瀬尾3
「大丈夫ですか?」
村山は慌てて介添えのために立ち上がった。
「ごめんなさい……」
意識は清明。三十代半ばの痩せ型女性。じっと座っていたので、起立性調節障害の可能性は少ない。目眩の種類はどちらだろうか……
「……ごめんなさい」
「それはいいんですけど、どんな感じです? ふらつくとか、天井が回るとか……」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
突然その肩が小刻みに震えた。そして幾筋もの涙がフローリングにこぼれた。
(!)
この展開はさすがに予想していなかったので、彼は少し動顛する。
「済みません、驚かしてしまったんですね……」
「ごめんなさい……」
「……あの、謝るのはこっちですから」
夕貴が母親の首に抱きついた。
恐らくかつて村山にしたように優しい慰めの思念を送っているのだろう。
「私は、怖くて……」
彼女は泣き崩れた。
「怖かったから、この子たちに何が一番いいかを考えてやることができなかった」
動揺を抑えて彼は慰めの言葉を探した。
ひょっとして、瀬尾はずっと怯えていたのか。
「この子たちの性質を見れば、貴女が彼らをどんな風に育てたかは一目瞭然です。だから私もカミングアウトする度胸が出た訳ですから……」
彼はひたすら頭を下げた。もう少し穏便な方法があったかもしれないという後悔が今更ながら過ぎる。
「ずうずうしくて済みません。それから偉そうな事を言って済みませんでした」
ゆっくりと瀬尾は顔を上げ、そして訴えかけるように彼を見つめた。
「この子たちを助けてください。守ってやってください。お願いです」
「もちろんです……一緒に頑張りましょう」
しかし、言いながらも村山は自分の言葉に狼狽する。
彼女の強い願いを聞き入れるに相応しい力が自分にあるのかを危ぶんだからだ。
「……それと、もう一つ、瀬尾さんに大事なお話があります」
「え?」
彼は先日萌たちが拉致された話を多少のオブラートに包んで話をした。
「どうしてかわからないけど、この子たちを狙っている奴らがいるんです」
「そんな……」
立て続けにショックを与えて申し訳ないとは思うが、彼には伝える義務がある。
「だからしばらくの間は気をつけて下さい。私もそいつらが誰かを調査して、手出しできないように抑えるつもりではありますが、用心にこしたことはないので」
「わかりました」
急激に素直になった瀬尾は震える瞳で彼を見る。
何故か村山はそれに臆した。
「あの、ご主人にはどんな風にお話されます?」
それは少し気になっていたことではあった。
彼らの父親は仕事熱心で、あまり家には帰ってこないということを暁から聞いている。
「主人はこの子達のことを気づいていません」
村山は耳を疑った。
「まさか」
「出張の多い仕事なので……」
「でも」
言いかけて彼は黙る。暁たちの前で言うべき事ではないと思ったからだ。
代わりに彼は暁の肩に手を置いた。
「さっきの話、お前はわかったろ?」
彼は頷く。
「僕と夕貴が悪者に狙われてるんだね?」
「そう。だからしばらくは一人でうろうろしたり、遅くに帰ったりしない」
「会ったら僕がやっつけるよ」
「無理だって」
「何でさ、やってみないとわからないよ!」
「萌でも駄目だったんだぞ?」
「……あ」
静かに瀬尾が微笑む。
「萌ちゃんはお強いの?」
暁と村山は顔を見合わせて同時に頷く。
「かなり」
「そうは見えないのに……」
「棒を持たせれば急所を突いてきます」
十一月にゲームの中でどんな修行をしたのか知らないが、自己流ではあったが彼女は剣戟が得意と言えるまでになっていた。
二年生だというのにきっちり基礎を習うのだと言って、十二月から剣道部にも入ったらしい。
「じゃ、今から先生が悪者で、僕らが逃げる遊びする?」
「ああ、それはいいな」
村山は頷く。シミュレーションしながら逃げ方を教えられるので都合がいい。
しかし夕貴が首を振ってジュースを指さした。
〈先におやつ食べたい〉
瀬尾が頷いた。
「そうしなさい。でも食べ過ぎちゃ駄目よ、お昼ご飯食べられなくなるから」
立ち上がった彼女を村山は見つめた。
「冒頭の話、夕貴の耳の治療については改めてご相談させていただきます」
瀬尾は頭を下げた。
「先生にお任せします」
「夕貴は賢いから、人の唇の動きで会話が読み取れる。そこを最初に強調すればばれないようにできると思います」
「暁がいなければ、この子の力は他の人にわからないと言う先生のご意見、私もそうだと思いましたので……」
言われてふと彼は、肝心なことを確認していないことに気が付いた。
暁の話では、瀬尾は特に力を持ってはいないようだが、
(……それでは瀬尾さんは、どこまでこの二人のことを知ってるんだろ)
村山が知っている彼ら二人のテレパシー能力は大きく分けて四つ。
一つは夕貴と暁間の送受信。
一つは暁と村山の間の送信と受信。微妙ではあるが萌と高津にも備わっている力だ。
一つは夕貴の読心術。これは相手が教えてもいいと思っていることしか読めないと彼女は言っている。だが、本当のところは不明だった。
何故なら普通、人は他人に心を読まれている事を心配しながら考え事などしないからだ。
高津や村山などのリソカリトなら、ある程度ブロックが可能のようだったが……
(……そして)
最後は緑のお化け退治の時に、感染した人を救った情報ウィルスバスター。
この力については村山ですら畏怖を感じている。あまりに底の知れない力だったので……
「村山先生?」
「え」
不思議そうにこちらを覗き込む瞳に慌てて頷く。
「さっき言ったように私は多分見張られているので、うちの病院にこの二人を連れてくるとやっかいなことになります。なので、その辺りも含めて受診する病院等については考えますので、案ができたら別途お知らせいたします」
「よろしくお願いします」
最初とはうって変わったようなさっぱりした表情は、重荷を下ろした人間のものだ。
階下に降りていく瀬尾を見つめながら、彼はわずかに唇を噛む。
(……これでいい)
己の器が小さいことを言い訳にして逃げることは既に諦めていた。
彼は心配そうにこちらを見上げた夕貴に微笑いかける。
「大丈夫だから」
そのまま夕貴を抱き上げると、彼女はぎゅっと彼にしがみつく。
それでかなり救われた。