15
────いつからだろう? 自分の過去が恐ろしくなったのは
────いつからだろう? 彼女と過ごす時間が怖くなったのは
────いつから……
「スカル・マスクゥウウウウウウウウウ!!!」
ヴェーダは絶叫しながらスカル・マスクに襲いかかる。先端が折れた左腕の刃を振り乱し、憎き悪魔の身体を切り裂こうとするがその乱撃は片手で軽くいなされる。
────いつから、俺は 幸せを掴めると錯覚していた?
「……ぁぁあ!!」
スカル・マスクは頭の中に響き渡る『声』を振り払うように叫びながらヴェーダの顔面を殴りつける。既に半分潰れていた彼の顔は更に変形し、下顎が大きく歪む。しかし彼は止まらない、止まれない。
「っっぶあぁあああああああ!!!」
顎が砕けて尚もヴェーダは絶叫し、右腕でスカル・マスクの顔を殴る。そして吹き出る血飛沫……、血が吹き出す程の力で顔面を殴りつけられてもスカル・マスクは怯みもしない。
────いつから、俺は やり直せると思い込んでいた?
「ぁぁぁぁあああああああ!!!」
スカル・マスクは右拳を握りしめ、獣のような叫びを上げてヴェーダの胴体に重い一撃を叩き込む。ヴェーダの身体はくの字に曲がり、夥しい血を吐き出しながら後方に吹き飛ぶ。吹き飛びながらも彼は両脚に力を込めて踏ん張り、床面に痕を残しながら数メートル後退って踏み止まる。
「がっはっっ! げぼっ、ごぼぼっ!!」
ヴェーダはドス黒い血を吐き散らして膝をつく。右腕が思うように動かないので目を向けると、その拳は砕け、手首があり得ない方向に曲がっていた。スカル・マスクを殴った時の血飛沫は、彼の腕から吹き出したものだったのだ。
「が、はははは、あばははははは……!!」
砕けた顎を左手で支え、顎部の再生を試みる。大量に出血したせいか、立て続けに重傷を負った影響かその傷の治りは遅くなっていた。
「あばっ……はははは、参った ナ。勝てそウにないじゃなィか!!」
「……」
「ここまで、強いのか……スカル・マスクとは!!!」
顎の再生を終えたヴェーダは計り知れない彼我との実力差に震え、最強の名が伊達ではない事をその身を以て思い知った。今まで自分が倒してきた魔法使いや掃除屋など、彼と比べれば霞んでしまう。
だからこそ、ヴェーダは心の底から歓喜した。この男ならば、あるいは……
「……もう、いいだろう? ヴェーダ」
「……!!」
「もう、終わりだ。お前に俺は……倒せねえ」
スカル・マスクはヴェーダにゆっくりと歩み寄りながら呟く。
「……知っていたさ、知っていたとも……だが それがどうした……?」
「……」
「今更、退けると思うか……!!?」
ヴェーダは立ち上がる。立ち上がったその身体からは血が吹き出し、彼には既に戦う力が残っていない事を言葉なしに伝えていた。しかし、それでもヴェーダの瞳から闘志は潰えない。
「私にはもう……何もない。君とは違う……何も、ないんだ……」
「……」
「私の全ては、15年前に失われた。今此処に居る私は……ただの、塵さ!!」
左腕の刃を再生させ、ヴェーダは両足に力を込める。自分に残されている力はただ一撃分……その一撃に今までの全てを乗せ、スカル・マスクに叩きつけるつもりだ。
この呪われた15年間の全てを、ヴェーダという亡霊の存在意義を乗せて。
「……我らが求むは、救いにあらず」
「……!」
「……我らが、求むは」
スカル・マスクは拳を握りしめ、静かな声で呟く。二度と口に出さないと決めていた、彼等の教義。掃除屋が抱える黒き理念。罪深き処刑人が背負う戒律……許される事のない、過去の自分に向けた呪言。
「……救えぬ魂の、安寧なり」
その言葉を聞いたヴェーダは、狂ったように笑いだした。
「ははっ、はっ……ははははは……はははははははははーっ!!」
笑いながらスカル・マスクに飛びかかる。彼の全てを込めた魔剣の一撃は、スカル・マスクの左腕に受け止められた。ヴェーダの斬撃は腕の肉を裂き、骨にまで達したがその腕を切り落とすには至らなかった。左腕からは血が吹き出すが、スカル・マスクはまるで意に介さず、右拳に血がにじむまで力を込め……
「……祈れ、せめて 迷わず妻の所へ行けるように」
それはヴェーダに向けるせめてもの情けなのか。それとも、自分が犯した罪への懺悔なのか。スカル・マスクはその一言だけを呟き、幾多もの怪物を屠ってきた渾身の拳撃を放とうとした────
「待って、殺さないで!」
不意に耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた女性の声。スカル・マスクはほんの一瞬だけ動きを止めた。
「あなた……っ!!」
だが、愛する妻の声を聞いても 彼の握りしめた拳は緩まる事はなく……
(シャーロット、お前の声はもう……)
ヴェーダはスカル・マスクの動きが止まったのを見逃さず、彼の左腕から刃を引き抜く。そして今度こそ彼の身体を切り裂こうと、血に塗れた剣を振り上げる。
「駄目ぇええええー!!!」
(俺には、届かないよ)
しかしヴェーダが左腕を振り下ろすよりも早く、スカル・マスクの拳が彼の胸部を貫く。かつての自分が貫いた場所を、ソーマがその身を削って塞いだ傷を、彼の容赦ない正拳が穿った……。
……誰かの声が聞こえる。意識が朦朧としているヴェーダは、その声の主を判別するまで暫くの時間を要した。
「……っかり、しっかりして」
(誰だ……私を呼ぶのは)
「しっかりして……!!」
(ああ……何だ、君か……)
ヴェーダは目には、涙目で自分を介抱するソーマの姿が映った。どうして泣いているのだろう? 致命の一撃を受け、大量の血を失った彼の記憶と意識は既に曖昧で、自分の身体がどうなっているのかすらわからなくなっていた。痛みすらもう感じない。先程までの化け物じみた再生能力も見られない……。
力の要であった胸の肉塊を破壊された彼には、もうその命を繋ぎ止めるだけの力も残されていないのだ。
「……ソーマ」
「しっかり……今、救急車を呼びましたからね!!」
「怖い……夢を、見たんだ……」
「……マークさん?」
「本当に……怖い夢を、見たんだよ」
シャーリーは自分をソーマと呼び、まるで妻に語りかけるような甘えた口調で喋りかけてくるヴェーダの姿を見て察した。彼はもう自分が誰なのかもわからない……彼の目には、自分が大切な人に見えているのだ。そして……彼はもう助からないという事を、シャーリーは理解した。
「……」
「……君が、死んでしまう夢だった。ぼくは、何もできなくて……君が殺されるのを黙って、見ているしかできなかったんだ……」
「……ッ!!」
「ぼくは……ぼくはね、それから……」
シャーリーを亡妻としか認識できなくなったヴェーダの姿を、スカル・マスクは静かに見下ろしていた。彼にかける言葉など、見つからない。彼の幸せを、彼の全てを、そして彼の人生を奪ったのは他でもない、自分自身なのだから……。
「……もう、大丈夫。ただの、夢だから……」
「……ソーマ?」
「もう、怖い夢は覚めたの……。だから、もう大丈夫……」
異形と化したヴェーダの左腕に触れ、ソーマは優しく夫に語りかける。その優しい声と、女神のような眩しい笑顔を見て 漸く彼は長い夢から覚める事ができた。
「……ああ、ソーマ」
ヴェーダの左腕の刃はボロボロと崩れ去り、その傷だらけになった腕が顕になる。彼は震える手で胸ポケットから花を取り出し、シャーリーに手渡した。
「……これは?」
「庭に、咲いていたんだ……一輪だけ……初めて見た……綺麗な花……」
その花は故郷から持ち込んだ黒い花でも、妻の死骸から生まれた白い花でもない。何処にでも咲く、小さな菊の花だった。だが菊の花は、彼の故郷には無い……彼が初めて目にした美しい『異界の花』だったのだ。
「……あり、がとう……」
「ソーマ……なんで、泣いているんだい?」
「……泣いて、ません」
「……そうか……ごめん……まだ、ぼくは寝ぼけているの、かな」
シャーリーは涙を拭い、必死に笑顔を作る。泣いてはいけない、せめて 彼が旅立つまでは……笑顔で見送らなければ。彼女は本当に優しい女性だった。例えこの男に夫を殺そうになっても、彼と築き上げてきた店を台無しにされようとも、彼女はヴェーダを憎む事など出来なかった。
「ほら、泣いてないでしょう?」
「……ああ、すまない。まだぼくは……夢から、覚めきっていないようだ……少し……」
「……いいの、眠って。大丈夫、私はずっと側に居るから……ずっと」
「……ソーマ……君は……本当に……」
その言葉を言い切る前に、ヴェーダは旅立った。愛しい妻が待つ場所へと……。
「……ッ!!」
シャーリーは穏やかな顔で息を引き取ったヴェーダの身体を抱きしめ、悲しみの涙を流した。彼の人生に何があったのか、どうしてこんなに優しい人が化物にならなければいけなかったのか、どうして……自分の夫が彼に恨まれなければならなかったのか。
夫から何も聞かされなかった彼女には、何一つ理解できなかった。
「……すまない」
泣き崩れる妻に、スカル・マスクはその一言だけを呟いた。シャーリーは夫を見上げ、溢れる感情をぶつけようとするが思うように言葉にできない。ただ傷だらけになり、顔を失ってしまった夫を涙ながらに見つめるしかなかった。
「大丈夫か、店長―!!!」
「今更だけど助けに来たぞーっ!!!」
「俺たちが来たからにはもう安心……」
空気を読んだのか、読めなかったのか 裏口から三馬鹿が突入してくる。彼等は何処からか調達した金属バットを手に、カズヒコを救うべく乗り込んできたようだが……
「うわぁああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
店一面に飛び散った血飛沫と、こちらを凝視する 顔の剥がれた大男 を見て彼等は悲鳴を上げた。
「……ま、待って!! この人は……!!」
「うやぁあああああああああああ!!!」
「だぁああああああああああああああ!!!」
「ばああああああああああああーっ!!!」
「……ははっ」
目の前の光景を受け入れられず、半狂乱になって逃げ出した三馬鹿を見てスカル・マスクは乾いた笑い声を上げた。
「……そうだよなぁ、怖いもんな……俺の、顔……」
スカル・マスクは妻に背を向ける。そして何も言わずに立ち去ろうとした。
「待っ……
「おじさん!!」
シャーリーが何かを言う前に、快復した絢香が彼を呼び止める。お洒落な服装こそ台無しになったが、傷ついた身体は既に全快し、絢香は自分の胸を締め付ける罪悪感に身を焼きながらもスカル・マスクに謝罪しようとした。
「あ、あの……私、私……!」
「気にするな、お前は悪くない……」
「私は……!!」
「悪いのは、俺なんだからな」
スカル・マスクは静かに振り向く。彼の素顔を見て、絢香は畏縮する。彼女の怖がる顔を見た後、最後にシャーリーと目を合わせ スカル・マスクは後ろめたさに声を震わせながら呟いた。
「……ごめんなぁ、こんな……化物でよ」
その言葉を遺して、彼は走り去った。剥き出しになった瞳から、青い雫を垂れ流しながら。
「待って、あなた……行かないで!!」
自分を呼び止める妻の声が聞こえても、彼は走り続けた。
「あなた、お願い……行かないで! 私を置いて行かないでぇぇぇぇぇぇー!!」
シャーリーは遠ざかる夫の背中に向かって叫び続けた。その声は、彼に届いていたが……彼が妻に振り返る事は無かった。
「……私は、おじさんに……謝りたくて……」
絢香は崩れるように膝をつく。目の前で泣き叫ぶシャーリーの姿を呆然と見つめながら、彼女は静かに涙を流した。妹を心配した小夜子がその店に足を踏み入れたのは、スカル・マスクが二人を残して店を去った直後の事だった。
彼らにとって辛い結末になりましたが、少なくともあの男は救われました。紅茶に包まれてあれ。