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間章・二〇〇一年 六月 一日

二○○一年六月一日


雪月・十五歳―――


 僕の父さんは優しい人で、いつも穏やか、喧嘩なんか一度もしたことのない人だったらしい。

 会社でもそこそこ優秀で、上司には可愛がられ、部下には慕われる。

 でも、喧嘩をしたことがなかったから、お父さんは加減が分からなかった。


 悪いことをするのはいつも僕か母さんで、怒るのはいつもお父さん。

 他のお父さんが少し怒る程度だったのが……僕の父さんは血が出るまで怒るのを止めない。

 そしてやり過ぎてしまったことに気付いて、後で自分を責めるのだ。


 でも今日は違った。

 つもりに積もった鬱憤が爆発したのか、父さんの怒りに兄さんが食って掛かったのだ。

 言い争いは取っ組み合いにまで発展し、父さんは転び、クリスタルの灰皿に頭をぶつけて、赤い泡を口から吐き出した。

 そして……父さんは動かなくなった。


*****


 「私が選んだ人なのよ……」


 母さんの声がどこか遠くに聞こえる。

 僕が初めに考えたのは……父さんを失った事でも、母さんの悲しい声でもない。

 僕は殺人鬼の弟になったと言うことだった。

 自分の醜さに吐き気を覚えそうになったが、正直な所、それが本音だったのだ。


 テレビに自分が晒されるのかな、警察が来て色々と尋問されるのかな。

 友達はもう自分を友達とは思ってはくれないだろう。

 父さんを殺した兄さんはいつの間にかいなくなっていた。

 どこに……逃げてしまったのか。


 ……後で考えれば、その時、父さんは死んでいなかったのかもしれない。

 ただの脳しんとう、それよりひどかったとしても、すぐに救急車を呼べばまだ助かったのかもしれない。

 だが僕も、母さんもそうはしなかった。

 その時、絶望に打ちひしがれる僕らの前に、まるで鏡のような光り輝く物体が目の前に出現していたのだ。


 ただそれは自らの姿を映す物ではなく、その向こうには……別な存在があった。

 時代劇、それも戦国時代よりもさらに昔……俗に、公家とか、道長とか呼ばれる人が着るような、ひらひらとした衣服。

 武士の鎧とは違う、新撰組とはもっと違う、そんな衣服を着た彼らが手招きしていたのだった。


「……え、私を?」


 彼らの声はモゴモゴしていて聞き取れなかったけれど、母さんにはそれが聞き取れたようだった。

 ここに来い……?

 そのような意志だけが感じ取れた。


(構うものか……)


 意味は分からない、だがもはや僕はこの世界に執着などなかった。

 兄さんは父さんを殺した。

 僕は殺人鬼の弟。

 その後の苦しみを考えれば、もうどうなっても構わなかった。


 僕はこの絶望的な世界から離れたくて……そして母さんは別な思惑があって。

 それは今思えば、あまりにも軽率で、あるいは今は分からないけれど深謀で……。

 手に触れたその瞬間、鏡は捉え切れぬほど激しい光を放ち、そしてまるで小さな入り口をくぐるように、地続きであるかのように「その世界に」僕と母さんは降りたった。


「あっ……」


 ふと後ろを見ると、そこには壁紙もカーペットもなく、ただ古めかしい木製の壁があり、複雑な意匠の背の高い燭台が並んでいるだけだった。

 蝋燭の煙、それに混じる鼻につくようなお香。

 どことなく……神社やお寺のような特別な場所を連想させる。


「……」


 目の前に品の良さそうな壮年と中年の境に立つような和服姿の男が立っていた。

 手には刀と、真新しい着物を持っている、まるで供物でもをささげるような持ち方だ。


 そのまま、すり足で近づいてくる男。

 突然、訳の分からない場所に連れてこられても恐慌に陥らなかったのは、男の仕草に長年に渡って積まれたある種の鍛錬、とも言うべき礼儀作法が染みついていたからだった。

 恭しく奉られる「礼」に圧倒され、思考は停滞、無駄な混乱を起こしている暇はなかった。


「……」


 男が何かを口にする、だが僕にはそれが何なのか分からなかった。

 発音からなんとなく日本語だと言うことは分かる、だが遠い彼方の方言をでも聞いているように固有名詞が理解できない。

 あるいは……少しの間でも勉強できれば簡単に意思疎通が可能になるのかもしれない。


「そう……雪月、私達は選ばれたのよ」

「母さん……?」


 それが称賛、それも最大級の賞賛であることを母親は理解できた。

 その口元がほころぶ、それは……虐げられてきた者が、ようやくその責め苦から逃れられたような、過剰な喜びを表現していた。

 その笑みに、僕は……雪月は、父が殺されたあの時よりも、大きな不安を抱えたのだ。


 その日……雪月は、秋水雪月となった。

 異世界召喚……その第一日目は確かにその後の明るい未来を暗示していたのだと、それだけは今でも信じている。


*****


???・十八歳―――


 意外に痛みはないものだ……そんな風にのんきに考えている俺は、やはり頭のネジが外れているのだろう。

 なにせ、自分の父親を殺したのだから。

 いや、生きているかもしれない、あれは単に頭をぶつけて脳しんとうか何か……がどうでも良かった。


 一度、手を挙げたのだから、もう今までの関係には戻れない。

 親が子に手を挙げるのは特に何ともないのに、子が親に手を挙げるとまるでこの世の終わりのように皆がアタフタするのが少し、不思議ではあった。


 (まさか……トラックにひかれるとは、しかもひき逃げかよ、まぁ飛び出したのは俺だけど)


 セーターが、結構気に入っていたのに……ぐっしょりと濡れ、そしてそこかしこが期限の切れた煎餅のようにカピカピに固まっているのが感じられた。

 いや、こんなに早く固まるはずがないか、ん?


 思考が滅裂になっている、それがだんだんと分からなくなっていく。

 これが死ぬってことか……そう感じたその時、ふと車が走るたびにダカダカと揺れるアスファルトの揺れが聞こえなくなっているのに気付いた。


 視界が灰色に染まっていた。

 流れる風は止まり、何の音も聞こえない。

 時が止まっている……?

 動くのは目の前にそびえたつ鏡のようなゲートのみ。


 その向こうに、まるで大昔の魔法使いのように、丈の長いローブを着た髭の長い老人がいた。

 床は石造り、ピラミッドの床のような大理石のようだった。


「……」

―――


 老人の口元が動く、しかし聞こえるのはそれを大きく上回る、伽藍に響く性別不祥の巨声だ。

 頭を叩き割るかのような大きな声が何を言っているのかは分からない。

 だがなぜか、その意味は理解できるのだった。


(俺を呼んでいる……俺は選ばれた?)


 もたらされるは人を超えし神々の力……。

 それがその手に与えられた。

 与えられる理由などどうでもいい。


(雪月、母さん……みんなで一緒にやり直そう)


 その願いだけを胸に……俺は光の中に手を差し出した。

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