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前回に引き続きとある男の過去回想になります。
────気がつけば、ソーマの体は寝室の床に力なく倒れ伏していた。
「……ぁ、ぅ」
声が出せない。喉元からは熱い液体が溢れ、倒れる彼女の体を少しずつ染めていく。
力なく倒れる自分の体を染める熱い液体が、自分の血だと理解するのに彼女は数秒の時間を要した。
(……何が起きたの? 声が、出せない。体に……力が入らない)
思い出せるのは、ほんの数分前の事。寝室で夫が来るのを待っていた彼女だったが、妙な胸騒ぎを覚えて自分も様子を見に行こうとした時であった。
閉めた筈の寝室の窓から冷たい風が差し込み、不思議に思った彼女がふと後ろを振り向いたら……
黒い人影が音を立てずに近づき、彼女の喉を切り裂いた。
影が自分の喉を切り裂くまでの一瞬、無意識のうちに発した悲鳴がソーマが出来る唯一の抵抗だった。
(これ……血……? 私……怪我をしたの……??)
辛うじて動く眼球で周囲を見渡す。彼女の目に写るのは、自らの血で染まっていく絨毯に、倒れる際に手をかけて割った花瓶、床に散らばる黒い花……そして倒れる自分を見下ろす黒尽くめの男。
「……ぁ」
「そんな驚いた顔をするな。心配しなくても、今から死ぬだけだよ」
血に濡れた黒い短剣を握りしめた金髪の男は、彼女の瞳を見つめながら静かに囁いた。
「どうせいつかは終わるあんた達の命が、今日終わるだけだ。ただそれだけ……何もおかしいことじゃないだろう?」
冷たい言葉を残して男はソーマに背を向けた。状況が理解できず、目の前に散らばる黒い花を彼女はただ見つめるしか出来なかった。
(……ヴェー……ダ)
薄れゆく意識の中で彼女が思ったのは、死にゆく自分の事ではなく 愛する夫の安否だった。
「……ぇー……だ……」
黒尽くめの男は『あんた達』と言った。聞き間違いではない。男は寝室を出て何処かに向かった……恐らくはヴェーダの所だ。
「っ……ぇー……だ……っ!」
ソーマは最後の力を振り絞り、自分の血に沈む黒い花に手を伸ばす。
……既に夫は殺されてしまっているのかもしれない。
玄関先に向かった時、彼も自分のように黒尽くめの男……もしくはその仲間に襲われたのかもしれない。それでも、彼女は夫がまだ生きている事を神に祈った。
(……神様、どうか。どうか私に……)
途切れかけた意識を必死に繋ぎ止め、ソーマは血を吐きながら震える手で黒い花を掴む。
(どうか私に、あの人を守る力を……お与えください)
今は遠き故郷で暮らしていた時、父や母、親戚の皆が口を揃えて言った。何があっても、その黒い花の蜜を採ってはいけないと……どんなに花の蜜から美味しそうな甘い香りがしても、決してそれを舐めてはいけないと。
もし舐めてしまえば、お前は永遠に呪われてしまうだろう……と。
父母の忠告が頭を過ったが、ソーマに迷いは無かった。彼女は夫と過ごした日々に思いを馳せながら、力なく微笑み────
(どうか……私の、夫には……)
ソーマは黒い花に齧りついた。口の中に広がる鉄の味に混ざり込む、微かな黒い蜜の甘味を噛み締めながら……彼女はそれを飲み込んだ。
(神の、ご加護と……祝福を……)
……彼女の意識は、そこで途切れた。
◆
「がっ……!!!」
胸を貫かれたヴェーダはドス黒い血を吐き出す。スカル・マスクはゆっくりと腕を引き抜き、崩れ落ちるヴェーダの姿を虚ろな瞳で見つめていた。
「ごは……ッ!!!」
「お前たちにとってあの花がどんな意味を持っていたのか……俺にはどうでもいい」
「……う……ッ」
「ただ、この街にとってアレは毒でしかなかった……それだけの話だ」
スカル・マスクはそれ以上何も言わず、キースの死体を回収して立ち去った。ヴェーダは血の海に沈む妻の亡骸に目を向け、力無く慟哭した。
「ぁあぁああ……ッ あああああぁあああああ……!!!」
夫婦にとっての不幸は、あの黒い花を買う者達の本性に気付けなかった事。夫婦の生まれ育った世界に、危険薬物についての知識やその技術が存在しなかった事……そして、彼等自身がその花を特別視しすぎてしまっていた事だ。
「ぁぁぁああああぁあ……!!!!」
黒い花の加護によってヴリトラから逃れていたヴェーダ達と違い、この世界の住人達にとってあの花はただの趣向品だ。……それも彼等からすれば花自体に価値があるのではなく、それから得られる恩恵にしか目を向けられていなかった。
二人はそのことに気付けなかった。いや、考えつくことすらできなかった。
何も知らずに黒い花を売り、花を買ったお客様は黒い花を材料に新種の危険薬物を生み出して利益を得る。そして夫婦は何も知らないまま魔導協会に『危険因子』と断定され、街の処刑人たる掃除屋に始末される事になってしまったのだ……。
(ぼくらが、何をした……)
ヴェーダは絶望しながら、声なき声を叫んだ。
(ぼくが、ソーマが……何をしたっていうんだ……!!)
胸に空いた風穴から彼の命は零れ落ち、冷たくなっていく身体にはもう腕一本動かす力すら残っていない。
(神よ……、あなたは……)
神よ、あなたは一体 何をしているのだ!!?
ヴェーダが今日まで祈りを捧げていた神に、力なき絶叫を叩きつけた瞬間……死んだ筈のソーマの体が動き出した。
「……!?」
頭部を破壊され、生命の躍動を止めた妻の体が起き上がる。そして周囲を見渡す目玉も残っていないというのに、彼女の身体は倒れ伏す夫の元に這い寄ろうとする。
「……ソー……マ……?」
胴体部を床に擦り付け、血の跡を伸ばしながら背中の両腕で少しずつ夫の側に近づいていく。既に意識が朦朧としていたヴェーダには、その顔のない異形が 生前の美しい妻の姿 に見えるようになっていた。
「……ははは、何だ……ぼくは夢を、見ていたのか。ソーマ……ぼくは……」
妻は微笑みながら自分に寄り縋り、その頬を優しく撫でる。ヴェーダも妻の手を握りしめて笑った。
「怖い、夢を……見たんだ。本当に……」
ヴェーダの言葉に、ソーマは答えない。ただ慈愛に満ちた微笑を浮かべながら、彼女は夫を抱きしめる。そしていつものように優しい声で囁いた。
『ヴェーダ、あなたに 祝福を』
その言葉が優しく耳を撫でたと同時に、ヴェーダの意識は溶けていった。
◆
次にヴェーダが目を覚ますと、周囲は暗闇に包まれていた。
「……うっ、なんだ……寒い……ここは、何処だ」
目前に開く僅かな『隙間』から光が挿し込む。ヴェーダがその隙間に手をかけるとジジジと音を立てて隙間が広がっていった。まるで大きなカバンのジッパーを開くように……
「何だ、ここは……ソーマ……ソーマ!?」
彼が目を覚ましたのは、何処かの遺体安置所だった。
「……!?」
ヴェーダは動揺しながらも辺りを見回して妻を探す。しかし側にいた妻の姿は何処にも無い。
「一体……何が……うっ!」
不意に胸を突き刺すような痛みが襲い、思わずヴェーダは胸を抑える。ぬるりとした嫌な感触を手のひらに感じた彼が自分の胸を見ると、胸に空いた大きな穴を塞ぐようにして『不気味な蠢く肉塊』が埋め込まれていた。
「うっ、うわぁあああああ!」
驚いたヴェーダは寝かせられていた簡易ベッドから転落する。背中を痛めながらもふと横を見ると、隣のベッドから力無く垂れ下がる異形の腕があった……
「ひっ……!!」
思わず彼は口を塞ぐ。あまりの状況に理解が追いつかず、彼は必死に記憶の糸を手繰り寄せていた。そして思い出せたのは、黒コートの大男……スカル・マスクに襲われる悪夢のような記憶だった。
「いや、あれは夢の……夢の……っ!!」
しかしヴェーダはその記憶を否定した。認めるわけにはいかない……認めたくない。もしも認めてしまえば、受け入れなければならなくなる。
妻が殺されたというどうしようもない現実を、彼は認めなければならなくなってしまう。
「……」
隣のベッドで寝かされる謎の遺体。死体袋に収まらないのか、その遺体は白いビニールマットで覆われている。ヴェーダは 遺体から垂れ下がる異形の腕に見覚えがあった……。
「そんなはずはない……あれは夢なんだ……」
彼は震えながらビニールマットに手をかける。
「あれは……夢なんだ!!」
勢いよくビニールマットを遺体から取り払い……彼は 見た。
顔の無い怪物の亡骸を……両腕をもがれ、腹部を貫かれ、情け容赦なく惨殺された────妻の姿を。
「……ははは、はははははははっ」
頭の中で、何かが大きな音を立てて崩れ去った。
「あはっ、アハハハはハッ! はははっ、はははははっ、はーッはっハッはッ!!」
ヴェーダは狂ったように笑い出す。どうして笑っているのか自分でもわからない……ただ何もかもがどうしようもなく馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。
「……ぁぁぁあああああ!!!」
そして彼は妻の死体に泣きついた。どうして妻がこんな姿になったのか、どうして妻が殺されてしまったのか。
どうして彼女が死んだのに、自分は生き残ってしまったのか。
「……私たちがっ、何を……何を!!」
ソーマの死骸に縋りながら咽び泣いていた時、彼の頬を何かが優しく撫でた。顔を上げて妻の身体をよく見ると、腹部に開いた穴の中で 小さな花が微かに揺れ動いていた。
妻のお腹の中に雪のように白く、まるでタンポポのように愛らしい小さな花が咲いていた。
「……ははは、何だ……ソーマ」
妻は黒い花でヴリトラになった。その為、望まずとも彼女が死亡すればその身体から新しい命が生まれる事になる。だが何故か彼女から咲いた花は、雪のように真っ白であった。
「……君は、まだ そこに居るんだね……」
ただの偶然か、それとも神の悪意ある祝福か……それはソーマが好きな色だったのだ。
ヴェーダはソーマの身体から生える白い花を喜々として摘み取った。両眼から止め処なく涙を流し続けながら、彼は妻から咲いた花を摘み取り続けた……。
そして彼はその白い花に名前を付けた。今までの黒い花には名前が付けられていなかったが、妻の亡骸に咲いた花は特別だからと、彼は白い花の誕生を心の底から祝福しながら名前を付けた。
今は亡き、最愛の妻の名を……。
どうあがいても慈悲はない