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涼しくなったり暑くなったりで忙しい時期になりましたね、紅茶が進みます。
時は少し遡り、時刻は午前10時25分。トラックから開放され、自由を得た『羊の群れ』が周囲の人々に襲いかかっていた……。
「ファアアアアアアアアアアアッ! こっち来る! 羊こっち来るぅ!!」
《めぺぇ~めぺっ》
「今行くから大人しくしてろ!!」
「大人しくしたら餌になっちゃう! 見ろよこいつらの顔、完全に餌を見つけたケダモノのそれだよ!! 俺もう餌としか認識されてないよ、こいつらにとっちゃ俺ただの美味しいお肉の塊だよ!!! あーっ! あーっ!! あーっ!!!」
「だから今、助けてやるって言ってんだよ!!」
周囲を血に飢えた羊に囲まれ、パニックに陥った運転手は絶叫する。警部は銃を連射し、恐怖のあまりくねくねとした気持ちの悪い動きで身じろぎする彼を援護する。
《めぴゃっ》
《ぴゃっ》
《めぺあっ》
甲高い声を上げて運転手に群がる羊は倒れていく。倒れた羊を蹴飛ばして警部は彼の元に急行する。
「外して! 早く手錠外して!! 新しいのがまたこっちに来てるから!!」
「暴れるな! 外せないだろうが!!」
「あーっ! 来るぅううううううううう!!!」
「うるさい!!」
恐慌状態で騒ぎ立てる運転手の顔面に、警部は強烈な右フックを叩き込む。男の意識は一瞬にして刈り取られ、大人しくなった男の手錠を馴れた手付きで解除する。警部は男を担ぎ上げ、急いでパトカーに逃げようとするが……
「警部! 駄目です、囲まれました!!」
「くそっ、だからお前は早くパトカーに戻れと言ったろ!!」
「警部を置いていけませんって!」
「ああ、畜生! 本当にいい奴だなお前は!!」
警部達の周囲は既に羊に囲まれてしまっていた。若い刑事は静かにリロードし、警部も肩に運転手を抱えた状態で銃を構える。既に何匹もの羊を倒したが、それでもまだ多くの羊が残っている。
「……かなり人がやられましたね」
「応援は?」
「事故の時に呼びましたが、この渋滞じゃ……」
「まぁ、そうだろうな」
先程まで響き渡っていた悲鳴はもう聞こえない。幸い、道路の近くには建物が乱立しており、多くの観衆が逃げ込めたようだがそれでも決して少なくない人数が犠牲となった。
「……」
「外の世界の奴は、この街の住人はみんな化物だと思っているだろうけどな……そんなことはないぞ」
「……わかってますよ、警部」
「いいか、忘れるな。この街にも 俺たちの助けを必要としている人たちは必ず居る」
また、羊達は一度 『餌』と見定めた相手に強い執着を示すようで、餌が車の中に逃げ込もうともその周囲を徘徊して決して離れようとしない。警部達も同様だ。
彼等は既に、多くの個体に餌と認識されてしまっていたのだ。
「お前、50mを何秒で走れる?」
「大体、7秒弱です」
「足速いな。俺は9秒台だよ……で、俺たちからパトカーまで何mあるように見える?」
「100m……くらいですね」
「俺が言いたいことはもう分かるな?」
「警部は人を抱えてますよ……」
「何とかするさ」
二人はパトカーへの道を塞ぐ、二頭の羊の頭部に狙いをつける。
「発砲と同時に15秒間、後ろを向かずに全力で走れ」
「……」
「返事は?」
「はい、警部。振り向かずに全力で走りますから……追いついて下さい」
若い刑事の返事を聞いて小さく笑い、警部は構えた銃の引き金に指を軽く押し当て……
《めぺぇ》
一頭の羊が珍妙な鳴き声を上げた瞬間、二人は同時に発砲する。放たれた弾丸は互いに狙いをつけた二頭の眉間に命中し、刑事は銃を握りながら全力で駆け出した。
《めぺぇ》《めぺぇ》《めぺぇ》《めぺぇ》
そして周囲の羊達も一斉に飛び出す。刑事は目的のパトカーのみを視界に捉え、羊達の襲撃を切り抜けて車に辿り着く。素早くドアを開けて乗り込むが、彼のすぐ背後に迫っていた一頭が車内に飛び込んでくる。
「うわっ!!」
《めぺぇっ、めぴゃっ》
「このっ……!!」
飢えた羊が下顎を大きく裂かせた瞬間、刑事は手にした銃を白い口腔に突っ込み発砲する。
「警部、急いで!!」
刑事は仕留めた羊を蹴り飛ばし、先程の一頭に続けて車内に侵入しようとする羊達に向かって発砲しながら警部を呼ぶ。警部は男を担ぎ上げた状態で迫りくる羊を銃で追い払いながらパトカーを目指すが、あと僅かという所で羊に足を取られてしまう。
「うおっ!」
「警部―っ!!」
「くっ……そ!!!」
警部は咄嗟に運転手を投げ飛ばす。運転手は刑事が仕留めた羊の上に落下し、彼によってパトカーの車内に急いで運び込まれる。
「警部、今助けます!!」
「俺はもういい!」
「何言ってるんですか、警部!!」
「見たらわかるだろ!!」
警部の足は羊に食らいつかれて負傷しており、更に彼の周囲に続々と飢えた羊が集まってくる。今パトカーから飛び出しても、刑事一人の力ではもう助けられない……。
「……!!」
「まぁ、そういうことだ」
「警部……」
「すまん、一つだけ頼まれてくれるか」
「……何ですか」
「エレナに伝えてくれ、その……」
警部が何かを言いかけた瞬間、若い刑事はパトカーのドアを閉じた。
「えっ……おい、まだ全部言ってないよ!?」
刑事が運転するパトカーは急バックし、後ろの車両に追突する。その車の周囲に居た羊は突然動き出した鉄の塊に驚いて逃げ出し、両車の間に居た羊はそのまま ぐちゃっ と潰された。
「……どういうことなの」
いきなり前のパトカーがバックしてきたと思えば鈍い衝撃と共にフロントガラスが真っ赤に染まり、それと同時に作動したエアバッグに顔面を激しく殴打された運転手は堪らず心境を吐露した。
そしてパトカーは後ろの車両にリアバンパーをめり込ませた状態で少し停止した後───勢いよく発進した。
「おい、おいおいおいおい……おい!!」
道路で倒れ込む警部は自分に向かってくるパトカーを見て、本気で自分の死を予期した。
羊に足を取られた時点で覚悟は決めていたが、まさか部下が運転するパトカーが自分を轢き殺しにくるとは思いもしなかった。警部が 俺があいつに何をした と真剣に苦悩していた時、刑事はサイドガラスを下げて大声で叫んだ。
「警部―! 地面にピッタリ背をつけて絶対に動かないで下さい!!」
刑事が運転するパトカーは鮮やかなドリフトを決め、言いつけ通り地面にピッタリと背をつけた警部を轢かずに彼を囲う羊だけを弾き飛ばす。警部の体をすっぽりと覆い隠すようにパトカーは停車し、彼は目と鼻の先にある 何か がいつも運転しているパトカーのシャーシだと気付くのに暫くかかった。
「警部、大丈夫ですか!?」
「……」
若い刑事はパトカーから降り、車体の下で硬直している警部を引きずり出す。
「お前……凄いな?」
「え……ああ、車の運転は得意でして」
「あれは得意ってレベルで済むの?」
「いいから、早く乗って下さい!!」
茫然自失状態の警部を急いでパトカーの運転席に座らせる。刑事は助手席に乗り込もうとするが先程放り込んだトラックの運転手が邪魔で入れなかった。
「ああ、もう! 邪魔だ!!」
背もたれを限界まで後ろに倒して彼を後部座席まで蹴り飛ばし、刑事はパトカーに乗り込んだ。
「ふぅ……」
「……」
「警部、あのですね」
「あ、はい」
「奥さんへのお別れは自分で言ってください」
若い刑事に何から話そうか本気で悩んでいた警部だが、彼の一言でようやく目を覚ました。
「ははは、そうだな……すまん。助かったよ」
「頼みますよ、本当に……」
「さっきので思ったんだけどさ」
「はい?」
「お前、やっぱりこの街に向いてるよ」
銃撃で多くの同胞が倒され、更にパトカーによる突撃を受けて怖気づいたのか生き残った羊はその場から逃げ出していく。だが残った死体からは既に新たな子羊が発生し始めており、警部達はその光景をうんざりしたような顔で見守るしかできなかった。
「……うわぁ」
「夢に出そうな光景だな……」
「どうします?」
万策が尽きた警部は静かに携帯電話を取り出し、重い溜息を吐きながら何処かに連絡を取る。
「確かに、俺たちの助けが必要な人は必ずいる」
「……はい」
「そして、そんな俺たちにも助けは必要だ。ちゃんと覚えておくんだぞ?」
何かを諦めたかのような警部の悲しい笑顔を見て、若い刑事は無意識の内に涙を流した。
夜は特に涼しいので、紅茶が進みます。




