奪還6
「さむ……」
村山は身震いをした。夜風が頬を刺すようだ。
(……コーヒーが飲みたい)
思えばあの電話以降、何も飲んでいない。
左の隅の自販機を見ながら彼は瞬時考え込む。
(……俺だけ飲んだら、圭介、怒るかな)
最後にこの自販機が動いたのはいつだろうという疑問も一緒に浮かんだが、彼はそれに近寄りコインを入れた。
がたんという音がして、熱いブラックコーヒーが出てくる。
だが、幸か不幸かそんなものを飲む暇はなかった。車の音がこちらに近づいてきたのだ。
そして思惑通りに彼の車の横にそれは並列で停まり、ヘッドライトの光を彼に浴びせかける。
思わず手で目を覆った村山の前に、一人の男が車から降り立った。
「子供はどうした? 約束が違うぞ」
男は黒いコートにマフラーをしている。顔は逆光でよくわからない。
「親権者と折り合いがつかなくて」
とりあえず、相手の出方をさぐるつもりで村山は言った。
「最初に言ったと思うが、俺は彼らに対して何の権利もないんだ。ところがそう言おうにも、君は俺に連絡先を教えてはくれなかった。だから俺はここに一人で立っているんだ」
「自分の言ってることがどういうことか、わかってるんだろうな?」
「子供を連れ出せって言うんなら、こんな時間を指定するな。次回は日曜の昼間、場所は遊園地にしてくれ」
「……おめでたい奴だ、次があると思っているとはな」
「もちろんだ。君が暁と夕貴がどこの誰だか知らない以上はね」
男は一瞬押し黙ったが、すぐに村山の方にあごを突きだした。
「吐かす方法はいくらでもある」
「俺は言わない」
男が低く笑って車の方へ手で合図を送ると、萌が別の男に車から引き出されるのが見えた。
「萌っ!」
「おっと動くな。こっちは刃物を持っている」
村山は男を睨み付ける。
「目的は何だ?」
「お前に言う必要はない」
「……同じリソカリト同士なのに、どうしてそんな汚い手を使う?」
男が再び言葉を失ったので、村山は自分の考えが正しかったことを悟った。
「井上が電話で君たちに何て言ったかは知らない。でも子供達はマスターのいないこの世界では何の役にも立たないよ。どういうつもりかは知らないけど、もうあの夢のことは忘れろ」
「……何もかもお見通しと言いたいのだろうが、お前のような間抜けにはわからない事があるのさ」
男は後ろの男から萌を引ったくるように奪い、そしてその頬にナイフを当てる。
「さあ、こいつが二目と見られない顔になるのが嫌なら、知っていることを吐けっ!」
「どうして彼ら二人でないと駄目なんだ? 俺では駄目なのか?」
「黙れっ、テレパス風情が偉そうに。お前程度のリソカリトは山のようにいるんだ。あの二人のような希少価値のある能力とは違うんだ」
どうやら井上は、村山のことも報告していたらしい。
「……テレパス風情でも、時々はましなことをするかもしれない」
村山は左手を挙げた。と、突然車のエンジンがかかる。
「なに!」
驚いて後ろを向いた男に、彼はコーヒー缶を思いきり投げつけた。
狙いははずれず、それは正確に彼の腕に当たり、その手からナイフが落ちた。
同時に村山は走って男を突き飛ばし、萌の身体の戒めを掴んで後ろへ転がる。
と、そこへ高津の乗った車が大きな音を起てて飛び込んできた。それはあわや崖下に落ちるかというところでストップし、運転者側のドアを大きく開けた。
村山は萌を抱えて車に飛び乗る。
「萌っ、足を曲げろっ!」
少々乱暴だったが助手席に移りかけていた高津の上に彼女を押しつけると、言われた通りに萌が丸まって運転席が空いたので、村山は座席に飛び乗った。
高津が萌を更に奥に引き込んだので、村山はギアを掴んでバックに入れる。
そしてクラッチが繋がったと見るや、進路に人がいないのを確認して思いきりアクセルを踏んだ。
「待てっ!」
隣の車が視野に入るとともに、彼らの怒号も聞こえた。
しかし桜の木があるので、村山の車の進路の邪魔はできない。
彼は路上に出るや否や、ハンドルを切って一目散に逃げ出した。
「奴ら、追いかけてきたよっ!」
萌の口に貼られたガムテープを外しながら、高津が叫ぶ。
「……圭ちゃん、ありがと、怖かった、本当に怖かったっ!」
「……どうせ、村山さんに何かあったら、だろ?」
「何でわかるの?」
「ええいっ、くそっ!」
横で萌の結び目をほどきながら、高津がイライラした声を出した。
「村山さん、メスか何か持ってないの? コートからぱっと出してよ」
「俺のメス刃は使い捨てだ」
村山はポケットにあったカッターナイフを取りだして高津に渡す。
「後部座席に移ってから切れ。しばらくは揺れるから危ないぞ」
「無理だよ。停まらないと後ろに移れない」
確かに萌が上に乗っかっている高津はかなりきつい体勢だ。
「わかった。しばらくゆっくり走るから、慎重にさっさと縄を切れ」
バックミラーに映るヘッドライトが大きくなってきた。
「切れた」
「じゃ、萌、お前早く後ろに移れ。そしてシートベルトをしろ」
「え、シートベルト?」
フロントシートの隙間をたどたどしくくぐり抜け、萌は後ろに移った。
「あった。……でもあったけど、孔が合わない」
「それは多分、隣のシートベルトだ。その近くに別のはないか?」
「どうしよう、暗くてわかんない」
追いかけてきた車が彼らの二十メートルほど後方まで接近している。このまま追突でもされたらたまらない。
「わかった。シートベルトはもういい。フロントシートにしっかりつかまってろよ」
「運転席ってこと?」
「そうだ、絶対に放すんじゃないぞ…………わっ!」
いきなり萌の手が村山の胸に回ったので彼は声を上げた。
「馬鹿、俺じゃない、シートに捕まるんだ。びっくりして危うく谷底に転落するところだった」
言いながら彼はフォグランプをつけて視野を確保した。対向車がないからしばらくは許されるだろう。
「……行くぞ」
シートベルトをかけ、アクセルを踏む。
山道なので当然カーブは多い。しかしこのコースは以前何度か走ったことがあるので大体の感じは掴めた。
ブレーキング、そしてクラッチを切ると同時にブレーキをつま先で踏み、かかとでアクセルを調整しながら回転を合わせてシフトダウン。
「……っ!」
だがこのところご無沙汰していたこともあって、感覚が戻るのにわずかな時間を要した。彼が思っていたよりもリアが流れたのだ。
幸い、軽くカウンターを当てると車の挙動は正常に戻る。
(……来た)
目の前には急勾配のカーブが迫っている。村山の心と体に懐かしい感覚がよみがえってきた。
そう、あれは学生の頃。
彼は毎晩のようにこうして峠を走っていた。
高揚し、刹那的なスリルを見いだそうとする心と同時に、ひどく醒めた自分がカーブに侵入する角度や最適速度を計算している。
そしてそれが融合する時、彼は本来あるべき自分の姿をそこに見いだしていた。
対向車の有無を確認し、対向車線一杯まで使用してコーナーを曲がる。
車は既に手足のようだ。リアは彼の思うまま流れ、スムーズにラインを取っていく……