第十二話 暁のレーヴェ
残酷描写があります。でもセティエス、ガイアス、ヴィトの出自がちらっと分かります。
レーヴェの隠れ家だと刷り込んだ場所は、王城とは真逆の方角にある、寂れた砦だった。
昔は重要な拠点だったものの、領土が拡大した今ではさして意味を持たない砦だ。療養地としては周りが鬱蒼とした森に囲まれている為、精神的に良くない、という理由で避けられている。
「イルア様、お茶をどうぞ。」
今日は夕方まで休むのだと言って、五人全員が屋敷にいた。そして、すっかりレイリアの側にいるのが当たり前となったリュミエルも。
「ありがとう、レリィ。」
にっこり笑うイルアに微笑み返し、隣に座るセティエスにもお茶を配る。
「セティエス様もどうぞ。」
「ありがとう。」
セティエスの笑みにはいつまで経っても慣れそうにない。笑ってごかましながら、レイリアは二人に頭を下げた。
「それでは、私はリュミエルのお世話がありますので、少しの間失礼します。」
「ええ、いってらっしゃい。」
見送られるのもあまりない事で、なんだか照れながらその場を後にした。
騎獣舎の扉に手をかけて、深呼吸する。ガディスに睨まれるのも、慣れそうにない。いや、少しは慣れてきたのかも知れない。少なくとも、誰かがいればそそくさと前を通り過ぎるくらいは出来るようになったのだから。
(よし!)
気合いを入れて扉を開く。重い扉は、思いっきり体重をかけないと動かない。ズリズリと音を立てて扉を開くと、ガイアスが閉めるのを手伝ってくれた。
無言で腕を差し出されるので、それをしっかり握ってガディスの前を通り過ぎる。
「・・・ありがとう。」
「・・・・・・」
何か言いたい事があるのだろうが、ガイアスは口を噤んで頷くだけだ。後ろをついてきたリュミエルを振り返って、その額を優しく撫でた。
「さあ、ご飯にしようね。」
グルル、と甘えるように喉を鳴らされれば、レイリアはくすぐったい気分になって微笑んだ。
どうやらリュミエルはガディスの事などなんとも思わないらしく、ガディスの方もリュミエルを空気のように扱っている。
お互いに、見えても、見えなくても関係がない、と。
そんな二頭もレイリアが間に入ると別で、ガディスはレイリアが僅かでも距離を近づけると怒り、そんなガディスにリュミエルが牙をむく、という場面がしばしばあった。
「ガディスとも仲良く出来るといいよね・・・」
食事中のリュミエルにそう呟きかけると、なんとも言えない目で見られた。
(あんまり仲良くなりたくないのかな・・・?)
二頭が穏やかに過ごせる日は、まだ遠そうだ。
リュミエルの全身にブラシをかけると、いつもレイリアは少し眠ってしまう。ガイアスから見えない所を選ぶのは作戦だろう。そして、長いな、と思って覗きにいくと、熟睡してしまっている事が多い。
(またか・・・)
最近は特訓の成果か、少しだけ体力も根性もついてきたと思うが、やはり追いつかないのだろうと思う。
そっと近づいてしゃがみ込む。リュミエルがちらりと視線だけ向けてきた。いつも僅かに警戒している。それだけレイリアが大切なのだろう。リュミエルの毛に埋もれるようにして眠るレイリアをしばし眺め、顔にかかる髪をそっとよけた。
「なんだってこんなとこに居るんだか・・・」
実を言うとレイリアは、何をしても起きない。あまりに熟睡しているので試しに思い切り揺らしてみた事があったが、ちょっと唸るだけで起きる気配がなかった。周りで騎獣達が吠えてもなんのその。リュミエルが身体を揺すっても一緒に揺られておしまいだ。
こんな平和なレイリアが、何故バルクス家の秘密を知ってなおこの屋敷に留まるのか、不思議でならなかった。・・・それだけイルアとリュミエルが大事なんだろう。
主人が暗殺者でも。
自分が命を狙われる事になっても。
「・・・よく頑張ってるよ、お前は。」
そっとこめかみを撫でると、眠ったままのレイリアが微笑んだ。
その後ガイアスが辛抱強く起こすと、目覚めたレイリアは慌てて屋敷へ戻った。戻ったら洗濯物を各部屋へ届けるのと同時に掃除だ。相変わらずセティエスとヴィトの部屋は綺麗だし、ガイアスの部屋は何故か毎日ぐちゃぐちゃになっている。
(毎日綺麗に片付けてる筈なのに、なんでだろう・・・?)
不思議だ。
そうこうしている間にあっという間に穏やかな時間は過ぎて、今、イルア達四人は屋敷の玄関へ立っていた。
「それじゃあ、行ってくるわね。」
イルアはいつもと変わらない調子でそう言うと、ぎゅうっときつくレイリアを抱きしめた。
「行ってらっしゃいませ・・・」
イルアが離れるとすぐにセティエスに抱きしめられた。こちらは初めてなので、かなり動揺した。
「行ってくるよ。レリィ。」
「い、行ってらっしゃいませっ!」
セティエスに抱きしめられてどきどきしない人がいたら見てみたい!と思ってすぐに思いついた。
(イルア様はないか・・・)
セティエスが離れると、ヴィトがちょっとぎこちなく抱きしめてくれた。
「・・・行ってきます。」
「行ってらっしゃい!」
そっと抱きしめられて、そっと離される。
「・・・・・・」
ガイアスが正面に立ったまま躊躇していると、イルアが思い切り押した。
「っ!」
「わっ!」
油断していたのか、あっさり押されてガイアスは思い切り抱きつく形になる。
「レリィに抱きつくのに躊躇うんじゃないわよ!」
「「それは無茶です。」」
イルアの叫びにセティエスとヴィトが突っ込んで、ガイアスはレイリアを抱きしめたままで深いため息を吐いた。
「・・・行ってくる。」
少しだけ腕を緩ませて、しっかりと目を合わせてそういうものだから、レイリアは抱きしめられた時以上に恥ずかしくなった。
「い・・・行ってらっしゃい・・・」
言った途端にイルアがガイアスを引き剥がして、にっこりと言った。
「さあ、行きましょうか!」
「「「はい。」」」
頷いて、玄関の扉が開く。レイリアは思わず胸の前で両手を組む。宵の景色に混ざり込もうとする四人に祈る。
「ご無事で・・・!」
四者四様で頷いて、四人は屋敷を去って行った。
姿が見えなくなるまで四人を見送り、レイリアが玄関を閉めた頃—。
「ヴィト」
「は」
イルアの号令でヴィトが走り出した。伏兵を見つけ出して始末するのはヴィトの仕事だ。
ヴィトは、古い一族の末裔だ。その身体能力はどんなに鍛えた人間でも敵わない。古くに魔獣と契ったと言われるその血は、人と獣の狭間にいる。その驚異的な身体能力を欲しいが故に飼いならそうとした者は、彼らの獣に近い性の前に命を落とした。結果彼らは忌み嫌われ、狩られ、今ではヴィトしか生き残りはいないだろう。
そんな血が流れているから、今夜はヴィトにとって、“狩り”に最も適した夜だった。空には星しかない。新月の夜。
くす、と自然と笑みがこぼれた。
「いるな・・・」
まだ人では見えぬ、ずっと先にある件の砦。それを囲む鬱蒼とした森に、息を顰める生き物の気配が分かる。
新月の夜、それは・・・ヴィトの身体に流れる血が、獣の性を強くする夜。
「ザクラス様は一体どこで怪しい薬を手に入れたのかしらね?」
訊ねるイルアの服装は、いつもとそう変わらないドレス姿。
「城下に怪しい店がある、という話しは聞かないですしね。」
答えるセティエスは、普段より動き易そうな服だ。
「じゃあもっと離れたところから調達したんだろう。」
ガイアスは、少しばかり武具をつけていた。
「・・・そう言えば最近、シュル・ヴェレルが来ていましたよね。」
「ああ・・・」
シュル・ヴェレルとは全世界を巡っている商人一団で、無害かと思いきや、その一団が通ると必ずその国で小さな事件が起こっていた。
例えば、一団が通ったところとはかなり離れた場所で、子供が集団で行方不明になったり。
例えば、一団が寄った宿とは違う宿で食事に毒性の弱い薬が盛られていたり。
怪しいと言えば怪しいのだが、一団がその国を通った事しか関連性がないから、誰も手出し出来ないでいた。
「・・・また、ね。」
「ええ。他に事件がなければ、やはり彼らは怪しいですね・・・。」
尻尾すら捕まえられない不気味な事件。
イルアは苦笑するしかない。
「・・・まあ、取りあえずこの件を処理しましょうか。」
「はい。」
空を見上げれば新月。三人はさして急ぐでもなく、砦へ足を進めた。
(来ないな・・・)
草むらに潜む兵は、今か今かとレーヴェを待っていた。その目は正気を失いかけていて、見た目にも恐ろしい。
と、小鳥が羽ばたく様な音がした。
(・・・?)
「ぐあっ!」
音の正体を知る間もなく、その兵は生を終えた。
音もなく地を蹴り、近くの茂みへ降り立つ。着地ついでに伏兵を倒し、ヴィトはすぐに身を潜ませる。倒された兵の小さな断末魔を聞き取り、仲間が僅かに動揺したのを見逃さない。
生命の鼓動がヴィトを手招く。
(あそこか。)
空気の如く身を隠すヴィトに気付ける者はいない。だが、それは近づかなければの話。
「そこかっ!」
背後に迫ると流石に気付かれ、しゃがんだ頭上を鋭い剣筋が走った。間髪入れずに振り下ろされ、かいくぐって背後に回り、次の行動を取られる前にその喉笛を掻き斬る。その爪は今や肉食獣のように丈夫で鋭くなっていた。
血を振り払う事もせず、ヴィトは次の獲物に狙いを定めて動く。伏兵達は異様な襲撃者におののき、潜むのを止めて飛びかかっていった。
ようやく砦が見えてきた。宵は過ぎ、月さえ無い今夜は暗闇が広がっている。
「ガイアス」
「ああ」
呼びかけに応じてガイアスが走り出した。その背を見送ってイルアは小さく笑った。
「どうされました?」
こちらも笑いながら問いかける。
「・・・早く帰りたいなぁって。」
レイリアが待っているから。
「そうですね。早く休みたいと思う事はあっても、早く帰りたいだなんて思った事は、ありませんでしたね。」
頷いて、イルアは砦を見据えた。
「さあ、ヴィトにばっかり働かせられないわね。」
「はい。」
「ヴィト」
森へ踏み込み、ヴィトの姿を探す。あちらこちらで血の匂いが漂い、木の幹には獣が暴れた痕が残る。
(相手は精鋭部隊だからな・・・いくらあいつでも怪我くらいはしてるだろう。)
そう思って森を進む。殺気を辿っていくと五人程の人間が激しい斬り合いをしているのが分かった。
一人が倒れた。その胴から手を引き抜き、背後に迫っていた人間に容赦なく蹴りを食らわせたのはヴィトだろう。その威力は凄まじい。蹴られた兵は苦しんでいるだろう。
「ヴィト!」
走り寄ってその兵にとどめを刺した。
「仲間か!」
降り掛かる剣を受け止める。一瞬、その兵と目があった。
「なっ・・・ガイアス=ヴァルクレア!?」
隙をついて容赦なく剣を突き立てる。その兵が倒れると、ヴィトが最後の一人を倒したところだった。
「・・・まだ少しいる。」
全身に返り血を浴びてはいるが、やはり少しばかり怪我を負ったようだった。
「ああ。イルア達を援護するぞ。」
「分かった。」
歩きながらヴィトが笑う。なんだと訊ねると、久しぶりに聞いた、と笑われた。
「ガイアスの家名。」
「ああ・・・」
ガイアスが家名を失ってから久しい。もう縁を切ったのだから、名乗る事は許されないし、名乗る気もない。今はもう、イルアの・・・レーヴェの腕として生きると決めたから。
「今頃奥さんがいたかも知れないのに。」
そういう事を笑っていわれると良い気分はしない。ごつ、と頭を殴るとむっとされた。
「痛いな・・・」
血の付いた手で髪を触るものだから、明るいところで見たらかなりひどい事になっているに違いない。
「お前こそわざわざイルアの側にいる理由もないだろう。人並みに過ごせるんだからな。」
ガイアスは兵を止めたかった。けれど剣が捨てられなかった。そこを、イルアが救った。だから側にいる。この剣をイルアの、レーヴェの命で振るう。
「冗談言わないでよ。イルア様を放って置けるわけないのに。」
ヴィトに人間らしさを教えたのはイルアだ。処分する筈だった、忌まわしい一族の子を。ヴィトにとってイルアは、新しい世界をもたらしてくれた恩人だ。
「・・・それもそうか。」
揺るぎなくレーヴェという立場に立つ、あのお嬢様は・・・バルクス家の誰もが側を去っても立っていられるだろう。・・・だが。
「一人でも平気だなんて、思って欲しくないからね。」
「・・・そうだな。」
人の心は救ってくれるのに、自分の心は凍り付かせるイルアを。
「「やっぱり放って置けない。」」
くしゅん、とイルアがくしゃみをした。
「おや、お風邪でも引かれましたか?」
「いーえ、これは噂してるのよ、誰かが。」
森へ一歩入るなり襲ってきた兵を一通り倒し、イルアは軽く剣を振って血を払った。
「二人が来ましたよ、お嬢様。」
「あ、本当だわ。」
ひらひらと手を振る様は、命のやり取りをする場面にはやはり似合わない。
「ご無事ですか?」
ヴィトの問いかけに、イルアはにこりと笑った。
「平気よ。ヴィトはさすがに少しやられたみたいね。」
「ええ。針の筵みたいに囲まれた時は、ちょっとまずいと思いましたけど。」
道理で、ヴィトの服はところどころ破れて、傷がたくさんあるようだった。
「無事で良かったわ。」
「イルア様を残して死ねませんから。」
にこりと笑ったヴィトに頷いて、イルアは足を進めた。
「外の兵はどれくらいだった?」
「ざっと百人はいたと思います。」
「まあ、あんまり大勢で砦の中で待機していると、逆に邪魔だものね。」
そう言って苦笑する。
「さて。それじゃあ砦に入るわよ。」
「「「はい」」」
ガイアスが先頭。セティエス、イルア、ヴィトの順で、四人は砦へと足を踏み入れた。
「来たぞ!」
兵が叫べば、その声はすぐに失われた。次々に現れる兵を倒しながら、四人は上へと歩を進める。その中にはやはり、王城でイルア達を見かけた者達もいた。
「ガイアス=ヴァルクレア!?」
「うるせーないちいち。」
「なっ、何故フィセイラ殿が・・・!」
「お嬢様がいるからな。」
無駄口を叩きながらも淀みなく剣を振るう。
「さすがに元一軍の獅子と元陛下の侍従よね。」
「イルア様もすごいですが・・・」
指二本分の太さしかない長剣を軽々と振り回し、的確に仕留める様は到底“お嬢様”ではない。それをドレスでやってのける事が、未だに信じられない思いだ。
「え?なあに?」
言ってはいけない事を言ってしまったようで、ヴィトはさっと視線を外した。
「いえ、何も。」
「そう?」
「はい。」
そんなヴィトに微笑みながら、イルアは砦の階段を駆け上がった。
「失礼致します、ザクラス様」
砦の最上階にある、開け放たれていた部屋へ優雅な足取りで踏み入れる。待ち構えていたザクラスは、イルアの姿に目を見開いた。側には四人の兵がいた。
「・・・バルクス嬢・・・?」
「はい。お久しぶりにございます。イルアでございます。」
血塗れの剣を一度セティエスへ渡し、イルアは優雅に礼をした。
「・・・何故貴女が剣を・・・?・・・それに、その使用人達は・・・」
レーヴェを待っていた筈のところへやって来た、顔見知りの大人しいお嬢様。ザクラスの想像にあるレーヴェとはあまりに違うため、状況についてこれないようだ。
「ああ良かった。貴方は正気そのものなのですね。」
にこりと微笑んだイルアの台詞に、ザクラスの表情が変わった。
「まさか・・・貴女が・・・?」
イルアはそれには答えず、セティエスから剣を受け取って足を進めた。
「さあ、貴方が王位簒奪を目論んでいたというのは真ですか?」
見た限りただのお嬢様が足を進めたところで、誰も警戒しない。その手にあるのは見た事もない細身の剣で、およそ兵士の剣には敵うまいと高を括った。
「・・・バルクス嬢。貴女の事は見なかった事にして差し上げよう。私はあの男が許せぬだけで、貴女すら憎いわけではない。」
「まあ・・・ここまで来た私を、無条件で帰してくださるのですか?」
「・・・もちろん、無条件というわけにはいかぬ。貴女がレーヴェだというのなら、“悪魔の蜜”をお持ちだろう。それを私に渡して頂こう。」
ザクラスが剣を持ち上げる。それに怯まずイルアが近づくと、さすがに不気味に感じた兵が二人、イルアの脇へ立った。
「渡しても貴方では扱えませんわ。」
可笑しそうに笑うイルアに、ザクラスはその白い喉に切っ先を突きつけた。残り二人の兵は三人の前に立ちはだかる。
「それでは貴女が私に従うのだな。貴女への脅し方など色々ある。」
「例えば、女に生まれた事を後悔させる、などですか?」
普段と変わらない調子で話すイルアに、ザクラスは僅かに怯えの色を見せた。
「貴女のその細腕で、私に敵うとお思いか?」
「そうでなければ、このような形で来ませんわ。」
「・・・!」
イルアの挑発にザクラスが動いた、その時だった。
「・・・・・・っ」
一瞬のうちに様々な音がして、ザクラスは気付けばヴィトに喉を掴まれていた。
——背後から。
「・・・・・・」
イルアはまったく動いておらず、四人いた兵は一言もうめき声をあげる事なく倒れた。一目で絶命したと分かる程の傷を負って。やった本人達は平然としている。
「さて・・・」
後ろから喉を掴む青年は、王城で見かけた時とはまるで別人だ。肌を刺す殺気はさながら肉食獣。それも、かなり凶暴な。そこまで考えて、ザクラスはヴィトの爪がおかしな事に気付いて驚愕した。
「・・・ま、まさか・・・この青年は・・・」
「ああ、彼は古代獣族の末裔なんです。」
事も無げに言ったイルアにザクラスは状況を忘れて怒鳴りつけた。
「どういう事だ!バルクス嬢!根絶やしにする筈だろう!」
叫んだ拍子にヴィトの爪が食い込んだが、あまり気にしていられなかった。
「どういう事、と言われましても・・・彼が気に入ったので、うちに招いたのです。」
ふわりと微笑んで、イルアはザクラスに近づいた。
「とても強いでしょう?頼りになるのです。」
そうしてザクラスが再び叫び出す前に、イルアは懐から小瓶を取り出した。手の平にすっぽり収まる程の、琥珀の液体が入った小瓶だった。
「これが“悪魔の蜜”ですわ。」
見せた途端に、顔色が変わった。
「そ・・・それを私に渡して頂こうか。」
態度を崩さないザクラスに笑って、イルアは言葉を紡ぐ。
「こんな状況で手に入れて、どうなさるおつもりですか?」
くすくすと笑いながら、イルアは小瓶の蓋を開けた。その口をザクラスへ近づけると、立ち上る香りにザクラスは意識を持っていかれた。
「これは・・・」
「良い香りでしょう?」
イルアはまさしく悪魔のように、妖艶に微笑んだ。
「大昔に使われていたこの蜜を、危険だからと管理を任されたのがバルクス家です。その中で使う事を許されている者を、レーヴェと呼ぶのですよ。・・・わたくしの言葉、聞こえていらっしゃいますか?」
ザクラスは蜜の香りに囚われていた。もはや目は虚ろで、ヴィトが爪を元に戻さなければ危ない程に、身体にも力が入っていなかた。
「・・・ザクラス様はお強いから、頼もしいと思っておりましたのに・・・」
国の戦力を削ぐ様なような事態になってしまうとは。
「さようなら、ザクラス様。」
そっと手渡した小瓶を大事そうに眺め、ザクラスはその蜜を、ゆっくり、味わうように飲み干した。
「・・・これは、極上の味、だな・・・」
どさり、とザクラスは倒れ込んだ。
その顔は、穏やかだった。
森を一歩出たところで、イルア達四人は振り返り、しばし、祈りを捧げた。
一軍精鋭部隊、約二百人と将に冥福を——。
「・・・一応終わりましたね。」
セティエスが呟いて、イルアが息を吐いた。
「ほんとね。・・・これをエルフィア様が見つけると思うと、さすがに心が痛むわね・・・。」
「さあ、早く立ち去りましょう。」
「ええ。」
ヴィトの言葉に従って、四人は人目につかないように林を進む。
空には明けの明星が輝き、東には僅かに暁が線を引いていた。