恋かどうかわからない
「ご、ごめん。トイレ行ってくる」
私はそう言って立ちあがった。自分の机から逃げるように歩きだす。のぶちゃん、と私を呼ぶ声が聞こえてきたけど頭から振りはらった。休み時間の教室はいたるところに生徒がいて、うつむいた私は彼らを器用に避けながら戸口を抜ける。
外光で眩しい廊下を駆け抜け、薄汚れた階段をがむしゃらに登っていく。
一段一段足を上げるたびに鉛のように重たい息が漏れた。自分の吐息で胸が詰まる。
息苦しかった。
とにかく息苦しくて仕方がなかった。
私は四階までたどり着くと、その側にある女子トイレの中に入った。個室の鍵を閉めると、ようやくほっと息をつくことができて、蓋を下ろしてその上に座る。
「……なにやってんだろ。私」
安心した途端に自己嫌悪が襲いかかってきた。
幼なじみのさやから告白されたのはもう四日前のことだった。
教室でふたりきりのときにいきなり告白された。どういうことか理解するのに少し時間がかかった。
私もさやも女の子で、幼稚園のころからいつも一緒で、そんなふうな目でさやのことを見たことはなかった。
でもさやは私のことを恋愛対象として見ていたのだ。
――大事な話があるの。
あのときのさやの顔が頭から離れない。
ほっぺを赤くさせて、潤んだ目で私のことを見あげていたさや。
私はさやのことが好き。でもそれが恋愛としてなのか親友としてなのか私にはわからなかった。
――わたし、のぶちゃんのこと好きなの。
鼓動が速くなった。
告白されてから、いままで普通に見ることができていたさやの顔が見られない。
「のぶちゃん」
個室のドアがノックされたかと思ったら、一緒にさやの声も聞こえてきた。どうしてさやがこんなところまでいるんだろうと一瞬パニックになる。
「のぶちゃんと話したくて追いかけてきたの……」
逃げるのに必死でぜんぜん気づかなかった。
そして、もう逃げられないことを知る。
さやとちゃんと話さなきゃいけないとずっと思っていた。
でも何をどう言葉にしていいかわからない。
「あの、ごめんね」
結局、先に口を開いたのはさやの方だった。
「このまえ変なこと言って……。だからのぶちゃん、わたしのこと避けるようになったんでしょ」
トイレのドアに隔たれているせいでさやの顔はわからない。いまはそれがとてもありがたかった。向かい合っていたらたぶんまともに話せなかった。
「ううん。違うの。違うよ。さやは悪くない……。わたしが」
「あれ、冗談だから……」
さやが消え入りそうな声で言う。
「だから、のぶちゃん気にしな――」
「なんでそんなこと言うの」
思わず語調が強くなった。
「のぶちゃん……」
「さや真剣だったじゃん。幼稚園のころからずっと一緒にいるんだよ。冗談じゃないことくらいわかるよ。私が悪いの……。私がいつまでもさやの気持ちから逃げて……」
告白されたあの日、私は頭がパニックになって返事もできずに教室から飛び出してしまった。
そしていまもさやから、さやの気持ちから逃げている。
「ごめん、ちゃんと答えないといけないのに、私さやのことどう思っているのか、自分でもわからないの……」
制服のスカートをぎゅっと握りしめる。
薄い壁の向こうから啜り泣くような声が聞こえてきた。
「もういいの」
「よくないよ」
「でもわたし、のぶちゃんと喋れない方がつらいよ。この四日間ずっとつらかった。わたし、のぶちゃんと一緒に居るだけで幸せだから」
「もう……さやの馬鹿……」
私まで視界がぼやけてきた。熱いものが瞼の奥にまでこみあげてくる。
「馬鹿でもいいよ。わたし馬鹿だもん。……でものぶちゃんの方が馬鹿だよ。わたしの気持ちぜんぜん気づかないんだもん」
「ごめん……」
「このまえだって待ち合わせ時間遅れて、30分もバス待ったし」
「あれは本当にごめん……。アラームかけていたのに、起きたらベッドの下にスマホが落ちてて……」
「のぶちゃん、寝相めちゃくちゃ悪いもんね」
「違うよ。ベッドが狭いだけだから」
「ふふ。またその言い訳している」
おかしそうにさやが笑った。ひさしぶりにさやの笑い声を聞いた気がする。心がじいんとなった。
さやがずっと笑っているせいか、私まで笑ってしまった。
笑い声がやむと、急に静かになった。
少しだけ沈黙が訪れる。
「ね、のぶちゃん。入ってもいい……?」
「……うん」
私はトイレの鍵を開けた。少しずつドアが開いていく。そこからさやが入ってきた。狭い個室にふたりきりになる。
こんな至近距離にさやがいるのは久しぶりだった。
やっぱり目線を合わせられない。
お互いに無言になる。さやの体温と鼓動を感じる。一気に体が熱くなった。
出ようにもさやがいるから出られないことに気づく。
私の方がトイレから出ればよかったといまさら思ったけど、もう遅い。
「ね、さっき、のぶちゃん……自分の気持ちがわからないって言ってたよね」
「う、うん」
「のぶちゃんが、わたしのこと好きかどうか、簡単にわかる方法があるよ……」
「簡単に?」
私はさっと顔を上げた。
さやの顔が真っ赤になっていた。
はじめて見る顔だった。私に告白したときと似ている。でもそれよりもずっと赤い。
なんでこんなに赤いんだろう。
鼓動がうるさい。
さやの顔が近づいてくる。
私はぎゅっと目を閉じた。
やさしく唇が触れた。
「ぁ……んっ……」
全部の神経が唇に集中したみたいに、さやのことを感じる。溶けるような熱と、仄かな気持ちよさが全身に流れこんできた。
ドキドキした。ドキドキして頭がおかしくなりそうで、ようやく私は自分がさやをどう思っているのか痛いほどわかった。
本当に私が逃げていたのは自分の気持ちからだったんだ。
キスは数秒で終わったと思う。
さやの口が離れても、まだやわらかい感触と熱が残っていた。
恥ずかしさをこらえながら私はさやの目を見つめた。潤んだ目でさやは私のことを見つめ返す。照れるように小さく微笑んでいるさやはぎゅっと抱きしめたくなるほどかわいかった。
「さや、私もさやのこと――」
私は自分の気持ちをちゃんと言葉にするために口を開いた。