第十話 黄昏のそよ風
暖かな陽の光。
そよぐ風。
柔らかな自然の香り。
心地よい雰囲気の中、レイリアは微睡む。
(やっぱりリュミーの毛並みは気持ち良い・・・)
リュミエルはいつもその身体をレイリアの枕として提供してくれる。その肌触りや温かさは、レイリアにこれ以上ないくらいの幸福感を与えてくれる。その幸福に包まれていると、小さな笑い声が聞こえた。心地よい笑い声に気を良くして、くすぐったい気分で微笑んだ。
(ん・・・?笑い声?)
一拍遅れて不審に思い、うっすら目を開けた。ぼんやりする視界に誰かが映る。柔らかい雰囲気を纏うその人は、すぐ近くで頬杖をついてこちらを眺めていた。眼差しまでも柔らかく、こうして見られていても微塵も嫌な感じがしない。
(なんだろ・・・?)
そのままぼんやり見つめていると、その人がくすりと笑った。
「起きてるの?」
耳に心地良い声にぼうっとしていたが、言われた事を頭の中で反芻して、はっと我に返った。がばりと身を起こす。
「あっ!ぇ・・・と・・・ルセ様、起きてらしたんですか!?」
「うーん、今僕の名前覚えてなかったよね?」
面白そうに笑いながら、ユーセウスはレイリアの肩についていた草を取った。ララはいつの間にかユーセウスの肩へ戻っていた。
「あ、ありがとうございます・・・」
「ほんとに、イルアが言ってた通りの人だね。」
そう言った顔は、楽しそうに笑っているのに何か翳りがあって——。レイリアは息を詰めた。
「殿下ー!」
遠くから声が聞こえて、二人ははっとそちらへ顔を向けた。
「・・・・・・やれやれ。」
「?」
ユーセウスは小さく呟いた後、レイリアへ向き直って言った。
「イルアに言っておいてよ。」
「え?あ、はい。」
よく分からずもこくこく頷く。
「僕の飼ってる犬が最近ちょっと凶暴化していてね。どうも優位に立とうとしているみたいなんだ。」
「・・・は、はぁ・・・」
「こともあろうに僕の部下に噛み付こうとしている。」
「そう、なんですか・・・」
「そう。それをなんとかしてって言っておいて。」
「え?あ、いえ・・・分かりました・・・」
(イルア様ってそんな事もなさってるのかな・・・)
神妙に頷くレイリアを見て、ユーセウスは微笑んだ。
「よろしくね。」
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「さて。それじゃあ僕も殿下を探しに行こうかな。」
「え?」
ユーセウスはさっさと歩き出しながら、レイリアを振り返って笑った。
「いくら気持ち良い天気だからって、熟睡するのは危ないと思うよ?シレイがいるからってね。」
そう、言って。
去って行くユーセウズを唖然と見送り、レイリアは思った。
(そう言えば・・・ヴィトにも似た様な事言われたような・・・)
なんとなくリュミエルと目を合わせる。
「・・・けど、こういう風に寝るのが気持ち良いのにね?」
そう語りかけると、リュミエルは大きな欠伸をしたのだった。
イルアの命で、エルフィアの手が空き次第リュミエルのところへ案内するように言われていたヴィトは、僅かに日が暮れかかった頃にようやくその役目が果たせた。
「随分待たせたな。」
一日の仕事をほとんど終えて、エルフィアは一日待っていたヴィトにそう声をかけた。
「お気になさらないで下さい。・・・ご案内しても宜しいですか?」
少し急かす様な雰囲気にくすりと笑い、エルフィアは頷いた。
「ああ、頼む。」
そうしてリュミエルとレイリアが待つ裏庭へ行こうとすると、後ろから慣れ親しんだ声がかけられた。
「エルフィア様!ヴィト!」
振り返ったエルフィアは、見る間に破顔した。
「イルア!本当にあのシレイを連れてきてくれたのだな!」
「もちろんですわ。それに、レイリアも一緒に連れて来たのですよ。」
並んで歩きながらイルアは嬉しそうにそう言った。
「レイリア?・・・ああ、イルアが言っていたシレイの主人か。」
くっくっく、とエルフィアが笑うと、イルアは少しだけ苦笑した。
「ええ、リュミエルはレイリアの様子を見て、私たちへの接し方を決めているみたいなのです。」
「ほう・・・シレイが自ら学ぶとは・・・まるで親のように思っているのだな、そのレイリアとやらを。」
その台詞に、イルア、セティエス、ヴィトの三人は顔を見合わせた。
「親というより・・・」
「「子供、でしょうか?」」
イルアの台詞をセティエスとヴィトが引き継いで言うと、エルフィアはお腹を抱えて笑い出した。
「子供か!それは面白いな!」
「日が暮れて来たね。」
レイリアは空を見上げて呟いた。リュミエルは夕食を貰って満足そうだ。
「イルア様、そろそろお屋敷へ戻られるかなぁ・・・」
腕を持ち上げて擦り寄ってくるリュミエルをしっかり撫でてやり、レイリアは主の姿を求めて建物を振り返った。すると向こうから、イルア達がやってくるのが見えた。
「イルア様!」
駆け寄るレイリアを見て、イルアがふわりと微笑んだ。
「レリィ、こちらがリュミエルをくださった、第一軍副将のエルフィア=ハイル様よ。」
紹介されて改めて美貌の麗人を見ると、その艶やかなまでの美しさに、同性にも関わらず見蕩れてしまった。
「?」
首を傾げる様まで美しく感じる。ぼうっとしているレイリアに、セティエスが促した。
「ほら、レリィ。名乗らなければ失礼だぞ。」
「あっ、すみません!私はバルクス家にお世話になっております、レイリアと申します。」
慌てて勢い良く頭を下げるレイリアに、エルフィアは可笑しそうに笑いかけた。
「まあそう畏まらなくていい。」
「は、はい・・・」
「エルフィア様はかなりお綺麗な方だから、仕方ないわ。」
そう言ったイルアの言葉に、エルフィアがくすりと笑って返す。
「何を言う。イルアの愛らしさには負ける。」
「まあ」
楽しそうに笑い合う二人を見ていると、本当に仲が良いのだと分かる。そして、ちょっとだけ悔しいような気もした。
「レリィ、リュミーをこちらへ連れてきてくれる?」
「あ、はい!」
レイリアは頷くと、さっと駆け出して行った。
その姿を見てエルフィアは呟く。
「・・・イルアは彼女をどこで?」
「城下を少し離れたところにある町で。リュミエルを追いかけて行ったら偶然出会ったのです。」
「そうか。」
「はい。」
レイリアがリュミエルの鎖を外し、こちらへ引き返してくる。
「良い子だな。少しのんびりしているが。」
「ええ、とても良い子です。」
イルアが嬉しそうにふわりと笑って、エルフィアはその微笑みに笑った。
「・・・あたたかいな。」
「・・・そうなんです。だから来て貰ったのですわ。」
にっこり笑って、イルアは自慢げに胸を張った。
「お待たせしました!こちらがリュミエルです、エルフィア様。」
何故だかとても嬉しそうにリュミエルを連れてきたレイリアは、わくわくしながらエルフィアを見つめた。
「・・・大人しいものだな。」
「はい!リュミエルはすごく大人しいですよ。優しいですし。」
「優しいか。それはレイリアがこの子の主だからだろう。」
「え?」
思わぬ事を言われて目が丸くなった。
「シレイは主以外の者には冷たいものだよ。いようがいまいが関係ない、という態度を取る。そうされた事がないのなら、出会ってすぐにこの子はレイリアを主と決めたのだろう。」
「・・・出会ってすぐに、ですか・・・?」
リュミエルに視線を移すと、優しい瞳が瞬いた。
「そう様子では、リュミエルはレイリアの事が大好きなのだな。」
「そうなんですか!」
嬉しくて、エルフィアが頷くが否やリュミエルに抱きついた。
「リュミー、私も好きよ。」
しっかり抱いて頬ずりすると、嬉しそうにリュミエルが喉を鳴らした。
「これではイルアから逃げ出す筈だ。」
そう言って笑ったエルフィアに、イルアが驚いて後ずさった。
「ご、ご存知だったのですか!?」
そんなイルアを面白そうに見やり、エルフィアは少し意地悪に笑った。
「もちろんだとも。私は一軍副将だぞ?城下だろうとどこだろうと、治安に関わる事は私の耳に入るのだ。」
「うっ・・・」
すっかり縮こまったイルアに、エルフィアはにやりと口の端を吊り上げた。
「レイリアには感謝する。私の贈ったシレイが処分されずに済んだからな。」
「えっ!」
いきなり声をかけられて驚くレイリアをよそに、イルアは深く頭を下げた。
「ごめんなさい・・・申し訳ありませんでした・・・」
ではな、とエルフィアは颯爽と去って行き、姿が見えなくなるまで見送った四人は一息吐いた。
「さあ、では帰りましょうか。」
「「「はい」」」
イルアの号令に三人が応えて、四人と一頭は王城を移動し始めた。
「あっ、そう言えばイルア様。ルセ様をご存知ですか?」
そう問いかけた途端、三人の足がぴたりと止まった。
「?」
「・・・ルセ様が、どうかしたの?」
何故か固い表情のイルアに問われ、レイリアは素直に答える。
「イルア様に伝えるように言われたのですが・・・」
視線で促され、レイリアは続ける。
「ええと・・・“僕の犬が最近凶暴化していて、優位に立ちたいみたいだ。”と、“部下に噛み付こうとしているからなんとかして欲しい。”だそうです。」
「・・・・・・・・・犬がねぇ・・・」
そう言って笑ったイルアは、お嬢様ではなく、悪役のようで。
(あれ・・・?イルア様、ルセ様の事あまり好きではないのかな・・・)
「ルセ様は・・・なんて名乗られたの?」
「え?・・・あ、あの・・・お名前だけ。ええと・・・すみません。しっかり覚えられなくて・・・呼びにくいからルセと呼ばれている。そう呼べば良いとだけ・・・。」
途端、イルアが吹き出した。
「イルア様?」
「くっ、ル、ルセ様が・・・!そう、確かに言いにくいものね、あの方のお名前は・・・!」
「あの?」
戸惑うレイリアと目が合って、ようやくイルアは笑いを収めた。見ればセティエスとヴィトも僅かに笑っていた。
「?」
首を傾げるレイリアに微笑んで、三人は再び足を進めた。
——そしてその夜。レイリアは初めて悪魔の蜜の仕事を知る事になったのだ。