「ははは、惜しい。僕はそんなに強そうな名前じゃないなあ」
◇◇◇◇
リビングにある食卓には美味しそうな朝食が並べられていた。きっとアーサーの手料理ね。マリアは相変わらず綺麗で、本当に変わってなくて少し安心したわ……この子は人間ではないから、老いたりしないのだけどね。
でも食卓にアルマの姿はない……まだ寝ているのかしら。あの子、朝はどうやっても起きないから困ったものね。寝ているアルマに悪戯をするのも楽しみの一つだけど……もしあの子が成長していたらどうしよう。
「……マリア、シロップをお願い」
「かしこまりました」
彼女は笑顔で答えた。少し嫉妬を覚えるくらいに彼女は綺麗な人なの。負けてられないわね……私には強い対抗意識が芽生えた。
「ふふふ、お持ちしましたわ」
「ありがとう」
マリアから手渡された瓶詰めのシロップ。これが無いと始まらないの、私は甘いものが無いと生きていけないから。隣の彼は甘いものが苦手だけど、いつかはわかってくれる筈よ。甘いものより美味しいものなんてないんだから。
「……たまにはそのままの味を堪能するのも良いと思うんだけど」
「ダメよ」
彼の言葉を遮る。悪いけど、これだけは譲れないの。瓶の蓋を開けて、朝食にシロップを垂らしていく。蜂蜜色の甘いソースに彩られていく料理を見て、思わず私の頬は緩んだ。
「ふふ、美味しそう」
鼻を擽るシロップの香りを嗅いで、私は上機嫌になる。テレビは今日のニュースを流していた。私はあまり興味がないけれど、隣の彼は熱心に見ているわ。
ウォルター・バートン。それが彼の名前……素敵でしょ?
忘れない筈なのに忘れてしまっていた、彼の名前。どうして言われるまでわからなかったのだろう……その事が今も私の心を憂鬱にしていた。
『今週の異界門発生予報のお時間です! ええと、今週は空間も安定しており全体的に……』
茶色の長い髪を後ろでまとめた女性の予報師が、テレビの中で元気に話し出す。いつものお兄さんとは違うのね、何処となく彼に似ているけど。
「今日はあの人じゃないのね、新人さんかしら」
「ん、ああ……」
彼は朝食のベーコンエッグを頬張りながら答えた。その口元には卵の黄身が小さくついていたわ。そんな彼の顔を見てまた私は彼を愛おしいと感じた。……少し浮かれすぎかしら。
「これからは、ずっと彼女が担当だよ」
「そうなの、あのお兄さん好きだったのに……」
「うふふ、今でも元気にしてらっしゃいますよ」
マリアの言葉にまた少し違和感を覚えた。今でも……というのはどういう意味なのかしら。ついこの前の予報もその人が教えてくれたのに。
「紅茶が入りましたわ、はいどうぞ」
「ありがとう、マリア」
「そろそろ茶葉も切れてきただろうし、後で買い出しにいこうか」
「うふふ、旦那様は紅茶が切れると死んでしまいますものねー」
朝食を取り終え、テーブルに食後の紅茶が出される。紅茶も大好きよ、キャンディーの次に。マリアが淹れてくれる紅茶はとても美味しいの。
「さて……ルナ。紅茶を飲んだら、少し話をしようか」
彼は紅茶に少し口をつけた私に真剣な顔で言い出した。何かしら? 私は彼の目に言葉にできない複雑な感情が込められていることを察した。
「君には、少し辛いことかもしれないが」
……彼にその事を教えられた時、私はどんな顔をしていたのかしら。
私達はと言うべきなのかな。今まで私は沢山の事を知っては忘れ、感じては失って来たみたい。彼に宿るあの杖を使う度に……
驚くでしょう? いきなりそんな事を言われたんだから。
彼から手渡された日記……それには私の知らない思い出が、私の字で書かれていた。
思い出の喫茶店のオーナーが強盗に襲われて死んだこと……
あの時、まだ子供だったあの子がもうとっくに結婚して最近可愛い孫が産まれたこと……
苦手だけど、素敵な人だった花屋の女主人がもう亡くなったこと……
私は本を読むのは好きだけど、この日記のページを捲るのはとても辛かったわ。読む度に……私の知らない感情が胸の中で軋み出すのがわかったから。
でも、彼はそんな私を抱きしめながら一緒に日記を読んでくれたの。
「ふふ、あの子 店を継いだのね」
「そうだよ、ウィーリーちゃん。メイス魔法具店の名物店主さ」
「貴方の杖は、まだあの子に手入れしてもらっているの?」
「勿論さ。彼女は天才だよ、あの子のお婆ちゃんにそっくりだ」
私は、ウォルターが好き。きっとこの街、この世界の誰よりも……。
でも、あんな話を聞いた後では思う事もあるの
今の私は、今までの私よりも彼が好きなのかしら。
chapter.2 「If you run after two rabbits , you will catch neither」 begins….
因みにオススメはハーブティで、集中力を上げてくれるので読書のお供にもってこいです。