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第16話:影のない少年



「……誰がフィオナを!?」


セレナの叫びは、夜の校舎に虚しく吸い込まれていった。 床に落ちた一滴の「黒い泥」さえ、何かの意志に導かれるようにスッと消え、そこにはただ、抉り取られたような床の空白と、静寂だけが残った。


(……チッ、お嬢、構えろ)


カゲレナの警告と同時に、廊下から幾重にも重なる重厚な足音が近づいてくる。 それは学園の警備兵の無機質な響きと、それ以上に重く、耳障りな執着の音——エドワード王子のものだった。


勢いよく扉が開け放たれる。 先頭に立つのは、冷たい美貌のエドワード。そしてその傍らで、猛犬のような影を逆立たせたレオンハルト。


「……何の騒ぎだ、セレナ嬢。深夜の教室で、一人で何を……」


エドワードの声が途切れた。 彼の視線が、抉り取られた床と、そこにあるはずの重厚な机が「消滅」している光景に止まる。 そして、荒い息をつき、頬に氷の(つぶて)で切った傷を作っているセレナの姿を。


「……セレナ様、その傷は! 一体何が……」


レオンハルトが駆け寄ろうとしたが、エドワードの静止の仕草に足を止めた。王子の視線は、セレナを通り越し、誰もいない闇を見つめている。


「……フィオナ・エバート嬢は?」


「フィオナは……今、あそこに…黒い泥のようなものに……!」


セレナの言葉に、警備兵たちが顔を見合わせる。一人が室内を検分したが、すぐに困惑した表情で首を振った。


「……報告します。室内には魔力残留反応がありますが、エバート嬢の気配はありません。砕け散った銀の破片も、争った形跡も……何も。ただ、床が不自然に破壊されているだけです」


エドワードがゆっくりとセレナへ歩み寄る。その足元の影、アイアンが重厚な圧を放ち、カゲレナを牽制するようにドサリと床を叩いた。


「……おかしな話だな。我々は『セレナ嬢とエバート嬢が揉めている』という匿名の通報を受けて駆けつけたのだ。だが、ここには君一人しかいない」


(……匿名の通報だと? 出来過ぎだぜ、人形王子。……おいお嬢、こいつの心拍数、一ミリも乱れてねぇ。最初からこうなることを知ってやがったな)


「……フィオナ様がいらっしゃらない……?」


レオンハルトが、信じられないというように周囲を見渡す。


「…セレナ様、貴女が彼女と最後に何を話したのか、詳しく伺いたい」


レオンハルトの瞳には、疑念よりも先に、かつて向けられたことのない「恐怖」が混ざっていた。


「……虚言癖。地下資料室の時もそうだった」 警備兵の一人が、抑えきれない囁きを漏らす。 「第一王子を壁に埋め、聖女を廃人にした狂犬令嬢だ。今度は、親友をその異能で消したんじゃないか?」


「静かにしろ」 エドワードが冷徹に制止する。だが、その瞳はセレナの紫紺の瞳を執拗に射抜いていた。


「……セレナ嬢。君の言う『魔法陣』も、今回の『消えた親友』も、君の影が見せた幻視ではないのか? もしくは……その影が、彼女を喰らったのか?」


(……あぁ? 言わせておけば、このパッチワーク亡霊が……!)


カゲレナが影の中で猛り、セレナの背後に巨大な獣の(あぎと)を浮かび上がらせる。 だが、セレナはそれを制するように、自らの手のひらをギュッと握りしめた。


「……信じていただけないのは、慣れていますわ。エドワード様」


セレナの声は、驚くほど静かだった。 だが、その瞳の奥には、カゲレナでさえ見たことのない、凍てつくような「怒り」が宿っている。


「フィオナは消えました…ですが、それは私が消したのではなく、この学園に巣食う『何か』が彼女を連れ去ったのです。そして次は……私が狙われている」


「……証拠は?」


エドワードの問いに、セレナは抉り取られた床の空白を指差した。


「……これが、証拠です。ここに落ちた『黒い泥』は、机ごと、存在を消し去りました。魔力の痕跡を残さず、消しゴムで消すように…エドワード様、心当たりはありませんか?」


エドワードが、一瞬だけ目を細めた。彼の足元のアイアンが、主人の動揺を隠すように一歩前へ出る。


「……連れて行け。公爵令嬢セレナ・フォルテスを、重要参考人として王宮地下の独房へ。……君の言うことが真実か、その『影』ごと徹底的に洗わせてもらう」


レオンハルトが「殿下!」と声を上げたが、エドワードは振り返らなかった。


「……セレナ様、……申し訳ありません。ですが、今の貴女は、あまりに『黒』に近い」


レオンハルトが苦渋の表情で剣を鞘に納め、彼女の前に立つ。 周囲を取り囲む警備兵たちの視線は、もはや「公爵令嬢」に対する敬意など欠片もなく、正体不明の「魔女」を見るそれだった。


(……お嬢。いいぜ、面白い。独房だろうが地獄の底だろうが、どこまでも付き合ってやる。……その代わり、あいつのパッチワーク、次こそ根こそぎ剥ぎ取って食ってやるからな)


カゲレナの低い笑い声が、セレナの脳内にだけ響く。 セレナは静かに顎を引き、レオンハルトが差し出した拘束用の腕輪を、自ら受け入れた。


「……ええ。参りましょう」


窓から差し込む月光に伸びるセレナの影は、連行される主人の姿とは裏腹に、かつてないほど巨大で、禍々しく、そして誇り高い獣の形を成していた。


学園から4人目の生徒が消え——。 そして、5人目の「魔女」が、白日の下に引きずり出された夜だった。


護送されるセレナの足音と、騎士たちの鎧が擦れる不快な音が、深夜の廊下に冷たく響く。 先頭を行く第二王子の背中は、月光を浴びて氷のように硬く、その背後に控えるレオンハルトは、一度も振り返ることなく拳を握りしめていた。


(……チッ、お嬢。背筋を伸ばしてろ…俯いたら、あいつらの思うツボだぜ)


カゲレナの低い声が、セレナの意識の底で囁く。 セレナはその言葉に従い、魔力を封じる重い腕輪に手首を擦り剥きながらも、公爵令嬢としての矜持を保ち、真っ直ぐに前を見据えて歩いた。


その時だった。


「……ッ、止まれ」


レオンハルトが鋭い声を上げ、腰の剣に手をかけた。 廊下の曲がり角。窓から差し込む強烈な月光を背に、一人の少年がポツンと立っている。


「……おい、こんな時間に何をしている! 寮へ戻れ!」 警備兵が怒鳴りつける。エドワードも足を止め、銀色の瞳を細めた。


「……生徒か。こんな時間に何のようだ」


だが、少年は動かない。 ただ、月光の中に溶け込むような薄い笑みを浮かべ、セレナを見つめている。


(……待て。……おい、嘘だろ。……お嬢、あいつの足元を見ろ)


カゲレナの声が、驚愕に震えていた。 廊下を歩く警備兵も、エドワードも、レオンハルトも。誰もが床に、長く、醜く、執着に満ちた「黒い影」を引いている。 なのに。


少年の足元だけは、タイルの模様がハッキリと見えるほど、不自然なまでに白く、透き通っていた。


(……消し忘れたわけじゃねぇ。……あいつ、床に落ちるはずの光さえも、自分の内側へ『食い止めて』やがる…影が、ねぇんだ)


すれ違う一瞬。 少年の薄い唇が、愉悦に歪んだ。


「……バイバイ、魔女さん」


吐息のような囁き。 セレナが振り返った時には、そこにはもう、白い月光が降り注ぐ無人の廊下があるだけだった。


その時、セレナは頭を抱え込んだ。


(今の子に会ってから頭痛がするの、カゲレナ)


(お嬢、大丈夫だ…俺が、絶対にお嬢を一人にさせない)


――――


翌朝。王宮の独房でカゲレナと「次の一手」を練っていたセレナの元へ、報せが届く。


「……セレナ・フォルテス。釈放だ」


鉄格子を開けたのは、苦虫を噛み潰したような顔のレオンハルトだった。


「……どういうことですの? エドワード様は、私を徹底的に洗うと……」


「……証言者が現れたのだ。昨夜の教室で、君とは別の『動く泥』を目撃したという生徒がな。その証言には、エバート家の紋章が刻まれた不可解な遺留品の提出も伴っていた」


レオンハルトが差し出したのは、泥に塗れたフィオナの髪飾りだった。


「……その、証言者は?」


「特待生の少年だ。名は……ルミナス・グレイ。……彼が提示した証拠は、王宮魔導師の鑑定でも偽装の余地なしと判断された…君は、無実だ」


レオンハルトは、言い知れぬ不安を隠すように視線を逸らした。 「疑ってすまない……だが、セレナ様。学園の生徒たちの目は、変わらない。君は……『親友を消した魔女』として、学園へ戻ることになる」


「……ええ。望むところですわ」


セレナは、朝日が差し込む独房を後にした。 その足元に伸びる影は、もはや令嬢のそれではなく、獲物を待ち構える深淵そのものの色をしていた。

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