第十四話 移りゆく季節
ヴィトはかなり抑えてたと思うわ、とイルアが言った。
起きたらきっと落ち込んでるから、あんまり怒らないであげてね。とも。
(びっくりしたけど・・・種族の特徴なら、怒る事じゃないよね)
気まずさはあるかも知れないが。
(よし!)
レイリアは気合いを入れて部屋を出た。
目指すは台所だ。
「ヴィト、おはよう」
行ってみれば、一見いつもと変わらない様子でヴィトが朝食の用意をしていた。しかし声をかけると、びくりと肩を震わせた。振り返った顔は、強ばっている。
「・・・おはよう」
(ヴィト・・・かなり気にしてるんだ・・・)
レイリアはいつも通り横に立って用意を手伝う。と、ヴィトが手を止めてこちらを伺い見た。気付きつつも、レイリアは気付かない振りをする。
「・・・レリィ・・・」
呼び声が弱々しくて、思わずヴィトを見た。いつも穏やかな目が、揺れている。
「・・・ごめん。」
短い一言。それだけ言うのが精一杯のようだった。
(ヴィト・・・)
レイリアは出来るだけ明るく笑った。
「ヴィトがすごーく反省してるなら、許してあげる。」
「・・・・・・」
意外だったのか、ヴィトは目を丸くして瞬きした。なかなか言葉が出て来ないらしい。
それが面白くて自然と笑ってしまった。
「どう?」
笑いながらそう訊ねると、少し間を置いてからヴィトが笑った。いつもの、優しい笑み。自分で笑いかけておきながら、レイリアはちょっとどきりとしてしまった。
「うん、反省してる。・・・ごめん。」
頭を下げられて慌てた。
「あの、ヴィト・・・」
その肩に手を置こうとした瞬間、ぱっと顔を上げてヴィトが笑った。びっくりして手を引っ込める。
「これで、許してくれる?」
「・・・・・・」
今度はレイリアが瞬く番だった。ぷっ、と二人で吹き出す。
「ヴィト・・・うん、許してあげる。」
「良かった。」
くすくすと笑い合って、二人はいつものように朝食の準備を再開した。
朝食を食べてすぐ、レイリア達は初めて五人揃って登城する事になった。昨夜の事を報告する為だ。
「私も行く必要があるんですか?」
と聞いてみると、
「んー、一応ね。」
とイルアに言われたのでついて行く。
「報告だけなら俺もヴィトも必要ないだろ。」
と“行きたくない”オーラいっぱいのガイアスが言うと、
「ガイアスはガディスをつれて行くのよ。エルフィア様が見たいっておっしゃってるから。」
「あの女・・・!」
と言い渡されていた。
そんなわけで、五人で馬車へ乗り込む。大きな馬車が屋敷の門前へやってきた時は、レイリアは何故か逃げたい気分に襲われた。
「大きな馬車ですね・・・」
言いながら、大きな窓から外を眺める。冬を呼び込む風が、木の葉を揺らしていた。
「自前で行きますって言ったのだけどね。“表向きは擁護院の報告だから、王城から迎えに行くのが良いだろう”ですって。」
「自前って・・・」
イルアの台詞にヴィトが苦笑した。
「お嬢様。もう少し言葉には気を配って頂きませんと・・・」
セティエスも諌めるが、イルアは軽く肩をすくめただけだった。
「そう言えば・・・」
きちんと椅子へ座り直し、レイリアはイルアへ向き直った。イルアの隣にはセティエスが。イルアの正面にはガイアスが座り、ヴィト、レイリアと並んでいる。
「イルア様。レーヴェの事を知っているのは、王族とバルクス家の人だけなんですよね?」
改めてそう訊ねるレイリアに、イルアはしっかりと頷いた。
「そうよ。」
「それなら・・・ルセ様は、王族の方なんですか?」
「・・・・・・」
にっこりと微笑んだまま、イルアは固まった。
(あれ・・・?)
何かおかしな事を聞いてしまったかと、レイリアは首を傾げた。
「あの・・・?」
「・・・・・・そうね。」
(?)
返事の意味がよく分からず、反対側へ首を傾げた。それに密かにヴィトとセティエスが笑う。
「ルセ様ね・・・」
イルアは細い顎に指をあて、しばし考えた後に首を振った。
「本人に聞いてみるといいわよ。」
「・・・ご本人に、ですか?」
「ええ。答えてくれると思うわ。」
「・・・分かりました。聞いてみます。」
ちょっとだけ不思議に思いながらも、レイリアは素直に頷いた。
王城について、レイリアはセティエスとヴィトを伴って国王陛下へ報告に向かった。ガイアスは裏庭でガディスの面倒を見なければならないので、さっさと裏庭へ向かう。ガディスは本当にガイアスにだけは懐いているようで、暴れる事もなく、大人しくついて行った。
「あの、イルア様。私はどうしたらいいでしょうか?」
「んー、そうねぇ・・・特にどうするように、とは言われていないから、好きな事をしていていいのだけれど・・・」
(う、そう言われても困るなぁ・・・)
そう思ったのが顔に出たのか、イルアはくすりと笑った。
「そうね。中庭へ行ってみたらどう?とても美しく整えられているわよ。」
「中庭・・・私が行ってもいいんですか?」
「ええ、大丈夫よ。もし誰かに声をかけられたら、家名を出せばいいわ。」
「はい!」
(中庭かぁ・・・!)
ちょっと胸躍らせながら、レイリアは主人達を見送ってから、その中庭へと向かう。
そう言えば、以前リュミエルと一緒に来たときは、あまりに緊張して周りを見回す余裕がなかった。しかし今日は、皆と一緒に来たせいか、緊張は少ししかしていなかった。
うきうきしながらイルアに教えてもらった道を進んで行くと、大きな廊下で足を止めてしまった。
「・・・こっちで良かったっけ・・・?」
きょろきょろと辺りを見回す。ちゃんと教えられた通りに進んできたつもりだが、似た様な廊下を通るうちに、どこかで間違ってしまったような気もする。
「あれー・・・どうしよう・・・」
見回しても正確な道が分かる筈もなく、困るばかりだ。じぃっと辺りを見渡していると、奥の方に色とりどりの色彩が見えた。
「あ!あれが中庭かな?」
そう思ったら、走り出していた。
一方—。
イルアとセティエス、そしてヴィトの三人は、国王の元にいた。とは言っても謁見の間ではなく、国王の執務室だ。部屋は人払いがされており、その扉の外にも人はおらず、部屋へ通じる通路の外に、ようやく兵が立っている状態だった。
「して、今回の件はどうであった?」
執務の手を休めて国王はイルアに訊ねた。イルアは僅かに笑って答える。
「・・・精鋭二十三名は、もはや正気に戻す事敵わずと判断しましたので、斬り伏せました。」
「・・・そうか。」
小さく息を吐いて、国王は肩を落とした。
「第一軍、ザクラス将軍ですが・・・貴方への殺意をはっきりと語りました。」
「・・・そうか。」
今度は額に手を当てた。
「わたくしの密事も包み隠さず知られてしまいましたので、“蜜”にて処分致しました。」
「・・・・・・」
しばらくの沈黙の後、国王は深く長い溜息を吐いた。そして、少し笑う。
「“包み隠さず”というのは言い過ぎではないか?」
くすり、とイルアも笑う。けれどそれは、嬉しそうでも、楽しそうでもない、寂しい笑みだった。
「ええ、少し。ちょっとだけ、レーヴェの仕組みを教えてさしあげました。」
「・・・イルア・・・」
咎める様な口調に、イルアは困った様な笑みを浮かべた。
「どうしてかは分かりませんが・・・ザクラス様は歌姫に異常に執着しておりました。そして、その為に貴方にまでも強い殺意を抱いておりました。ですから・・・例え説得出来たとしても、いつまた殺意が強くなってもおかしくはない。そう思ったのです。」
「・・・・・・そうか・・・」
苦笑して、国王は改めて訊ねた。
「して、ザクラスはどのような最後であったか。」
「・・・蜜に酔っておりましたから・・・幸福な気持ちで、逝かれたと思います。」
「・・・そうか。すまなかったな、イルア・・・」
事のきっかけは、レーヴェの存在を漏らした、国王の失態だ。
「・・・頼りにして頂けるのは、嬉しい事ですわ。」
寂しげに頷いて、国王はしばし沈黙した。
そして、大きなため息を吐いてから話題を変えた。
「して、イルア。婿探しはしておるのか?」
問われた話題に、イルアは笑ってごまかした。
「あら陛下。わたくし、まだまだそういう事に興味は持てないのですが・・・」
「何を言っておるか。その歳で浮ついた話の一つもないというのが、真に不自然だぞ。」
「まあ・・・“恋をしないなんて人間ではない”とでも仰るおつもりですか?」
ひらりふわりと避けようとするイルアの様子に、国王も苦笑せざるをえない。
「イルア・・・。お前の立場は分かっておるだろう。お前が死ぬまで決められぬというのなら、私が決める他なくなるのだぞ。」
「陛下・・・」
本当に困って、イルアは縋るように国王を見つめた。
「・・・そなたは人だ。イルア。何があろうと、それは変わらぬ。」
「・・・・・・」
「人ならば恋もしよう。お前が惹かれる男が、必ず現れよう。」
切々と連ねられる言葉に、イルアも思わず俯いてしまった。王は優しい。まだ幼い頃から面識があったせいだろうか。イルアの事を娘のように案じてくれている。
「出来るなら、お前がこれと決めた男を婿に迎えるが良い。それが最良だと、私は考えている。」
「・・・ありがたきお言葉、痛み入ります。陛下。」
心の震えを抑えて頭を下げるイルアを見て、国王は目元を緩めた。
「・・・残念な事だ。そなたがレーヴェでさえなければ、あれの嫁に迎えたものを。」
「まあ、陛下!」
これにはイルアも、思わず笑ってしまった。
「それなら、お早く花嫁を探すよう、殿下にお言い付けなされませ。このイルアも気立ての良さそうな娘を捜しましょう。」
調子よく言い終えたイルアに、国王は大きな声で笑った。
「全く!そなたの心配をしておるのだぞ、イルア!」
イルアが国王とそんなやり取りをしている頃。
レイリアは無事、中庭に辿り着いていた。
「わあ、きれい・・・!」
中庭は、素晴らしく整えられていた。樹木の位置。芝の具合。花の色。量。景色。香り。全てが整えられていれ、それなのに人工的な無機質さが一切感じられなかった。
「人の手でこんな風に造れるものなのね・・・」
きょろきょろと見渡しながら歩いていると、茂みの影から声がかけられた。
「・・・ひょっとして、イルアの使用人?」
「きゃっ」
びっくりして飛び退くと、茂みの一つから印象的な顔が覗いていた。
「やっぱり。シレイの主人だね。」
「あっ・・・ルわっ」
名前を言おうとした途端、レイリアは茂みに引っ張り込まれた。転ぶように地面に手を着くと、ユーセウスが笑っているのが目に入った。低い樹木の、赤と黄色に染まった葉が、ふわりと舞ってユーセウスを彩る。
ユーセウスは、もう片方の手で自分の口元に人差し指を当て、声を出さないようにと訴えてきた。理由は分からないが、穏やかな笑顔から、きっとこの時間を邪魔されたくないのだろうと思って頷いた。
ユーセウスは掴んでいた腕を放し、小さな声で囁いた。
「名前、なんだっけ?」
答えてレイリアも小声で囁く。ついでに一緒になって茂みに身を潜めた。促されてユーセウスの隣に座る。
「レイリアです。」
「ああ、そうか。レイリア・・・ね。」
レイリア、ともう一度呟いて、ユーセウスは笑った。
「今日は全員で来たんだっけ?」
「・・・はい・・・そうです。」
ちょっと警戒したのを悟ったのか、苦笑する。
「そう警戒しなくてもいいよ。バルクス家の事は知ってるから。」
(・・・やっぱりルセ様は関係者なのね・・・)
そう思ってレイリアは、思い切って聞いてみた。
「あの、ルセ様はどういった方なんですか?」
「・・・ん?」
絶対に質問の意図を分かっているのに、ユーセウスは穏やかに微笑んだ。
「その・・・やっぱり、王族の方なんですか?」
(でもこんなに若い方が・・・?)
そう考えて、はっとした。
「まさか・・・」
「親戚だよ。」
「・・・え?」
思ったものとは違う答えに、レイリアは驚いて言葉を失ってしまった。
「イルアの祖母の姉が、僕の祖母なんだ。」
「・・・え・・・あ・・・そう、なんですか・・・」
なんだか拍子抜けしてしまった。だって。ひょっとして王子殿下なのかと思ってしまったから。
そんなレイリアの表情を見て、ユーセウスは楽しそうに笑った。
「期待外れだったみたいだね?」
「い、いえ!そんな・・・」
「しっ」
口元に指を当て、顔を寄せられる。
「声、大きくならないようにね。」
「あっ・・・は、はい・・・」
その様を、くすり、と笑われる。
「レイリアは隠し事が出来そうにないね。」
「うっ・・・はい。苦手です・・・」
ズバリ言い当てられて恥ずかしくなる。ユーセウスはそんなレイリアを面白そうに笑った後、ふと思い出したように訊ねた。
「イルアはどうだった?」
「え?」
「昨日の夜。」
「あ・・・」
“仕事”の事を言っているのだと、僅かに緊張した。
「・・・・・・」
何をどう伝えたらいいのか分からず、レイリアは口を噤んだ。ユーセウスはそんなレイリアから言葉が出るのを、じっと待った。
「・・・・・・笑顔で、帰って来られて。・・・すぐに眠ってしまわれました。」
それだけ言って、笑った。ユーセウスはそれを、眩しそうに眺めて目を細めた。
「・・・そうか。」
「・・・はい。」
小さく笑って、ユーセウスは空を仰ぐ。つられてレイリアも空を仰いだ。
「イルアは君がいたから、笑って帰れたんだろうな。」
「え?」
思わぬ言葉に、空からユーセウスへ視線を移すと、ユーセウスはこちらをしっかりと見ていた。
「違うの?」
「えっ・・・と・・・」
違うの?と聞かれても、笑顔で帰れた理由が自分にあるのかどうか、レイリアはさっぱり分からない。無事に帰った理由なら、大きく頷く事が出来ただろう。だって、約束、したのだから。
「・・・その・・・無事に帰る、というお約束はして頂きました。」
真剣に考えてそう答えると、ユーセウスは楽しそうに笑った。
「そっか。そんな約束したんだね。」
「はい。」
約束した嬉しさを思い出して、レイリアは大きく頷いた。嬉しそうに笑うレイリアにつられて笑って、しばらくしてから、ユーセウスはとんでもない事をさらりと言ってのけた。
「ねえレイリア。僕のお嫁さんにならない?」
「は・・・・え?」
はい、と勢いで言わなくて良かったと、レイリアは初めて自分を褒めた。
「あの、今・・・」
動揺するレイリアをよそに、ユーセウスはもう一度さらりと言った。
「うん。お嫁さんにならない?」
「・・・・・・えぇむっ!?」
叫びそうなレイリアの口をさっと塞いで、ユーセウスは周りを見回した。
「駄目だよ。静かにね。」
「むぅ」
変わらない穏やかな口調をすごいと思いつつ、レイリアは突然の申し出に頭が混乱した。
「あ、あの、えっと・・・えっとですね・・・」
混乱しつつも落ち着いて考えようとするレイリアを見ながら、ユーセウスは楽しそうに笑う。
「うん。」
「あの・・・その・・・」
「うん。」
「ええと・・・」
「うん。」
くすくす笑いながら見守られる。それがいたたまれなくて、レイリアは大きな声にならないように頑張って、でも、はっきりと言った。
「イルア様の方が相応しいと思います!」
「・・・・・・・・・」
レイリアが大きな声になるかも知れないと警戒したのか、ユーセウスの手がすぐそこにあった。その姿勢のまま、ユーセウスは数秒固まった。
「「・・・・・・」」
そして。
「くっ・・・」
静かに、声を抑えて笑い始めた。
「くくくっ・・・!」
可笑しそうに笑うユーセウスを見て、レイリアはわけが分からず首を傾げた。
「面白いね・・・!そこでイルアを僕に勧めるんだ?」
「・・・・・・」
困ってしまって言葉が浮かばない。するとユーセウスは笑いを収めながら言った。
「・・・イルアと僕は駄目だよ。」
「え?」
「だってさ、イルアがお嫁に来てごらんよ。一日中イルアのペースに掻き回されるに違いないよ。ついでによく口も回るしね。僕が仕事を出来なくなるから、絶対に良くない。」
「・・・・・・」
(イルア様・・・確かにセティエス様も困ってる事が多いかもなぁ・・・)
「それに・・・イルアはイルアの仕事があるからね。そういう意味でも、ちょっと無理かなぁ・・・。」
苦笑してそう言うユーセウスに、思わずレイリアも苦笑していた。
「まあ、僕もそろそろそういう話を勧められるからね・・・上手くごまかさないとな。」
どこか遠くを見つめて言う。その表情を見て、レイリアは首を傾げた。
「・・・ルセ様は、結婚はお嫌なんですか?」
ユーセウスはレイリアに視線を戻し、苦笑した。
「うーん・・・嫌ではないよ。ただ、相手は慎重に選ばないといけないから。・・・それが少し、大変だなと思って。」
「・・・そう、なんですか・・・」
真剣に話しを聞いて、よく分からないながらも頷くレイリアの横顔を、ユーセウスは、静かに見つめていた。
イルアと国王、レイリアとユーセウスがそんな会話をしている頃。ガイアスはエルフィアを迎えていた。
「久しいな、ガイアス!」
「ああ、久しぶりだな。」
軽く挨拶を交わして、二人はガディスの側へ立った。飛びかかれる距離にエルフィアが寄っても、ガディスはエルフィアを一瞥しただけでそっぽを向いた。
「うむ。やはり良い騎獣だな。」
「そうか?まあ、攻撃に関しては良いがな。」
「お前が育てると戦闘に特化した騎獣になるのは、相変わらずと見える。」
「・・・そうかもな。」
ガイアスは昔、第一軍にいた。エルフィアはその頃を知っているから、ガイアスが変わらない事が、なんだか可笑しく思えた。
「イルアの元はどうだ。満足しているか?」
「・・・まあ、な。」
ガイアスは苦笑した。
「ガキみたいで困る事はあるが。」
「イルアが?それとも、お前が?」
途端にきつく睨まれた。
「お前な。そもそも俺をここへ呼びつけるとは良い度胸だな。」
「なんだ。さっきまで怒っていなかったじゃないか。」
わざとそう言ってのけると、ガイアスは深いため息を零した。
「・・・てめぇが一番ガキかもな。」
「それは、褒めているのだろうな?」
「けなしてんだよ。」
こんな軽口を叩き合うのも、本当に久しぶりだとガイアスは思った。そんな時間が懐かしく思えるが、焦がれる程の思いではなく。やはり、過去は過去でしかないのだと、やけに強くそう思うのだ。
「後悔していないか?」
「何?」
「軍を抜けた事だ。」
エルフィアにそう訊かれても、気持ちは穏やかだった。
「するわけがない。」
ガイアスは大人しく伏せているガディスの鼻先を撫でた。ちょっとだけ目を開けてガイアスを見上げたが、すぐに目を細めてじっとしていた。
「兵ではなくなった。剣を捨てずに済んだ。・・・良かったと思っている。家名を捨てて。」
そんなガイアスを、エルフィアは少しだけ寂しく思いながら眺めた。
「・・・なら、良かったよ。」
(お前を送り出して・・・)
エルフィアは別れを告げて、ガイアスの元を後にした。
国王の執務室を後にしたイルア、セティエス、ヴィトの三人は、ガイアス、レイリアと合流しようと、イルアとセティエスは裏庭へ。ヴィトは中庭へと別れた。
「さあ、じゃあガイアスのところへ行きましょう。」
「はい、お嬢様。」
快く返事をしてイルアの少し後ろを歩いていると、前方から見知った人物が歩いてきて、二人とも思わず足を止めた。
「フィセイラ閣下、ご無沙汰しております。」
イルアは通路の端へ下がってから、やってきた人物に礼をした。相手は、その息子とよく似た、柔らかな笑みを浮かべて応えた。
「これはイルア嬢。息災なようで何より。」
そうして移した視線の先では、セティエスが軽く頭を下げた。
「ご無沙汰しております、父上。」
「お前も健康そうで何よりだ。セティエス。」
セティエスの父—この国の宰相閣下は、息子に目に留めて優しく微笑んだ。
「なかなかセティエスに時間をやれなくて・・・申し訳ございません、閣下。」
「なに、頼りになっているようで良い。これも嬉しい事だ。」
「お時間を頂けるようでしたら、少しお話でもされてはいかがですか?」
そう提案すると、セティエスが少し慌てて声を上げた。
「お嬢様。お一人で行動されるおつもりですか?」
「あら、セティ。私も子供じゃないのよ?ガイアスの所へ行くだけじゃないの。」
「それはそうですが・・・」
渋るセティエスに、宰相はくすりと笑った。本当にこの父子はよく似ている。
「イルア嬢がこう言って下さっているのだ。ありがたく、語らうとしよう。」
「父上・・・分かりました。なるべくすぐにお迎えに上がりますので。」
「分かっているわ。・・・それでは閣下。わたくしはこれにて失礼致します。」
「ああ。心遣い、感謝する。」
「いいえ。それでは。」
イルアは優美に礼をして、その場を後にして行ってしまった。
その背を見送りながら、宰相は息子へ笑いかけた。
「良いお嬢さんだな、イルア嬢は。」
「ええ。良い主人です。・・・少しお転婆ですが。」
くすりと笑いながらそう答えると、宰相は少し声量を落として訊いてきた。
「お前、イルア嬢の婿になる気はないのか?」
「!・・・またそのお話ですか。私とお嬢様はそういった関係にはならないでしょうと、申し上げていますのに・・・。」
辟易して溜息を吐くセティエスに、宰相はくすくす笑った。
「なに、あんなに素敵なお嬢さんなのだ。お前が心変わりしないとは言い切れまい?」
「父上・・・。仮にそうなったとしても、従者と主人では醜聞でしょう?」
そう言うと、宰相はにやりと笑った。そんな表情も魅惑的に見えるのが、この父子の羨ましいところだ。
「私は構わぬぞ。例えどうなろうとも、お前の価値が揺るぐわけではないからな。」
「・・・そういうお言葉は、親ばかというのですが・・・ご存知でしたか?」
くすぐったい気分でそう言うと、宰相は楽しそうに笑った。
「良い事ではないか。そう言えば新しく使用人を迎えたようだが、それも若い娘さんだそうだな。その子はどうなのだ?」
「父上・・・季節が季節ですので、そういう話題をされるのは分かるのですが・・・」
「分かっているなら、お前も考えると良い。子を望むなら若いうちが良いぞ。」
「父上!」
「冬が明ければ祝福の季節だ。伴侶を見つけるまで毎年こういう話があるだろうよ。」
「・・・勘弁して下さいませんか・・・」
セティエスは力無く肩を落としたのだった。
イルアはセティエスと別れて、早足に裏庭へと進む。きっとエルフィアがガイアスの所を訊ねているだろう。一目でいいから、様子を見ておきたかった。
(ザクラス様を慕っていらしたから・・・気を落としていらっしゃるんじゃないかしら・・・)
それだけが、気がかりだった。
仕事とは言え、やっているのは暗殺だ。理由を明かす訳にはいかないし、嘘も言わなければならない。それが何年やっていても苦しいのは、もう、仕方のない事だけれど。
「エルフィア様!」
向かう先に探していた人を見つけて、イルアは笑顔で走り寄った。エルフィアは、僅かに動揺したようだった。
「・・・イルア。ガイアスには無理を言ってすまなかったな。」
「いいえ。ガディスを外へ出す機会はあまりありませんので、気分転換になったのではないでしょうか。」
「そうか・・・なら、いいのだが・・・」
じくり、と胸が痛む。この人が落ち込んでいる原因など、分かっているのに。
「どうかなさいましたか?」
「え?」
「・・・少し気を落としていらっしゃるように見えましたので・・・」
何も知らない様子で分かりきった事を訊くのは、いつだって心が痛い。
「・・・そのうち貴女にも分かる事だから、今言ってしまうが・・・他言無用に頼む。」
「・・・はい。」
イルアはじっとエルフィアを見つめた。声を潜め、エルフィアはそっと囁いた。
「実は昨夜・・・いや、早朝か。将軍が自害された。」
「・・・・・・え?」
殺したのは、私。
「それも、精鋭部隊を皆殺しにしてからだ。」
目を伏せるエルフィアは、深い悲しみに囚われている。
「何故こんな事になったのか分からない。最近将軍の様子がおかしいとは思っていた。だが・・・何故自害するに至ったのだろうか・・・」
「エルフィア様・・・」
精鋭部隊を皆殺しにしたのも、将軍ではない。
「・・・この事は城内で処理し、隊員の身内には別の話を用意する、という事だ。」
「・・・そうですか・・・。」
堪らず目を伏せたイルアを見て、エルフィアはそっと言い足した。
「ガイアスに、言えなくてな。」
見上げたエルフィアは、苦しげに微笑んでいた。
「あいつも元一軍で、将軍に剣を教わった一人だったから・・・苦しいだろうと思うと、な。」
「・・・・・・」
ごめんなさい。もっと苦しい思いをしている筈。
「すまないが・・・訊かれる事があれば、イルアから伝えてくれないか・・・?」
縋る様な視線は、普段は絶対に見せないものだ。それだけ、エルフィアが受けた心の傷が大きいのだろう。
「・・・ええ。わたくしから伝えます。」
「・・・ありがとう、すまない。」
ごめんなさい。嘘ばかりで。
けれど絶対に言えない言葉。
(ごめんなさい・・・)
「お気になさらず。・・・エルフィア様、ご無理はなさらないで下さいね。」
「ああ・・・私が倒れるわけにはいかぬからな。」
そう言ったエルフィアの表情はもう、兵を束ねる者の顔で。
(ああ・・・お強い方で良かった・・・)
イルアは泣きそうなくらい、安堵したのだった。
レイリアとユーセウスは、他愛ない話をして時間を過ごした。とても穏やかな時間だった。
「ガイアスの話は聞いてるよ。軍にいた頃はかなり有望視されていて、確か副将に推薦されていたんだ。」
「へえ・・・そうなんですか。なんだか強そうだなぁ、とは思ってたんですけど・・・」
「けど、戦場で親友が命を落として、それからすぐに軍を辞めたと聞いてる。」
「・・・そうだったんだ・・・」
レイリアはガイアスを思い浮かべて、なんだか切なくなった。
(あのガイアスが・・・そんな経緯でイルア様のところにいるんだ・・・)
「レイリアから見て、ガイアスはどう?」
訊かれて、レイリアは思わず素直に答えてしまった。
「うーん、怖いです。すぐ睨むし・・・ガディスにちょっと似てるかも・・・」
ぷっ、とユーセウスは吹き出した。堪えてはいるものの、辛そうだ。
「怖いんだ?ガディスって・・・シューグだよね?くくくっ・・・」
肩を震わすユーセウスを見て、レイリアも笑ってしまった。
「だって、不機嫌そうにしてる事が多いんですよ?それに、ヴィトと一緒に特訓してくれるんですけど、すっごく厳しくて。倒れるまで走らされる事、結構あるんです。」
「・・・愛だね!」
声を抑えつつも、そう言ってユーセウスは笑う。
「あ、愛!?」
「しーっ」
「むぐ」
慌てて口を塞いだのだが、慌てすぎて、押し倒しかけた。
レイリアは両手を後ろへ着いて倒れるのを免れた。が、それに覆い被さるようにユーセウスが重なる。
「「!」」
思わぬタイミングでお互いが間近に迫り、双方、動きが取れない。
「「・・・・・・」」
するり、と口元をユーセウスの手が滑って、指先が触れていった。そんな状況が現実的には思えなくて、レイリアはただただ、目の前のユーセウスを見ていた。
そのうち、ユーセウスが微笑んだ。その笑顔を、なんだか温かい気持ちでレイリアは見ていた。
「・・・レイリア。お嫁さんが無理なら、せめて婚約はどう?」
(無理です!)
と叫ぶには距離が近過ぎて。こくりと息を呑み込んでから、吐息と一緒に言葉を零した。
「あ、の・・・私・・・そういうの、は・・・」
蚊の鳴くような声を絞り出すレイリアを見て、ユーセウスは楽しそうに笑った。
「ル、ルセ様・・・」
困り果てて名前を呼ぶと、ユーセウスは僅かに顔を寄せてきた。
(なっ、なに?)
途端に昨夜のヴィトを思い出して、再び逃げなければと思った。が、ヴィトの時より逃げ易い筈なのに、ユーセウスの深く青い瞳に魅入られて、頭が働かない。
「・・・・・・」
再び動けなくなった。——が。
「レリィ?」
近くで聞き慣れた声がして、二人してびくりと飛び上がった。ユーセウスが身を起こしてレイリアの手を取ったところで、茂みが揺れてヴィトが現れた。ヴィトは、二人を見て瞬いた。
「・・・レリィ」
すぐにレイリアに手を差し伸べて立たせる。ユーセウスも一緒に立ち上がる。ヴィトは、ユーセウスに鋭い視線を向けて言った。
「失礼ですが、この子に何か御用でしょうか?」
(ヴィト・・・何か、怒ってる・・・?)
ヴィトに睨まれて、ユーセウスは苦笑した。
「少し話してただけだよ。ね?」
「はい。」
躊躇いなく頷くレイリアに少しだけ警戒を解いたものの、ヴィトは尚もユーセウスを威嚇していた。そこへ、明るい声がかけられた。
「ユーセウス様!お探ししましたよ!」
「ユーセウス様・・・?」
呟いたヴィトは、驚いてユーセウスを見た。
がさりと茂みを揺らして現れたのは、いかにも天真爛漫といった風の青年だった。薄茶の髪と濃い茶の瞳が、青年の雰囲気をさらに明るくしていた。
「執務がまだ残ってるじゃないですか!休むのは片付けてからにして下さい!」
「見つかったか・・・」
見るからに怒っている青年を見て、ユーセウスは可笑しそうに笑った。そんなユーセウスに対し、ヴィトが態度を一変させて跪いた。
「失礼致しました。ユーセウス殿下。」
「なんですか。何があったんですか?殿下!」
二人に言われて、ユーセウスは残念そうに溜息を零した。
「・・・言っちゃったね。二人とも。」
(・・・殿下・・・?)
ユーセウスがレイリアの反応を見ている。
(・・・殿下・・・って・・・あの、殿下、だよね・・・?)
「さあさあ、用事がお済みでしたら執務を再開して下さい!」
「まあ待て、ウィル。」
苦笑して青年を制し、ユーセウスはレイリアに微笑んだ。
「イルアの用も済んだみたいだし、レイリアも戻らないとね。」
「えっ・・・あ・・・はい。」
言われて反射的に返事をして、レイリアは慌てて言葉を出した。
「あ、あの!」
しかしユーセウスは笑顔で言葉を遮って、レイリアに釘を刺した。
「まさか態度変えたりしないよね?」
「あっ・・・いえ・・・その・・・」
おろおろと視線を彷徨わせるレイリアに、ユーセウスは楽しそうに笑った。
「レイリアと話すのは楽しいよ。」
「え・・・?」
「レイリアは?」
言われて、自然と顔が綻んだ。
「・・・はい!楽しいです!」
「・・・良かった。」
笑って、思い出したようにユーセウスは青年を紹介した。
「あ、そうだ。この男は僕の侍従で、ウィル。顔を覚えてやって。」
「・・・・・・」
「はい!・・・あの、バルクス家にお世話になっております、レイリアです。よろしくお願いします。」
ぺこりと頭を下げたレイリアを、ウィルはぽかんと見つめていた。
「ウィル。」
「・・・あ!こちらこそ、よろしくお願いします!」
ユーセウスに名前を呼ばれて、ウィルは慌てて頭を下げた。
「君はヴィトだったよね。」
ユーセウスに声をかけられて、ヴィトは驚いて返事が遅れた。
「・・・はい。お見知り置き下さり、光栄です。」
「・・・レイリアを借りて悪かったね。」
「いえ・・・」
それ以上なんと言っていいのか分からず、ヴィトは深く頭を下げた。
「またね。」
そんなヴィトを少し寂しそうに見て、ユーセウスはウィルを伴って、その場を去って行った。