第二話 再会と選択
ーーあれから二ヶ月が過ぎた。
この日は休日だったレイリアは、城下町へ買い物へ来ていた。店の買い出しではあったが、こういう用事でもないととても城下町には行かないので、少し着飾って、気持ちも高揚気味だ。わくわくしながらもきちんと店の買い物を済ませていると、ふいに道行く人々がざわめきだした。城下町には時々、お偉い方々がいらっしゃると聞くが、人々が大騒ぎしない様を見ると、そこまで高い身分の方の登場ではないようだ。それとも、何か有名な方なのかも知れない。にわかに興味が湧いて人集りに加わると、繊細な飾りの施された高級そうな馬車から、一人の青年が降りた。
(えっ…)
驚いている間に、青年は馬車の中の人物に手を差し出す。その手を取って馬車を降りたのは、レイリアの思った通りの人だった。
(イルア様…!?)
はっとして馬車周辺をよくよく見る。すると御者席に、これまた知った人物がいた。
(ヴィトくん…いや、さん?)
まあ、実際に声をかけるわけではないから。この際、呼び方は曖昧なままにしておく。
(…やっぱり身分の高い人だったんだ…。それも、有名人?)
人に紛れてイルアを見ていると、周りの人々の囁きが耳に入ってきた。
「イルア嬢だ!今日もセティエス様と御一緒かぁ…絵になるなぁ…!」
(…ん?……前に言ってた“セティ”って、あのお兄さんの事かな?セティエスって言うんだ)
レイリアは改めて青年を見る。微笑をたたえてイルアをエスコートする様子は、本当に様になっている。
「今日は何の御用かしら…?」
「この間は擁護院を手伝いにいらっしゃったのだろう?なんて心の優しい方だろう…」
「それにしても、イルア嬢が騎獣屋に御用だなんて。あの美しく可愛らしいお方が、騎獣を扱うようにはとても思えないけどな…」
「セティエス様の為かも知れないわよ?」
「やはりお二人の噂は本当なんだろうか…」
「ああ、セティエス様と一瞬目が合ったわ!」
「イルア嬢…!笑顔が今日も麗しい…!」
(…………えっと…人気者なのは分かったな…。)
レイリアはちょっとがっかりした。もう少し、イルア達がどんな人なのか知りたかったのだが。
(…騎獣屋…ってことはリュミエルに…何か買いに来たのかな。)
そんな事を思いつつ眺めていると、ぱちっ、とイルアと目が合った。
(あ…気付い………てはくれないよね、やっぱ。)
イルアが動きを止めたように思えたが、すぐにセティエスと話しているのが見えた。
(…なんかちょっと悲しくなってきたから、もう離れようかな。)
レイリアはそっとその場を離れた。
人々の囁きを聞かないようにさえして、買い物を済ませる事に専念した。イルア達がいた通りから少し離れ、買い物籠を足下に置いて、城下町の裏広場とも言える場所で休憩する。表の広場は様々な大道芸人や旅の商売人などがいて華やかだが、この裏広場は忘れられたように人がいない。レイリアは城下町に来る度、好んでここで休憩する事に決めていた。レイリア以外に人がいた試しがない。寂しい場所だが、レイリアには落ち着く場所でもあった。
そこで、途中で買った小さなパイを口にする。小さく、ぎゅっと美味しさの詰まったこのパイが、レイリアの大好物だった。さすが城下町にあるだけあって、値段はレイリアに優しいものではないので、この日の為に給金を節約していたりする。それだけに、幸せの味だ。
戻ってからも楽しめるように、二つ買うのがレイリアの決まりになっていた。
(うーん、美味しい!)
思わず頬が緩む。勝手に頷きながら食べる。
かさ、と肩越しに落ち葉を踏む音がして、レイリアは仰天して振り返った。
(ななななに!?人だったら今の見られてたら恥ずかしいんですけど!)
「……………!」
人、だった。驚いてこちらを見ている。レイリアもさらに驚いて凝視してしまう。
「……………ええと……」
相手はきまづそうに、でもまだ驚きながらも言葉を探しているようだ。
(な………)
レイリアの思考もひどく鈍い。いや、いつもそうだが、いつもよりかなり鈍い。
「……………その………」
あちらこちらに視線を泳がせながら、相手は少しレイリアに近付く。かなり困っているようだ。
(は………)
思考よりも先に、感情の動きが一気に活発になった。と同時に、相手も言うべき言葉を見つけたようだ。
「…その…盗み見ていたわけではありませんよ。…あまりに嬉しそうにしてらしたので…声を掛けづらくて…」
(恥ずかしい!すごく恥ずかしいーー!!)
レイリアは返事も出来ずに顔を逸らした。完全に油断していた。誰も来ないから。誰もいないから。いつもならーー。
「ええと…イルア様が先程貴女をお見かけして、衆目あるなかで、ろくに挨拶も出来ずに申し訳ない、と伝えてくるように仰せつかりました。」
「えっ!?」
恥ずかしさが一時、引っ込む。驚いてもう一度振り返ると、ヴィトはちょっと驚いた後、にこりと笑った。
「あれだけ囲まれていては、気軽に声をかけるのもはばかられますので…」
そう言われて、レイリアは嬉しくて胸がじんとした。後から思い返すと本当に自分勝手で一方的に思いを膨らませていたのだが、やっぱり憧れている人に気にかけて貰えた、という事は、かなり嬉しい事だった。もしかしたら、涙目になっているかも知れない。そう思って、レイリアは頭を下げた。心から嬉しいのを伝えるため。そして、泣きそうなのを隠すために…。
「あの…一度しかお会いしてないのに…私の事を覚えて気にかけて下さって……すごく嬉しいです!ありがとうございます…!」
そう言うと、嬉しさが滲んでくるようで、ますます頭を上げづらい。レイリアは少しの間頭を下げたままでいた。あまり長くそのままでいると、相手が気まずくなるかも知れないから、2、3秒で感情をこらえて頭を上げた。すると、ヴィトはやはり、少し戸惑っているようだった。
(ちょっと大げさだったかな…けど………)
やっぱり、とても嬉しい事だったのだ。だから、それだけは絶対に伝えておきたかった。若干申し訳ない気持ちでヴィトを見守っていると、ヴィトは少し悩んだあと、慎重に言葉を選びながら言った。
「レイリア様。イルア様は…お会いした回数や時間は気になさらないのです。貴方に好意があったからこそ、貴方を覚えていらっしゃったのです。ですから…あまり気負わなくとも大丈夫ですよ。」
そして、微笑んだ。
「とは言え、そのように思って頂いているのですから、イルア様もお喜びになると思います。私から伝えさせて頂きます。」
そうして丁寧にお辞儀をしてくれた。それを見るとまた感情がこみ上げてくるが、なんとか堪えて笑顔で返した。
「はい!よろしくお伝えください!」
ヴィトのようにきれいには出来ないが、精一杯丁寧にお辞儀して返した。レイリアにとってこの日は、思いがけず素晴らしい思い出の日となったのだった。
—翌日、レイリアは久しぶりに籠を持って店の花畑に向かった。昨日の嬉しさが一晩絶っても収まらず、うきうきしながら跳ねるようにして花畑の柵の扉を開け、近くに籠を置いた。晴天に白い雲が元気にたなびき、風も爽やかで心地良い。
「んー!良い日ー!」
思い切り伸びをして、大きく深呼吸する。そして、一つ一つ丁寧に花を摘み始めた。すると、奥の方で何かが動いた。
(えっ?)
綺麗な花に紛れるように、大きな獣が身を起こした。
「あっ」
柔らかい日が注ぐ花の中で、リュミエルが寝そべっていた。かなりリラックスしている様子から、ここにはもう何度か来ているのだろう。その様子が嬉しくて、レイリアは微笑んだ。
「リュミエルよね?ここ、気に入ったの?」
近づいたら逃げてしまうだろうか。そう思いながら慎重に近づくも、リュミエルは瞬きをして視線を逸らし、目を閉じて寝そべってしまう。長い尾が満足そうにゆらりと揺れた。それを見て、レイリアはリュミエルが少しも警戒していない事を知って、ほっとした。すぐ側へ行ってもちらりと視線を寄越すだけで、少しも嫌がる様子はない。
「また抜け出して来たんじゃないでしょうね?」
お邪魔するわね、と言ってレイリアはリュミエルの隣に腰を下ろした。
「…ねえ、触ってもいい?」
少しだけ手を出して、リュミエルの様子を見る。リュミエルは差し出された手をじっと見つめ、頬を差し出すように顔を逸らした。
「………触るよ?」
様子を見ながらそっとリュミエルの頬に手を触れる。ふわっと軽い感触がして、少し動かすと、かなり滑らかな毛質だという事がわかった。
「わぁ…!ふわふわ!するする!」
毛並みに沿って手を動かすと、リュミエルはさも気持ち良さそうに喉を鳴らした。
「気持ちいい?良かった…!」
喉を鳴らすリュミエルの横で、レイリアは一緒に喉を鳴らさんばかりの喜びようだった。こうして改めて間近にいると、やはりリュミエルが人に乱暴するような獣には思えない。レイリアが優しく首筋を撫でると、リュミエルはごろごろと喉を鳴らしながら擦り付けてきた。
「リュミエルって実は甘えん坊?お世話してくれる人にも優しくしてあげてね。」
そう言うと、まるで言葉が分かっているかのようにぱっと顔を上げ、非難するような視線を向けてくる。
「リュミエル…その人が苦手なの?」
思わずそう聞き返す。が、リュミエルはやはり分からないのか、再びレイリアの手に首筋を擦り付けて甘えた。
(………お世話してくれてる人と、あんまり相性良くないのかな…)
ぼんやりと思いを巡らせていると、リュミエルが急にさっと首をもたげた。
「どうしたの?」
きょろきょろと辺りを見回すが、レイリアには何も分からない。リュミエルはレイリアに視線を合わせると、何かを伝えているのか、ひゅっと尾を軽く振った。
「?」
わけも分からずリュミエルを見つめ返していると、聞き覚えのある声がリュミエルを呼んだ。
「リュミー?」
澄んだ声音が聞こえてくる。レイリアは思わず立ち上がった。イルアだ。間違いない。
「イルア様!こちらです!」
背の高い花に囲まれていて、立ったくらいでは見えづらいであろうから、レイリアは両手を高く上げて小さく飛び跳ねた。がさがさと音を立ててやってくると、イルアと共にセティエス、ヴィトの姿もあった。
「お久しぶりね、レイリア。昨日は挨拶出来ずにごめんなさい。」
イルアはふわりと笑って詫びた。それに対しレイリアはすっかり恐縮してしまい、慌てて頭を下げる。
「いえそんな!イルア様が私を覚えていて下さって、本当に嬉しかったです!」
微笑むイルアの後ろで、セティエスとヴィトが少し戸惑うような視線をレイリアの足下に送っているのに気づく。イルアもそれに気づいて二人と同じように視線が固定された。
(あ…リュミエル…)
レイリアも視線を移す。と、リュミエルはじっとレイリアを見つめていた。以前とは違い、イルア達が来ても逃げる素振りはなかった。
「あの…リュミエル、また抜け出したんですか?」
そう聞くと、三人は顔を見合わせた。そして、セティエスが困ったように話す。
「…リュミエルはいつからこちらに?」
「え?」
驚くレイリアに、セティエスはちらりとリュミエルに視線を落とす。
「とても寛いでいるようなので…あれ以来、何度が来ているのでしょう?」
そう言われて、レイリアは慌てて言い返した。
「あ、私も今来て…あんまりのんびりしてるので、何度か来てるのかなぁとは思いました…。」
言いながらしゃがんでリュミエルの首を撫でると、また気持ち良さそうに目を閉じ、喉を鳴らす。それを見て、三人はまたも目を見合わせた。
「ここが気に入ったみたいで、私が来た時にはもうこんな感じに寛いでたんです。近寄っても触っても怒らなかったので、こうやって撫でてみたんですけど……これも気持ち良いみたいですね。」
そう言って三人を見ると…イルアに向かって二人が頷いているところだった。
「あの……?」
(一体何……?こういうのって、あんまり良い予感しないよね…)
警戒心も露にそう訪ねると、イルアはにこりと微笑んだ。本当に愛らしい、天使のような笑顔だ。
(イルア様に限って、そんなわけないか)
簡単にほだされてしまうが、天使にならほだされたって構わない。
「ねえ、レイリア。ちょっとお願いがあるのだけれど…」
綺麗な人に、少しはにかんだようにこう言われてしまうと、なんだかどきどきしてしまう。
「イルア様が、私に頼み事…ですか?」
「ええ。そうなの。」
ふわり、と笑う。レイリアは完全にイルアに魅了されてしまった。
「お仕事がお休みの日にね、うちにリュミエルのお世話をしに来てくれないかしら。」
「はい、喜ん……」
大きく頷きかけて、レイリアは固まった。
「………え?」
顔を上げると、イルアは美しく微笑んでいる。その後ろでセティエスが微笑をたたえ、ヴィトは表情を変えずに見守っている。
「ええっ!?」
思わず大声を上げてしまうが、それを気に留める余裕がない。
「お願い出来ないかしら。ほら、リュミエルも貴女にとても懐いているようだし、たまに心を許せる人が会いに来てくれれば、この子も逃げ出す回数が減るんじゃないかと思うの。だから…ね?」
イルアは間違いなく確信犯だ。自分の笑顔が…いや、自分がとても魅力的だと知っている。そしてその使い方も知り尽くしているのだろう。
「いや…でも、その……」
迂闊に返事は出来ない。そう考えるレイリアの思考を遮り、イルアは自由を奪う。
「リュミエルがあんまり自由にしていると、じきに町から苦情がくるわ。それでも今の私たちではこの子を止められないし、という事は、いずれ危険だからと処分するようにお達しがあるかも知れないでしょう?それでは、あまりに可哀想だとは思わない?」
「それは……もちろんそんな事にはなって欲しくないですが…」
「でしょう?」
「で、でも!私が会いに行ったからといって、リュミエルが逃げ出さないと決まったわけではありませんよね?それなら、私が行く理由はないと思います。あの…こんな風に誘って頂いたのは本当に嬉しい事なんですが……」
粘るレイリアに、イルアは急に悲しそうに目を伏せる。
「そう………困ったわね。」
え、と目を見開いてしまう。急変した態度にとっさについていけない。
「実はね、ガイアスがもうお手上げだって言っているの。」
「……………え?」
ガイアスって誰だろう。そう思ったのが顔に出たのか、セティエスがさっと説明を入れてくれる。
「ガイアスはリュミエルの世話をしている男です。」
「あ……」
頷くレイリアをちらりと見て、イルアは話を続けた。
「うちには彼しか騎獣の世話と調教を出来る人がいなくてね。彼がリュミエルの面倒は見切れないって言い出したのよ。」
「なっ…」
(なんて無責任なの?)
今までの話で抱いてきた思いが、むくむくと大きくなり、レイリアは怒りを感じて拳を握りしめた。ガイアスだけではない。リュミエルの主でありながら、リュミエルを放棄しようとしているこの人達に。
「私では騎獣のお世話なんて出来ないし、セティエスは私の補佐をして貰わないといけないから私から離れては困るし、ヴィトは彼の仕事があるから、とてもリュミエルのお世話までは出来ないのよね………」
そう言って悲しげにするイルアを見て、レイリアは博愛精神に火がついた。
「皆さん、無責任です!」
叫んだ声に、三人は驚いて固まった。
「動物は生き物なんですよ!誰かに頂いたみたいですけど、そもそも受け取るべきじゃなかったんです!リュミエルがどんな生き物なのか、誰かきちんと調べたんですか?他にも飼われてるみたいですけど、リュミエルが加わってもきちんとお世話出来るのか、考えましたか?そういう事を理解しないで生き物を飼うのは、本当に無責任なんですよ!」
軽く息をつきつつ三人の反応を見ると、一様に唖然としている。
(まさかこんな事が理解出来ないの!?)
それでも、他にどう言っていいのか分からず、色々と言葉が浮かんでは消えていく。そうしているうちに、イルアが表情を崩した。
「ーーーごめんなさい。」
先程のような人を惑わす態度とは全く違っていた。イルアは肩を落とし、俯いて、小さくため息を零した。
「……少し、簡単に考えていたみたいね…。」
イルアがそう言うと、セティエスがくすりと笑った。
「お嬢様、レイリア様。どうかご安心下さい。」
「「え?」」
同時に聞き返すと、セティエスは苦笑しつつ答えた。
「お嬢様がリュミエルを頂く時は、リュミエルが増えても手が回るよう、私とガイアスで準備を行いました。シレイがどんなものなのかは、このヴィトが調べております。」
セティエスの視線を受けてヴィトが口を開く。
「シレイは気位が高く、己の主人は一人と決める。馴れ合いを嫌い、争いを好まず、温厚、寛容な性格だそうです。」
「……………」
あまりにもしっかりとした答えに、レイリアは驚き、熱くなった自分を少し恥じた。
(……それはそうだよね。しっかりしてそうなセティエス様が、生き物の扱いを知らないなんて事、あるわけないよね……)
今度はレイリアが小さくなる番だった。すっかりしょげかえって三人に頭を下げる。
「あの………すみませんでした!私、勝手に熱くなってしまって……皆さんを侮るような事を言って……」
三人はまた顔を見合わせ、笑った。頭を下げたままのレイリアに、イルアがそっと言葉をかける。
「気にする事ないわ。私の発言が軽卒だったのよ。不快な思いをさせて、ごめんなさい。本当に……」
それに被せるようにセティエスが口を挟む。
「お嬢様は貴女を取り込もうと、わざとあんな言い方をなさったのです。どうかお許しください。」
それを聞いてイルアがセティエスを睨んだ。
(わっ…お嬢様でも睨んだりするんだ……)
人として当たり前の行動だが、見た目がいかにも大人しそうであるだけに、睨む、という行為が似合わない気がする。
「取り込むだなんて、そんな言い方はないでしょう?」
「しかしお嬢様。少々強引なお話の進め方だと感じましたよ。」
「それは…その…」
レイリアは思わずじっと見入ってしまった。
(あのイルア様がたじたじになってる…!)
「レイリア様にとても好意をお持ちなのは分かりましたが、あれでは伝わらないでしょう。そんなに気負わず、もっと素直に頼んでみてはいかがですか?」
セティエスがふわりと笑む。
(……………!)
頬が熱くなった。それが分かったものの、それよりもいつもこんな笑顔を向けられているだろうイルアの反応が気になって、慌てて視線を向ける。と、イルアは照れるでも恥ずかしむわけでもなく、ただ、セティエスに笑顔を返していた。
「……そうね。こんな事って滅多にないことだから、なんだか落ち着かなくって浮かれてしまったわ。」
(………やっぱり、いつも間近であんな風に接していると、慣れちゃうものなのかな…)
「レイリア」
改めて名前を呼ばれ、レイリアははっと顔を上げた。イルアが少し照れくさそうにしている。
「さっきはごめんなさい。ちゃんとお願いするわ。理由もちゃんと言う。」
「あ……はい」
よく分からないままに、レイリアはしっかりとイルアの目を見つめた。
「うちに来て欲しいの。今の仕事が辞められないのなら、お休みの日にリュミエルのお世話だけでもしに来てくれないかしら?」
「………………」
つまり、さっきと言っている事は変わらないような気がする。
「本当にね、ガイアスはリュミエルの扱いに困っていて、今までの騎獣とは違うみたいなの。ガイアスのやり方では、リュミエルは私たちに心を開いてくれないわ。でも…」
イルアはとても真剣な目をしていた。少し、鋭い、と言えるかも知れない。
「リュミエルは貴女には心を開いているように見えるわ。」
言われてレイリアはリュミエルに視線を移す。リュミエルは伏せて上体を起こしたまま、じっとレイリアを見ていた。
(……リュミエル……まだ逃げてない…。この間はすぐに逃げていったのに…。もう人が近くにいても平気なのかな……)
「だからレイリア、他の誰でもなく、貴女にリュミエルのお世話をして欲しいの。もちろん、出来ればでいいのだけれど……」
(あ……)
今この瞬間、レイリアは悟った。
(イルア様は……ちゃんと考えていらっしゃったんだ…。)
リュミエル…シレイをちゃんと知る人物がいない事。リュミエルが逃げ出してしまう危険。リュミエルを、ちゃんと可愛がってくれている事。
(私、本当に失礼な事言っちゃったな……)
改めて罪悪感を感じると共に、リュミエルを本当に心配しているイルアに応えたいと思えた。
「あの…イルア様。私……本当に失礼な事を言って、すみませんでした。私…全然考えが足りなくて…本当に申し訳ないです。」
そう言って頭を下げた。イルアが何か言うよりも先に、レイリアは頭を上げて言葉を続ける。
「私もリュミエルの事が心配です。だから、出来る事はやってあげたいと思います。」
ぱっとイルアの顔が明るくなった。
「じゃあ……!」
「でも、待って下さい。お話が急で……すごく嬉しい事なんですが、今すぐには決められません。少しお時間を頂けませんか?」
気持ちだけで言えば、今すぐにでも『はい』と返事をしてリュミエルのお世話をしに行きたい。けれど、レイリアはもう子供ではないから、感情だけで事を決める事は避けなければいけないのだ。イルアは少しレイリアを見つめた後、小さく笑った。
「……そうね。考えてみて頂戴。一週間後に返事を聞きに来てもいいかしら?」
「はい。一週間後ですね。」
レイリアは力強く頷いた。本当に、イルアに応えたいと強く思う。
「場所はここでいいかしら?それとも、貴女の仕事場へ伺っても平気かしら。」
「あ…………」
店主であるおばさんに聞いてみた方がいいだろうか。
(でも……こことお店を行き来してる間、結構待たせちゃうし……)
「こちらでもいいですか?」
「ええ、構わないわ。…それじゃあ一週間後に、またここへ来るわね。」
「はい。……すみません、お手数おかけして…」
「レイリアったら」
イルアはくすくすと笑う。その仕草が愛らしいことこの上ない。
「謝ってばかりじゃないの。こちらがお願いしているのだから、貴女が謝る事は何もないわよ。」
(イルア様って…やっぱり気さくで、優しい方…)
「はい……ありがとうございます。」
自然と笑顔になって、イルアも笑顔で頷いた。
翌日、レイリアは店主であるおばさんと、先輩である同僚に、イルア様に騎獣のお世話をして欲しいと言われた。そう、簡潔に話した。
「イルア様って、あの、イルア=バルクス様!?」
おばさんがかなりびっくりしているが、『あの』と付けられても、そう言えばイルアの本名を知らないレイリアには、どのイルアなのか断言出来る筈もない。困っていると、先輩が助け舟を出してくれた。
「従者の方にも会ったの?」
「あ、はい。セティエス様とヴィト様です。」
ヴィトに様を付けるかさんを付けるか悩んだが、様にしておけば問題はないだろう、とレイリアは考えた。
「それはまさしくバルクス家のイルア様だね…」
おばさんは少し呆れたような口調でそう言って頷いた。
(バルクス家……って…?)
「有名な家柄なんですか?」
興味津々でそう聞くと、おばさんと先輩は顔を見合わせてため息をついた。
「…全く……あんた、少しは社会に興味を持ちな。」
「ほんとに。それにただ有名なだけじゃなくて、街じゃあ人気者なのよ?イルア様もそうだけど、セティエス様も大人気。お二人とも絵に描いたような美貌と気品の持ち主なんだから。」
「あ……それは分かるかも。この間街へ行った時に、お二人の人気ぶりは見ました!」
途端にはしゃぎだしそうな娘二人に、おばさんは少し強めに言った。
「それでね!」
「「あ、はい…」」
「バルクス家っていうのは、古くからある名家なの。身分が高いにも関わらず、昔から庶民に優しく、思いやって下さるお家なんだよ。代々の当主様も皆気さくな方々でね。孤児院に寄付して下さるし、凶作の年は農作業を手伝って下さったりね。…『あるもの』をばらまくんじゃなく、私たちの力を蓄える手伝いをして下さるんだよ。」
「へえ……」
イルア様なら、そういう事を本気でやってくれそうだ。レイリアは深く納得した。
「で?」
おばさんは少し睨むように私にそう言った。
「申し出を受けるのかい?」
「あ………」
思わず押し黙ってしまうと、先輩がそっと肩に手を置いた。
「…あんた、花とか動物とか好きだもんね。騎獣のお世話だなんて、憧れなんじゃないの?」
「それは……確かに、あの子のお世話が出来るなんて、かなり魅惑的です。」
それでも悩んでしまうのは、やっぱり身分の違う世界で、いくらリュミエルのお世話だけ(多分)をしていればいいとしても、うまくやっていける自信はないからだ。そんなレイリアに、おばさんは優しく微笑みかけた。
「……自分には何も出来ないと思ってる?」
「え?」
「自信があるのは花の収穫だけ?街への買い出しだけ?」
「……………」
その通りだった。他は全て人に劣ると、自分で言える。先輩のようにてきぱき動けないし、おばさんのように対応がうまく出来るわけでもない。何をしても、人より『少し遅い』『少し鈍い』『少しとろい』。そんな自分が唯一自信…というか人より強いと思うのは、動植物との共存を楽しむ事だ。
(けど、そんなのは…)
考えていたら落ち込んできた私に、おばさんと先輩は言った。
「お受けしたら?思い切ってさ。」
「そうよ。何事もやってみれば良い経験になるわ。もしついていけなかったら、またこのお店に戻ってくればいいじゃない。ね、おばさん」
「その通りだよ。経験するには勇気の要る事だけど、ここはこの子がいれば大丈夫だから、安心して行って、もう無理だと思ったら戻っておいで。」
そういって笑う二人の顔を見て、レイリアは胸が熱くなって涙が溢れてきた。
「なんで泣くんだい?」
「まったくもう……」
先輩は可笑しそうに笑う。
「なんだか嫁入りみたいですよね?」
「ほんとだねぇ」
二人に笑われ、いっそう涙が溢れて止まらなかった。自分でもよく分からないけれど、こんなに涙が出るのは多分、不安と、心細さと、それを覆い隠してしまうくらいの、大きな感動のせいだろう。
(私……すごく幸せな場所にいたんだ……)
そう感じられて、すごく幸せな気分に包まれたのだった。
レイリアの自信の無さは、ちょっと昔の作者の心情です。