皐月中旬 土曜日 夕刻 『取り引き 駆け引き』
日が西に傾き赤みを帯び始め、子供達は家路へと急ぐ。商店街では、夕飯の献立に頭を悩ませながら、主婦が買い物に勤しんでいる。
そんな日常の風景の中、どこか憔悴しきった二人組が、言葉少なに歩いていた。
「……見つからねぇな、猫」
「……」
「化け猫の臭いすりゃねえってのは、どうだよ」
「……」
「おい、何か言えってんだ」
「……」
何を言っても反応しない千里の態度に爆発寸前だったが、思えば彼がずっと黙ったままなのは、かなり不機嫌な証拠なので、無駄な衝突を避けて大信はグッと怒りをこらえた。
面白くなさそうに辺りを見渡していると、いきなり大信は立ち止まって、獲物を狙う肉食獣の如く、ある一点へジッと目を凝らしていた。
そんな彼の態度を、不思議そうに千里は窺う。
「どうした、急に立ち止まって」
しかし、千里の言葉は大信の耳には届かなかったらしい。ただひたすら遠くを凝視している。そして一言、
「背の君だ!」
と普段より1オクターブ高い声を上げ、全力疾走で駆けていった。
訳の分からない大信の行動に呆気に取られたのか、千里はただ呆然と裏通りへ消えていく後ろ姿を、見送るしかなかった。
ちか子は、図書館で出会った蜂蜜色の瞳を持った少年の事を思い返しながら、家路へと急いでいた。通りを抜け、歩きながら彼の笑顔を思い出す。
ちか子が図書館を後にする頃には、姿を消していたあの少年。また、どこかで会えればいいなと、仄かな想いに期待を寄せていた彼女が、猛然とこちらへ突っ込んでくる人影に気が付かなかったのは、致し方ないだろう。
そして、気づいたときには両手をガッチリ握られていた。
「いやぁ、こんな所で出会うとは奇遇だなぁ。もしかしたら、運命の神様が、俺達を引き合わせてくれたのかも」
癖のある黒髪を揺らし、ガクランを身に纏った少年が、瞳と前歯を輝かせとっておきの笑顔で話しかけてきた。
一方のちか子は、自分の身に何が起きたのか全く理解出来ず、ただただ、突然の事態に目を白黒させているだけだった。
「ちょ、ちょっと、何をするんですか。離してくださぁい」
無理矢理手を解こうとするが、見た目以上に強い力で握られているらしく、全然ビクともしない。
そんなちか子の態度も全くお構いなしで、少年は興奮した目つきで喋り続ける。
「可愛いなぁ。名前は何て言うの。俺の名前は有田大信、ピッチピチの十四歳だぜぇ。ねえ、今から駅前の喫茶店で、お茶でも飲んでいかない?」
絶好調で話し倒す大信。ちょっと照れくさそうにはにかんでいた陸とは、まるっきり正反対だ。
そんな大信相手に、ちか子はすぐにでも手を解いて逃げ出したい気持ちで一杯だったが、
「それとさ、俺と交尾しない」
脈絡もなく出てきたその言葉に、頭の中は真っ白になって動きが止まってしまう。
(交尾、交尾、交尾って何だっけ。ああ、春先になると猫がよくやってたわよね。確か雄が雌の上へ乗って……)
言葉が意味するところを理解した途端、顔から火がでて体の力が抜けそうになった。思い切って声を上げようにも、緊張でなかなか声が出ない。
(誰か助けて)
内心の悲痛な叫びが届いたのか、幸運にもちか子に救いの手が差し伸べられた。
「何やってんだ、このセクハラ小僧!」
大信の背後からスーツを着た青年が現れ、振り上げた踵を容赦なくその頭上へたたき落とした。
見事に決まった踵落としでセクハラ小僧はもんどり打ってアスファルトの上へ倒れる。革靴を履いた踵をまともに喰らえばいくら頑丈な虎人とは言え、かなり痛いに違いない。しかも踵落としをくれた相手は、同胞である。もし大信が普通の人間だったら即葬儀所送りであろう。
「朱鷺野さん、どうしてここに」
息を切らしてようやく追いついた千里に、朱鷺野は地面に這い蹲っている馬鹿を踏みつけながら答えた。
「ようやく喫茶店での打ち合わせが終わって、たまたまここを通りがかったら、この色ボケ小僧がセクハラ紛いの行為をやってやがった。おい、千里。こういう馬鹿には、首に縄を付けて見張っておけ。我らの恥だ!」
何度も何度も足下を踏みつけていた朱鷺野だったが、ちか子の存在を思い出して、すぐに営業スマイルで優しく声をかける。
「すみません、お嬢さん。不快な思いをさせてしまって。この馬鹿には、後で十分言い聞かせておきますから。お怪我とか大丈夫ですか」
どんな女性でも百発百中で落とせる爽やかな笑顔。
千里は心の中でナイスフォローと指を立てる。だが、余計なつっこみが横から入った。
「けっ、生えぎわ気にして前髪おろしてるおっさんが、何カッコつけてやがる」
再び鈍い音がして大信は沈黙した。
見れば朱鷺野の右足が彼の後頭部へ踏みつけられ、顔が地面にめり込んでいる。
(鼻の骨が折れたかもしれないな。でもすぐ治るからまあいいか)
取りあえず眼前で繰り広げられた暴力的どつき漫才は見て見ない振りをし、千里も頭を下げて同僚の不始末を謝る。
「どうもスミマセン。こいつ馬鹿なんで」
身も蓋もない言葉だった。
放心状態だったちか子もようやく立ち直り、彼らの謝罪を素直に受け入れた。
「いえ、もういいです。それでは私、先を急いでますんで」
そう言い残すと、軽く会釈をし、足早にこの場所を後にした。
可憐な花が去り、人気のない裏通りは静かになった。夕暮れの風が道ばたの雑草を静かに揺らしている。
「さて、その様子だと化け猫は、まだ見つかっていないみたいだな」
右手に抱えていた風呂敷包みを持ち直すと、数刻間を置いて朱鷺野が口を開いた。端正な顔が夕日に照らされて眩しそうに目を細めているが、その表情が却って千里に無言のプレッシャーを与える。
「その、自分でもどうして良いのか分からなくて。おそらく屋内に隠れているとは推測できるんですが……」
小さな町だとは言え、今日中に全ての家屋を調べるのはこの人数では無理だ。せめて臭いが残っていれば何とかなったかもしれないが、屋内に身を潜ませている以上、臭いを辿るのは難しい。
八方塞がりで黙ってしまう千里。遠くから聞こえる町の喧噪がバックミュージックとなって辺りに響いている。
だが、そんな緊張した雰囲気をぶち壊す、妙な鼻息が聞こえてきた。
いつの間にやら復活した大信が地面にあぐらをかき、恍惚の表情で自分の掌の臭いを嗅いでいたのだ。両手を鼻に被せて嗅いでいる姿はかなり変態くさい。
「あぁ~いいなぁ。これが女の子の匂い。花の香りみたいに仄かに甘くて、心臓がバクバクいっちゃうね」
「人が真剣な話をしている最中に、何をやってるのかな、お前は」
朱鷺野が大信の背中を足蹴にするが、本人は全く動じる様子はない。それどころか、更に鼻息を荒くして手に残った移り香を嗅ぎ分けていく。
あまりの馬鹿さ加減に、冷たい視線を送る朱鷺野と千里。
だが、急に大信の顔つきが真剣味を帯びた表情へ変化したのに気づき、声をかけた。
「……どうした大信」
「あの子の匂いの中に陸の匂いが混じっている」
予想外の返答だった。
「陸の匂い? それじゃあの子は何処かで陸と接したってことか」
千里が驚いて尋ねるが、
「そんなのはどうでもいい」
と切って捨て、大信は更に厳しい顔をする。
「もっと重要なのはこれからだ。もう一つ嗅ぎ憶えのある臭いが、化け猫野郎の臭いがしやがる。手に臭いが残ってるところから、おそらく触ったり抱いたりしたんだろう。化け猫はあの子の家に居る可能性が高いぜ」
ようやく見つかった手がかり。だが、鍵となるちか子は既に姿を消してしまった後だ。
「どうします。三人別れて彼女の後を追いますか。それとも『飛燕符』を使って空から捜しますか」
やっと化け猫を追いつめられる、嬉しさに息巻いて指示を仰ぐ千里。
だが、そんな彼を朱鷺野は制する。
「いや、その必要はなさそうだ」
そう呟いた彼の目線の先には、一匹の猫が歩いていた。
「ようやク見つけたゾ、ガキ共」
それは又佐であった。
「んだぁ、てめえは。逃げ切れないと観念して出てきたんかぁ」
「下っ端は黙っていロ。我はその男に用ガある」
追い詰められた者の焦りもなく、悠然と自分たちの前へ姿を現した又佐に、大信はがなり立てるが、猫はそのまま無視して朱鷺野の前に出る。
(化け猫でも上下関係は把握できるもんだな)
朱鷺野は胸中で感心していた。
「落ち着け馬鹿。どうやら大人しく狩られに来たわけじゃなさそうだな。何の用件だ」
「貴様らニ依頼を申し込ム」
化け猫からの依頼。余りにも予想外の発言に三人の時間は止まってしまった。そして、
「ふっざけんじゃねぇぞ。このクソ猫~!」
一番最初に大信が行動を開始する。
すぐさま片膝を付き、竹刀袋から自分の得物である『夕顔』を取り出すと、鯉口を切って刀身を抜こうとする。
「待て、大信。取りあえず話だけは聞こう。受けるか受けないかはその後で決める」
だが、朱鷺野に制止されて手を止める。納得できない大信は、口を開いて文句を言おうとしたが、朱鷺野の鋭い眼光に気圧され、渋々刀を鞘に収めて地べたに腰を降ろした。
「それにしても、俺達が依頼を受けて動いているとよく分かったな」
「そこナ下っ端小僧ガ、我とやり合っていた時に『依頼だから』ト吠えておっタ」
それを聞き納得して朱鷺野は頷いた。
「では、依頼内容を話して貰おうか。又佐殿」
促されて又佐は語り出す。自分の過去の話、昨日逃げ出した後ちか子に助けられた経緯、そして小源太とのやり取りを。
「信じられないな」
「信じなくてもよイ。だが全て事実ダ」
不信感を露わにした感想を述べる千里に対し、又佐は気にせず言い放つ。確かに昨日敵だった者の言い分を、素直に聞けるはずはない。
「けどよぅ、本当だとしたら、えれぇ騒ぎになる。また事件が一つ増えるぞ」
「奴は喰らうだけではナク、家の者から少しずつ精気を吸い取って力を蓄えているはずダ。昨日の我より遙かに強いゾ。それだけは忘れるナ」
和田家の人間が最近病気がちなのは、小源太の仕業であった。気づかぬうちに小源太に精気を吸い取られ、体調を崩していたのだ。
「で、報酬は何を払うつもりだ。化け猫の分際で金を持っているとは思えないしな。払う物がなければ依頼を受けることは出来ない」
朱鷺野の言い分はもっともである。報酬を払ってこそ契約は成り立つ。無償で働くほど、彼らはボランティア精神を持ち合わせてはいない。
彼らは契約によって行動する。契約さえ成立してしまえば赤子も平気で殺すし、町一つ壊滅もさせる。それが虎人達の冷酷な不文律である。日本へ渡って九百年近く、見知らぬ土地で生き残るために築き上げた掟、自らを律する鎖であった。
「報酬は我の命で払おウ。十分代価ニ値すると思うガ」
又佐は、何の抵抗もなく己の命を取引として提示した。
「なるほど。こちらが受けたもう一つの依頼は、お前を狩ることだからな。まあ、釣り合いはとれるか。よし、その依頼引き受けた」
「いいんですか、朱鷺野さん」
千里が抗議の声を上げるも、朱鷺野は聞く耳を持たない様子だ。
「どちらにしろ、もう一匹の化け猫を放置してくわけにもいかんだろう。マックイーンさんには後から俺が言っておく」
「話は纏まった? んじゃ、とっとと小源太猫たんのいる場所へ案内しろよ」
新しい相手と戦う機会が増えて嬉しいのか、軽くステップを踏んで大信は立ち上がった。
しかし、又佐は目を伏せて困ったふうに呟く。
「それが、何処へ行ったのか皆目見当がつかぬ」
それを聞いて、大信の頭がカクンと下がる。勢いを削がれ、拍子抜けしたみたいだ。
「どうします?」
無表情ながらも困った声で千里は尋ねた。
「取りあえず陸を呼び戻そう。千里、『飛燕符』を使え」
言われて、千里は懐から符を取り出し、天に掲げる。そして、気を溜めて発動の言葉を唱えようとした時、薄暗くなり始めた空に、燕の形をした影が自分たちの頭上を回っているのが見えた。
(あれは『飛燕符』で作った鳥形……)
嫌な予感がして心臓が大きく鳴り響く。
「朱鷺野さん、あれを見て下さい」
言われて一同は千里の指さす方向を見上げる。
すると、三人を確認した鳥形は、もう一度大きく旋回して風上の方角へ飛んでいった。
「あれは多分、陸が放った『飛燕符』の鳥形。一体何処へ行くつもりだ」
ここには千里、大信、朱鷺野と三人揃っている。そして、誰も符を使っていない。となると、今空を飛んでいる鳥形を放ったのは、ここにいない陸ということになる。
「あの方角ハ!」
同じく鳥形を眺めていた又佐は血相を変えて飛び出すと、鉄砲玉の様なスピードで後を追いかけていった。
突然の行動に大信が慌てて叫ぶ。
「てめぇ、何処に行きやがる」
「我の推測が正しけれバ、あの鳥は小源太のいる場所へ導いてくれるはずダ。急げ」
それを聞いて、三人もすぐに走り出す。
「大信……」
「どうした、千里」
呼ばれて大信が顔を向けると、千里の表情は強張っていた。
「あれは恐らく助けを呼ぶ合図だ。陸が危ない」
又佐よりも強い小源太相手に、陸が何処まで持つか分からない。
「手遅れにならなければいいが」
冷たい汗が千里の背中を伝っていく。
「わ~ってるよ。人がいない場所へ出たら、一気にスピードを上げる。早いとこ行かないと、マズいだろ」
お互い顔を見合わせると大きく頷いた。大切な親友をみすみす失うわけにはいかない。二人の思いは一致していた。
だが、先を急ぐことに夢中になっていた一同は気づかなかった。
彼らの後を追うように飛んでいる大きなカラスの影を。




