レンズ
実際問題、五百理にとって世界はどんなふうなのだろう。
「ありがと、花香ちゃん」
例によってふらふらと道路の側溝に嵌りかけた友人を引き戻し、何度も考えすぎてもうすでに頭の中に定位置を占めんばかりの疑問を、花香はまたこねくり回す。
口に出すことはないけれど、それだけに幾度も言葉や表現を変えて脳内で再生されたその問いは、自治区域とばかり、その度に花香の意識の中で占める割合を増やしていく。
やっぱりふらふらと軌道修正をしながら花香の少しだけ斜め前を歩く幼馴染みは、いとも楽しげに通学鞄を振り回し、意味もなくご満悦の体だ。
と言っても、彼女が五分以上不機嫌でいたことなど、花香にはとんと覚えがない。
茫洋とした、笑顔。それが五百理の基本装備だ。
いつから、などということを覚えてもいない時期から、そうだった。
その頃から、五百理は少しも変わらない。
「花香ちゃん花香ちゃん」
「なに」
「いい天気だね」
振り向く、返事があることを疑いもしない笑顔。けれど。
「そうだね」
「もうすぐお芋の季節が来るよ」
「食欲ばっかり」
少し照れたように笑って、五百理はうなずく。幼い仕草には少し似合わない、やさしい笑顔。
「その前に、秋の花が咲くかな。きれいだろうね」
「どうせ、ろくに見えないくせに」
「見えてるよ」
「どうだか」
「見えてるもん」
もう一度、口の中だけで「どうだか」と五百理はつぶやいた。
それでも、五百理がそう主張する以上、言葉を重ねることは出来ない。しない。
しても無駄だと思うし、疑うような言葉は五百理を傷つけるだけだろう。
「それよりあんた、今日はちゃんとノート取れたの?」
「んー、んーと。たぶん、大丈夫。教科書あるし」
「また直前になって泣きつくんじゃないでしょうね」
「先生の言ったことは全部書いたよ」
胸を張らんばかりの台詞にため息と、ついでにデコピンをひとつ。
「後でうちにおいで。チェックするから」
「えー、うん」
なにやら口を尖らせるようにして、五百理はつかの間不満を表明したけれど、やがて、一人で大きくうなずいて、いとも無邪気に笑ってみせた。
「ありがと、花香ちゃん」
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。
人間に備わる五感のうち、何が一番大切なものかはなかなか判別がつかないことだけれど、大半のものにとって、五感、と聞いてまず浮かぶのが「視覚」ではないだろうか。
聞こえないこと、匂いがわからないこと、味がないこと、触れる感覚がないこと、それらを想像するには多少頭を働かせねばならないけれど、見えないこと、それは暗闇を思えばそう解らないものでもない。
そして、そのもたらす不便さも。
坂口五百理は、目が悪い。
とは言ってもそれは何も深刻なものではなく、メガネやコンタクトレンズなどの矯正器具を必要とするというだけの話だ。
つまり、ただの近眼。世の中に同程度の視力の人間などは量り売りするほどにはいるだろう。
馴染みの良い数値に直すなら、0.01か、それ未満。細かいことは花香も、たぶん本人も知らない。
ただ本人曰く、裸眼でまともに見えるのは15㎝以内というから、道具なしにはまともに動くこともできないのではないかと花香は思う。
「でも、メガネは酔うんだよ」
それを本人は、そんな理由でメガネの着用を拒否する。
学校の視力測定で視力矯正を促すプリントを貰ってきたときに無理やり店に連れて行かれたと言っていたから、メガネそのものは持っているはずだが、使っているところなぞ、花香はついぞ見かけたことがない。
現代っ子の宿命と言おうか、花香自身も視力は良いほうではなく、同じように学校からプリントを貰ってきて、結果、メガネを経て現在はコンタクトレンズのお世話になっている。
五百理と違って少なくとも素で道の溝に嵌るほどではないが、それでも裸眼で夜道を歩く気にはとてもではないが、なれない。
なのに、五百理は平然とそれをするのだ。
視力が下がり始めたのは中学の入りしな、容貌を気にしたのかもしれないが、それなら花香同様コンタクトにすればいいだろうし、第一、そんなことを気にする性格とも思えない。
「心配しなくても、ちゃんと見えてるよ」
いつも五百理はそう言っているけれど、そんな言葉があてになるはずはないのだ。
放っておけば、道幅の感覚も掴めずにふらふらと車道に出てしまうくせに。
学校だって、黒板なんか見えているはずもない。
何故か成績は下がらないし、本人が何も言わないから、気づいている人はいないけれど。
「大丈夫だよ、花香ちゃん」
視覚。
失ったわけじゃない。見えないわけじゃない。わからないわけじゃない。
けれどどうして、五百理は、と、花香はいつも思うのだ。
花香の一日は、コンタクトレンズを着けることから始まる。
もちろん目が悪いとは言え、家の中の移動や身支度、食事にまで困ったりはしないが、ぼやける視界のせいか、コンタクトを入れるまではどうにも頭がはっきりしないのだ。
コンタクトレンズというのはすごいと、時どき花香は思う。
指で引っ張れば破けてしまうような薄い膜に過ぎないのに、目に着けると途端にぼやけていた物の輪郭がはっきりして、まさしく世界が変わる。
メガネも同じ働きはしていたはずなのに、初めてコンタクトレンズを着けた日、花香は感動のあまり言葉を失ったものだ。
顔を洗い、歯を磨いてコンタクトレンズを入れ、着替えをする。ずいぶん伸びた髪を右の耳の下でくくれば準備は完了。
あとは朝食を摂って、いつも通り五百理を迎えに行く。
「行ってきます」
とんとん、とローファーの爪先で二度、床を叩いてから花香は扉を開けた。
子どものころ読んだ雑誌に書いてあった、「良いことがある」おまじない。
いつの間にか、癖になってしまっていた。その雑誌を教えてくれた当の本人が覚えているかどうかは、怪しいものだが。
門を出て、道沿いに右、左、左の順で三回角を曲がれば、すぐそこに五百理の家がある。
シンプルな、長方形と三角の白い積み木を重ねただけのように、いっそ素っ気ないと言ってしまえるほどの家だけれど、そう広くない前庭には控えめながらいつでも何かの花が咲いていて、今は固い蕾を付けたコスモスの茎やふわふわした葉がいかにも優しげに揺れていた。
花香は別に、歩く道々の草花に目を留めてはいちいち愛でるような性格はしていないが、それでもたまにこういう綺麗な風景に出会えば、思う。
きっと五百理には、こんな花もはっきりとは見えていないのだろう。もったいない、と。
「坂口」と刻まれた表札の横を通り、玄関扉の前で待つ。
例によって五百理はしばらくは出てこないだろう。今頃、のんびりと朝食を摂っているか、顔を洗って茫っとした顔を少しは引き締めているか。
「だから、先に行っていいって、いつも言ってるのに」
ちょっとくらいは急げと言うたびに、五百理はそう反論する。だから近頃では何も言わないようにしているけれど、花香にしてみれば、何を馬鹿なことを、といったところだ。
つい昨日だって、真正面から電柱にぶつかるなどという今どき誰も笑ってすらくれないことをやらかしたくせに。以前、無謀にも自転車に乗っていたときなど、路上駐車している車に、花香の目の前で自分から突っ込んでいったのだ。
危なっかしいこと、この上ない。だから何とかしろと、常々言っているのに。
いつもと同じ、取りとめもないことを考えていると、扉脇の擦りガラスに、制服を着ているのだろう、暗い色の人影が映った。そしてすぐに、ドアを開ける、木と金属のこすれる音。
「おはよ、花香ちゃん」
「おはよう」
朝から地に足の着いていないような声や雰囲気に相応しく、どこか茫洋とした顔の五百理がとんとんとんと三歩ほど距離を詰め、少し自分よりも視線の高い花香を見上げてにこりと笑う。
いつも風を含んだような柔らかい髪がふわふわと肩まで届き、小さな顔の顎はむしろ鋭利なラインを描いている。
大きな黒目勝ちの瞳と合わせて主張はかなり強い顔立ちをしているはずなのに、全体から受ける印象は、どうしてか曖昧に感じる。
固い蕾を重たげに揺らすコスモスのように、はっきりとした主張を投げかけてはこない。
いつもの通りに、他愛のないことを話しながら二人は並んで学校へと向かう。
車が来たら危ないから、五百理にそちら側は歩かせないけれど、安全に思える歩道側だって、電柱や側溝にすらぶつかり嵌る五百理には、そうでもない。
毎朝のこととして、花香は車の音に注意しながらも、五百理から目を離せなかった。
さすがに慣れた道だけあって、やや蛇行しながらも五百理はおおよそ歩道から外れることなく歩いていく。それでも時どきどこかにぶつかりかける五百理を花香は引き戻す。
通い慣れた道、見飽きた風景。小さな頃から同じ、二人で歩く学校への道のり。
一体、五百理にはどんなふうに見えているのだろうと、花香はいつも考えていた。
学校が近づき、まばらに同じ制服を着た生徒はクラスメイトの姿も見え始め、お互いに慣れた挨拶を交わしたりする。いつもと同じように。
ひらひらと友人に手を振っていた五百理が、ひどく唐突に振り向いて、けれどこう言ったのだ。
とてもとてもささやかで、そのくせ大きすぎる、差異。
「先に帰ってて、いいよ?」
いつもと同じ朝、いつもと同じ景色。
一体、何を見て、五百理はこんなことを言ったのだろうと、花香は。
坂口五百理は、目が悪い。
教科書くらいの文字が読めるのは、せいぜいが15㎝。勘込みで20㎝。
1mも離れてしまえば、その風景は五百理にとって遥か彼方と相違ない。
それでもまあ、日常生活を送るぶんにはさほどの問題でもない、と、五百理本人は思っている。食事も着替えも入浴もできるし、学校の黒板を見る以外には勉強にも支障はない。
多少目が悪かろうと、朝の光は変わらずに清清しいし、朝食のトーストは実に香ばしい。
何より、この今見える風景こそが、五百理にとっては普通なのだ。
それに。
いつも通りに通学の仕度をして家の外に出ると、いつもの通りに、そこには八野花香が待っていた。 真っ直ぐな髪を右耳の下でまとめた幼馴染みは、何故か軍人か何かのようにかっちりとした立ち姿で、今日も玄関扉から三歩ほど離れて、まだ蕾が綻びる気配のないコスモスを両脇に従えるようにして、いる。
花が咲いていないことを、五百理は少し残念に思った。
コスモスが満開の時期なら、水彩画のようにたくさんの色が乱れて揺れる中で立つ花香の姿は、どんなにきれいだろう。
まあ、緑一色がゆらゆらとしている中というのも、十分にらしくて絵になるけれど。
そう考えながら、五百理は改めて花香に笑いかけた。当然というか、そのどこか物堅い顔立ちもはっきりとは見えないけれど、もし同じ姿同じ体格、同じ髪型の人間が隣に並んでも、五百理には花香がわかる。
見るよりも余程、確実に。
「おはよ、花香ちゃん」
「おはよう」
でも、それはどうにも花香には解りにくいことのようなのだ。
花香だって、メガネもコンタクトもなしでも、五m離れていても、五百理のことが判るだろうに、そう言うと、
「そういう問題じゃ、ないの」
と一蹴された。
五百理にとって、世界はこんなにも鮮やかなのに。
花香は心配性なのだ、と、五百理は思う。もう高校生になっているのに、ちゃんと学校に着けるのか心配だ、と、花香は毎朝迎えに来る。
それは五百理だって、一緒に登下校できるのは楽しいし、うれしいけれど、そんなに無理をしなくてもいいのに、とも思う。
確かに花香から見ればいろいろと危なっかしいのかもしれないけれど、本当は、花香が五百理の面倒を見る必要なんて、ぜんぜんないのだ。
いつも通りの朝、いつも通りの道、いつもの通り、隣には花香。
まだ少し元気のない太陽の光は、秋に向かう今の季節には涼しくて清清しくて、冬に向けての準備を始めた道の木や草は、枯葉の匂いがしてきそうに穏やかで。
今までと、これまでと、ひとつも変わらないと思えるくらいにいつもと同じだから。
「花香ちゃん、今日、委員会の日だよね」
五百理は花香を振り向いて、言った。
「あたし、たぶん遅くなると思うから、先に帰ってて、いいよ」
ほんの少し見開いた目が、すぐ先へ追い抜いていった同級生から、五百理に戻される。
「遅くなるって、じゃあ、逆に駄目じゃないの。あんた一人で夜道なんて、歩かせられるもんか」
「大丈夫だよ。途中まで他の子と一緒に帰るし。それに今日、晴れてるし満月だし。明るいよ」
花香は今まで息を詰めていたような大きなため息を、ひとつ。
革の通学鞄を左手に持ち替えて、じろりと五百理を見下ろした。
「あのね。満月だろうが三日月だろうが、それっくらいのことで今さらあんたの視力がどう変わるってのよ」
「けっこう違うよ~」
心配性な花香はきっと、いつもコンタクトレンズなんかしているから解らないのだ、と五百理は思う。
近くも遠くも均一に、きちんと見えるレンズに、覆われてしまっているのだ。
五百理は、ちゃんと見えているのに、花香には、それが解らないのだ。
近づく学校の匂い。
「とにかくね。ほら、あたしだってそろそろ花香ちゃん離れしないといけないんだし。今日は一人で帰るから。絶対、待たなくていいからね」
「ちょ、五百理!」
言って、五百理はもうすぐどこまで見えている校門まで、走る。一人でも大丈夫だと、証明するように。
実際、五百理には、きちんと全部、見えているのだ。
いつから一緒にいたのかなんてことは、花香も五百理も覚えてはいない。
遡れる限りの記憶とアルバムとを合わせて考えると、少なくとも幼稚園のころから二人は親友だった。
覚えてもいない頃に覚えてもいない出会いをして、それからずっと、二人は親友だった。
だから、学校の生き返りに一人でいたことなど、花香の記憶にはほとんどない。せいぜい五百理が風邪をひいたときくらいで、そんなものは年に一回あるかどうかだったのだ。
だから、通い慣れた、見飽きた道に感じる、大きすぎる違和感。
いつもと同じはずの景色が別のもののような、当然在るべくし在るだけの景色に、花香だけが紛れ込んだような、異物感。
少しだけ斜め前を歩く、ふわふわと揺れる髪も、楽しげに振り回される鞄も、茫洋とした笑顔も、ない。
結局五百理は、頑として一人での下校を譲らなかった。しまいには例え花香が待っていても撒いて帰るとまで言い、それに折れる形で花香も帰宅することになった。
その一幕を見ていた同級生などは、ついに反抗期かと笑っていたけれど。
在るべきものがそこにはない、何とも不安定な、落ち着かない気持ちがする。
果たして五百理は本当に一人でも大丈夫なのか、と心配にもなってくる。
それはいざとなれば、五百理だって一応持ち歩いてはいるはずのメガネを着けるだろうし、そこまで心配することはない、とも花香は分かってはいるのだが、ほんの一瞬で幾つも思い出せるような五百理の危なっかしさがすぐに脳裏を支配してしまう。
花香は心配しすぎる、と当の本人は言うが、そう主張したいのなら、メガネは嫌だなんて子どもじみたことを言っていないで、自分で何とかすればいいのに。
大体、どうして五百理はメガネが嫌いなのだったか。
酔うから、と時どき言っているが、何か他にもあった気が、しないでもない。
いつもなら、何かと危なっかしい五百理から目が放せないせいで何かを深く考えながら歩く、などということは出来ないけれど、五百理がいない通学路は不自然すぎて、意識が、思考が、代わりのようにここにいない五百理へと向かった。
最初に五百理がメガネについて話したのは、多分中学二年の時だったと思う。
その頃、少し前から下がり気味だった五百理の視力がついに許容範囲を突破し、必ずメガネを作ってこいと学校からプリントを渡されたのだ。
でもそのときは、面倒そうな顔こそしていたけれど、一応はおとなしく眼科と店に連れられていったのだ。
その日のうちだったのだろう、花香の部屋で新品のメガネをためつすがめつし、不思議そうな顔をしていた五百理の姿を覚えている。
──持ってないで、かければ。
確か、五百理はそんなことを言った。
──でも、何か、変なんだよ
そう、言ったのだ。いつもに似て茫洋とした、けれど笑みを含まない、どこか納得のいかない、といったふうに。
──何かって? サイズでも合わないの? 見えにくいとか
買ったばかりでまさか、と思いながら、花香は生返事をした。また何か、五百理が妙なことを言い出した、くらいに思って。
──見えにくいのとは違うけど……何か変。変な感じ。あたし、これ嫌い。頭ぐるぐるしそう
言って、ぽいとばかりにメガネを放り投げて、そうだ。それ以来、ほぼ二度とそれを着けなかったのだ、五百理は。
そして、その理由を訊いても、「酔うから」としか答えなくなった。
──いや、違う。確か、もう一度だけ。
──ねえ、花香ちゃん、本当に平気? 変な感じ、しない?
そうだ、思い出した。あれは、花香自身がメガネをすることになったとき。初めてメガネを着けた花香に、五百理は窺うように訊いてきた。
──変な見え方、じゃない?
──別に。よく見えるよ。邪魔だけど。
──そっか。
それで、終わり。それ以上は、本当に何もなかったはずだ。
変な見え方。
五百理はそう言った。メガネを着けると、変な感じがすると。
もう見えない高校の方を、花香は一度、振り返る。
溶けそうな橙色をした夕方の色が視線の延びる限り、見慣れた道を染め上げていた。
今頃、五百理は図書室にこもって委員会の仕事だろうか。何時くらいに終わるのだろう。
「──明日」
明日の朝、どうしよう。と、花香は不意に思った。
──また明日ね、花香ちゃん。
学校で、にこにこと手を振りながら言った、五百理。
どうしよう。
ほんの少し立ち止まった間に、景色は橙から薄藍に変わっている。その慣れた道を、花香はまた歩き出した。
部屋着の上にパーカを羽織っただけの格好で外に出ると、そう厚くはない生地を通して入り込んでくる空気の冷たさに身体を震わせる羽目になった。日中はまだまだ暖かいけれど、日が落ちるとさすがに寒い。
逸る心を映したような急いた足取りで前庭を抜け、そのまま門から出ようとして、花香はぴたりと足を止めた。
「花香ちゃん」
薄手のシャツに、指定のベスト。高校の制服を着たままの五百理が、「八野」と書かれた表札から三歩ほど離れたところに立っていた。
いつもと同じ、茫洋とした笑顔。
「五百理、え、どうして」
「どうせ花香ちゃんのことだもん。こうすると思ったから」
携帯電話のストラップを指に引っ掛けて、五百理はくすくすと笑った。悪戯が成功した子どものような、無邪気で無頓着な笑顔。
ついさっき、どうしても心配になって「いつ頃終わるのか」とメールを入れた花香に、五百理は「終わった」と返事を返してきたのだ。
だから、今から帰るのだと思い込んで、迎えに行くのは無理でも一応ちゃんと帰ってくるかどうかくらいは確認しようと外に出てきたのに、まるで待ち構えてでもいたかのように。
「ね、コンビニ行かない?」
くるくると携帯電話ごとストラップを指で回しながら、五百理は花香を誘った。学校から帰ってきてそのままの制服姿が、違和感を抱かせる。
まるで、いつもと逆転したように。
「……いいけど」
いつもの笑顔でくるりと方向転換した五百理は、楽しげに鞄を揺らしながら、一足先に歩き出す。
いつもと同じ、少し斜め前を、ふわふわした髪が揺れていく。
それを追う花香はジーンズにパーカの私服だけれど、視界にうつるのは、いつもと同じ、明るさが違うだけの、同じ景色。
「ほら、花香ちゃん。満月だよ」
最初の角を曲がる前に、五百理が空を指差した。迷いなくぴんと伸びた指の先、きれいな円をした、百円玉ほどの大きさに見える白い月。
住宅街は案外と街頭が少なくて、いくら満月と言ってもかなり足元は暗いはずなのに、空を月を見上げたまま、五百理は不思議と朝よりも余程しっかりした足取りで歩いていく。
「明るいね」
「ねえ、五百理」
何を思ったわけでもなく、花香は呼んでいた。振り返る五百理に、その理由を今さらながらに考えながら、入れ替わりのように月を見上げる。
「──五百理は、何でメガネが嫌いなんだっけ」
「だって、酔うんだもん」
「それだけ?」
「なんで?」
「なんとなく」
「そっか」
本当は。学校で五百理と別れてから、ずっと考えていたのだ。
花香と五百理は親友で、それは昔から変わらないことだけれど、本当にいつでも一緒にいたのは、ずっと同じ通学路をそれこそ肩を並べて通っていたのは、五百理の目が悪くて、五百理がメガネが嫌いで、花香が五百理を心配だったから。
いつの間にか、そうなっていた。
「あのね、花香ちゃん」
小さなころから変わらない、茫洋とした顔で五百理は笑う。
花香には解らない理由で、五百理は笑う。
「覚えてるかな。前、小学校のころ、二人で映画見たじゃない? レンタルの。タイトルとか、あたし覚えてないけど、吸血鬼のやつ。男前二人が吸血鬼になったりされたりしてごちゃごちゃするやつ」
「……インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア? あれはそういう話じゃなかった気がするけど」
「それそれ。その中で、主人公が吸血鬼になったシーンがあるじゃない? それで、初めて吸血鬼になって世界を見て、何かこんな台詞言うでしょ。
──夜の美しさに、私は涙した。
あんまりよくは覚えてないけど、こんな感じのこと」
「確かね」
ふと、五百理は空に向かって手を伸ばす。親指と人差し指で円を作って、何かを測るように目を細めた。
月の大きさだ、と、花香は理由もなく思う。
「あたし、メガネとかコンタクトレンズとかって、そんな感じじゃないかと思うんだ。だから、変な感じがするんだよ」
指の長さぎりぎりまで使った円をきゅっと縮めてから、そう言って五百理はまた笑った。
ずっと笑顔なのに、「笑った」と感じるくらい、少しだけ、違う顔をした。ずっと聞いている花香を見て、首をかしげながら笑った。不思議そうに、不可解そうに。
「あたしは、ちゃんと見えてるのにね、花香ちゃん」
虫眼鏡、顕微鏡。光が集まる虚像と実像。
五百理は、学校で初めて「レンズ」に触れたときのことを、とてもよく覚えている。
小学校で扱った、虫眼鏡。
どれだけ目を近づけても見えなかったものがはっきりと目の前に示されて、ひどく驚いた。驚いて、虫眼鏡を覗き込んだり外したりして、その見え具合を何度も確かめた。
今でもそのときのことを、覚えている。
レンズを通すと、普段は見えない、目の前にあるくせに顕わに隠されたものがしっかりと見えるのだ。
けれど、それでもやっぱり、それらは本来見えないものなのだ、と。
レンズはそういうものなのだと、五百理は思っている。
朝、目が覚めても、いつも視界はほとんど利かない。
それはひとつにはカーテンを閉め切っていて部屋が暗いせいもあるけれど、一番大きな原因は当然、五百理の目が悪いことだ。
しばらく眠気と戦いながらぼーっと灰色の天井を眺め、時計の秒針が三周ほどしたところでおもむろに起き上がる。
布団から抜け出し、顔を洗うべく部屋を出る足取りは、まるでどこに何があるのか完璧に把握し最も効率的なルートをはじき出した上で歩いてでもいるように確かで、迷いがない。
と言うか、実際、五百理は自分の部屋の中の物の配置や家の間取り、移動ルートなどはそれこそ目を瞑っていても日常生活が送れるほどに知悉している。
パジャマのまま洗顔を済ませ、自室に帰ってきた五百理は、カーテンを開けてからベッドの枕元に転がっていた時計を掴んだ。
寝相はそう悪くないつもりだが、何故かこの時計があるべき場所にきちんと立っていたことは一度もない。
そのままぐっと顔を寄せて、ほとんど鼻先というべき距離で時計の針の位置を確認した。
「よっし」
ジャスト七時、体内時計に狂いなし。
ひとつ大きく伸びをし、五百理は部屋の真ん中に置かれたテーブルの前に座り込んだ。細々したものが雑多に置いてある中から、的確にブラシやらピンやらを探り当てるが、その方向を見ることすらしない。
どうせ見てもわからないのだ。
少なくとも数年前から、五百理の視界はそうなのだ。物の輪郭は常に曖昧で、それこそ自分の部屋でもなければ、何が置かれているのかもはっきりしない。
けれどそれが、五百理には当たり前なのだ。
五百理が人並みな視力を保っていたのは何年も昔の話で、そのころの視界がどうだったかなんて、もう覚えてもいない。
気がついたら世界はぼんやりと見えていて、それが当然になっていた。
でも、だからといって、五百理にとって、「世界がぼやけている」、というわけではない。逆に、世界というのは、何をしたって揺らいだりしないものだ、と五百理は思っている。
問題は、それを、どのようにして見るか、なのだ。
五百理にとって、それはたったひとつ、今見るこの視界だ。
ぼんやりとして、けれどそれ故に何よりも鮮明な、この世界だ。はっきりしない中から、必要なものだけを明確に五百理に差し出してくれる。
今日も、たぶん花香は迎えに来るだろう。そろそろ庭のコスモスもほころび始める。きれいな季節が来る。
「たまには、あたしが迎えに行ってみようかな」
制服に袖を通しながら、そうつぶやいてみた。けれど実際のところ、実行する気はない。
そんなことをしたら、きっと花香は死ぬほど驚くだろう。心配性だから。
母親の声が、朝食だと五百理を呼ぶ。
いつも通りの時間。
通学鞄と制服の衿に結ぶタイを掴んで、部屋を出た。香ばしいトーストと、スクランブルエッグに混ぜられた、五百理の大好きなバターの匂い。
そして、今日も、いつもの朝になる。
今朝も、いつもの通りに目が覚めた。
六時半という時間を、枕のすぐ横に置かれたデジタルな時計で確認する。
時間通り、と思うのとほとんど同時、やけに気が急くような電子音が鳴り響いた。ほんの一秒で時計を叩いて音を消し、むっくりと花香は起き上がる。
薄暗い中、手でメガネを探り当て、鼻の上に乗せる。途端にはっきりする視界の中、まずはカーテンを開けて朝の光を部屋いっぱいに入れた。
まだ少し元気のない太陽も、学校に行くころにはもう少し暖かくなって、歩くのにちょうどいいくらいの気温を提供してくれるだろう。
そうして、毎朝の習慣通り、花香はまず顔を洗いに行った。お気に入りの洗顔フォームでさっぱりとし、それから、洗面台の定位置にあるコンタクトレンズのケースに手を伸ばして……ふと、鏡を見る。
見慣れたはずの自分の顔。
一重の目も、少し丸い顎の線も、薄めの唇も、ぼやけていて、なんだか別のもののように見える。
頬を伝う水滴の感触と、ぽたんと水の落ちる音。
思い出したようにタオルで顔を拭って、改めて花香はケースを手に取った。馴染みの薄い膜を、瞳の上に乗せる。
切り替わるように、すべてがはっきりと見えるようになった、少し濡れて滴の垂れている前髪をかき上げ、いつも通りの自分の顔を観察する。
鏡の表面、しっかりと見返すのは、確かに、自分だ。
「馬鹿らし」
くるりと背を向けて、着替えのために自分の部屋へ戻る。まったく、朝からつくづくと自分の顔を眺めるなど、花香のキャラではないのだ。
きちんとハンガーに掛けられていた制服や所定の場所に収まっていた鞄を取り出して机の上に置き、身支度を整える。右耳の下で髪を結わえて、最後に時間割を確認した。鞄の中身と照らし合わせてから、それを持って朝食の準備ができているだろう居間へ行く。
今日も、五百理は少し遅れて出てくるだろうか、と思った。万が一にも、先に出てしまっていたら、浮かんだ考えを、花香は即行で否定する。
そんなことが、あるわけはない。そもそも五百理は、朝に弱いのだ。
とんとんと狭い階段を下りていくと、珍しく扉が開けっ放しにでもなっているのか、味噌の匂いが漂ってきた。今日は何の味噌汁だろう、と花香は考える。卵焼きが欲しい気分だけれど、母親は用意してくれているだろうか。
何にしても、今日もいつも通りの朝になるのだ。
「おはよ、花香ちゃん」
「おはよう」
坂口五百理は、目が悪い。
それはもう冗談ではなく、というか、裸眼で曲がりなりにも日常生活が送れていること自体が冗談だというくらいに。
それでも、それを感じさせないのは、この茫洋と見開かれた黒目勝ちの瞳のせいだろう、と花香は思う。
自分自身覚えのあることだけれど、視力が悪いと目を細めがちになるはずなのに、五百理に限っては、全くそんな気配もない。大きな目はいつもにこにこと笑いの中にある。
しっかりと目を開けたまま電柱に向かって歩いていく、というどこかシュールな幼馴染みを引き戻して、花香はため息をついた。
くるりと五百理は振り向いて、嬉しそうに笑う。
「ねえ、花香ちゃん。うちのコスモスね、もうすぐ咲きそうだよ」
「そうね。もう秋だし」
「次はお芋だね」
「芋は咲かないけどね」
「食べるんだよ」
「わかってるって」
くすくすと、五百理は笑う。花香も笑った。斜め少し前を行く、五百理の楽しそうな、どこか危なっかしい足取り。
いつでも利き腕で五百理を引っ張れるように反対の手で鞄を持って、花香はいつものように、車道側を歩く。
「今日はちゃんとノート取りなよね」
「いつも大丈夫だよ」
「あんたがそう言って大丈夫だったためしはほとんどないでしょ」
「大丈夫なのに」
にっこりと、五百理は笑みを深めた。茫洋とした瞳が、すぐ目の前の花香を見留めて、きらきら光る。
「それにどうせ、花香ちゃん助けてくれるでしょ?」
あきれ果てて、花香はいつもよりも深いため息をついた。眉の間を揉み解し、じろりと見えているのかも怪しい五百理を睨みつける。
デコピンしてやろうかと思ったけれど、やめた。
「他力本願」
「だってー」
「ったく」
仕方がない、と思って、花香は笑った。それを見て、五百理も。
「ありがと、花香ちゃん」
もうすぐ、高校の校舎が見えるだろう。
学校の匂いが、近づいてきた。