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余命一年の第三王子に寿命を分け与えていた私ですが、婚約破棄されたので隣国へ行きます

作者: 折り紙
掲載日:2026/06/19

 私が初めて恋をしたのは、まだ六歳の頃だった。


 王都の外れに広がる森で迷子になったあの日のことを、今でも鮮明に覚えている。


 太陽は傾き始め、木々の隙間から差し込む光は薄暗くなり、昼間は楽しそうに見えていた森がまるで別の場所のように感じられた。幼かった私は不安と恐怖で泣きながら家へ帰る道を探していたが、当然見つかるはずもない。


 そして運の悪いことに、魔物と遭遇した。


 灰色の毛並みを持つ狼型の魔物。


 今なら下級魔物だと分かるが、当時の私にとっては巨大な怪物だった。


 逃げようとして転び、足が動かなくなり、迫ってくる牙を見ながら私は本気で死ぬのだと思った。


 その時だった。


「アリア!」


 聞き慣れた声が響いた。


 次の瞬間、一人の少年が飛び込んできた。


 第三王子レオン。


 私の婚約者であり、幼馴染であり、当時の私にとって世界で一番頼りになる男の子だった。


 レオンは訓練用の木剣を握りしめたまま魔物へ飛びかかり、必死に私を守った。


 当然、本物の騎士ではない。


 まだ六歳の子供だ。


 肩を裂かれ、腕を噛まれ、それでもレオンは私の前から退かなかった。


 最後には騒ぎを聞きつけた騎士たちが駆けつけて魔物を倒したが、私は恐怖と安堵で泣きじゃくっていた。


 そんな私の前に、血だらけのレオンが座り込む。


「もう大丈夫だよ」


 そう言って笑った顔を見た瞬間、私はさらに泣いた。


 今思えば酷い話だ。


 助けられた側なのに、泣き止まなかったのだから。


 困ったように笑ったレオンは辺りを見回し、ふと一本の花を摘んだ。


 夕日に照らされて輝く、美しい白銀色の花だった。


「知ってる?」


 そう言いながら私へ差し出す。


 私は首を横に振った。


「これは二十年花っていうんだ」


「にじゅうねんばな?」


「うん。二十年に一回しか咲かないんだって」


 そう言ってレオンは少しだけ得意そうに胸を張った。


「だから泣かないで。次にこの花が咲く頃には、きっと僕たちは結婚してる」


 私は涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま彼を見た。


 レオンはまっすぐ私を見返してくる。


「僕が君を守る。どんなことでも絶対に」


 子供の言葉だった。


 だけど、その時の私には世界で一番かっこいい言葉に聞こえた。


「だから泣き止んで。次にこの花が咲く頃には、きっと幸せになっているから」


 私は泣きながら頷いた。


 そしてその日から、私はレオンのことが大好きになった。


 初恋だった。


 間違いなく。


 誰よりも優しくて、誰よりも勇敢な王子様だった。


 ――だから。


今、私の目の前にいる男が本当にレオンなのか、時々分からなくなる。


「近寄るな」


 冬の冷たい風に乗って、その言葉が静かに響いた。


 王城の中庭はよく手入れされており、色とりどりの花々が咲き誇っているというのに、私にはその景色がどこか色褪せて見えた。


 私は両手で薬草茶の入った籠を抱えたまま立ち尽くしていた。


 向かい側にはレオンがいる。


 私の婚約者。


 幼い頃から共に育った幼馴染。


 そして、世界で一番大好きだった人。


 けれど今の彼は、私の知っているレオンとはまるで別人だった。


 かつてのレオンはよく笑う少年だった。


 王族らしくないと言われるほど気さくで、庭を走り回り、泥だらけになって騎士たちに叱られ、私を見つけるたびに楽しそうに手を振ってくれた。


 誰かが困っていれば真っ先に助けようとするような人だった。


 あの日、森で私を庇って傷だらけになった時だってそうだ。


 自分の痛みよりも、泣いている私の方を心配していた。


 だから私は恋をした。


 きっとこれから先も、この人の隣で生きていくのだと疑いもしなかった。


 しかし、その未来は十二歳のある日を境に音を立てて崩れ去った。


 レオンは突然倒れた。


 原因不明の難病。


 高熱が何日も続き、全身の機能が少しずつ蝕まれていく恐ろしい病だった。


 王国中から名医が集められた。


 神官たちも祈りを捧げた。


 高位治癒術師も全員呼ばれた。


 それでも結果は変わらなかった。


 治療法なし。


 余命一年。


 そう宣告された時の王城の空気を私は今でも覚えている。


 誰もが絶望していた。


 国王陛下も王妃殿下も泣いていた。


 城中が喪に服したかのような雰囲気だった。


 けれど、私だけは諦めなかった。


 諦められるはずがなかった。


 だって私は知っていたから。


 自分だけの秘密を。


 聖女として与えられた奇跡を。


 寿命を分け与える能力。


 自らの寿命を削り、その分だけ他者を生かす力。


 それは誰にも話していない。


 話せるわけがなかった。


 もし知られれば、国のために使えと言われるだろう。


 王族のために。


 貴族のために。


 英雄のために。


 そして最後には使い潰される。


 そんな未来が容易に想像できた。


 だから私は黙っていた。


 誰にも言わず。


 誰にも知られず。


 ただ一人だけの秘密として抱え込んでいた。


 そして私はその寿命をレオンへ与え続けた。


 一度や二度ではない。


 何度も何度も。


 彼が眠っている夜。


 苦しそうに呼吸している時。


 高熱にうなされている時。


 私はそっと手を握り、自分の寿命を差し出した。


 そのたびに身体が重くなった。


 疲労が抜けなくなった。


 時には立ちくらみで倒れそうになることもあった。


 それでも後悔はなかった。


 レオンが生きてくれるなら。


 レオンが笑ってくれるなら。


 私は何十年だって差し出せると思っていた。


 だから今、彼がここに立っているのは私のおかげなのだと信じていた。


 余命一年と言われた少年が十六歳になった。


 それは奇跡だった。


 そしてその奇跡を起こしたのは私だと思っていた。


 私が支えているから。


 私が守っているから。


 私がいなければこの人は生きていけない。


 そんな傲慢な考えすら、どこかで抱いていたのかもしれない。


「聞こえなかったのか?」


 レオンの冷たい声が私を現実へ引き戻した。


「顔も見たくない」


 胸の奥がちくりと痛む。


 慣れているはずだった。


 この四年間、何度も言われてきた言葉だ。


 それでも慣れない。


 どれだけ言われても傷付く。


 幼い日の記憶があるからだろう。


 優しかったレオンを知っているからだろう。


 どうしても諦めきれない。


 どうしても昔の彼を探してしまう。


「体調はどう?」


 私がそう尋ねると、レオンは露骨に眉をひそめた。


「帰れ」


「薬草茶を持ってきたの。身体に良いものを――」


「捨てろ」


 短く吐き捨てられる。


 その言葉は鋭い刃物のように胸へ突き刺さった。


 昔なら考えられない。


 昔のレオンなら、たとえ不味くても笑いながら飲んでくれた。


 ありがとう、と言ってくれた。


 それなのに今は違う。


 感謝もない。


 優しさもない。


 ただ拒絶だけがある。


 それでも私は笑顔を作った。


 聖女として生きてきた私は、人前で泣かないことに慣れていた。


 どれだけ苦しくても笑う。


 どれだけ傷付いても笑う。


 それが聖女だから。


 だから私はいつものように微笑んだ。


「また来るわ」


「来るな」


 即答だった。


 迷いすらない拒絶。


 私は小さく息を吐き、踵を返す。


 背中に向けられる視線は冷たい。


 それでも振り返ることはできなかった。


 振り返ったら泣いてしまいそうだったから。


 石畳を歩きながら、私は強く籠を抱きしめる。


 胸が痛かった。


 息苦しかった。


 それでも嫌いになれない。


 初恋というのは厄介だ。


 たった一輪の花。


 たった一つの約束。


 それだけで十年近く想い続けられてしまうのだから。


 私はまだ信じていた。


 きっと病気のせいなのだと。


 いつか元に戻るのだと。


 またあの日のように笑ってくれるのだと。

 

 その出来事が起きたのは、それから三か月ほど経った春の夜だった。


 王都では建国祭を祝う盛大な祝宴が開かれており、王城には国内の有力貴族たちだけでなく各国からの使節団まで集まっていた。煌びやかなシャンデリアが会場を照らし、楽団の奏でる音楽が絶え間なく流れ、あちらこちらで笑い声が上がる。誰もが酒を片手に談笑し、この国の繁栄と未来を語り合っている。


 本来であれば、私もその輪の中心にいるはずだった。


 聖女アリア。


 第三王子レオンの婚約者。


 未来の王族の一員。


 少なくとも周囲はそう認識している。


 けれど実際の私は会場の隅に立ちながら、手にした果実酒を一口も飲まずにただぼんやりと人々の姿を眺めていた。貴族たちは笑顔で話しかけてくるし、聖女として感謝の言葉も受ける。けれどそのどれもが遠く感じた。最近の私はずっとそうだった。心のどこかが欠けているような感覚が消えない。


 理由は分かっている。


 レオンだ。


 昔は少しでも時間があれば私を探しに来ていた人が、今では顔を見るだけで露骨に嫌そうな顔をする。話しかければ冷たい言葉を返される。体調を気遣えば余計なお世話だと言われる。それでも私は諦められなかった。


 病気のせいだと思っていたからだ。


 余命一年と宣告された少年が、四年も生き続けている。その代償として心が荒んでしまったのだろうと勝手に納得していた。そうでも思わなければ耐えられなかった。


 ふと私は会場を見回した。


 そして違和感を覚える。


 レオンの姿がない。


 つい先ほどまで壁際に立っていたはずだった。


 王族として挨拶を受けていた姿を見た記憶もある。


 だが今はどこにも見当たらない。


 少しだけ胸がざわついた。


 病気が再発したのではないか。


 倒れたのではないか。


 そんな考えが真っ先に浮かんでしまう自分に苦笑したくなる。


 あれだけ拒絶されているのに、結局私は彼の心配ばかりしている。


 昔からそうだった。


 だから私は会場を離れた。


 ほんの少し様子を見るだけ。


 もし元気ならそのまま戻ればいい。


 そう思っていた。


 その時までは。


 夜の王城は静かだった。


 祝宴の音楽も厚い石壁に遮られて遠く聞こえるだけで、長い廊下には私の足音だけが響いている。窓の外には満月が浮かび、中庭を白銀色に照らしていた。


 レオンの私室へ向かおうとしていた時だった。


 ふと、人の気配を感じた。


 王城の夜は静かだ。祝宴が開かれているとはいえ、その喧騒は厚い石壁に遮られ、城の奥までは届かない。聞こえてくるのは遠くで奏でられる音楽の残響と、窓の外を吹き抜ける夜風の音だけだった。


 だからこそ、その気配は妙にはっきりと感じられた。


 私は足を止める。


 視線の先には回廊があり、その向こうには月明かりに照らされた中庭が広がっていた。昼間であれば色鮮やかな花々が咲き誇る美しい場所だが、夜の庭園はどこか幻想的で、銀色の光に包まれた別世界のように見える。


 そこに二つの人影があった。


 最初は特に気にも留めなかった。


 恋人同士なのだろうと思ったからだ。


 こうした祝宴の日には珍しくない。


 婚約者がいても別の相手と逢瀬を重ねる者もいるし、若い貴族たちが人目を避けて密会することもよくある。王城という場所は表向きこそ格式高いが、その裏では様々な思惑や恋愛模様が渦巻いている。


 だから私はそのまま通り過ぎるつもりだった。


 見てはいけないものを見てしまうこともある。


 知らなくていいこともある。


 わざわざ首を突っ込む必要はない。


 そう思った。


 だが、その瞬間だった。


 月光を反射する銀色の髪が目に入る。


 私は思わず足を止めた。


 心臓が一度だけ大きく脈打つ。


 そして次の瞬間には嫌な汗が背中を伝っていた。


 見間違いだと思いたかった。


 ただ似ているだけだと。


 この国には銀髪の人間などいくらでもいる。


 だからきっと違う。


 違うはずだ。


 そう自分に言い聞かせる。


 だが視線は勝手に吸い寄せられていく。


 まるで何かに引っ張られるように。


 見なければいいのに。


 見れば傷付くかもしれないのに。


 それでも目を逸らすことができなかった。


 そして私は、その人物の顔を見た。


 レオンだった。


 間違いなく。


 私が十年近く想い続けた人。


 私が人生の全てを捧げてもいいと思っていた人。


 そのレオンが月明かりの下に立っていた。


 そして彼の腕の中には、一人の女性がいた。


 美しい金髪だった。


 月光を受けて輝く髪はまるで黄金の糸のようで、細く華奢な身体はドレスに包まれている。距離があるせいで顔までははっきり見えない。だが若い女性であることだけは分かった。


 レオンはその女性を抱き寄せていた。


 まるで大切な宝物を扱うように。


 まるで愛しい恋人を慈しむように。


 その姿を見た瞬間、私は呼吸を忘れた。


 なぜなら、その表情を知っていたからだ。


 昔のレオンだ。


 私が大好きだった頃のレオン。


 森で私を助けてくれた時の。


 二十年花を差し出してくれた時の。


 優しく笑ってくれた時の。


 あの頃のレオンがそこにいた。


 ただし、その優しさが向けられている相手は私ではなかった。


 頭の中が真っ白になる。


 理解が追いつかない。


 理解したくなかった。


 何か理由があるのだと思いたかった。


 親戚なのかもしれない。


 妹のような存在なのかもしれない。


 体調を崩して支えているだけかもしれない。


 そうだ。


 きっとそうだ。


 そうでなければ説明がつかない。


 だって私は婚約者なのだから。


 どれだけ嫌われていても。


 どれだけ冷たい態度を取られていても。


 私は婚約者なのだから。


 そう思いたかった。


 そう信じたかった。


 だが、そのささやかな願いは次の瞬間、跡形もなく砕け散る。

 

レオンがゆっくりと女性の頬へ手を伸ばした。その仕草はあまりにも自然だった。無理に作ったようなものではなく、まるで何度も繰り返してきたかのように滑らかで、そこには戸惑いも緊張も見当たらない。愛しい相手に触れることが当たり前であるかのような距離感だった。


 私はその光景から目を離せなかった。離したかった。今すぐ背を向けてその場から立ち去りたかった。見なかったことにしてしまいたかった。けれど身体は動かない。まるで足元から石に変えられてしまったかのように、その場に縫い付けられていた。胸の奥では嫌な予感が膨らみ続けている。それでも私は必死に自分へ言い聞かせていた。違う。きっと違う。何か理由があるのだと。


 レオンは女性を引き寄せる。


 女性もまた自然に身を預ける。


 二人の距離がゆっくりと縮まっていく。


 そして。


 唇が重なった。


 その瞬間、世界から音が消えたような気がした。


 遠くで奏でられていた祝宴の音楽も、庭園の木々を揺らす風の音も、どこかで聞こえていたはずの人々の笑い声も、何もかもが遠ざかっていく。ただ目の前の光景だけが異様なほど鮮明だった。月明かりに照らされた二人の姿。重なった唇。女性の肩へ回された腕。そして、私にはもう何年も向けられていない優しい表情。


 理解できなかった。


 いや、本当は理解していた。


 理解したくなかっただけだ。


 だって、それを認めてしまったら終わってしまうから。


 十年間抱き続けた恋が。


 幼い日に森で助けてもらった思い出が。


 二十年花を渡されたあの日の約束が。


 私の人生そのものだった未来が。


 全部終わってしまうから。


 胸の奥で何かが崩れる音がした。


 それは怒りではなかった。


 嫉妬でもなかった。


 もっと静かな絶望だった。


 積み上げてきたものが崩壊する音。


 何年も何年も大切に守り続けてきた宝物が粉々になる音。


 私は今まで何をしていたのだろう。


 寿命を削った。


 未来を削った。


 人知れず何度も力を使った。


 夜中に彼が苦しそうな息を吐けば駆け付けた。


 高熱にうなされれば手を握った。


 冷たい言葉を浴びせられても離れなかった。


 近寄るなと言われても。


 顔も見たくないと言われても。


 帰れと言われても。


 それでも傍にいた。


 好きだったからだ。


 愛していたからだ。


 ただ、それだけだった。


 それなのに。


 私が人生を懸けて守ろうとしていた相手は、私ではない女性へあんなにも優しい顔を向けていた。


 あまりにも呆気なかった。


 あまりにも残酷だった。


 私が一人で抱えていた想いなど、最初から何の意味もなかったかのようだった。


 その時、不意にレオンが顔を上げた。


 銀色の瞳がこちらを向く。


 そして私たちの目が合った。


 心臓が止まった気がした。


 見つかった。


 その事実だけで全身の血が引いていく。


 けれどレオンは驚かなかった。


 慌てなかった。


 焦った様子もない。


 まるで最初から私がここにいることを知っていたかのように静かだった。


 そして彼は女性の肩をさらに抱き寄せる。


 より親密に。


 より自然に。


 より決定的に。


 その姿を見た瞬間、私は悟ってしまった。


 ああ、そうなのだ。


 私はもう必要ないのだ。


 彼の人生に。


 彼の未来に。


 彼の隣に。


 私は存在していない。


 だから嫌われた。


 だから拒絶された。


 だから遠ざけられた。


 そこに特別な理由などなかったのだ。


 ただ別の女性を愛した。


 それだけだった。


 その結論に辿り着いた瞬間、身体が勝手に動いていた。


 私は逃げた。


 考えるよりも先に足が動いていた。


 回廊を駆け抜ける。


 ドレスの裾が乱れる。


 靴音が石畳へ響く。


 どこへ向かっているのかも分からない。


 ただあの場所から離れたかった。


 これ以上見ていたら本当に壊れてしまいそうだった。


 胸が苦しい。


 息が苦しい。


 視界が滲む。


 いつの間にか涙が溢れていた。


 けれど立ち止まることはできなかった。


 もし止まれば、その場で崩れ落ちてしまう気がしたから。


 王城の誰にも見られたくなかった。


 聖女としてではなく、一人の女として泣いている姿を。


 ただ好きな人に振られただけの惨めな女の姿を。


 だから私は走った。


 必死に。


 逃げるように。


 いや、実際に逃げていたのだろう。


 十年間抱き続けた初恋から。


 いつか叶うと信じていた未来から。


 そして、幼い日の約束から。


 その夜、私は初めて知った。


 人は本当に心が壊れる時、大声で泣いたりはしないのだと。


 ただ静かに。


 誰にも気付かれないまま。


 胸の奥で何か大切なものが音もなく崩れ落ちていくのだと。

 

 気付けば私は、王城の北側にある古い礼拝堂へ逃げ込んでいた。そこは今ではほとんど使われていない場所で、幼い頃の私が泣きたい時や一人になりたい時に何度も隠れていた場所でもあった。祝宴の夜にこんな場所へ来る者はいない。そう思った瞬間、張り詰めていた糸が切れたように膝から力が抜け、私は冷たい石床の上に崩れ落ちた。


 礼拝堂の中は静まり返っていた。古い木の長椅子が整然と並び、奥には慈愛の女神像が立っている。色褪せたステンドグラスから差し込む月明かりが床に淡い模様を落としていたけれど、今の私にはそれを美しいと思う余裕などなかった。ただ胸が痛かった。呼吸をするたびに心臓の奥を鋭い針で刺されているようで、喉の奥から嗚咽が込み上げてくるのに、なぜか声はほとんど出なかった。


 私は両手で顔を覆った。


 涙だけが、止まらなかった。


 レオンが別の女性に口づけをしていた。私ではない誰かを抱き寄せていた。私が何年も求めていた優しい顔を、その女性へ向けていた。その光景が何度も何度も頭の中で繰り返されるたび、胸の奥に残っていた温かなものが少しずつ冷えていくようだった。怒ればよかったのかもしれない。裏切られたのだと叫べばよかったのかもしれない。けれど私の中にあったのは怒りよりも先に、どうしようもない虚しさだった。


 私は、何だったのだろう。


 婚約者だったはずだ。


 幼馴染だったはずだ。


 彼を救うために、自分の寿命まで差し出してきたはずだ。


 それなのに、あの瞬間の私は、ただの邪魔者でしかなかった。


 そう考えた途端、笑えてしまいそうになった。もちろん本当に笑えるはずもない。ただあまりにも惨めで、あまりにも馬鹿らしくて、泣いている自分自身を遠くから見下ろしているような気分になった。聖女などと呼ばれ、人々から感謝され、王国の希望だと持ち上げられている女が、たった一人の男に愛されなかっただけでこんなにも壊れている。


 けれど、仕方がなかった。


 私にとってレオンは、ただの婚約者ではなかったのだから。


 初恋だった。


 憧れだった。


 命の恩人だった。


 そして、いつか隣で生きていくのだと信じていた未来そのものだった。


 私は震える指で胸元のペンダントを握り締めた。中には、幼い日にレオンから貰った二十年花の押し花が入っている。何年も肌身離さず持ち歩いてきた、私だけの宝物だった。辛い時も、苦しい時も、これを見るたびにあの日の言葉を思い出せた。僕が君を守る。どんなことでも絶対に。そう言ってくれた少年の笑顔だけが、私を何度も支えてくれた。


 けれど今は、その思い出すら胸を抉った。


 あの約束を覚えていたのは、私だけだったのかもしれない。


 次に二十年花が咲く頃には幸せになっている。


 そんな未来を信じていたのは、私だけだったのかもしれない。


 どれほど時間が経ったのか分からなかった。祝宴の音楽は遠くなり、礼拝堂の中には私の浅い呼吸だけが残っていた。涙はまだ止まらなかったけれど、泣き続けるうちに心のどこかが少しずつ麻痺していく。痛すぎる傷は、いつまでも同じ鋭さでは痛まない。ただ代わりに、冷たい穴のようなものが胸の中に残る。


 その時だった。


 重い扉が、小さく軋む音を立てた。


 私はびくりと肩を震わせ、慌てて顔を上げる。涙でぼやけた視界の先に立っていたのは、レオンの側仕えである老執事だった。昔からレオンに仕えている人で、幼い頃の私にも何度も菓子をくれたことがある。彼は私の泣き腫らした顔を見ると、痛ましげに目を伏せた。


「アリア様」


 優しい声だった。


 その優しさに触れた瞬間、また涙が溢れそうになる。


「……見苦しいところを、お見せしました」


 私はどうにかそう言った。声はひどく掠れていた。聖女としての体面を保とうとしたのに、そんなものはとうに崩れていた。


 老執事はゆっくりと首を横に振る。


「いいえ。何も見苦しいことなどございません」


 その言葉が、今の私にはあまりにも辛かった。優しくされると壊れてしまいそうだったから。私はペンダントを握り締めたまま、どうにか涙を堪えようとした。


「レオン殿下は……」


 そこまで言って、私は言葉を止めた。


 聞いてどうするのだろう。


 あの人はなぜあんなことをしたのか。


 あの女性は誰なのか。


 私のことをどう思っているのか。


 聞きたいことはいくらでもあった。


 けれど同時に、何も聞きたくなかった。


 答えを知れば、もっと傷付く気がした。


 老執事はしばらく黙っていた。まるで言うべきことと言ってはならないことの間で迷っているようだった。やがて彼は深く一礼する。


「今夜のことは、どうかお忘れください」


 その言葉に、私は小さく笑った。


 忘れられるはずがない。


 あんなものを見て。


 十年分の恋が砕ける瞬間を見て。


 忘れられるはずがなかった。


「無理です」


 私は静かに答えた。


「私は、そんなに強くありません」


 老執事は何も言わなかった。


 ただ、苦しそうに唇を引き結んでいた。


 その表情を見た時、胸の奥に小さな違和感が生まれた。まるで彼は私を憐れんでいるだけではなく、何かを知っていて、けれどそれを言えずにいるように見えたからだ。だがその時の私は、それ以上考える余裕などなかった。レオンに裏切られた。その事実だけで頭も心も埋め尽くされていた。


 私はゆっくりと立ち上がる。


 足元がふらついた。


 それでも倒れなかった。


 倒れたくなかった。


 もうこれ以上、惨めになりたくなかった。


「部屋へ戻ります」


「お送りいたします」


「いいえ。一人で戻れます」


 老執事は何か言いたそうにしたが、結局それ以上は何も言わなかった。私は礼拝堂を出て、長い廊下を一人で歩いた。涙はまだ乾いていなかったけれど、顔を上げて歩いた。廊下の窓に映る自分の顔は青白く、まるで病人のようだった。


 その夜、私は眠れなかった。


 寝台に横になっても、目を閉じれば月明かりの庭園が浮かぶ。レオンの横顔が浮かぶ。女性の金髪が浮かぶ。重なる唇が浮かぶ。何度も何度も同じ場面を見せられ、そのたびに胸の奥が軋んだ。


 朝が来る頃には、涙は枯れていた。


 けれど心は少しも軽くなっていなかった。


 そして数日後、私は王城の謁見の間へ呼び出された。

 

 王城からの呼び出しを受けたのは、それから三日後の朝だった。


 私は神殿でいつものように仕事をしていた。病人の治療を終え、孤児院へ送る薬草の仕分けを行い、ようやく一息つこうとしていた時、一人の神殿騎士が慌ただしく駆け込んできた。差し出された羊皮紙には王家の紋章が刻まれている。封を見た瞬間、胸の奥が小さくざわついた。理由は分からない。ただ、あの日以来ずっと続いている嫌な予感がまた顔を出しただけだった。


 内容は短い。


 本日正午、謁見の間へ出頭せよ。


 理由の記載はない。


 けれど拒否することなどできるはずもなかった。私は聖女であり、第三王子の婚約者でもある。王命に逆らうという選択肢は最初から存在しない。だから私はいつも通り身支度を整え、王城へ向かった。


 馬車に揺られている間も心は落ち着かなかった。


 窓の外には見慣れた王都の景色が流れている。市場では商人たちが声を張り上げ、人々は笑いながら行き交っている。平和な光景だった。私が守ろうとしてきた国の日常だった。


 なのに、なぜだろう。


 その景色が妙に遠く感じられた。


 胸の奥に重い石を抱え込んだような感覚だけが消えない。


 そして王城へ到着した時、私は違和感を覚える。


 人が多すぎた。


 普段の謁見であれば、ここまで大勢の貴族が集まることはない。だが今日は違う。廊下には多くの貴族たちが集まっていた。皆が小声で何かを話している。そして私の姿を見つけると、会話を止めた。


 その視線が痛い。


 まるで何かを知っているような目だった。


 私は思わず足を止めそうになる。


 けれど立ち止まるわけにはいかなかった。


 深く息を吸う。


 そして前を向く。


 何も悪いことはしていない。


 そう自分に言い聞かせながら歩き続けた。


 やがて巨大な扉の前へ到着する。


 衛兵が一礼し、重い扉がゆっくりと開かれた。


 謁見の間だった。


 高い天井。


 赤い絨毯。


 巨大な柱。


 玉座へ続く長い道。


 王国の権威を象徴する空間。


 その両側には大勢の貴族たちが並んでいた。


 全員が私を見ている。


 好奇心。


 期待。


 嘲笑。


 様々な感情が入り混じった視線が肌へ突き刺さる。


 私は歩いた。


 一歩ずつ。


 堂々と。


 聖女として。


 そうでなければ足が震えてしまいそうだった。


 玉座の前へ辿り着く。


 国王陛下がいる。


 王妃殿下がいる。


 重臣たちがいる。


 そしてレオンがいた。


 豪華な礼服に身を包んだ彼は、王族らしい威厳を纏って立っている。病人には見えなかった。少なくとも表面上は。


 だがその瞳だけは冷たかった。


 昔の面影を探そうとしても見つからない。


 幼い日に私へ二十年花を差し出した少年はいない。


 森で私を守ってくれた少年もいない。


 そこにいるのは王子レオンだけだった。


 私は静かに頭を下げる。


「聖女アリア・エルフィード、参上いたしました」


 声は震えなかった。


 けれど胸の鼓動は激しくなっている。


 謁見の間が静まり返る。


 誰も何も言わない。


 そしてしばらくの沈黙の後、国王陛下が重々しく口を開いた。


「アリア」


 その声に顔を上げる。


 国王陛下の表情は硬かった。


 厳しい。


 だが怒っているというより、何かを決断した人間の顔だった。


「長年に渡る聖女としての働き、誠に大義であった」


 予想外の言葉だった。


 私は瞬きをする。


 なぜ今そんな話を。


 そう思った。


 だが国王陛下は続ける。


「しかし、そなたとレオンとの婚約は本日をもって解消する」


 世界が静かになった。


 私はその言葉を理解するのに数秒かかった。


 婚約。


 解消。


 つまり。


 婚約破棄。


 頭では理解した。


 だが心が追いつかない。


 私は反射的にレオンを見る。


 彼は何も言わない。


 否定もしない。


 こちらを見ようともしない。


 その姿を見た瞬間、私は悟ってしまった。


 これは決定事項なのだと。


 もう覆らないのだと。


「理由を……お聞きしてもよろしいでしょうか」


 ようやく絞り出した声は思ったよりも落ち着いていた。


 国王陛下は少しだけ目を伏せる。


「王家と神殿の関係を見直すことになった」


 政治的な理由。


 建前としてはそれで十分だった。


 本当の理由が何であれ。


 もう決まっている。


 だから私はそれ以上追及しなかった。


 いや、できなかった。


 レオンが何も言わなかったから。


 もし彼が少しでも引き留めてくれたなら。


 少しでも迷う素振りを見せてくれたなら。


 私は違ったのかもしれない。


 けれど彼は何も言わない。


 まるで最初から他人だったかのように。


 それが全てだった。


 そして国王陛下は最後の決定を告げる。


「アリア・エルフィード。そなたには王都を離れ、隣国へ移住してもらう」


 追放。


 その言葉こそ使われなかった。


 だが意味は同じだった。


 私はゆっくりと目を閉じる。


 不思議と涙は出なかった。


 三日前に泣き尽くしてしまったからかもしれない。


 それとも。


 もう心が限界だったのかもしれない。


 私は再びレオンを見る。


 十年間愛した人。


 人生の全てだった人。


 そして静かに問いかけた。


「本当に、私がいなくなっても良いのですか?」


 その問いには色々な意味が込められていた。


 政務はどうするのか。


 看病はどうするのか。


 あなたのことを支えてきた私はどうなるのか。


 そして何より。


 私たちの思い出はどうなるのか。


 けれどレオンはほんの一瞬だけ目を伏せると、静かに言った。


「問題ない」


 その一言だった。


 それだけだった。


 私は小さく笑った。


 胸のどこかで何かが完全に壊れる音がした。


 そして深く頭を下げる。


「かしこまりました」


 顔を上げる。


 もう涙は出なかった。


 ただ静かに。


 本当に静かに。


 十年間抱き続けた想いへ別れを告げる。


「さようなら、私の初恋」


 その言葉は誰にも聞こえないほど小さかった。けれど確かに、私の人生の一つの終わりを告げる言葉だった。


 王都を離れる日は、それから一週間後に決まった。


 あまりにも呆気なかった。十年間続いていた婚約も、生まれ育った王都での暮らしも、私が聖女として積み上げてきた日々も、まるで古い書類を一枚処分するように淡々と片付けられていく。王城から与えられたのは隣国への移住許可証と最低限の旅費だけで、神殿からも形式的な別れの挨拶があっただけだった。もちろん、それを責めるつもりはない。私はもう第三王子の婚約者ではなく、王都に留まることを許されない女なのだから。


 荷造りは驚くほど早く終わった。服を数着、薬草学の本、聖女として使っていた記録帳、それから旅先でも困らない程度の金貨。人生というものは、終わらせようと思えばこんなにも小さな箱に収まってしまうのだと、私は妙に冷めた気持ちでそれを眺めていた。


 最後に手に取ったのは、胸元に下げていた小さなペンダントだった。


 中には、幼い日にレオンから貰った二十年花の押し花が入っている。


 あの森で、泣きじゃくる私に彼が差し出してくれた花。


 二十年に一度しか咲かないのだと、少し得意そうに教えてくれた花。


 次にこの花が咲く頃には、きっと僕たちは結婚して幸せになっている。


 その言葉を、私はずっと信じていた。


 信じていたからこそ、今まで耐えられた。冷たくされても、拒まれても、病のせいなのだと自分に言い聞かせることができた。小さい頃のレオンは嘘をつくような子ではなかったから。あの日、血だらけになりながら私を守ってくれた少年だけは、絶対に本物だったと思いたかったから。


 けれど、もう終わった。


 私はペンダントを握り締める。


 捨ててしまえば楽になれるのかもしれない。


 そう思った。


 けれど指は開かなかった。


 結局、私は最後まで弱かった。


 レオンを忘れたいと思いながら、レオンから貰ったものだけは捨てられない。そんな自分が惨めで、情けなくて、少しだけ笑えてしまった。


「……これで、本当に最後」


 私は誰に聞かせるでもなく呟き、ペンダントを荷物の奥へしまった。


 そして翌朝、私は王都を発った。見送りに来てくれたのは、神殿で世話になった数人の神官と、治療を受けたことのある子供たちだけだった。皆が泣いてくれた。私の手を握り、どうかお元気でと何度も言ってくれた。その優しさは嬉しかったけれど、胸の奥に空いた穴を埋めることはできなかった。


 王家からの見送りはなかった。


 当然だ。


 それでも馬車に乗り込む直前、私は一度だけ王城の方を振り返ってしまった。


 高い城壁。


 白い塔。


 何度も通った門。


 そして、そのどこかにいるはずのレオン。


 最後まで彼は来なかった。


 それが答えなのだろう。


 私は静かに前を向く。


 御者が馬に合図を出し、馬車がゆっくりと動き出した。


 石畳を進む車輪の音を聞きながら、私は窓の外を見つめ続けた。王都の景色が少しずつ遠ざかっていく。生まれ育った場所。聖女として生きた場所。恋をした場所。失恋した場所。すべてが後ろへ流れていく。


 胸は痛かった。


 けれど涙は出なかった。


 私はもう泣き疲れていた。


 だから小さく息を吐き、目を閉じる。


 さようなら、私の初恋。


 その言葉を胸の奥で呟いた瞬間、馬車は王都の門をくぐった。振り返ればまだ城壁は見える。白い塔も、王城の屋根も、幼い頃から何度も見上げてきた景色も、ほんの少し首を動かせばまだそこにある。けれど私はもう振り返らなかった。振り返れば、きっとまた期待してしまうと思ったからだ。もしかしたら最後の最後に誰かが追いかけてくるのではないか、もしかしたらレオンが本当は何かを言いたかったのではないか、そんな愚かな希望が胸の底から顔を出してしまう気がしたから、私は膝の上で両手を固く握り締め、ただ前だけを見つめていた。


 王都を出てしばらくすると、石畳の道は土の街道へ変わり、馬車の揺れは少しずつ大きくなっていった。窓の外には畑が広がり、遠くには小さな村が見え、農夫たちがこちらへ気付いて帽子を取る姿もあった。私はそれに小さく頭を下げたが、その人たちが私を誰だと思っているのかは分からなかった。まだ聖女だと思っているのかもしれない。王都から旅立つ貴族令嬢だと思っているのかもしれない。あるいは、ただの旅人だと思っているのかもしれない。けれど、そのどれでもよかった。もう私は王都の聖女アリアではない。第三王子の婚約者でもない。どこへ向かうのかも、何者として生きていくのかも分からないまま、ただ祖国から離れていく一人の女でしかなかった。


 道中、私は何度も胸元に手を伸ばしかけ、そのたびに指を止めた。ペンダントは荷物の奥にしまったはずなのに、そこにあるような気がしてならなかった。幼い日に貰った二十年花。血だらけのレオンが、泣きじゃくる私へ差し出してくれた白銀色の花。あの時の笑顔も、声も、手の温もりも、全部まだ覚えている。忘れたいと思った瞬間ほど鮮明に思い出してしまうのだから、心というものは本当に性質が悪い。私は馬車の揺れに身を任せながら、何度も何度も自分に言い聞かせた。忘れよう。全部忘れよう。あの約束も、あの花も、あの人も、隣国へ着く頃には過去にしてしまおう、と。


 けれど、忘れるというのは決意だけでできるものではなかった。


 隣国へ着いたばかりの頃、私は何度も夜中に目を覚ました。知らない天井、知らない寝台、知らない街の音。王都では聞こえなかった海鳥の鳴き声や、商人たちの荷車が石畳を叩く音が窓の外から聞こえてくるたび、自分が本当に遠くまで来てしまったのだと思い知らされた。最初のうちは神殿から紹介された小さな宿に身を寄せ、身分を隠すために姓を変え、聖女であったことも王族の婚約者だったことも口にしなかった。私に残されていたのは多少の治癒術と、薬草の知識と、人に笑顔を向けることに慣れすぎた顔だけだった。


 不思議なことに、隣国での暮らしは想像していたほど悪くなかった。


 もちろん楽ではなかった。王都で聖女として暮らしていた頃のように、誰かが部屋を用意してくれるわけでもなく、食事を運んでくれるわけでもない。薬草を仕入れるにも金が必要で、治療を行うにも場所が必要で、信用を得るには時間が必要だった。けれど、誰かの顔色を窺いながら城へ通う必要はなかった。冷たい言葉を浴びせられるために薬草茶を淹れる必要もなかった。レオンの部屋の扉の前で、今日こそ少しは笑ってくれるのではないかと期待しながら立ち尽くす必要もなかった。


 そのことに気付いた時、私はひどく泣いた。


 悲しかったからではない。


 楽になってしまった自分が、どうしようもなく薄情に思えたからだ。


 あれほど愛していたのに。あれほど傍にいたいと願っていたのに。いざ離れてみれば、呼吸がしやすくなっている。朝起きた時に胸が締め付けられない。今日も拒絶されるのだろうかと怯えなくていい。そんな当たり前の安らぎを感じてしまうたび、私はレオンを裏切っているような気がした。けれど同時に、もう彼の婚約者ではないのだから、裏切るも何もないのだとも思った。その二つの感情の間で揺れながら、私は少しずつ隣国での暮らしに慣れていった。


 最初は薬草を扱う小さな店だった。貴族相手ではなく、町の人々に向けた店だ。高価な秘薬ではなく、熱を下げる薬、傷の治りを早める軟膏、眠れない夜に飲む茶、子供でも飲める苦くない薬湯。そういうものを少しずつ売った。聖女として培った知識は思った以上に役に立ち、私の作る薬はよく効いた。けれど私は治癒の奇跡を安売りしなかった。寿命を分け与える力など当然使わない。あれは私の秘密であり、もう二度と誰かのために無防備に差し出してはいけないものだったからだ。


 やがて店は少しずつ評判になった。最初は近所の母親たちが来るようになり、次に商人たちが旅先へ持っていく薬を求めるようになり、それから兵士や船乗りまで訪れるようになった。私は薬草の仕入れ先を増やし、読み書きのできる孤児を雇い、店の奥に小さな調合室を作った。忙しくなればなるほど、余計なことを考える時間は減っていった。朝から晩まで働き、帳簿をつけ、仕入れ値を交渉し、客と話し、従業員に仕事を教える。気付けば一日が終わっている。そういう日々が、私を少しずつ過去から遠ざけてくれた。


 季節が巡った。


 一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年が過ぎた頃には、私の店は商会と呼ばれるほど大きくなっていた。


 扱う品も薬草だけではなくなった。保存食、香油、石鹸、旅装品、治療道具。人が健やかに暮らすために必要なものを少しずつ増やしていくうちに、商会はこの街になくてはならない存在になっていた。私はいつの間にか「アリア様」と呼ばれるようになっていたけれど、それは聖女としての呼び名とは少し違っていた。奇跡を起こす女としてではなく、働き、交渉し、失敗し、それでも前に進む商会主として呼ばれる名前だった。


 その呼び名は、嫌いではなかった。


 十年という歳月は長い。


 人を変えるには十分すぎるほど長い。


 私はもう、十六歳の頃の私ではなかった。誰かのために自分を削ることを愛だと思い込んでいた少女ではない。笑顔でいればいつか報われると信じていた聖女でもない。店を守り、人を雇い、商談で値を吊り上げ、時には相手の嘘を見抜いて微笑みながら切り捨てる、なかなかしたたかな商人になっていた。鏡を見るたび、少しだけ大人びた自分の顔に驚くこともあった。昔の私はもっと頼りなく、もっと泣き虫で、もっと馬鹿みたいに一途だった気がする。


 それでも、結婚はしなかった。


 求婚されたことがないわけではない。商会が大きくなるにつれ、私に近付いてくる男は増えた。誠実な人もいたし、優しい人もいたし、きっと一緒になれば穏やかに暮らせるのだろうと思える相手もいた。けれど私は誰の手も取らなかった。レオンを忘れられなかったから、というより、恋というものにもう疲れていたのだと思う。誰かを信じ、誰かのために自分の人生を差し出すような熱を、私はもう持っていなかった。


 そんなある年の冬、王都から来た商人が酒の席で何気なく口にした。


「そういえば、隣王国の第三王子が五年ほど前に亡くなっていたそうですよ」


 その時、私は手にしていた杯を落としそうになった。


 五年ほど前。


 つまり、私が隣国でようやく店を軌道に乗せ始めた頃だ。


 私は平静を装いながら、そうですか、とだけ答えた。商人は気付かなかったのか、あるいは興味がなかったのか、そのまま話を続けた。もともと病弱だったらしい。政務も滞りがちで、王族とはいえ第三王子だったから国政への影響は限定的だった。人望も昔ほどなかったらしく、国民の多くはあまり悲しまなかった。むしろ彼の周辺で止まっていた案件が動き出して、王城の者たちは内心ほっとしていたらしい。


 私はその話を最後まで黙って聞いた。


 胸が痛まなかったと言えば嘘になる。


 けれど、思ったほどではなかった。


 泣き崩れることもなかった。


 その夜も私は帳簿を確認し、明日の仕入れ予定を書き直し、従業員への給金を計算してから眠った。ただ、寝台に入って灯りを消した後、長い間天井を見つめていた。レオンが死んだ。あのレオンが。森で私を守ってくれた少年が。私を拒絶し、浮気をし、婚約を解消し、祖国から追い出した男が。もうこの世にいない。その事実はどこか遠い国の物語のようで、現実味がなかった。


 ざまぁだと思えばいいのだろうか。


 私を捨てたから。


 私を追放したから。


 だから病に負けたのだと。


 因果応報だと。


 そう思えば楽になれるのかもしれない。


 けれど、そう思い切るには、私はまだ彼を憎み切れていなかった。


 十年目の春が来た。


 その頃には商会はさらに大きくなり、私は街の中心にある大きな屋敷へ移っていた。屋敷といっても貴族の館ほど華美ではない。商会の事務所と倉庫と住居を兼ねた実用的な建物で、庭も小さかった。けれど私はその庭を気に入っていた。朝になると窓を開け、従業員たちが出勤してくる前の静かな時間に、花壇の手入れをするのが日課になっていた。


 その日もそうだった。


 朝の光は柔らかく、空気には春の匂いが混じっていた。私は手袋をはめ、花壇の土を確かめながら、今年はどの薬草を増やそうかと考えていた。商会の仕事は忙しいが、こうして土に触れている時間だけは不思議と心が落ち着く。王都を出たばかりの頃は、何もかも失ったと思っていた。けれど今、私は自分の手で築いた生活を持っている。自分を必要としてくれる人たちがいる。自分の力で守れる場所がある。


 ふと、庭の隅に置いていた鉢植えが目に入った。


 二十年花だった。


 王都を出る時、捨てられずに持ってきた花。


 正確には、森で貰った花から残した種を、何度も植え替えながら育てていたものだった。二十年に一度しか咲かないという花だから、当然この十年で咲いたことはない。それでも私はなぜか捨てられなかった。水をやり、土を替え、場所を移し、気付けばそれは私の庭の隅でひっそりと生き続けていた。


 けれど、その日。


 二十年花は枯れていた。


 葉は乾き、茎は黒ずみ、土は冷たく硬くなっている。昨日まで確かに生きていたはずなのに、まるで夜のうちに命を使い果たしてしまったかのようだった。私はしばらくその鉢を見つめていた。そして不意に、自分でも驚くほど静かな気持ちになった。


 悲しくなかった。


 少なくとも、昔の私が想像していたほどには。


 大切だったはずなのに。


 あの花は私にとって初恋そのものだったはずなのに。


 私は泣かなかった。


 ただ、ああ、枯れてしまったのだな、と思った。


 その瞬間、ようやく気付いた。


 私はもう、レオンのことを忘れていたのだと。


 完全に記憶から消えたわけではない。あの森も、あの花も、あの声も、思い出そうとすればまだ思い出せる。けれどそれは、胸を焼くような痛みではなくなっていた。遠い昔に読んだ物語の一場面のように、少し寂しく、少し懐かしく、それでも今の私を縛るものではなくなっていた。


 私は枯れた二十年花の鉢へ手を伸ばし、乾いた葉にそっと触れた。


「……私、ちゃんと生きているわ」


 誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。


 レオンへ向けたのか。


 昔の私へ向けたのか。


 それとも、この十年を必死に生きてきた今の自分へ向けたのか。


 ただ、その言葉を口にした時、胸の奥に残っていた最後の重石が少しだけ軽くなった気がした。


 その時だった。


 執務室の方から、控えめなノックの音が聞こえた。


 朝の来客としては少し早い。


 私は手袋を外し、庭から屋敷の中へ戻った。廊下を歩きながら、今日の予定を頭の中で確認する。午前中は南方商会との契約交渉、午後は薬草農園の視察、夕方には新しい従業員の面接。忙しい一日になるはずだった。だから私は、その扉の向こうに過去そのものが立っているなど、少しも思っていなかった。


 執務室へ入り、椅子へ座る。


「どうぞ」


 私がそう告げると、扉が静かに開いた。


 入ってきたのは、一人の初老の男性だった。


 背筋はまだ伸びているが、髪には白いものが増え、顔には深い皺が刻まれている。けれど私はその顔を忘れていなかった。十年という歳月を経ても、かつてレオンの側に控えていた老執事の面影ははっきりと残っていたからだ。


 そして、その隣には見知らぬ男が立っていた。


 剣士だろうか。


 華美な装飾はないが、隙のない立ち方をしている。傭兵とも騎士とも違う、不思議な気配を纏った男だった。


 老執事は私を見ると、深く、深く頭を下げた。


「お久しゅうございます、アリア様」


 その声を聞いた瞬間、十年前の礼拝堂の夜が、静かに胸の奥で目を覚ました。

 

  私はしばらく言葉を失っていた。十年という歳月は人の顔を変える。かつて黒々としていた髪には霜のような白が混じり、鋭かった目元には深い皺が刻まれ、背筋こそ伸びているものの、その肩には長い旅と苦労の重さが滲んでいた。それでも間違えるはずがなかった。礼拝堂で泣き崩れていた私を見つけ、何かを言いたそうにしながら最後まで何も言わなかった、あの人だった。


「……お久しぶりです」


 私はようやくそれだけを返した。商会主としてなら、どんな大商人が相手でも笑って迎えられる。隣国の貴族から理不尽な値引きを求められても、南方商会の老獪な交渉人を相手にしても、今の私はそう簡単には揺らがない。けれど目の前に立っているのが過去そのものだと気付いた瞬間、十年かけて築いたはずの平静が、薄い硝子のように頼りなく感じられた。


 老執事はもう一度深く頭を下げたまま、しばらく動かなかった。その姿を見ているうちに、私は奇妙な苛立ちにも似た感情が胸の奥に湧くのを感じた。どうして今さら来たのか。何をしに来たのか。レオンはもう死んだと聞いている。私はもう王都の聖女ではない。第三王子の婚約者でもない。十年前に捨てられ、追放され、ここで別の人生を作った女だ。それなのに、なぜ過去はこんなにも当然の顔をして扉を開けてくるのだろう。


「顔を上げてください。私はもう、あなたに礼を尽くされるような立場ではありません」


「いいえ」


 老執事は静かに首を横に振った。


「私にとって、あなた様は今も変わらず、坊ちゃんが生涯ただ一人お慕いした方でございます」


 その言葉は、あまりにも唐突だった。


 私は一瞬、意味を理解できなかった。いや、理解したくなかったのだと思う。十年の間に何度も自分へ言い聞かせてきた。終わったことだと。もう関係ないのだと。レオンは私を捨てた。別の女性を選び、婚約を解消し、王都から追い出した。それが全てだと。だから今さら、そんな言葉を差し出されても困るだけだった。


「……やめてください」


 自分でも驚くほど低い声が出た。


「坊ちゃん、などと懐かしそうに呼ばれても困ります。私はもう、あの方とは何の関係もありません。お慕いしていたなどと言われても、信じられるはずがないでしょう。あの方は私を嫌っていました。近寄るなと言いました。顔も見たくないと言いました。私ではない女性に口づけをして、私との婚約を解消して、隣国へ行けと命じたのです」


 言葉にしてみると、十年前に塞いだはずの傷がまだ完全には癒えていなかったことに気付いた。痛みはもう昔のように鋭くはない。けれど、奥深くに沈んだ棘のように、触れれば確かに疼く。私は椅子の肘掛けを握り締めたまま、目の前の老執事を見つめた。


「それでも、生涯私を愛していたと?」


「はい」


 老執事は逃げなかった。


 その短い返事が、なぜか余計に腹立たしかった。


「残酷な冗談ですね」


「冗談で、坊ちゃんが亡くなってからのこの五年あなた様を探し続けるほど、私は若くはございません」


 その言葉に、私は初めて黙った。老執事の声は穏やかだったが、そこには十年という歳月の重みがあった。旅をした者の声だった。幾度も手がかりを失い、それでも諦めず、国境を越え、知らない街を歩き続けた者の声だった。


 私は隣に立つ剣士風の男へ視線を移した。彼はそれまで一言も発していなかった。年齢は私とそう変わらないか、少し上だろう。腰には剣を帯びているが、王国騎士のような紋章はない。傭兵にしては立ち姿が静かで、貴族にしては空気が荒い。何者なのか分からなかったが、ただの護衛ではないことだけは直感で分かった。


「……それで、何をしに来たのですか」


 私はできる限り冷静に尋ねた。


「今さら昔話をするためだけに、五年も私を探したわけではないのでしょう」


「はい」


 老執事は頷いた。


「真実を、お伝えするために参りました」


 真実。


 その言葉が、執務室の空気をわずかに冷たくした。私は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。十年前もそうだった。礼拝堂で泣いていた私の前にこの人は現れ、何かを知っているような顔をして、けれど何も言わなかった。その沈黙の先にあったものを、私は今さら聞かされようとしているのだと気付き、胸の奥が不穏にざわめいた。


「私はもう、真実など知りたくありません」


「それでも、あなた様には知る権利がございます」


「十年前に言うべきことだったのではありませんか」


 思わず責めるような声になった。老執事の顔に苦痛が走る。それを見て、少しだけ胸が痛んだ。けれど止められなかった。


「十年前、私は泣いていました。あなたは何かを知っていたのでしょう。それなのに何も言わなかった。今夜のことは忘れてくださいとだけ言った。忘れられるはずがないものを見た私に、忘れろと言ったのです。それで十年後に突然現れて、真実を伝えに来たと言われても、どう受け止めればいいのですか」


 老執事は深く頭を下げた。


「返す言葉もございません。あの時の私は、坊ちゃんの命令に従うことしかできませんでした」


「レオンの命令?」


「はい」


 老執事の声がわずかに震えた。


「あの方は、ご自分の死期を知っておられました」


 私は息を止めた。


 死期。


 その言葉は知っている。余命一年と告げられたあの日から、私が何度も恐れ、何度も否定し、何度も寿命を分け与えることで遠ざけようとしたものだ。けれど十六歳になったレオンは生きていた。だから私は、まだ大丈夫だと思っていた。私が支えている限り、彼は生きられるのだと信じていた。


「坊ちゃんは、ご自分が長くは生きられないことを悟っておられました。そして、自分の隣にあなた様を縛り付けてはならないと考えたのです。自分の死後、あなた様が王家に利用されることも、病弱な第三王子の未亡人として人生を閉ざされることも、何より自分のためにあなた様が未来を捨てることも、あの方は恐れておられました」


「……だから、私を傷つけたと?」


 声が震えた。


「冷たくして、拒絶して、浮気までして、私を追い出したと?」


「はい」


「馬鹿げています」


 私は吐き捨てるように言った。


 けれど、その声に込めた怒りは、思ったほど強くならなかった。なぜなら心のどこかで、私はすでに気付いてしまっていたからだ。目の前の老執事は嘘をついていない。少なくとも、私を騙して楽しむためにここまで来たのではない。では、あの十年間は何だったのか。私が信じていた裏切りは、本当に裏切りだったのか。分からなくなる。それが怖かった。


「私は見ました」


 私はゆっくりと言った。


「あの人が、他の女性と口づけをしているところを。あれを見間違いだと言うつもりですか」


 老執事は隣の男へ視線を向けた。


 それまで沈黙していた剣士風の男が、気まずそうに一歩前へ出る。


「見間違いじゃない」


 低い声だった。


「たしかに、あんたは見た。レオン殿下が女に口づけをしているところをな」


 私は眉をひそめる。


「あなたは誰ですか」


「名前はガイ。昔、殿下に雇われていた者だ。表向きは護衛。実際には、まあ、汚れ仕事も少しはした」


 男は自嘲するように笑った。


「そして、あの夜の女は俺だ」


 時間が止まった。


 私は何を言われたのか分からず、ただ男を見つめた。あの夜の女。金色の髪の、美しい女性。レオンが優しく抱き寄せ、口づけをした相手。その人物が、今目の前にいる剣士風の男だと。あまりにも理解できない言葉だった。


「……何を言っているの」


「俺の技能は擬態だ。身体までは大きく変えられないが、顔と髪、それから声くらいなら別人に見せられる。近くで見れば違和感はある。だが月明かりの下で、少し離れた場所からなら十分騙せる」


「そんな……」


 私は椅子から立ち上がりかけ、けれど足に力が入らず、再び座り込んだ。


「証明しろと言われると思っていた」


 ガイは静かに言った。


 次の瞬間、彼の顔が揺らいだ。


 輪郭がぼやけ、髪色が変わり、目元が細くなり、頬の形が変わっていく。魔術とは少し違う、皮膚そのものが別の形へ馴染んでいくような不気味な変化だった。私は息を呑んだ。そして数秒後、目の前には私の顔があった。


 私と同じ目。


 私と同じ髪。


 私と同じ唇。


 鏡でも見ているかのようだった。


 ただし、表情だけは男のものだった。


「……やめて」


 私の声は掠れていた。


 ガイはすぐに元の顔へ戻った。


 私は両手で口元を覆う。十年前、月明かりの下で見た女性の輪郭が脳裏に蘇る。遠くて顔はよく見えなかった。金色の髪と細い身体だけを見て、私は女性だと思い込んだ。いや、思い込まされた。あれは浮気だった。私を捨てるための決定的な裏切りだった。そう信じて、十年生きてきた。


「では……あれは……」


「坊ちゃんがあなた様を諦めさせるために用意した芝居でございます」


 老執事が言った。


「最低な芝居だ」


 ガイが苦く呟いた。


「俺もそう思う。今でも思ってる。だが、あの時の殿下は止まらなかった。あんたを突き放すには、それくらいしなきゃ駄目だと信じ込んでいた。あんたが優しすぎるから、普通に別れを告げても絶対に離れない。だから、憎ませるしかないと」


 私は何も言えなかった。


 胸の奥で、十年前に凍り付いたはずの何かが軋み始めていた。怒りなのか、悲しみなのか、安堵なのか、分からない。分からない感情が一度に押し寄せて、呼吸がうまくできなかった。


「そんなの……」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱かった。


「そんなの、勝手すぎるわ」


「はい」


 老執事は深く頷いた。


「坊ちゃんは、勝手でございました。愚かでございました。あなた様のお気持ちを傷つけ、ご自分の願いだけを押し通した。それはどのような理由があっても、許されることではございません」


 その言葉に、私は老執事を見た。


 彼は泣いていた。


 静かに。


 年老いた顔に深い皺を刻んだまま、音もなく涙を流していた。


「それでも、どうか一つだけ信じていただきたいのです」


 老執事は震える声で続けた。


「坊ちゃんは、生涯あなた様だけを愛しておられました」


 その瞬間、私の胸の奥で、枯れたはずの二十年花が小さく揺れた気がした。


 私はしばらく何も言えなかった。


 信じたいと思ったわけではない。むしろ、信じたくなかった。十年間、私は自分が裏切られたのだと思って生きてきた。レオンは私を捨て、別の女性を選び、私を王都から追い出したのだと、何度も何度も自分に言い聞かせてきた。そうしなければ前へ進めなかったからだ。そうでなければ、あの日の傷を抱えたまま新しい土地で暮らし、名を変え、商会を立ち上げ、誰にも縋らずに生きていくことなどできなかった。なのに今さら、それは芝居だったと言われても、彼は生涯私だけを愛していたと言われても、私の中で固めてきた十年分の諦めが、足元から崩れていくようで怖かった。


「……どうして」


 ようやく絞り出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。


「どうして、そこまでして私を遠ざける必要があったの。死期を知っていたから? 私を未亡人にしたくなかったから? 王家に縛らせたくなかったから? そんな理由で、あの人は私の十年を壊したの?」


 老執事は何も言わなかった。ガイも黙っていた。執務室の中には、窓の外から聞こえる街の音だけが微かに届いている。商人たちの声、馬車の車輪が石畳を叩く音、遠くで誰かが笑う声。いつもの朝と何も変わらないはずなのに、この部屋だけが過去の底へ沈んでしまったようだった。


「私は、あの人を救っていた!」


 言葉が勝手に零れた。


 余命一年だと言われたレオンが十六歳まで生きていたのは、私が傍にいたからだ。私が看病し、政務を支え、誰にも言えない秘密を抱えたまま、彼のために自分の何かを少しずつ差し出していたからだ。もちろん、それを口にすることはできない。私の力は、誰にも知られてはいけないものだった。知られれば利用される。王家のために、神殿のために、国のために、誰かのために使えと言われ、最後には私自身が使い潰される。そんな未来が容易に想像できたから、私はずっと黙っていた。レオンにさえ、言わなかった。


 けれど、それでも私は彼を助けたかった。夜ごと彼の手を握った記憶がある。薄暗い寝室で、苦しそうに眠る彼の横顔を見つめながら、どうか明日も目を覚ましてほしいと祈った記憶がある。自分の内側から何かが流れ出していくような、身体が重くなり、視界が霞み、指先が冷えていくような、あの恐ろしい感覚を何度も味わった。それでも彼の呼吸が少しでも楽になれば、それだけで報われた気がしていた。私は確かに愛していた。愚かで、独りよがりで、報われない愛だったとしても、その時の私は本気だった。


「なのに、あの人は私を追い出した。私がいなければ困るはずなのに、問題ないと言った。看病も、政務も、何もかも私がしていたのに、平然と捨てた。私は……私は、自分があまりにも惨めで、馬鹿みたいで……」


 そこまで言って、私は言葉を飲み込んだ。これ以上は言ってはいけない。私が本当は何をしていたのか、どれほどのものを彼へ差し出していたのか、それだけは誰にも知られてはいけない。十年経った今でも、その秘密は私だけのものだった。だから私は唇を噛み、震える息を押し殺した。


 老執事は、そんな私をじっと見つめていた。彼は私が何を隠したのかまでは知らないはずだった。ただ、私の声に滲んだ後悔と痛みだけは感じ取ったのだろう。深く皺の刻まれた顔に、さらに苦しげな影が落ちた。


「アリア様」


 老執事の声は静かだった。


「あなた様が坊ちゃんを支えてくださっていたことは、存じております。看病も、政務も、日々の細やかな気遣いも、すべて坊ちゃんは分かっておられました。だからこそ、あの方は恐れておられたのです」


「恐れていた?」


「はい。あなた様が、坊ちゃんのためならご自分の未来さえ差し出してしまう方だと知っていたからです。坊ちゃんは、あなた様の優しさを誰よりも恐れておられました」


 その言葉に、胸の奥が小さく軋んだ。


 レオンが、私の優しさを恐れていた。


 それはあまりにも奇妙で、けれど否定しきれない言葉だった。もし彼が私の秘密を知らなかったとしても、私が彼のために無理をしていることくらいは気付いていたのかもしれない。何度突き放されても傍に行き、どれだけ冷たくされても薬草茶を持ち、眠れない夜には祈り続ける私を見て、彼は自分が私の人生を奪っていると思ったのかもしれない。


「だから遠ざけたというの?」


「はい」


「だから嫌われようとしたの?」


「はい」


「だから、あんな芝居までしたの?」


 老執事は目を伏せた。


「はい」


 私は笑いそうになった。もちろん、笑えるはずがなかった。ただ、あまりにも愚かで、あまりにも残酷で、あまりにも優しすぎて、どう受け止めればいいのか分からなかった。私を守るために私を傷付けた。私の未来を守るために、私の十年を壊した。そんなものは愛ではなく、ただの独りよがりだと言い切れたら楽だったのに、彼が本当にそう考えそうな人間だったことを、幼い日の私は知っていた。


「どうして……言ってくれなかったの」


 私は震える声で呟いた。


「死期を知っていたことも、私を遠ざけようとしていたことも、あの夜のことも、どうして何一つ言ってくれなかったの。言ってくれたら、私は……」


 そこまで言って、言葉が詰まった。


 言ってくれたらどうしたのだろう。私はきっと離れなかった。むしろもっと必死に彼を助けようとした。自分の全てを使ってでもレオンを救おうとした。彼の傍に残り、彼の病と共に生き、彼の死を見届けることさえ選んだかもしれない。レオンはそれを分かっていた。だから言わなかった。だから私を憎ませた。私が生きるために。私が彼なしの未来へ進むために。


 私は椅子から立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。身体が震えている。呼吸が乱れる。視界が滲む。十年前、礼拝堂で泣いた時とは違う涙だった。裏切られたと思った涙ではない。捨てられたと思った涙でもない。自分がどれほど歪な形で愛されていたのかを、取り返しのつかないほど遅れて知ってしまった涙だった。


「ですが、アリア様」


 老執事が、さらに声を低くした。


「真実は、それだけではございません」


 私は顔を上げた。


 これ以上まだ何があるというのだろう。偽りの口づけ。私を遠ざけるための冷たい言葉。婚約解消。隣国への追放。もう十分だった。これ以上何かを知らされれば、十年かけて立て直した私の心は、本当に壊れてしまうかもしれない。


 けれど老執事の表情は、そこで話を終えることを許さなかった。長い間、胸の奥に封じ込めていた棺の蓋を、今まさに開けようとしている顔だった。


「アリア様。幼い頃、あなた様は重い病にかかられたことがございませんか」


 息が止まった。


 記憶の底から、忘れていたはずの光景が浮かび上がる。白い天井。濡れた布。泣いている母の声。苦しそうに祈る父の姿。身体中が燃えるように熱く、呼吸をするだけで喉が裂けそうに痛かった夜。確かにあった。森で魔物に襲われた少し後、私は原因不明の高熱で寝込んだことがある。医者たちは危険な病だと言っていた。子供の身体では長く持たないかもしれないと、両親が廊下で話しているのを聞いた記憶もある。けれど私は助かった。ある朝、まるで悪夢が終わったように熱が引き、身体が軽くなり、それから数週間もしないうちに元気に走り回れるようになった。


 幼かった私は、それを奇跡だと思っていた。聖女としての力が目覚めたのだと、周囲もそう言った。だから疑問に思わなかった。なぜ突然治ったのかなど、考えもしなかった。


「……あります」


 私の声は震えていた。


「でも、それが何だというの」


 老執事は深く息を吸った。


「坊ちゃんの特殊な能力は、収奪でございました」


 収奪。


 聞き慣れない言葉のはずなのに、その響きだけで胸の奥が冷たくなった。


「他人から、望んだものを奪う力です。財貨でも、傷でも、病でも、寿命でも、才でも、理屈の上では何でも奪える。あまりにも強く、あまりにも危険な力でございましたゆえ、その存在を知る者はごく僅かでした。国王陛下でさえ、全てを把握していたわけではございません」


「……何でも、奪える」


「はい」


 老執事は苦しそうに頷いた。


「ですが、私の知る限り、坊ちゃんがその力を本当の意味で使われたのは、生涯で一度きりでございます」


 嫌な予感がした。


 もう聞きたくなかった。この先に何があるのか、心のどこかで分かってしまったから。私は首を振りかけた。やめて、と言いたかった。もう十分だ、と。偽りの口づけだけで十分だった。彼が私を愛していたという話だけでも、私の十年はぐちゃぐちゃに掻き乱されている。これ以上は無理だった。


 けれど老執事は続けた。


「その一度が、あなた様でございました」


 世界が静かになった。


「幼いあなた様を蝕んでいた病。それを坊ちゃんが奪われたのです。あなた様から、ご自分の身体へ」


 私は何も言えなかった。


 頭が理解を拒んでいた。言葉は耳に届いている。意味も分かる。けれど心が受け取らない。受け取ってしまえば、これまでの自分が何だったのか分からなくなってしまうから。


「坊ちゃんはまだ幼かった。ご自分の力がどれほど危険なものかも、完全には理解しておられなかった。ただ、あなた様が死ぬかもしれないと聞いて、耐えられなかったのでしょう。あなた様の部屋へ忍び込み、その手を握り、病を奪った。翌朝、あなた様の熱は引き、坊ちゃんは倒れました」


 老執事の声が滲む。


「その時からでございます。坊ちゃんの身体が、あの病に蝕まれ始めたのは」


 私は自分の手を見下ろした。


 十年前、何度もレオンへ差し出した手。彼を救っていたと信じていた手。誰にも言えない秘密を抱えたまま、彼のために何かを差し出していた手。けれど本当は、最初に救われていたのは私だった。私が生きているのは、レオンが病を奪ったから。私が健康な身体で笑い、走り、聖女として人々に慕われ、隣国で商会を築き、今日まで生きてこられたのは、彼が私の死を自分の身体へ移したから。


 胸の奥で、何かが砕けた。


 十年前に砕けた初恋とは違う。もっと深いところ。私という人間の土台そのものが崩れていく音だった。


「嘘……」


 そう呟くことしかできなかった。


「嘘よ。だって、私は……私はずっと、レオンを助けているつもりで……」


「あなた様は確かに坊ちゃんを支えてくださいました」


 老執事は静かに言った。


「けれど、坊ちゃんはそれ以上に、あなた様を守っておられたのです。幼い頃から、最期の瞬間まで」


 私は口元を押さえた。吐き気がした。悲しいのか、苦しいのか、悔しいのか分からない。私が救っていたと思っていた。私が守っていたと思っていた。彼が生きていられたのは私のおかげだと、どこかで信じていた。けれど違った。私が生きていることそのものが、彼から与えられたものだった。私の健康な身体も、未来も、十年後にこうして商会主として立っている今日も、すべて彼が自分の命と引き換えに残してくれたものだった。


「どうして……」


 私は震える声で呟いた。


「どうして、そんなことを……」


「坊ちゃんは、あなた様を愛しておられました」


 老執事は言った。


「ただ、それだけでございます」


 その一言は、あまりにも重かった。


 愛していたから病を奪った。愛していたから遠ざけた。愛していたから嫌われようとした。愛していたから、何も言わずに死んだ。そんなものはあまりにも勝手で、あまりにも優しくて、あまりにも残酷だった。私は怒りたかった。どうして相談してくれなかったのかと責めたかった。私の気持ちを勝手に決めないでと叫びたかった。けれど叫ぶ相手はもういない。十年前に私を追い出したあの人は、五年前に死んでしまった。


「坊ちゃんは最後まで、あなた様の幸せだけを願っておられました」


 老執事が懐から小さな封筒を取り出した。古びた封筒だった。封蝋は割れていない。そこには、見覚えのある癖字で私の名が書かれていた。


 アリアへ。


 その文字を見た瞬間、私はとうとう堪えきれなくなった。涙が頬を伝い、机の上に落ちる。震える手で封筒を受け取ることすらできず、ただその文字を見つめ続けた。


「これは……」


「坊ちゃんが亡くなる少し前に遺されたものです。本来なら、もっと早くお渡しするべきでした。ですが、あなた様は名を変え、居場所を消されていた。私も老い、探すのに時間がかかってしまいました。申し訳ございません」


 私はゆっくりと封筒へ手を伸ばした。


 指先が震える。触れるのが怖かった。開けば、もう戻れない気がした。十年間かけて作ってきた平穏も、諦めも、忘れたと思っていた初恋も、全部ひっくり返ってしまう気がした。


 それでも私は封を切った。


 中には一枚の手紙が入っていた。紙は少し黄ばんでいる。けれど文字ははっきりと残っていた。私は息を吸い、読み始めた。


 ――アリア。


 最初の一文字を目にしただけで、涙が溢れた。


 ――アリア。


 最初の一文字を目にしただけで、涙が溢れた。


 それは、私がもう二度と聞けないと思っていた声だった。紙に書かれた文字に声があるはずなどないのに、幼い日の森で私を呼んだ声も、泣き止まない私を困ったように慰めてくれた声も、病に倒れてから何度も私を拒んだ冷たい声さえも、すべてがその一文字の奥から蘇ってくるようだった。私は震える指で手紙を握り締め、滲んでいく文字を何度も瞬きしながら追った。


 ――アリア。

 この手紙を君が読んでいるということは、僕はもう君の前にはいないのだと思う。まず謝らせてほしい。君を傷つけた。泣かせた。嫌われるためだと言い訳して、君の心を何度も踏みにじった。きっと君は僕を許さなくていい。むしろ許さないでほしい。君に優しい言葉をかける資格など、僕にはもう残っていないから。


 そこまで読んだだけで、私は喉の奥から込み上げてくる嗚咽を堪えきれなくなった。手紙の向こうにいるレオンは、私が知っているどのレオンよりも静かだった。森で私を守ってくれた少年でもなく、病に倒れて変わってしまった冷たい王子でもなく、死を前にしてようやく自分の罪を見つめている一人の青年の声だった。


 ――けれど、どうしても伝えておきたいことがある。僕は君を嫌いになったことなど一度もなかった。君の顔を見るのが辛かったのは、君が憎かったからではない。君が優しすぎたからだ。僕が苦しめば君は手を伸ばす。僕が倒れれば君は眠らずに看病する。僕がもう長くないと分かっていても、君はきっと自分の未来まで差し出してしまう。僕には、それが怖かった。君の人生が、僕の病と死に引きずられて終わってしまうことが、何より怖かった。


 私は息を止めた。


 知られていたわけではない。私が寿命を分け与える力を持っていることを、レオンが正確に知っていたはずはない。けれど彼は気付いていたのだ。私が何かを削っていることに。私が笑顔の裏で少しずつすり減っていることに。私は隠しているつもりだった。誰にも知られず、誰にも気付かれず、自分だけの秘密として彼を救っているつもりだった。けれど、彼は見ていた。私が彼を見ていたように、彼もまた私を見ていたのだ。


 ――だから僕は、君に嫌われることを選んだ。正しい方法ではなかった。卑怯で、愚かで、最低の方法だった。だけど君は優しいから、ただ別れを告げてもきっと離れなかっただろう。僕が病を理由に婚約を解消したいと言っても、君はきっと笑って首を横に振っただろう。だから僕は君の初恋を壊した。君が僕を憎んで、僕のいない未来へ歩いていけるように。


 視界が歪む。


 怒りたかった。


 どうして勝手に決めたの、と叫びたかった。私がどう生きるかは私が決めることだった。あなたの傍で生きることも、あなたの死を看取ることも、あなたと一緒に苦しむことも、私が選びたかった。優しさの名を借りて私から選択肢を奪った彼を、責めたかった。


 けれど、その怒りの奥から、どうしようもないほど深い愛しさが込み上げてくる。


 レオンは間違えた。


 間違え続けた。


 私を守るために私を傷つけ、私の未来を救うために私の初恋を壊した。そんなものは決して正しい愛ではない。けれど、それでも彼は最後まで私を見ていた。私が生きる未来だけを見ていた。自分がいなくなった後も、私が笑って暮らせるようにと、それだけを願っていた。


 ――あの森の日を覚えているだろうか。君は泣いていた。僕は格好つけて、君を守ると言った。二十年花を渡して、次にこの花が咲く頃には僕たちは幸せになっているはずだと言った。子供の約束だった。けれど、僕は本気だった。あの日からずっと、僕は君を守りたかった。君の隣に立つことができなくても、君が僕を憎んでも、君が僕のいない場所で誰かと幸せになっても、それでも君が生きていてくれるなら、僕はそれでよかった。


 手紙の文字が滲んで読めなくなった。


 私は何度も涙を拭った。けれど拭っても拭っても次から次へと溢れてくる。老執事もガイも何も言わなかった。二人とも、私が読み終えるまで静かに待っていた。執務室の中には紙を握る私の震える音と、抑えきれない嗚咽だけが響いていた。


 ――アリア。

 もし君が今、僕のことで泣いているなら、どうか最後には笑ってほしい。僕のために命を削らないでほしい。僕のために未来を止めないでほしい。君がこの手紙を読む頃、二十年花が咲く季節が近いはずだ。もしどこかであの花を見つけたら、どうか僕との約束を思い出してほしい。僕たちが結婚して幸せになる未来は叶わなかったけれど、君が幸せになる未来まで失われたわけじゃない。だから、どうか生きて。僕のぶんまでではなく、君自身のために。

 さようなら、僕の初恋。

 君を守ると約束した少年より。


 最後の一文を読んだ瞬間、私は手紙を胸に抱き締めた。


 声にならない声が喉から漏れる。苦しくて、悲しくて、悔しくて、愛しくて、もう何が何だか分からなかった。十年前、私は「さようなら、私の初恋」と言って王都を去った。あれで終わったのだと思っていた。けれどレオンもまた、どこかで同じように私へ別れを告げていたのだ。私が彼を憎んで生きている間、彼は私が生きていることだけを願いながら死んでいった。


「馬鹿……」


 私は震える声で呟いた。


「本当に、馬鹿よ。レオン」


 老執事が静かに目を伏せる。


「はい」


「勝手すぎるわ」


「はい」


「優しさの使い方が、下手すぎる」


「……はい」


 何度頷かれても、胸の痛みは消えなかった。消えるはずがなかった。けれど、その痛みの形は変わっていた。裏切られた痛みではない。捨てられた痛みでもない。愛されていたことを、遅すぎるほど遅く知ってしまった痛みだった。


 私は涙を拭い、手紙を丁寧に畳んだ。


「少し、一人にしてください」


 老執事は何か言いたそうにしたが、やがて深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 ガイも黙って一礼する。


 二人が部屋を出ていくと、執務室には私一人だけが残された。窓の外ではいつも通り街が動いている。商会の従業員たちが出勤し始めたのか、廊下の向こうから小さな足音や話し声が聞こえた。けれど私はしばらく動けなかった。手紙を抱き締めたまま、机に突っ伏すようにして泣いた。


 泣いた。


 十年前に失恋した時よりも泣いた。


 レオンが死んだと聞いた時には泣かなかったのに、今さら涙が止まらなかった。


 彼はもういない。


 謝りたいことも、責めたいことも、聞きたいことも、何一つ本人には届かない。どうして相談してくれなかったのか。どうして一人で決めたのか。どうして私を信じてくれなかったのか。どうして最後まで、そんなふうに私を守ろうとしたのか。問いかけたいことはいくらでもあった。けれど答えはない。残されたのは古びた手紙と、枯れた二十年花と、十年越しにほどけてしまった初恋だけだった。


 どれほど時間が経ったのか分からない。


 涙が少しだけ落ち着いた頃、私はふらつく足で立ち上がり、手紙を胸に抱いたまま庭へ向かった。


 庭の隅には、枯れた二十年花の鉢がある。


 朝に見た時と同じように、葉は乾き、茎は黒ずみ、命を失ったように沈黙していた。私はその前に膝をついた。十年前なら、迷わず力を使っていただろう。自分の寿命を分け与え、たとえ命を削ってでもこの花を咲かせようとしただろう。それがレオンとの最後の繋がりだと思って、過去に縋るために、自分を犠牲にしてでも奇跡を起こそうとしたはずだ。


 けれど私は、手紙の最後の一文を思い出した。


 僕のために命を削らないでほしい。


 その言葉が、震える手を止めた。


 私は枯れた茎へ伸ばしかけた指を、そっと膝の上へ戻した。涙はまだ頬を濡らしている。けれど胸の奥には、不思議なほど静かな温かさがあった。レオンが最後に願ったのは、私が彼のためにまた何かを失うことではない。私が私自身のために生きることだった。


「……分かったわ」


 私は小さく呟いた。


「もう、あなたのために命は削らない」


 風が吹いた。


 春の柔らかな風だった。


 枯れた二十年花の茎が、かすかに揺れる。私は目を伏せ、土に手を添えた。力を使うためではない。ただ、最後に触れたかった。あの森の日から、ずっと私の中に残っていた約束に、きちんと別れを告げたかった。


「でもね、レオン」


 私は涙を拭いながら、笑った。


「私はあなたを忘れない。憎むためでも、縛られるためでもなく、ちゃんと愛されたことを覚えて生きていく。あなたが間違えたことも、私を傷つけたことも、全部なかったことにはしない。でも、あなたが私を守ろうとしてくれたことも、なかったことにはしない」


 その時だった。


 枯れたと思っていた茎の先が、ほんのわずかに震えた。


 私は息を呑む。


 最初は見間違いだと思った。涙で視界が滲んでいるせいだと思った。けれど違った。黒ずんでいた茎の奥から、淡い緑が滲むように戻っていく。乾いた葉の間から小さな蕾が顔を出し、それは春の光を受けながら、ゆっくり、ゆっくりと膨らんでいった。


 私は何もしていない。


 寿命を分け与えていない。


 奇跡を起こしていない。


 ただ、見つめていただけだった。


 二十年花は、自分の力で咲こうとしていた。


 思い出したように。


 約束の季節が来たことを告げるように。


 蕾がほどける。


 白銀色の花びらが一枚、また一枚と開いていく。朝の光を受けたその花は、幼い日に森で見たものと同じだった。夕日に照らされて輝いていたあの花。血だらけのレオンが、泣きじゃくる私へ差し出してくれた花。二十年に一度しか咲かない、約束の花。


 私はその花を見つめながら、今度こそ声を上げて泣いた。


 子供の頃のように。


 森で助けられたあの日のように。


 けれど、その涙は悲しみだけではなかった。


 失ったものを悼む涙であり、愛されていたことを受け取る涙であり、そしてこれからも生きていくための涙だった。


「咲いたわ、レオン」


 私は泣きながら笑った。


「二十年花、ちゃんと咲いたわ」


 返事はない。


 もう彼の声は聞こえない。


 けれど不思議と寂しくなかった。


 花びらが風に揺れる。その姿はまるで、あの日の少年が困ったように笑っているようだった。泣かないで、と言っているようだった。次にこの花が咲く頃には、きっと幸せになっている。そう言ってくれた約束は、私が思っていた形では叶わなかった。私たちは結婚しなかった。共に年を重ねることもなかった。幸せな家庭を築くこともなかった。


 それでも、約束は完全に嘘にはならなかった。


 今の私は、ちゃんと生きている。


 自分の足で立ち、自分の居場所を持ち、自分を必要としてくれる人たちに囲まれている。傷付いた過去があっても、失った初恋があっても、それでも私はここまで来た。だからきっと、これも幸せの一つなのだと思えた。


 夕方、私は老執事とガイを再び執務室へ呼んだ。


 二人は庭で咲いた二十年花を見て、長い間言葉を失っていた。老執事は震える手で目元を押さえ、ガイはばつが悪そうに顔を背けた。私はそんな二人を見ながら、穏やかに口を開いた。


「王都へは戻りません」


 老執事が顔を上げる。


「ここが、今の私の居場所です。レオンが守ろうとした未来を、私はここで生きます。だから、あなたももう私を探さなくていい。レオンの命令も、今日で終わりにしてください」


 老執事の目から、また涙が落ちた。


「……ありがとうございます」


「礼を言うのは私の方です。真実を届けてくれて、ありがとう」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた気がした。


 数日後、老執事は王都へ戻ることになった。ガイも彼に同行するという。私は二人に旅費と薬を持たせ、最後に小さな箱を渡した。中には、二十年花の種が入っている。


「レオンのお墓のそばに、植えてくれますか」


 老執事は箱を両手で受け取り、深く頷いた。


「必ず」


「二十年後に咲くかどうかは分かりません。でも、もし咲いたら伝えてください。私はちゃんと生きているって。もう泣いてばかりの子供ではないって」


 老執事は泣きながら笑った。


「坊ちゃんも、きっとお喜びになります」


 私は空を見上げた。


 春の空は高く、青く、どこまでも続いていた。


 その後、私は商会の隣に小さな療養院を建てた。病で苦しむ子供たちや、金のない人々が安心して治療を受けられる場所だ。奇跡に頼るのではなく、薬と知識と人の手で命を支える場所。私はもう、自分の寿命を軽々しく誰かへ差し出すことはしなかった。けれど、自分の人生を使って誰かを支えることはできる。それは命を削ることとは違う。生きることそのものだった。


 庭の二十年花は、その年の終わりまで咲き続けた。


 花が散った後も、私はその鉢を捨てなかった。枯れたからではない。次の二十年を待つために、土を替え、水をやり、日の当たる場所へ置いた。もう未練ではなかった。過去に縋るためでもなかった。それは、私が受け取った愛を、未来へ繋いでいくための小さな約束だった。


 そして二十年花が咲いたあの日から、私は時々笑えるようになった。


 心から。


 誰かに求められた聖女の笑顔ではなく、商会主として取り繕う笑顔でもなく、ただ一人の女として、今日を生きていることを嬉しいと思える笑顔だった。


 レオン。


 あなたのやり方は間違っていた。


 私は今でも、そう思っている。


 だけど、あなたがくれた命を、あなたが守ろうとした未来を、私はもう呪わない。


 私は生きる。


 あなたのためだけではなく、私自身のために。


 二十年花が次に咲く頃、私はもっと幸せになっている。


 今度は誰かに守られるためではなく、自分で選んだ幸せを胸に抱いて。


 そう思いながら、私は今日も庭へ出る。


 朝の光を浴びた二十年花の葉が、風に揺れている。


 まるで、遠い日の少年が笑っているように。


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