瀬尾2
「でも、順当にいけば、夕貴ちゃんはお母さんより長生きするんですよ」
「大丈夫です。その時には暁がいますから」
「……でもそれでは暁や夕貴が可哀想だ」
言った途端に頭にげんこつが飛んできた。
「僕は可哀想じゃないし」
「……暁、痛い」
また頭を叩かれた。
「僕はちゃんと夕貴の面倒見てるし」
「うん」
村山は頷いた。
「知ってる」
「じゃあ……」
彼は暁をじっと見つめた。
「大人になって、暁が働いているとき、ずっと夕貴にお留守番させる?」
「そうだよ。今でもそうだもん」
「今はお母さんがいるけど、お母さんが入院したりしたら夕貴は独りぼっちだ。夕貴が一人の時にお腹が痛くなったらどうする? 周りの人に助けてって言うこともできないんだよ」
「大丈夫だよ、そのときは僕が遠くからでも……」
「暁っ!」
瀬尾が強い声を出したので、暁はびくりとして黙る。
(……やっぱりそうか)
母親がこうまでして検査を受けさせない理由は、彼の想像通りのようだ。
普通言われるような医療ネグレクトと様相が違うことには最初から気づいていた。
彼らは愛情を注がれて育っている。
夕貴に何の訓練もしていないというのも間違っている。
聾学校などでは発声練習を怠けるという理由から手話はあまり学習させないと聞いていたが、村山は必要に迫られて去年の夏に彼女にそれを教えた。
ところが彼女は母親からも少しは教えてもらっていたらしく、すでに知っている単語が相当あったのだ。
(……彼女は夕貴を外に出すことを恐れている)
村山は今度は瀬尾に視線を移す。
「……何かご心配なことがあるのですか?」
もちろん察しはついている。
「別に。何もありません」
「しかし……」
「お話がそれだけなら、私はそろそろ下に参りますわ」
冷たい声に弱気な村山は思わずそのまま頷きかけたが、ここで逃げ出したら何のために来たのかわからない。
(……患者さんと思えばいい)
告知と同じだ。それが辛い事であっても言うべき事は言わねばならないのだ。
「夕貴だって相応の年齢になったら学校に行くんです」
「存じてますけど」
「そうなると貴女だって逃げられませんよ」
思わず後ずさりしたくなるような目で彼女は睨む。
「何がおっしゃりたいの?」
「その、つまり……」
彼は正座をし直した。
落ち着いて対峙すれば、刺し貫くような眼差しは猛獣から我が子を守ろうとする母鹿のようにも思える。
「差し出がましいようですが、貴女のご心配は暁と夕貴を離すことである程度解決できるのではありませんか? まあ、他にも注意すべきことはあるにしても……」
「……どういう意味ですか?」
「言葉通りです」
村山はついに昨日から言うべきかどうかを悩んでいた言葉を発した。
「たとえ二人が遠く離れて会話していたとしても、普通は単なる独り言として皆は処理するでしょうから……」
瀬尾がすっくと立ち上がった。
「な、何をおっしゃりたいのかはわかりませんけど、貴方の意図は理解しましたわ」
髪を逆立てんばかりにして怒るその顔は、夕貴に似て美しい。
「出て行って! そしてもう二度とここには来ないで!」
「瀬尾さん……」
村山は立場を忘れて心底同情した。
「私はこの二人の友人です。それだけは信じて下さい」
「嘘だわ。この子たちのことを調べようとして近づいたんでしょ? 何が目的? ネズミやウサギみたいに実験するの? 殺して解剖したいの? そう言えば貴方、外科医だったわね」
外科医の職務についての事実誤認には目をつぶる。
「くどいようですが、私は彼らの友人です」
聞けばリソカリトとして目覚める前から、彼らはテレパシー能力を持っていたと言う。
村山にはそれを隠し通そうとする彼女の気持ちはよくわかった。
「帰って下さい。お願いだから、帰って下さい」
青ざめた顔に敵意に満ちた目。彼女なら、今日か明日中にでも家をたたんで兄妹を守るために引っ越しの一つもしかねなかった。
(……俺も覚悟、決めなきゃな)
暁と夕貴が茫然とした顔で二人を見つめているのも辛い。
村山は静かに彼女を見つめた。
「……わかりました。それでは私がどうしてこの二人に関心を持ったかを正直にお話しします」
「ほら、やっぱり裏があったのね」
仁王立ちのまま、彼女はそのまま暁と夕貴を引き寄せる。
「出て行って。……それとも貴方が出て行かないなら、私たちが出て行くわ」
彼は頷く。
「そうしてください」
村山は暁から自由帳と鉛筆を借りた。
「どこでもお好きなだけここから離れて、五分ぐらいしたら戻ってきて下さい。ただしその間、暁とずっと会話していてくださいね」
「何を勝手なことを……」
彼は暁に向かった。
「暁はお母さんと話した事を俺に教えてくれ」
「おじさん……」
「そしたら俺とお母さんは仲直りできるから」
「わかった」
聞く耳も持たないような顔の瀬尾は、二人を引っ張るようにして出て行った。
村山は暁から伝達される会話の内容を逐一メモに取る。
十分経っても帰ってこなかった時は少し不安にはなったが、頭の中の暁の声は母を説得しているようだったので迎えに行くのは我慢した。
やがて、三人は再び家に戻ってくる。
「どうぞ」
仕方なさそうな顔の瀬尾に自由帳を渡し、彼は反応を見守った。
「こ、これは……」
いきなり彼女は暁の身体検査を始める。盗聴器が彼の身体についていないかを調べているようだ。
「よくメモを見てください。貴方達の会話をそのまま筆記したのでなく、暁の通訳が入った文になっているって分かりますから」
彼女は黙って夕貴の身体もチェックする。
「俺ができるのは受信だけ、暁ができるのは発信だけっていう凄く不便な力ですが、一応これもテレパシーの一種かなと」
「……嘘よ」
「瀬尾さん、これは私が貴女を信じたからお見せしたんです。暁や夕貴をこれだけ守ろうと必死な貴女なら、私がこの力を他人に知らせることにどれほどの勇気がいったかもわかっていただけるでしょう?」
さすがに彼の声も強ばる。
「私だって貴女を含め、こんなことを世間に知られたくありません。でも」
首を横に振る瀬尾の手を夕貴が両手で握った。
そして村山の言うことが正しいとでも言うかのように強く頷く。
「二人を同じ仲間として放っておけなかったから……」
村山は言葉を止めた。
瀬尾が突然、崩れ落ちるように床に手をついたのだ。