奪還1
弁当を食べ終わった村山は生あくびを噛み殺し、両頬を手のひらで叩く。
(……眠っ)
昨日の夜更かしが堪えている。
と言っても、今回は仕事のせいではない。
当直時にこっそりネットサーフィンをしていたら、妙なサイトにでくわした。
暗号解読が売りのようだったが、思いの外難しかったのでつい本気で解いてしまった。
ところが、その答えがさらに暗号になっていて、それを解くと何かにアクセスするためのやり方を表したものに行きついた。
気になったので試してみたところ、気がつけば彼はノルウェーにあると思われる端末を中継地点にしたまま、とある電話会社のネットワークシステムのサポートポイントデータベースに侵入していたのだ。
もちろん電話会社のシステムが自分のパソコンとオープンに繋がるだなどと思ったことの一度もなかった村山は、最初自分がどこにいるのかわからなかった。
そうして状況を把握できないまま、スペースを泳ぎ回っていた彼は、恐らくシステムの管理者も知らないだろうと思われるOSの抜け穴を二つほど見つけた時点で我に返り、それが犯罪行為だと気づいて慌ててログアウトした。
スピード違反などは平気で犯していた彼だったが、覗き見はさすがに恥ずかしかったのだ。
もちろん、その場所が電話に関するあらゆるいたずらを可能にするものだということには気がついている。
(でも別に電話料金がただになったところで全然嬉しくもないし、人の電話番号、勝手に変えたところで何のメリットもないし)
後でばれて、キャリアを失う損失の方が莫大だ。
(……ま、二度と近寄らないでおこう)
弁当箱を洗いながら、彼はもう一度あくびをした。
今日は昼から胃の検査、それと食道穿孔患者の家族への病状説明があるが、それ以外は病棟勤務だ。
村山は新参者であり外科スタッフの中では一番若い。外来は持っていないので検査、手術、病棟の繰り返しに救急が割り込む毎日である。
(……それと事務、何とか今日中にやれるとこまでやっとかないと)
保険会社用診断書や退院サマリーなど、やらなければならないことは多い。
医局秘書はいるにはいたが、縁故で入って来てほとんど仕事をしないまま十五年居座っているという強者で、大抵どこかにお喋りに出かけている。
もちろん部屋にいればコピーなどを頼んでもいいが、長話に巻き込まれて大変なことになるので村山はできる限り近寄らないように心がけていた。
彼はそのまま弁当箱を持って医局に戻る。
「……再建も終わってほっとした途端に無理矢理引っ張るから余計な仕事が増えたんじゃないか。明石先生がいなかったらどうなってたか」
部屋に入るとぴたりと会話が止まった。
話をしていたのは村山の二期上である医員の佐々木だ。丸顔に黒縁の眼鏡をかけた三十六歳の明るい男である。
そして、悪口を言われていたのは恐らく医長の今泉だろうと村山は推察した。
再建というのは臓器などを切り取った後、残った食道や腸管などを縫合する行為のことである。
今泉はあまり手術が上手くない。そして時々素人みたいなミスをすることがあった。
最近あった手術から推測するに、横行結腸か何かを引っ張りすぎて出血させたに違いない。
(……あ)
佐々木の話を聞いていた明石は村山の顔を見ると黙って立ち上がり、何も言わずに部屋から出て行く。
それを見て村山は気分を害しながらも幾分ほっとした。
村山は明石が大の苦手だったのだ。
明石は佐々木と同い年だったが、卒業年次は上だったので医員としては佐々木の先輩になる。
白衣のボタンを留めずにポケットに両手を突っ込み、そして肩で風を切って病棟を歩くところや硬派な顔立ち。考え込むと鋭くなる瞳。
嫌いと言うわけではない。
診断は正確で処置も素早い。手術も見事だ。
派手さはないが堅実で、メスさばきも華麗というよりは周到だった。
動作の一つ一つが全て理に適っており、手技に無駄がなかったので、彼の助手を務めると毎回勉強になる。
問題は彼が村山を一方的に嫌がっているという事実だ。
カンファレンスや引き継ぎなどの業務以外で彼と口を利いたことはない。
村山が院長に叱られている時、他の医師は気の毒そうな顔でこちらを見ているのに対し、彼だけははっきりと軽蔑をその目に浮かべる。
夏頃までは単に口数の少ない男なのだろうと思っていたが、秋にあった懇親会であからさまに村山から遠い席についたり、彼が部屋に入ってきた途端に会話を止めて出て行くなどの行為が重なれば、さすがの村山も気づかぬ訳には行かなかった。
(……ま、仕方ないか)
小学校から今に至るまで、よく村山はそういう人間に遭遇した。
彼の何が気に入らなくて、無視をしたりいじめたりするのかが一向にわからなくて困ったことが何度もある。
そして到達した境地は諦めだった。
元々村山は人から好かれる要素が自分に薄いことを自覚している。
皆より数倍頑張らないと、人の輪に入れないこともわかっている。
(だから……)
これで精一杯なのだ。それで駄目ならそれまでと思うしかない。
とはいえ、同じチームで仕事する仲間なので面倒くさいのも事実だ。
村山だって鉄の塊ではないので、自分が傷つけられる場面を作らないようにという配慮は微妙に働く。
煙草をやめて良かったと思った一番は、明石と一服時間が重ならないように気を遣う必要がなくなったということで……
(……あいつ、どうしてるかな)
ふと、明石に雰囲気だけ似た高校時代の悪友のことを思い出す。
実のところ、彼の青春時代で友人と呼べるのはその男だけだ。
いい加減でわがままで、勝手な奴だが誰よりも優しかった。
あっけらかんと考えなしに行動していたが、その実他人のことが何でもわかっていた。
村山が落ち込んでいるときも、表面だけの言葉で慰めるようなことはしない。
わからないときは一応考え、そして結論が出なくて投げ出すときには、断りなしに村山の荷物も一緒にどこかに放り投げた。
それでどれだけ彼は軽くなったか……
「気にすんなよ、あの人はああいう人だから」
佐々木が気を遣ってか声をかけてきた。
「それよりいいなあ、お前。愛妻弁当」
「夜、作れないから、昼ぐらいはって」
「え、今日は当直じゃないだろ?」
「嫁さんが出張なんです」
「……ああ、お前んとこはダブルインカムだったな」
不思議そうに佐々木は村山を見る。
「働かなくったって、毎日どっかで旨いランチをご近所の奥さんたちと食べれるような身分なのに、どうして仕事やめないんだい?」
それはよく言われる事だった。
「働きものだから……かな」
佐々木は笑った。
「ま、子供ができるまでだな」
そうだとしたら、子供などいらないと思う。
いや、そうでなくても彼は子供など欲しくはなかったので……
不意にピッチが鳴る。
「はい、村山です」
電話は事務からだった。
「外からのお電話が入っています。お名前を名乗られませんがどういたしましょう?」
受付の女性の言葉に不審を覚えながらも、彼の受け持ち患者に異変が起こったわけではないことに村山は安堵した。
多分、投資の案内とか、そういうくだらない内容だろう。
「お断りしていただけますか?」
「そのように申し上げたのですが、このまま待つとおっしゃったままお切りいただけなくて、かれこれ十五分近くになります」
村山はため息をついた。
「とりあえず廻してください」
「かしこまりました」
外線を繋ぐ微かな音の後、少し低い男の声が耳に届いた。
「村山涼さん?」
「……そうですが」
不躾な言葉を怪訝に思う。
「神尾さんと高津君を預かっている」
思わず叫びそうになった彼は佐々木の手前、慌てて言葉を呑み込みさりげなく部屋を出た。
「返して欲しければ、暁と夕貴というリソカリトを連れて、今日の九時に指定の場所に来てもらおう」
村山は驚きの余りに言葉を失う。
何故、そんな言葉を今頃聞かねばならないのだ?
「また電話する」
何か大型の車が走り去るような音が電話の向こうから聞こえた。
「ま、待ってくれ、君が誰かは知らないが、それは無理な話だ」
そして信号機の音。
「俺自身はともかく、暁たちに関しては俺には何の権利もないから……」
「四時間後に電話する。それまでに段取りをつけておけ」
「電話をするなら俺の携帯にかけてくれ。病院の電話は時々繋がらないことがあるから」
「……番号を言え」
村山が番号を二度繰り返すとぷつりと電話は切れ、通話が終了したことを示す連続音が響く。
(……何故……どうして)
彼ら五人しか知らないはずの秘密、それを知っているのは誰だ?




