桃の葉で瞼をこすること
父の病は一向によくなる気配が無い。
医者にみせているが、寝台から立ち上がれない理由は分からないままだ。医者も神聖魔法士も時戻しの術者も、皆が原因が分からないと言って、しまいには気鬱の病と診断されて、病状は悪くなる一方である。
一人娘であるパメラには何もできず、せめてもの行いとして天道教会で司祭に祈祷を依頼した。
継母も強く賛同して、心づけとして金銭を包んでくれたこともあり、病魔調伏祈祷はなかなか盛大なものになった。しかし、心は晴れない。
神様が救ってくれやしないということは、パメラも知るところだ。
祈祷が終わり、教会の庭園の景色を眺めていると、悲しくなって涙が零れた。
継母も悪い人ではないし、親族も心配している。それでも、父の容体は何も変わらない。
人気のない庭園端の水路でぐずっていると、こちらを見つめる両手ほどの大きさを持つ雨蛙と目があった。
「どうして御嬢さんは泣いていらっしゃったのかな?」
「え、あ、あなた」
「ああ、わたしは少しだけ特別なかえるでね。こうやって話せるんだ。ああ、大声はやめておくれ。別に怪しい者じゃないからね」
問題なく怪しい。
パメラは口を開けて固まってしまった。
蛙はどう見ても蛙だ。魔物の類であるようには思えない外見だが、喋る。
「わたしが話しかけたのは、御嬢さんがあなに大きな祈祷をしていたのもあるし、聖句に変な色が乗っていたらだよ」
「えっと、へんな色って」
「うん。妖気の残り香があるよ、お嬢さんの身体には。多分、何か心配事があるんだろうけど、モノノケの類が関係しているのではないかな」
物言う蛙の突拍子も無い話に、理解がおいつかない。
「あの、あなたは神様の御遣いなのですか」
「違うよ。わたしはかえるさんだよ。多少お喋りで信仰に篤いというくらいのかえるさんだね」
蛙は自分の言葉が面白かったのか、ケロケロと鳴いた。
「故あって菩薩様に人助けをしなさいと言われてるのさ。よかったら、相談に乗るよ。モノノケというのは人間にはなかなか相手が難しいからね。お腰の物入にでもわたしをお入れなさい」
パメラ姫は少しだけ悩んだが、藁にもすがる思いで蛙に恐々といった体で両手を差し出した。
すると、ぴょんと跳んで手に収まる。思ったよりも軽い。
なんとも不思議なことになったと思いながら、涙を拭いて馬車へ向かう。
御者は打ちひしがれているお姫様を気の毒に思いながら、いつものように車中へエスコートした。物入れが膨らんでいるなんて、思いもしないだろう。
「さて、お嬢さん。わたしがどうして話すようになったのか、世間話も交えて説明ようかね」
屋敷に帰り着くまで、蛙は自らの来歴を語った。
水路に生まれて聖句を聞いて育ち、菩薩様に会うまでの長い話である。
「まあ、不思議なお話ですのね」
饒舌な蛙の話はなかなか波乱万丈で面白いものであった。ついぞ笑ってしまうところもあり、パメラはすっかり楽しい気持ちになる。
「うん、それで、どうして御嬢さんは泣いていらっしゃったのかな?」
「ええ、お父様が御病気になってしまいまして……」
事のおこりは二か月ほど前のことである。
父上が後添いとなられるモイラ夫人を連れて帝都からトリアナンの生家へと戻られた。
パメラにとってモイラ婦人はなかなか良い継母である。
「とっても素敵な女性ですのよ。わたくしの話も聞いて下さるし、とてもお美しくて優しいお方」
パメラは新しい母にすっかり夢中になった。
産まれの母は幼いころに亡くなってしまったこともあり、母性に飢えていたことから子犬のように懐いた。
「お父様も喜んでいらっしゃったのに、……寝台から起きられなくなって。最近ではずっと眠っているばかり。起きても、何も言って下さらないのです」
ぼんやりと、宙を見つめているだけだ。
モイラ婦人が抱きしめると、何事か笑みを浮かべて言葉にならない言葉をつぶやくのみ。
家のお仕事は婚姻を交わしていたモイラ夫人が取り仕切っているため、不味いことになっていないが、このままでは御取り潰しになってしまうかもしれない。
「お母様も諦めているみたいで、最近ではしきりに縁談を勧めてくるのです」
パメラはのんびりとした性格から、縁談をもう少しと伸ばしている内に二十歳を過ぎた。
外見は少女のようだが、年齢は二三歳である。
「お父様も、縁談は進めなかったから。子供のころ、お父様のお嫁さんになると言ったのが、本当になりそう。うふふふ」
とても暖かい思い出だ。
今の状態があると、より一層それは悲しい。
「するってえとなんだね。その後添いのモイラっていう継母さんがいらっしゃってから、お父さんは具合を悪くしたんだね。それに、お嬢さんの身体に残る妖気からすると、こいつは怪しいねえ」
馬車はゴトゴトと揺れながら屋敷へ向かう。
「まあ、かえるさんったら、そんな怖いことを言うなんて」
「継母が妖怪っていうのは、昔からわたしたちモノノケ、いやあわたしはただの蛙だけど、よくある手なんだよ」
蛙はパメラ姫のポーチの中から頭を出して言う。そして、腕を組んで考えた。
古典的な女怪のやり口だけど、それなら先にパメラ姫を喰らおうとするのが筋というもの。
「でも、モイラお母様はとても良い人よ。とっても」
「うーん。わたしの目なら人かモノノケかなんてのはすぐ見分けられるさ。正体が知れてから考えよう」
「まあ、かえるさんはそんなこともできるの」
「修行してるからね。少しくらいの神通力はあるよ」
自慢げに蛙は言うと、ケロケロと鳴いた。
馬車はゴトゴト。
「かえるさん、お父様を助けて。お父様のこと、とっても大切なの。お父様がいないと、わたくし……」
涙が浮いてくる。
いろんな感情の波が、心の水平を乱す。
人の心はたらいに張った水のようなもの。
パメラの本名は、パメラ・アーミテイジ。
アーミテイジ男爵家はそこそこ名の通った法服貴族家である。
大きくはないが歴史ある屋敷だ。
パメラは御者にうながされて馬車から降りると、屋敷に入った。
使用人たちは頭を垂れてパメラを迎える。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま。皆さん、お仕事に戻って」
気さくなお嬢様といった様子でパメラは屋敷に戻った。
奥の庭園へ向かうと、モイラ夫人はいつものように居間の安楽椅子に座っていた。
「モイラお母様、只今戻りました」
モイラはにこりと笑って、パメラを迎えた。
いつ見てもお美しいひと。
顔かたちは秀麗で、お体も殿方のこのむところ。そして、四十歳に手が届くというのに、十は若く見える。
パメラは己の貧相な身体と比べてしまって、少しだけ気持ちが暗くなる。
「お帰りなさい。御祈祷はいかがでした」
「とても、盛大に執り行って下さいました。けれど、神様は応えては……」
「まあ、パメラさん、そんなことを言ってはいけないわ。きっと、旦那様は良くなります。良くなりますわ」
パメラはうつむいたまま「はい」と答えた。
ポーチの隙間から伺う二つの瞳に、モイラ婦人は気付かない。
蛙はすっと目をこらす。
危うくケロと鳴いてしまいそうになって、慌てて口を塞いだ。
こいつはいけねえ。
とんでもないモノノケだ。
蛙の目には、モイラ婦人は女の頭を持つ蜘蛛に見えていた。
蜘蛛のモノノケに見えるが、ここまで綺麗に人に化けるとあっては相当に力の強いものである。
バレたらいけないと、そそくさとポーチの奥で丸くなった。
頭を抱えて、こっちに気づくな、気づくな、と祈るしかない。あんなものに見つかったら、それこそ丸のみにされてしまう。
「お母様、……今日もお父様は?」
「ええ。まだ、お目覚めにならないわ」
「ああ、なんてこと」
「パメラさん、今日はもうお休みになりなさい」
「ええ、お父様に御挨拶したら、今日は休みます」
パメラはその言葉のとおり、浮かない様子で退室した。
侍女もつけずに歩いて、父の寝室へ向かう。
「かえるさん」
「今は黙って」
小声でポーチから返事がある。
パメラは早足で二階の寝室へ向かう階段を上った。
その背中を、モイラ夫人がじっと見つめていた。
お父様の寝室はいつもハッカの匂いがしている。
幼いパメラをあやすために、お父様はハッカを用意してくれたの。
わたくし、ハッカが子供のころから大好きだったのよ。
寝室に入ると、パメラはそんなことを言った。
寝台で眠る男は、微動だにしない。
「かえるさん、お父様の様子は?」
「うひゃ、この妖気は凄いね。ちょいと見てみるから、ポーチから出しておくんなさい」
パメラは言われたとおり、両手で蛙を取り出して父が良く見えるようにさしだす。
「むん、うぬぬぬぬ」
蛙らしくない気合と共に、蛙の瞳にその姿を映し出す。
パメラの父の全身は糸で縛られている。
蜘蛛が捕まえた獲物を生きたまま保存するための妖術だ。
「むむむ、まだ生きてるけど、妖術の糸で縛られてる。こいつは、厄介だよ。お嬢さんのお母さんとやら、あれは蜘蛛が変じたモノノケさ」
「まあ、なんてことを言うの」
「桃の葉で瞼をこすったら正体が見えるさ。信じられないなら試してみたらいい」
「それで、見えるの?」
「見えるとも」
パメラは少し考えていたが、やはり蛙の言葉だけでは信じられないため、女中に命じて桃を買いにいかせた。
葉っぱも頂戴というと、不思議なことを言うと首を傾げられたが、お友達の間で流行っていると言ったら納得してくれた。
若い女子の流行とは不思議なものである。
パメラもいい年齢なのだが、見た目が少女のためか使用人たちも稚気を残しているのを当然として接していた。
しばらく待つと、買ってきたばかりの桃を女中が切って持ってきた。
甘く瑞々しい桃を堪能した後に、お目当ての葉っぱで瞼をこする。
「まあ、お部屋が蜘蛛の巣だらけだわ」
「お嬢さんの見てるそれは妖力で造られたものだからね。普通じゃ見えないよ」
「なんて、不思議な……。かえるさん、さっそく見にいくわ」
「気づかれてはいけないよ」
まずはお父様の寝室へ。
恐ろしい蜘蛛の巣と化した寝室で、父は全身を糸にくるまれている。
叫びだしそうになるのを抑えて、なんとか寝室を抜け出すと、今度はモイラ婦人である。
こっそりと、居間の安楽椅子でくつろぐ姿を柱の影から盗み見る。
「ひっ」
「静かに」
小さな悲鳴ですんだのは奇跡だ。
女の頭を持った蜘蛛が、安楽椅子の上でじっとしている。
悪夢めいた光景がある。モイラ婦人のお美しいお顔が胴体で、細い足が何本も。
「さ、部屋へお戻りなさい」
「う、うん」
パメラは小走りに自室へ戻った。
不思議な様子に使用人たちは首を傾げたが、パメラお嬢様の稚気であると思い至り、気の毒そうに見ないフリをしてくれた。
自室のベッドに飛び込んで、ふうと息をつく。
「かえるさん、お母様は蜘蛛だったのね」
「そうさ、とても強い蜘蛛の妖怪だよ。流石のわたしも正面からは厳しいね」
「そんな、かえるさん、どうにかならないの。お父様を助けないと」
蛙は腕を組んで思案。そして、良いことが思いついたとケロケロと鳴いた。
「一つだけあるよ。わたしの術じゃ難しいけど、邪妖精市で蜘蛛除けを買えばなんとかなる」
「邪妖精市?」
「緑色の害獣のアレじゃないよ。この辺りに住み着いてるモノノケや色んな邪妖精がやってる市場さ。あそこなら大抵のものは買える」
「まあ、そんなものがあるのね。お父様は助かるのかしら」
「とにかく行ってみようお嬢さん。今のままじゃ助けられないからね」
「はい、行きましょう」
「行こう」
そういうことになった。
妖精市は深夜に秘密の場所で開かれる。