ランチ3
「あら、村山先生?」
聞こえた単語に萌は跳び上がるほど驚いた。
「ご一緒していいですか?」
「あ、どうぞ」
紛れもないその声が萌の背中の方から聞こえたことに二度びっくりする。
(……い、いつの間に)
携帯を見ると十時半。
さすがにこんな時間に誰かが来るなどと思っていなかったので、萌は噴水の方を一顧だにしなかった。
どうやらその隙に村山はやってきて、萌と同じ思考の元にここに入ったに違いない。
一つのテーブルごとに一メートルぐらいの薄い仕切りがあり、猫背で携帯をいじっていた萌は村山の目に留まらなかったのだろう。
「ホット一つ」
「あ、私はカフェオレ」
若い女の声だ。どういう知り合いなのか。
「科が違うから、私の名前ご存じないでしょ?」
話からするとどうやら病院関係者のようだ。
「片平さんですよね?」
「え、覚えていてくださったんですか!」
「時々うちの加西さんと一緒にいるのを見るから」
「加西は同期なんです。だからよく飲みに行ったりとかするんです!」
片平さんはとても嬉しそうだが、村山が病院中の職員の顔と名前を暗記していることを萌は疑わない。
「私はよくここに来るけど先生と会うの、初めて」
「人を待ってるんです」
「先生の方が年上なんだから、敬語はやめてくださいね」
「あ、済みません、つい」
どうしよう、と萌は焦った。
これはかなり登場しにくい。
(……圭ちゃんが噴水に来たらメールで合図しよ)
思いつつ、携帯が鳴ると村山が着信音で気づくかもしれないと思い、萌は何とはなしにマナーモードにしてからバッグにそれを放り込む。
「だから敬語じゃなくていいんです」
「あ、はい」
相手はくすくすと笑った。
「村山先生って、ほんと可愛い」
年上にそんなことを言うな、と思いつつも少し同感する。
「明石先生と対極」
「……そうですか?」
「明石先生は可愛げないですもん」
「……いいんです、あの人は格好いいから」
何となく村山の声が硬い。
「先生も充分格好いいですよ」
「……真鯛とダボハゼです」
「は?」
彼女は村山の言葉が理解できなかったようだった。
魚には詳しくないのかもしれない。
「だいたい先生と違って、明石先生って我が儘だし」
余程この人は明石先生の話を村山の前で語りたいらしい。
「随分前だけど、アンギオのエプロンがウサギとコアラしかなかった時に、俺は嫌だって言って佐々木先生が手に持ってた普通のを無理矢理取ろうとしたって話があるくらい我が儘」
村山の軽い笑い声を聞いて萌は首をかしげる。
(ウサギのエプロン?)
病院にしては意味不明の会話だ。料理教室ならわからないでもないけれど。
「あと、我が儘とは少し違うけど、こないだ村山先生の悪口を言いふらしてたらしいですよ。人に媚びばかり売ってるいけ好かない男だって」
(なんですって!)
聞き捨てならない言葉に萌の耳はダンボになる。
どんな奴かは知らないけれど、道であったら成敗せねばなるまい。
「……事実だから」
「いいんですよ、私、口が堅いから、何を言っていただいても」
村山は溜息をついた。
「やめません? この話」
「村山先生もやっぱりあの先生のこと、お嫌いでしょ? 私もです」
「……いや、どちらかと言うと、俺はあんな風になりたいって思ってはいるんだけど」
「え!」
「でも、持って生まれたものが違うから、どうしようもないかなって」
「何もあんな威張りんぼになる必要ないです。村山先生は優しいし、みんなから人気ですよ!」
コップが机に当たる音がした。
「……優しいというよりは、単に優柔なだけです」
「だから先生、敬語じゃなくていいから」
村山の柔らかい口調に女性の口調がだんだん親密度を増してきた。
「ついでに言うと、実はずっと私、先生のファンで」
脈略を無理に合わせた感のある大胆な告白に、萌は目を白黒させた。
(……いいな、あたしもこんな風にさらっと言ってみたいな)
萌にとっては、とても本人を目の前にして口にできない台詞の一つである。
「ありがとうございます」
特に喜ぶでもなく村山が無難に言葉を返した時、どうやらコーヒーがやってきた。
それを機に女性は明石先生以外の病院のゴシップの話をし始めた。
萌には当然固有名詞はわからないが、話の内容からどうやら女性が看護師であることだけは理解した。
「……で、近藤先生ったら」
それに対して村山は真面目に相づちを返している。
(……それにしてもお喋りな看護師さんだな)
大好きな村山先生と二人きりで話ができて、興奮状態にあるのかもしれない。
(気持はわからないでもないけど)
次から次へと話題が湧くように出てくるようだ。
「……洋子ちゃんから聞いたんだけど、先生の奥様ってお忙しい方なんですって」
「まあ、大変そうかな。業種が違うからよくわからないけど」
「大変なのは先生の方じゃないです? 奥さんが出張でご飯も作ってもらえないドクターなんてそうそういないでしょ?」
「そうでもないと思うよ、産科の女医さんと結婚した俺の先輩なんて、それはそれは壮絶な感じだったし」
「でも、私、女性は好きな人に尽くすべきだって思うんです。仕事するのはいいけど、ご主人や家を放ったらかすのはどうかなって」
萌は何となく嫌な気分になった。
それって角度を変えてみれば、微妙に詩織の悪口になるではないか。
「でも、働いている女の人はみんな格好いいし、綺麗に見えるよ。特にナースはやっぱり別格だと思うな」
上手な軌道修正だ。
「え、そうですか?」
「子供産んでまた復帰して働いてる人なんか、すごく頑張ってるなって……」
「日勤だけでさっさと帰る人より、夜勤のある独身の方が倍ほど大変ですよっ」
「あ、ああ、そりゃもちろん」
「……先生はそんな独身のナースはお好き?」
カップがソーサに当たる音がした。
「一人だけ、俺の素っ裸見た独身のナースがいるよ」
「え、ええっ!」
萌も目が飛び出るほど驚いたが、看護師の驚きの声は喫茶店にしてはでかい。
「総師長。俺が生まれたとき産科にいて、出産も立ち会ったらしくて」
「……あ、ああ。何だ、びっくりした」
「だから、神田さんには俺、あんまり頭が上がらない」
「……あの人に頭の上がる人はいません」
看護師は安堵したような声を上げた。
「ほんとにこの病院で生まれて、ここで育ってって感じね……」
「……健康だったから、病院では育ってないけど」
「でも、ずっとこの近所に住んでるんですよね」
「まあ、そりゃ」
「でも先生、病院から家まで五分って、何だかお気の毒です」
「何故? とにかく通勤は楽だし、便利だと思うけど」
萌も頷く。学校が家の前にあったらいいのにと、今まで何度思ったことか。
徒歩で行けるというだけで、バス通学や自転車通学の友人は羨ましがるのだけど……
「病院が近いと公私の切り替えがつけられないでしょう?」
「病院勤めじゃ、そこは諦めないとやってられないよ」
「それに、浮気の一つもできないし」
(……は?)
萌の心の声が大きくて、同じ単語を発した村山の声が聞こえないほどだった。
「遠ければ、家の途中で待ち合わせなんかもありだけど、そうじゃないと難しいですもんね」
看護師は少し笑った。
「あ、それとも奥さんの出張中を狙うとか?」
「そんな体力があったら欲しいぐらい。こんなに家が近くても、やっぱり家帰ったら風呂入ってぱたりと寝るだけで、他に何もできないぐらいだから」
「要は気持の問題じゃないかな」
「そうかも。まだ俺、新婚一年目だし」
言われてみればそうなのだと、萌は心の中で嘆息する。
「でも付き合って長いって聞きましたよ。どれくらいなんです?」
「付き合ってから、って言うなら十五年ぐらいかな」
「それはもう、新婚とか言わないでしょ?」
「……まあ、そういう話もあるけど」
「ね、先生、今から一緒にお食事とかどうです? その辺りの話をゆっくり聞きたいなって」
「いや、今日は友達と待ち合わせしてるから」
(……友達!)
喜びに萌の頬は赤くなる。
村山にとって自分が友達レベルに達しているということはかなり嬉しい。
「何時に?」
「十一時」
「十五分も過ぎてますよ」
(え!)
萌は驚いて携帯を取りだした。確かに時刻は待ち合わせ時間をとっくに過ぎている。
しかも新着メールが三通。
「そうなんだ。だからさっきからちょっと心配になってて」
「遅れるのにメールもくれないなんて、お友達、ちょっと冷たいですね」
二通は村山から。
待ち合わせ場所が、駅前噴水で間違いないかというメール、それと待ち合わせ時間は十一時だよな、という念押しの確認メールだ。
それぞれ今から十五分前、そして五分前に入っている。
そしてもう一件は、十一時五分きっかりに高津から萌だけに入ったメール。
(……ええっ! インフル??)
高熱で行けないから、村山によろしくと書かれてあった。
「いや、何か理由があるんだと思う」
不安そうな声で村山が言うと、女性はまた微かに笑った。
「じゃあ、しばらくここで待って、十二時になってもお相手が来なかったら私とランチに行きましょ?」
「……あ、でも、心配だから電話をかけてみるよ」
一瞬迷ったが、ここで電話に出てもばれるのは同じ事だと思い、萌は非常にばつの悪い顔で仕切りから顔を覗かした。
「ごめん、村山さん」
「も、萌っ!」
振り向いた村山の顔が思いの外至近距離だったので、萌はびっくりしてのけぞる。
「ごめんなさい、何か出にくくて」
「お前な、こっちがどれだけ心……」
何かを言いかけたが言葉を止めて、村山は看護師の方を見た。なので萌も一緒にそちらに目を移す。
「と言うわけで、済みません」
看護師は萌が思い描いていたより数倍美人で化粧もうまい。
マスカラで整えられたまつげは黒く長く、アイシャドーもブルー系が綺麗に入っている。
ほっそりしたうりざね顔に茶色の長いウェーブが魅力的だ。
「連れ、なんかここにいたみたいだったので」
村山は立ち上がって、看護師に軽く頭を下げた。
「それじゃあ、また明日」
萌もとりあえず呆気にとられたような看護師に一礼をして、レジに向かった村山の後を慌てて追う。
「お前の伝票は?」
「あ、これはあたしが……」
「いいからよこせ」
何だかわからないうちに、萌の紅茶代まで払わせてしまった状態で二人は外に出た。




