個別指導1
「多少ひねってあってもこのパターンに当てはめればいい。まず平衡定数式を書くだろ、で、次は条件。それが終わったらモル分率と全圧をかけて分圧を出して、最後は代入……うん、気体は楽だな」
村山は問題集を閉じた。
「じゃ、ここまででおさらい。さっき間違えた所からいくぞ。……定モル、定圧の気体の体積は絶対温度に比例するって、誰の法則?」
「シャルル?」
「あたり」
高津は座敷机の隣にあぐらをかいて座っているパジャマ姿の村山を横目で睨む。
「……フェイクなんだから、真面目にやんないでよ」
「お前のお母さんに、村山さんとこに行っても全然意味ない……なんて思われたくない。小テストで百点取るまでやるぞ」
「そんなことしてたら夜が明けちゃうって」
「心配するな。高校化学ごときなら一時間ぐらいで完璧に仕上げてやる」
「か、勘弁してよ……」
高津は村山の家に泊まっている。
両親には勉強を教えてもらうためと言ってあるが、本当は打合せだ。
村山が土日も時間が取れそうにないので、苦肉の策だったのだが、
(本当に勉強させられるとは思わなかった)
萌には散々羨ましいとかずるいとか怨じられたが、彼女だって来たらきっと後悔しただろう。
(……真面目すぎるのが玉に瑕だよな)
「ほら、ぼおっとしてないで、計算」
「村山さん、電卓になってよ」
「別に俺が来週模試を受ける訳じゃないし」
仕方なしに必死でやって三十分。高津はもう一度音を上げた。
「駄目、これ以上やったって頭に入んない」
「なら、この問題解いたら休憩しよう。何か飲み物持ってくるから、それまでにやっておけよ」
「俺、ビール」
「……子供が何を言ってる?」
「村山さんは高校時代、ノンアルコールだったの?」
「勉強中はコーヒーだったように思う」
「……こんな日に友達と飲んだこと、絶対にないって誓える?」
村山はぱらぱらと問題集をめくった。
「アルコールと言えば、エタノールだ。エタノールにおける脱離と縮合を濃硫酸、オキソニウムイオンの二つの言葉を使って説明せよ、だってさ」
わざと発展問題を読み上げた村山を高津は睨む。
「縮合ってエーテル? エステル?」
「この場合はエーテルだろう」
「オキソニウムイオンって何?」
「そんなことも知らないで、アルコールの恩恵にあずかろうと思うな……よし、決まりだ。俺はエタノール、お前はコーヒーな」
「鬼!」
再び村山からこってり講義を受ける。
それが終わってようやく出て行った彼を目で見送りながら、高津は机に頭を乗せた。
(……萌も連れてくればよかった)
そうしたら少なくとも単位時間あたりの労働は半分になったろうに。
もちろん、彼女が来るのを水面下で阻止したのは自分なのだが……
「あれ?」
しかし、戻ってきた村山が抱えていたのはジンジャーエールとビール、それにレモンの輪切りと麦焼酎だった。
しかもカマンベールやフルーツまである。
「コーヒーは?」
「こんな時間にそんなものを飲んだら寝られなくなるから駄目って言われて、これを渡された」
ナイスなお嫁さんだ。
ジンジャーエールを数本混ぜているところに、最終責任は村山に取らせようという知的な配慮がうかがえる。
「そう言えば、ちゃんと常套句は言った?」
「何を?」
「俺に構わず、先に寝ててくれって」
軽く頭を叩かれる。
「その頁の二つ目の答え、間違ってるぞ」
「え?」
見直すと、かけ算が違っていたので書き直す。
「やった、休憩だ」
高津はビールに手を伸ばす。
「待て、アルコールはどの程度いける?」
「何で?」
「急性アルコール中毒で倒れられたら大問題だ。許容量を知っておかないと」
「ワイン一本、一人で空けたことある。寝付きは良かったけど、その程度」
「所要時間は?」
「一時間」
「……先にチーズを食ってから飲むんだぞ」
村山が文字通り目をつぶったので、高津はビールを取ってプルタブを開けた。
「わーい」
「……萌には内緒な」
村山は仕方なさそうな顔をして、羽織っていたカーディガンのポケットから封筒を出した。
「それはそうと、酔う前に見ておいてくれるか」
「何、これ?」
封筒から数枚の写真を取りだした高津の顔は引きつった。
「これって……」
「間違いないか?」
高津は頷く。萌や高津を拉致した男達がそこに写っている。
「これも興信所?」
「うん」
自分でやる時間がなかったので、村山は興信所に頼んでこの町に住んでいるアカオ姓の家族九世帯から年齢が近い男の写真を撮ってもらった。
それを先日、彼が高津にデータで送って当該の赤尾をセレクトさせていたのだ。
恐らく村山は、再度興信所に依頼して赤尾をマークさせ、これらの男達に行き着いたのだろう。
「腕のいい探偵さんなんだね」
「というか、運良くこいつらの集まりが居酒屋であったんで、簡単に紐付けできたって感じかな」
「運良くって言うより、馬鹿だね、こいつら」
村山は焼酎を入れた陶器製のグラスにポットのお湯を注いだ。
「馬鹿でなければ、あんな真似はしないだろう」
高津は頷き、そして顔を上げた。
「赤尾って、結局何者なの?」
村山は立ち上がって、A4が入るぐらいの定形外封筒を棚の引き出しから出した。
そして高津にそれを渡す。
「赤尾孝明。四十二歳。S工業株式会社の営業一課係長。勤務成績は地味で真面目。昨年の夏頃から体調を崩し、最近は会社を休みがち」
あのとき、一番偉そうにしていた眼鏡で小太りの男だ。
「そうか、四十二歳だったのか」
「そう、まさに去年から今年が厄年だ。……で、これが前川治生」
一番下っ端っぽい二十代前半ぐらいの茶髪の男の写真を村山が指さす。
……二十五歳、二十三歳の時にリストラで勤め先を解雇になった後、次に入社した企業が倒産。その後フリーターでアルバイト生活をしながら整体師の資格を取るため勉強している。勤勉で人当たりも良く評判はいい。半年前に内縁の妻との間に子供が生まれたのを機に入籍……
「あんなことするような人に思えない履歴だね」
「お前のその感覚は大事だろうな……」
言いながら彼は次に気の弱そうな三十代の男の写真を手に取った。
「後藤秀次、三十三歳独身。不動産Gホーム第三営業所経理担当」
「ものすごくしっくりくるよ、この人とその仕事」
「後藤も勤務態度は真面目一本。誠実に仕事をこなしてるってタイプらしい」
次に高津は筋肉質で、彼を引きずり回した男の写真を見る。
「こいつはさしずめ、ジムのインストラクターってとこかな?」
「木村行也は俺と同い年で、花屋の店員だ」
「……なんかしっくりこないね、この人とその仕事」
「母親がやってるのを手伝ってる。ま、孝行息子だ。それに花屋はお寺なんかに配達があるから結構男手はいるんじゃないかな」
「孝行息子だか何だか知らないけど、あいつ、萌の髪の毛掴んで色んなコトしてやるって脅しをかけたんだ。最低だよ」
「……そんなこと言ったのか」
不快そうに眉根を寄せた村山に頷きを返し、高津は最後の写真を見る。
「……この人は俺、見覚えがないんだけど」
「深崎誠、三十六歳、家具輸入業の資材部勤務。こいつは車を運転していた男だ。当日は病院で俺を見張ってて、萌を展望台に連れて行くときに合流した。だからお前が初めて会った時には暗闇で見えなかったから覚えていないんだろう」
「……全員で五人、か」
絞ったレモンの残りかすを小皿に乗せる村山を高津は見つめた。
「全員、リソカリト?」
「……多分な」
だが、高津は首を振る。
「俺、萌とこの間のことを相当考えたんだ。そして、少なくとも村山さんは赤尾をリソカリトだと思っているという結論に達した。だけど他の男達全員がそうだと思うには矛盾が多く、疑問点が残るんだ」
村山の目が続きを促したので、高津は更に言葉を継ぐ。
「萌が村山さんの母校でリソカリトは確率でこの町に五から六人出るって聞いたって。あと、黒い人もリソカリトは確率で一万分の一出るって言ってたらしいから計算合うよね」
彼らの町の人口は五万人弱。
「だとすると、あと一人しか枠がない」
「……その話には二つの突っ込みどころがある」
村山は焼酎を一口飲んだ。
「一つは夕貴と暁が隣町の人間だと言うこと」
「それもちゃんと考えたよ」
高津は少し胸を張った。
「北町は二万人ちょいだから一万分の一で二人だ。ということはトータルで七から八人。ということは俺たち五人を除けば、枠はあと二人か三人しかないってことになる」
「統計にはばらつきというものがある」
何となくわかる。
「ばらつきが大きかったら、他に五人ぐらいはいてもおかしくないってこと?」
「うちの町と北町の二つ合同の場合だけでもね」
「……ああ」
彼らの町、北町以外にも、南東に一つ町がある。人口は北町より微妙に多く、三万人弱だ。
「南東町も含めると、もっと増えるってことか」
「しかも、下手をしたら……」
しかし村山は言葉を止めた。
「ま、そういうことだ」
「……なんか消化不良な言い方」
「ごめん」
村山はすぐに謝った。
悪いことではないのだが、謝らなくていいことに謝る必要はないのでは、と思うことも多々ある。