10
その時の彼に、慈悲はありませんでした。
────それは、今から15年前に起きた出来事だった。
「今日も沢山売れたなぁ、嬉しい限りだ」
「ふふふ、本当ね」
時刻は夜の10時を過ぎた頃。ヴェーダは妻のソーマと温かいコーヒーを飲みながら談笑していた。
夫婦は最初からこの街に住んでいたのではない。向こう側で開いた門に吸い込まれ、この世界に放り出された『漂流者』だ。突然の出来事に二人は門から逃げる事も出来ず、言葉も通じない異世界での生活を余儀なくされてしまう。
生まれ育った世界から唐突に引き離された二人が唯一持ち込めた物は、故郷の草原から摘み取った『黒い花』だけだった。
「もしもこの花を摘んでいる時でなかったら、ぼくらはどうなっていただろうか」
「またそんなことを言って……あなたの悪い癖ね」
「仕方ないじゃないか。いきなり言葉も通じない見知らぬ街に放り出されたんだよ、今思い出してもゾッとするよ……もし」
ソーマはヴェーダの額を軽く叩く。ヴェーダは彼女よりも年下であり、少し心配性な面がある。そんな夫を支えるのが妻であるソーマの役目だ。
「やめなさい。この花のお蔭で、今の生活があるんだから」
「……わかってるさ。でも、最近は売れすぎな気もするんだ。確かにこの花は特別なものだけど……花束じゃなくて箱詰めで買い占めていくなんてね。それも来るのは少し変わったお客さんばかりだ」
「そうね……今まで買ってくれた人たちは急に来なくなったものね」
夫婦は故郷から持ち込んだ黒い花を売って生計を立てている。最初はとてもそれだけで食べていけるだけの収入は得られなかったが、香りを嗅ぐだけで気持ちが良くなると評判になり 花自体の美しさもあって飛ぶように売れていった。
「でも、どんな人だろうと買ってもらえるのは素直に嬉しいな」
「ふふふ、こんなに素敵な家に住めるようになるなんて夢にも思わなかったわ。今でも信じられないくらい」
「ははは、向こうに居る弟が聞いたら驚くだろうね」
その日の糧を得る事すら難儀した夫婦はいつしか小さな一軒家を借り、落ち着いた生活を手に入れることが出来るようになっていた。未だにホームレス同然の生活を強いられている多くの異人達と比較すると、この夫婦はとても恵まれていると言えるだろう。
「……ここに来てから4年、かな」
「もうそんなに経つのね……」
二人は窓際の花壇で育てている黒い花に目をやり、今は遠き故郷に思いを馳せた。花はまだ咲いておらず、小さな蕾の状態だ。美しい花弁を咲かせるには少し時間がかかるだろう。他にも別室で新しい黒い花を育成しているが、それでも追いつかない程にこの花には多くの買い手がついている。
黒い花は、夫婦が生まれた世界でも特別な意味を持つ花だ。
その世界の人間の生活圏はほぼ植物に囲まれており、文明レベルは16世紀未満とこちら側とは大幅に開きがある。電気、ガスといった物は当然存在せず、こちら側で言う『魔法』のような独自技術も確立されていない。
そしてこの世界との決定的な違いが、彼等の世界では人類が捕食される側にあると言う事だ。
「弟たちは、元気にしているだろうか」
「……大丈夫よ、きっと」
「ヴリトラの数は年々増えていく一方だった……あれからもう4年だ。いずれ僕たちの郷も」
「もう! またそんなこと言って!!」
「す、すまない」
彼等の世界には『ヴリトラ』と名付けられた異世界種が存在し、その種類や大きさは多様に渡る。大多数のヴリトラが凶暴な肉食動物であり、その世界の人間達はヴリトラから隠れながら細々と生活している。ヴリトラの力は圧倒的であり、一番小さな大型犬サイズの個体でも『郷』と呼ばれている彼等の居住域を単独で壊滅させてしまう程だ。最も巨大なものでは数百mを超える個体も存在する。
そんな人類種の天敵であるヴリトラから、彼等を守っているのがこの黒い花だ。
「でも、ヴリトラが増えるからこの花も咲き誇る……複雑だね」
「花が咲いている限りは大丈夫よ……きっと、みんな元気にしているわ」
黒い花はヴリトラの死骸や老廃物から発生する。その花から発せられる『香り』はヴリトラを追い払う効果があり、人間達はその花を郷の近くに植える事で天敵の襲撃を防いでいるのだ。
……だがその花はヴリトラを追い払う力を持つ他に、もう一つの効果を持つ。
「もうこんな時間だ、そろそろ寝ようか」
「そうね。もう、寝る前に嫌な話はやめてちょうだい」
「す、すまない。気をつけるよ」
「ふふふ、お願いね?」
ヴェーダが明日に備えてソーマと寝室に向かおうとした時、インターホンが鳴り響く。
「誰だ? こんな時間に……少し待っててくれ」
「あ、待って……私も」
「君は先に寝室に行ってくれ。すぐにぼくも行くから」
ヴェーダはソーマを待たせて玄関に向かう。そして玄関ドアに辿り着き、彼がドアを開けると
「誰かな? こんな夜遅くに一体何の……」
ドアの前に立っていたのは190㎝を優に超える大男。顔をフードで隠し、胸元に大きな白い十字架のマークが刻まれたロングコートを身に纏う謎の男は、感情の籠もらない冷たい声でヴェーダに語りかける。
「ヴェーダ・リヴハウマー……か?」
「……ああ、そうだが……私に何の用かな?」
「この花を、売っていたのはお前だな?」
男はコートから黒い花を取り出し、ヴェーダに見せる。
「……ああ、確かにそれは私が売っていた花だ」
「まだ、残っているのか?」
「……今はまだ蕾だ。花を咲かすには少し時間がかかる」
大男に黒い花について問い詰められ、怖じ気付きながらもヴェーダは正直に答える。見知らぬ相手に黒い花について聞かれるのは別に珍しい事ではなかったし、最近は『変わった客』が増えてきているのもあって彼は大男に対してそこまで強い警戒心を抱かなかった。
ヴェーダは心配性ではあるが、他人を疑うという選択肢を持たない素直すぎる男だったのだ。
「……邪魔するぞ」
「えっ、おい……! ちょっと……!!」
「その花は、この街にあってはいけないものだ」
男はそう言うとヴェーダを押しのけ、土足で家に上がり込む。
「な、何だ君は!? いきなり家に……何のつもりだ!!?」
「……」
ヴェーダの制止を無視し、リビングに足を踏み入れた。そして窓際の花壇を見つけ、男は再びヴェーダに問いかける。
「お前たちが花を売って、どのくらいになる?」
「……4年だ。その花を売らなければ生きていけなかった」
「……その花の『蜜』に、どんな効力があるか知っていたのか? 花の匂いを嗅ぐと 人間がどうなるのか……お前は知っていたか?」
「……知っていた。だが、わざわざその蜜を採って舐めようなんていう人はいないだろう……買った人たちはみんな観賞用や生花として────」
ヴェーダの言葉を全て聞く前に、男は彼の首を締め上げる。そして首を締めながら片手で持ち上げ、少しずつ締める力を強めていく……。
「……がっ! な、何を……!?」
「……もういい、十分だ」
「何を……っ!!?」
「きゃああああああああああっ!!」
突如、寝室から聞こえてきたソーマの悲鳴。しかし彼女の声はその悲鳴を最後に途切れ、寝室からは大男と同じコートを身に纏った痩せ型の男が現れた。大男と違って彼は顔を隠しておらず、淡い金色の長髪を後ろで結った中性的な顔つきをしている。
……そして彼の手には、誰かの血で赤く染まった黒い短剣が握られていた。
「……殺したのか」
「当然、生かしておく理由がない。女もその男と同罪だ」
「殺し……!?」
「おい、早くそいつも始末しろ……スカル・マスク。塵に同情は必要ない」
痩せ型の男は、大男をスカル・マスクと呼んだ。スカル・マスクはその人物を少しの間見つめた後、ヴェーダの首を更に強く締め上げた。
「……ッ!!!」
首の骨が軋む。その想像を絶する苦痛にヴェーダは顔を歪めるが、彼の脳裏にあったのは妻の心配だった。あのコート姿の人物が持つ短剣……その刃から滴る血は恐らく妻のものだ。だが、彼はその事を認める勇気がなかった。
どうして、こんな目に遭わなければいけないのか。
何故、自分達が面識もない男達に命を狙われなければならないのか。どうして、自分だけでなく妻まで襲われてしまうのか。どうして、男達は自分達を 塵 と呼ぶのか。
ヴェーダには何一つ理解出来なかった。この街で生きていく為に、ただ妻と黒い花を売りながら細々と暮らしていただけだというのに……。
(……ソーマ)
途切れかけた意識の中で妻の名を呼んだ時、何かが寝室のドアを突き破って現れた。
「……後ろだ!!」
「!?」
現れた何かは、痩せ型の男に襲いかかる。不意を突かれた彼は何者かの鋭く尖った爪で為す術もなく胸を貫かれ、激しく喀血した。
「……がふっ!」
「キース!!」
スカル・マスクはヴェーダから手を離し、突然現れた怪物に身構える。開放されたヴェーダは激しく咳き込み、血の混じった吐瀉物を吐き出しながら転げ回った。
「がっ! ごぼっ、ごぼ……っ!! ……う、ソーマ……」
そしてヴェーダは見た。リビングに現れた怪物の姿を、キースと呼ばれた痩せ型の男を鋭い爪で刺し貫く……妻の姿を。
「うぐっ……るるるるるるるっ!!!」
「ソー……マ……」
「るぐあああああああああああっ!!!」
ソーマの背中を突き破るようにして、二本の禍々しい腕が現れる。唸り声を上げて新しく生えた悪魔の腕でキースの両腕を掴み……
「……ちっ、油断したか。嫌になるねぇ……どうも」
「がるるるるるぁああああああああああああー!!!」
『怪物』は獣のような咆哮を上げながらキースの身体を 真っ二つ に引き裂いた。ソーマの茶色の髪は色素が抜け落ちて真っ白に染まり、長い髪を振り乱しながら半分になった男の死体を床に叩きつけるその姿に もはやかつての妻の面影は残されていなかった。
「……別れの言葉はいらないな、キース。俺たちのような掃除屋に……」
「がぁあああああっ! あぁあああああああああーっ!!!」
「救いは、必要ないんだからな……」
真っ二つに裂かれた無残な肉塊となった同僚に向けて、スカル・マスクは淡白な言葉を投げかけた。
彼等の間に友情のようなものがあったのか、それは誰にもわからない。スカル・マスクはそれ以上何も言わずに、血塗れの怪物と対峙した。
(ああ、そんな……ソーマ。どうして……)
ヴェーダは涙を流しながら変わり果てた妻を見る。どうしてソーマがあんな姿になってしまったのか……その理由はすぐにわかった。妻は、あの黒い花の蜜を舐めたのだ。
(どうして……!!)
黒い花の持つもう一つの効果……それは花の蜜には生き物をヴリトラに変異させる力があるというものだ。
この黒い花はただの植物ではない。花はヴリトラの老廃物や死骸から生まれる『ヴリトラの幼生』であり、この異世界種は他の生物に黒い花やそれから精製される蜜を摂取させる事で繁殖する独自の生態を持っているのだ。
花の蜜さえ摂取しなければ問題はない。だが厄介な事にこの黒い花は他生物に蜜を吸わせようと、相手の脳神経系に作用して大きな多幸感を齎す『甘い香り』を発する。ヴリトラがその花を避けるのは彼等にとってはそれがとても不快な匂いであると同時に、黒い花を摂取すれば自分の身体が別のヴリトラに乗っ取られてしまうからである。
それが、この花が飛ぶように売れた理由……花が発する甘い香りに魅せられ、そしてその香りや蜜が齎す作用に目をつけた者達が買い漁るようになったのだ。
その黒い花が齎す利益に釣られて……まるで蜜に群がる羽虫のように、続々と。
「うるるるるあああああああああああーっ!!!」
蜜の効力でヴリトラと化したソーマは絶叫しながらスカル・マスクに襲いかかる。禍々しい四本の腕を振り回し、鋭い爪でその身体を引き裂こうとするがスカル・マスクは恐るべき凶刃と化したソーマの両腕をいとも簡単に受け止める。
「……」
「るああああああああああーっ!」
「……我らが求むは、救いに非ず」
静かな声で呟きながら、スカル・マスクは受け止めた両腕をへし折る。しかしソーマはまるで意に介していないかのように、背中の二本の腕で彼の肩を掴んで深々と爪を突き立てる……
「……我らが求むは」
折った両腕を引きちぎり、スカル・マスクはソーマの腹部を拳で貫く。
「ぎゅるあっ!!!」
流石のソーマも血を吐きながら怯み、肩を掴む手を離す。スカル・マスクは腹を貫いた右腕を引き抜き、静かに息を吸いながら拳に力を込める……そしてソーマが苦し紛れに放った血に濡れた爪の斬撃が自分に届くよりも早く────
「哀れな罪人の魂なり」
ソーマの顔面に渾身の上段突きを打ち込んだ。
彼女の顔はその一撃で吹き飛び、頭部を破壊された肉体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。妻の命が奪われるその瞬間を、ヴェーダは絶望しながら目に焼き付ける事しか出来なかった。
「────ッ!!!!!!」
周囲に響き渡る騒音が、自分の絶叫だと彼が気付いたのは……スカル・マスクの拳が自分の胸を貫いた時だった。
「……悲しむ必要は、無い」
「……ごぶっ」
「お前の命も……ここで終わる」
スカル・マスクは感情の籠もらない虚ろな双眸でヴェーダを見つめ、冷たい声で言い放った。
気分が良くなるような話ではありませんが、最後までお付き合い頂けると嬉しいです。




