瀬尾1
業務を終え家に帰ってから、村山は明日の段取りについて再度頭の中で復唱した。
(……多分、後をつけてくる奴らを巻くところからスタートだな)
彼は暁たちの家に行くつもりだった。
危険を彼らの親に伝えておかねばならない。
そしてそのためには、明石以上に苦手な兄妹の母と対峙する必要があった。だが、
(……彼女も俺を嫌っている)
正直、明石よりも彼女に嫌われる方が余程実害が大きい。
何故ならそのために二人を守りきれなくなる可能性がでるからだ。
だが、
(……俺がやらなきゃ誰がやる?)
翌日、出発の段になってもまだ浮かぶ嫌な感じを彼は強いて心から追い出そうと頑張った。
言うべき事をちゃんと伝え、結果を引き出すための方策を何度も練る。
だが、いくら考えても今回ばかりは自信がなかった。
(……あの人に、理屈が通るような気がしない)
とりあえずガレージを出て、予定通りに敵の車を巻く。
その後、車をスーパーの駐車場に止め、山の方へ歩いて二十分程度の所にある暁の家に向かった。
家の前に横付けしようかと思ったが、何かの拍子で彼の車が敵に発見されないとも限らない。
彼は坂道をゆっくりと歩いた。
そして、アポイントを取った時間の五分前に瀬尾家に着く。
「あ」
呼び鈴を押す前に玄関の扉が開き、夕貴がこちらに走ってきた。
「おはよう、夕貴」
彼女は門を開けると村山の足にしがみつく。
「久しぶりだな、元気にしてたか?」
抱き上げると少し重くなっていた。彼の首に廻した手の力も、以前より強くなった気がする。
「先生っ」
暁が靴も履かずに玄関から飛びだしてきたので、村山は顔をしかめる。
「こらっ、靴はどうした? その足で家に入る気か?」
「挨拶が先だろ、叱るのは後にしてよ」
暁は背はさほど伸びてはいないが、口はより達者になっていた。
これも成長の証か。
「おはようございます、村山先生」
続いて彼らの母親である瀬尾が出てきた。そして愛想よく挨拶をする。
だが、その目は笑っていない。
「おはようございます。今日はご無理を言って済みません」
「いいんですのよ、この子たちも先生にお会いするのを楽しみにしていましたし」
彼らと村山の関係については、偶然萌や高津と一緒に出会って仲良くなったとだけ言っている。
なので、彼女が彼を不審がるのも不思議はないような気はした。
特に夕貴は信じがたいことだが人見知りの強い子で初対面の大人に懐いたことなどなかったらしく、それも彼女の不信感の元になっているようだ。
「ね、何して遊ぶ?」
「何がしたい?」
「……うんとね、キャッチボール」
「それじゃ夕貴がつまらないだろ? グローブ一つしかないんだから」
「じゃあ、サッカー」
村山は笑う。
「アウトドアだな、お前」
「家の中だと先生は夕貴べったりだし、つまんないから」
夕貴を地面に降ろすと、彼女は村山の手を引っ張って玄関に向かった。なのでとりあえずは家に上がらせてもらうことにする。
「夕貴、だから大人は手を繋がなくても一人で歩けるからあ」
言いつつ暁が二人の手を引きはがす。
そのまま暁たちの子供部屋に上がった村山は、上に乗っかってきた二人に押し潰されながらも一応今回の来訪目的を彼らに告げた。
「遊ぶのは遊ぶんだけど、その前にちょっとだけお母さんと話がしたいんだ。だから待っててくれないか?」
「何の話?」
「一つは夕貴の耳の話。もう一つはこの頃ぶっそうなことが起こるから、戸締まりには気をつけてってこと」
「先生ってお巡りさんみたい」
「だろ?」
言っていると、コーヒーやジュースと菓子を持って瀬尾が部屋に入ってきた。
「もう、二人とも。先生が可哀想だからおよしなさい。ご迷惑だし、遊びにきてもらえなくなるわよ」
「大丈夫だよ。先生はこんなことで負けないから」
「いや、負けた。二人とも重くなったから、前みたいにふりほどけない」
「やった!」
言いながら暁が簡易テーブルにカップを並べる母親に視線を送った。
「でもね、遊ぶ前にお母さんと話がしたいんだって」
「私と?」
目に警戒感が強くにじんだ。
美人だけにかなり怖い。
「少しの間、お母さんと二人だけにしてもらってもいいか?」
背中に乗っている暁たちに首だけ回して確認すると、暁が身体を横にねじるようにぶんぶん振った。
「僕たちが聞いちゃいけないような話なら、お母さんにしちゃだめだよ」
「……まあ、そうだよな」
ぐいっと仰向けになると二人が振り落とされたので、彼は急いで腹筋で起きあがった。
「勝った」
「ええ! ずるいっ、不意打ちはひきょーだよっ!」
背中にこぶしをどんどんと当てる暁を他所に、村山は瀬尾が立ち上がる前にその顔を見つめた。
「よろしければ、ここでお話してもいいですか」
怖い顔で彼女は黙って座り直す。彼が話す内容を予想はしているのだろう。
「以前、お話しした件ですが、その後お考えいただけましたか?」
「……何のことでしたでしょう?」
「夕貴ちゃんの耳の話です。できるだけ小さいうちに検査を受けて、症状に見合った訓練を早急にしていただきたいのです」
以前も彼はそう言った。
三歳児の聴覚診断で難聴の可能性を言われたなら、早く医療機関で原因を突きとめなければならないこと。
補聴器はできるだけ小さい頃から付けることが望ましいし、大学病院の耳鼻科にある脳波聴力検査などを受ける場合なら紹介状を彼の病院の専門医に書いてもらうとも言った。
もし高度難聴だとしても残存聴力が少しでもあるなら、人工内耳手術もまだ間に合うかもしれないとも言った。
だが、彼に返ってきたのは凍るほどに冷たい反応で……
「以前も申し上げましたが、この子のことは私が面倒を見ます。だから療養施設などに預けるつもりはありません」
当初村山は夕貴の母が彼女に治療を受けさせなかったり発声訓練をさせないのは、夕貴が喋れるということをわかってないのかと思っていた。つまりは難聴についての知識が不足しているからだと思っていたのだ。
だが、話をするうちにそうではないと言うことがわかった。
そして、話をすればするほどそれに比例するように、彼女は村山を憎み始めて……