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皐月中旬 土曜日 午前 『君と出会う街角』

 山の端へ沈んでいく夕日が、全ての景色を橙色に染めている。

 その中で、何人かの子供に囲まれている自分がいた。

「何だよお前の髪の毛、変な色~」

「やめろよ~放せってば!」

 誰かに髪を思いっきり引っ張られ、あまりの痛さに、その手を払う。引っ張られて頭皮が痛かったが、それ以上に心が痛かった。

 すると今度は背中を強く叩かれ、思わずバランスを崩し前のめりに倒れてしまう。

「見ろよ、こいつの目も肌も。俺達と全然違うぜ。『普通』じゃない。変な奴ぅ!」

 後ろへ顔を向けると、違う誰かが自分を見下ろしていた。そして、すかさず蹴りを入れてくる。それに呼応するかの如く、周りから足が伸びてきて同じように容赦なく蹴ってくる。

「やめろ、やめろ、やめろってば。俺は変じゃない、変じゃないよ!」

 叫んで抵抗を示すが、蹴りの嵐は全く止むことはなった。逆に勢いは更に増し、頭に、体に、腰に、傷と痣をつけてくる。

「臆病者」

「戦場から逃げたくせに」

「お前なんか『虎』じゃない」

 蹴りと共に今度は言葉の暴力が浴びせられ、心を深く剔り始めた。

「違う、俺は臆病者なんかじゃない!」

 たまりかねて体を起こすと、周りを金色に輝く鋭い眼が囲んでいた。

 それは化け猫の目。

 自分が退治しようとした化け猫の目。

 自分が取り逃がしてしまった化け猫の目。

「我に恐怖して体ガ動かなかったのだろウ。それを臆病者ト言わず何と言ウ」

「所詮、お前ハ虎ではなく子猫だったのダ」

「受け入れろ、己の弱キ心を。認めてしまエ、自分が弱いものダト」

「臆病者に月ハ微笑まなイ。お前は永遠に闇の中を彷徨っておればイイ」

「ゃめろぉ……やめてくれぇぇぇ!」

 

 自らの叫び声で陸は目を覚ます。そして慌ててベットから起きあがると、自分の隣を確認した。そこには幸せそうな顔をした大信が、大いびきをかいて熟睡している。

 寝言とはいえ大声を上げてしまい大信を起こしてしまったか心配したのだが、どうやら杞憂に終わったようだ。 

 軽く安堵の溜息をつき、ベッドの横に置いてある時計で時刻を確認すると、もうすぐ六時。

「しまった、朝稽古開始の時間だ」

 軽く声を上げ陸は慌てて身支度をしようとするが、ふと思い出し動きを止める。

「そうだ、ここは村の『学校』じゃないんだ。依頼で別の場所へ来てたんだ……」

 その言葉がキーワードとなって、昨晩の失態が脳裏に浮かぶ。

(俺は自分の弱さに負けて、化け猫を逃がしてしまった) 

 あまりの悔しさと情けなさと恥ずかしさに、体中が痺れるような感覚に襲われて、思わず下半身に掛かっている布団のシーツをギュッと握りしめる。そのまま暫く微動だにしなかったが、何か決心したかのように顔を上げると、部屋のドアへ目をやった。そして、陸は大信を起こさないようにそっとベットから降りて、ハンガーに掛けてあった自分の学生服に着替えはじめた。

 ズボンに足を通すと少し冷たい。昨日の雨で濡れた服はまだ完全に乾いていないようだ。山月の男は下着として褌を着用するのが習わしなので、陸もご多分に洩れず褌を着けている。少し濡れているズボンの感触が臀部に直接きて、かなり気持ち悪い。それでも我慢して手早く着替えると、壁に立てかけていた自分の得物を取って静かに外へ出る。懐には数枚の符も入れた。

「早く、あいつを捜し出さなきゃ。取り逃がしたのは、俺の責任だ。何としても自分で捜して、退治してみせる。絶対!」

 確固たる決意を示すと、陸は朝靄で煙る町の中へ姿を消していった。


 巨大なテーブルの上には、世界中から取り寄せられた多種多様の料理が、所狭しと列んでいる。

 ステーキ、パスタ、お寿司、餃子各種。

 内容は、少しお金を出せば誰でも食べられる品揃えで、最高級料理と言うにはほど遠いものの、大信にはそれで十分だった。

 村の『学校』にいるときは絶対口にすることの出来ない料理。

 テレビの中で他人が食しているのしか見たことのない料理。

 それが今、目の前に。もう、ご飯に味噌汁、納豆、焼き魚は食い飽きました。 

 両脇にはバニーガール姿の綺麗なお姉さんが揃い、料理を食べさせてくれる。

 テーブルを見渡しどれから食べようか迷っていると、左側の白いウサギのお姉さんが、箸で餃子を自分の口に運んできてくれた。大信は口を大きく開きそれを出迎える。

「いただきま……」

「起きろ、いつまで寝ている!」

 全てをぶち壊す怒鳴り声とドアを連打する音で、大信は目を覚ます。目の前に見えるのは美味しい料理ではなく、部屋の白い壁。

 悲しい現実が思春期の少年を打ちのめす。

「せっかく餃子が食べられると思ったのに。へいへい、今開けますよ~」

 寝起きの重い体を引きずってドアを開けると、怒り顔の朱鷺野と気まずそうにしている千里が立っていた。

「おはよう、実ちゃん」

「おはようじゃねぇ。それに実ちゃんじゃなく朱鷺野さんだろ」

「ったく、どっちも一緒じゃん。へいへい、朱鷺野さん。それで何用ですか」

 未だ完全に目が覚め切ってない様子の大信。その格好は、着ている寝間着を肩までずり落とし、口には涎の後をしっかりつけていて、何とも情けない。

 余りにも、みっともない従兄弟の様子に頭を痛めたのか、こめかみの辺りを指で押さえて、朱鷺野は携帯を取り出すと、大信の顔面に押しつけた。

「今、何時か分かってるのか、七時過ぎてんだぞ。昨日言ったよな、夜が明けたらすぐに行動するって。全く、下の食堂で待っていたのに全然降りてこやしねぇ。来てみれば案の定寝てやがるし。『学校』から解放されて気が緩んでないか! もっと引き締めろ!」

 最後の辺りはもう怒鳴ると言っていいほどの大声になっていた。

 周りを気にしてか、千里がまあまあと朱鷺野をなだめる。

 

 彼らの言う『学校』とは無論普通の学校ではない。

 虎人として産まれた子供達は、小学校へ入学できる年齢になると親元から引き離され、男女別々の施設に入れられる。

 そこでは剣術、体術、符術などの戦闘術から、普通の学校で習う一般教養、過酷な状況下を生き抜くためのサバイバル術まで様々な教科を叩き込まれる。

 休みなど殆どなく、盆と正月に親元へ帰れるぐらいで、毎日朝早くから夜遅くまで稽古に明け暮れる日々であった。

 それが彼らの『学校』である。


 千里は部屋の中を見渡して、あることに気づき、大信へ質問した。

「あれ、陸はどうしている?」

 言われて隣のベットを確認する大信。そこには、陸の姿はなかった。掛けてあった学生服も得物が入った竹刀袋も見あたらない。

「ちっ! あいつ、先に出ていったか。先走りしやがって」

 舌打ちと共に大信が吐き捨てる。未だ目覚めきってない様子だが、完全に顔は呆れていた。

「昨日は、化け猫相手に後れを取って逃がしてしまい、その責任感から今度はスタンドプレーか。気持ちは分からないでもないが、こういう時こそ連携が必要ではないのか」

 髪の毛を掻きむしりながら、ぶつくさ口の中で文句をたれている朱鷺野。

 そこへ千里が、やや遠慮がちに声をかける。

「陸のことは、どうします?」

「放っておけ。どうせ化け猫捜しに、町中を駆けずり回っている頃だろう。やることは、こちらも同じだし、何かあれば連絡を入れてくるはずだ。どちらにしろ、今日中に獲物は狩らないといけないしな」

 陸は気の小さいところがある故に、一人で化け猫に向かっていくような無謀な行動には出ないと、朱鷺野は踏んでいた。

「実戦経験が殆どない陸が、手負いとはいえ化け猫を一人で相手するには、まだ荷が重すぎる。それは本人も分かっているはずだ。化け猫を発見したら、すぐにこちらへ連絡を入れてくるだろう」

 そして、二人の少年に向かって言う。

「俺達も行動を開始しよう。大信、早く着替えて飯を食ってこい。今日は忙しくなるからな。エネルギーだけは、しっかり補充しておけよ」

 朱鷺野にそう言われると、何故か大信はくるりと背を向けて、ベットへ潜り込んでいく。

「何をしてるのかな、有田大信く~ん」

 理解不能な大信の行動に、朱鷺野は妙に優しい口調で問いかけた。声は優しいが、口の端が少し釣り上がって、こめかみに血管が浮いている。爆発寸前だ。

「え、だって飯を食ってこいって言ったじゃん。だからさ、さっき食いかけだった餃子をバニーさんに食べさせて貰うために、もう一回夢の中へ行こうかと……」

 血管のブチ切れる音が聞こえたかもしれない。

 こうなると怒りで顔を真っ赤に染める朱鷺野を、止めることは出来なかった。

 布団を頭から被った大信目掛けて、右ストレートを一発、二発、三発……。

 殴られる度に、ヒキガエルを潰したような呻き声が、布団の中から洩れてくる。

『馬鹿は死ななきゃ治らない』

 そんな言葉は本当にあるんだと、千里は目の前で確認することが出来て、とても複雑な気分だった。


 孫と祖母の何気ない朝の挨拶。それでいつもの一日が始まる。

「おはよう、お祖母ちゃん」

「おはよう、ちか子」

 食卓にはトースト、ベーコンエッグ、サラダ、コーンスープが並べられており、ちか子は椅子に座って自分の分を食べはじめた。祖母は洋食が口に合わないらしく、ご飯に味噌汁、焼き魚といった和食で済ましている。

「どうだい、体の具合は」

 昨日、風邪で学校を休んだことを心配してか、孫に優しく尋ねる。

「大丈夫だって。結局、昨日だって朝には熱が引いて、行こうと思えば学校には行けたのに。念には念をって、お母さんが休ませたんだから」

 祖母と会話をしながら、ちか子はふと思った。

(それにしても、最近熱を出して倒れることが度々あるなあ)

 月に一、二度、しかも自分だけではなく、父や母も熱を出すことがあった。だが病院では、ただの風邪と診断され、確かに薬を飲めば、すぐに熱は引いた。しかも昨日みたいに一日寝れば、快方に向かうことも多く、命に関わるものでもないので、それ程心配はしていない。しかし、気にならないと言えば嘘になる。

「ちか子、どうしたんだい?」

 急に箸を止めて考え込んでいるちか子の姿を不思議に思ったのか、祖母が声をかけてきた。

 名前を呼ばれて我に帰ったちか子が、心配させじと笑顔を作って祖母に答える。

「ううん、何でもないよ。あ、そうだ。昨晩ね、庭先で猫が怪我をして倒れていたの。部屋に連れていって応急手当をしたら目を覚ましたんだけど、このまま家に置いてもいいよね?」

 その会話を聞いて、今まで台所で後片づけをしていた中年女性、ちか子の母親が、渋い顔をで不満を口にした。

「家にはサスケがいるのに、また猫を拾ってきてどうするの」

「いいじゃない、もう一匹ぐらい。それに大けがしてたんだよ、そのままにしておくなんて可哀想よ。どうせ、サスケなんて最近滅多に家に戻ってこないじゃない」

「それに元は野良猫だろ。心配しなくても、怪我が治ったら勝手に出ていくさ」

 ちか子の猛反撃に、それを支援する祖母の口添え。

 この連係攻撃に、ちか子の母親はさすがに手を挙げて降参するしかなかった。確かに、怪我をしている猫を無理矢理追い出すのも後味が悪いし、それに、そこまで無慈悲ではない。

「しょうがない、怪我が治るまでよ」

 そうは言っても、おそらくこのまま飼うことになるだろう。諦め半分でちか子の訴えを了承する。

「ありがとう、お母さん」

 椅子から飛び上がってちか子は礼をする。よほど嬉しかったようだ。

「礼はいいから、早くご飯を片づけちゃって。主婦の朝は忙しいんだから」

 は~い、と元気良く返事をするとちか子は、目の前にまだ残っているトーストを口に運びながら、頭の中で今日の予定を立て始めた。

(一度部屋に戻って、猫の様子を見る。それから、昨日数学の宿題が出たって友達がプリントを持ってきてくれたから、それを片づけないと。それにノートも借りたし、これで昨日学校へ行けなかった分を取り戻さなくちゃ。あ、源氏物語も図書館へ返しなくちゃいけないんだった。続きも気になるんだよな。そうだ、図書館へ行って、ついでにそこで勉強をすればいいんだ。本も返せるし、宿題もできるし、一石二鳥。我ながら頭いい~)

 思いついたら即実行とばかりに、朝食を早急に済ませると、小走りで自分の部屋へ向かっていった。

「ちか子、ごちそうさま、は?」

「代わりに言っといて~」

 もう、しょうがない、と言いつつ母親はテーブルの上を片づけはじめる。しかし、その口調はとても優しく、ちか子が出ていったドアを見つめる瞳は、健やかに育つ娘を愛おしく想う母親の慈愛に満ちていた。食事を追え一服している祖母も、同じようにドアを見つめている。

「本当にそっくり……」

「あら、お義母さん。何か言いました?」

 つい発した独り言を聞かれてバツが悪かったのか、何処か曖昧な笑顔で、祖母は答えた。

「……い、いや、ねぇ。ちか子の姿、私の若い時にそっくりだと思ったんだよ。あのぐらいの時分、私にもあったんだよねぇ。もう、大分前の話だけど」

 

 本当に昔の話。あの時のことは、決して忘れない。

 

 老婆の瞳に一瞬、ほんの一瞬、強烈な感情が煌めいたのを、誰も知る由はなかった。


 藤堂陸は、この時ほど自分を馬鹿だと思ったことはなかった。

 見失った化け猫を捜そうと息巻いて飛び出したは良いが、どこから捜していいものか皆目見当が付かない。取りあえず、昨日戦闘を繰り広げた製材所跡へ行ってみたが、案の定いるはずもなかった。

「化け猫追跡のため『飛燕符』を持ってきたのはいいんだけど……」

 肝心の追跡する対象を見つけなければ、しょうがない。タダの紙切れである。

 一応、この『飛燕符』には、既に知っている場所や人間のいる所へ案内するナビゲート機能を持っているが、化け猫の大まかな姿形は憶えているものの、細かいところとなると今では記憶もおぼろげで、それを使って見つけだすのは相当難しい。自分の足で捜した方が確かだ。

「符術か、もっと真剣に習えばよかったなぁ」

 陸は今更ながら、自分の未熟さと努力不足を痛感していた。


 彼らの先祖が大陸から持ってきたものに『符術』がある。

 長方形の紙、いわゆるお札に墨で難しい漢字とよく分からない模様を書き込む。

 それが符である。

 符は書き込んだ文字や模様によって様々な効果を発揮し、使用者は符に気を送り込むことで、その効果を発動させることができる。

 稲妻を落としたり、見えない壁を作り出したり、水中で長時間呼吸が出来たり等、様々な超常の力を使用者に与えてくれる。

 しかし、気を用いて超常の力を生み出す故に非常にデリケートであり、符の能力は、その制作者や実際に使用する者の力量に大きく左右されてしまう。


 三人で言えば、大信は符術とは徹底的に相性が悪った。符を使う度に暴発させ、もうどうしようもないレベルである。

 反対に千里は符術と相性が良く、まだその能力を十分引き出しているとは言い難いものの、それでも、どんな符も一通り扱うことができた。 

 陸は可もなく不可もなく、ぼちぼち。

 

 大信と千里。

 まだ未熟とは言え、二人の実力は同年代の中でも、特に群を抜いている。

 片や、天賦の才で、あらゆる局面に柔軟な対応を見せる剣技の持ち主、大信。

 片や、剣術、符術共に高いレベルで習熟し、攻防どちらにおいても隙のないオールラウンドプレイヤー、千里。

 二人の存在は、同い年やそれより年下の者に、一種の憧憬の念を与えている。

 よくよく考えると、そんな二人と行動を共にしてること自体、陸には信じられなかった。

 自分はただ少しでも強くなりたい一心で、がむしゃらに努力し頑張っていただけなのに、気が付けば二人に続く実力者と見なされるようになっていた。

 陸の剣技は大信に比べると精彩に欠け、符術は千里に比べると不安定な代物であるが。

(それでも評価されるのは素直に嬉しかった。なのに……)

 再び、昨日の悪夢が思い出され、陸の心に不安と絶望の雨雲が広がる。

「あ~もう、やめやめ。どうも悪い方悪い方へ考え込んじゃうなぁ。汚名挽回するために朝早くから動いてるんじゃないか。しっかりしろ、藤堂陸!」

 『汚名挽回』ではなく、正しくは『汚名返上』もしくは『名誉挽回』なのだが、今の陸にはどうでもいいことだった。

 両頬を叩いて気合いを入れると、気持ちを落ち着かせる為に辺りの景色へ目をやる。今は化け猫との戦闘があった製材所を離れて、そこから町中へ向かう道のりを辿っている最中だ。

 昨日の夜に降り出した雨は、夜明け前には止み、雨雲は朝東風に流されて、代わりに五月晴れの鮮やかな青が天を覆っていた。

 水田に張られた水が蒼穹の空を映し、時折、太陽の光を反射して、その存在をアピールする。歩いている道ばたや、所々見かける雑木林、一帯を大きく囲む山並みは新緑が支配し、これから夏に向けて大きく葉を伸ばす新鮮な命の活力に満ち満ちていた。

「う~ん、こうやって歩いていると、ここら辺も自然が多く残ってるなぁ。駅を降りたときは、都会っぽい感じだったんだけど、そうでもないか」

 今いる町は、確かに都会ではない。人工の建物より自然の産物が景色の大半を占めており、ハッキリ言って片田舎の町である。だが、山の奥深いところに位置する、彼らの住んでいる村に比べれば、よっぽど都市化が進んでいると言えよう。

「あれ、確かあそこは」

 そのまま町に向かって歩いていると、広がる田園風景の中に、こんもりと生えている雑木林へ目がいった。

 そこは山裾と、その先に広がる水田との中程に位置しており、陸が昨日電車の中で読んだ資料によれば、化け猫によって最初に殺された女性の痕跡が見つかった場所であった。

 一応、昨日の昼食後に現場の下見で廻ったところだった。だが、初めて食べる料理を前にして、つい調子に乗っていつも以上に食べしまい、そのお陰で気持ち悪くなっていた最中の事だったので、具体的な内容はよく憶えていない。

 もしかしたら、化け猫が潜んでいるかもしれない。

 そんな僅かな望みを賭けて、陸は雑木林の中へ足を踏み入れていった。

 事件の起きた直後は、警察による厳しい規制がなされていたこの場所も、それから時間が経った今では何事もなかったように静まりかえっている。

 陸が足を踏みしめる度に、地面に落ちた木の枝が割れて小さな音を立てる。

「化け猫さ~ん、いらっしゃいますか~」

 申し訳なさそうな小さな声で陸はお伺いを立てるが、無論それに答える気配はなかった。 

 辺りを注意深く見渡しながら、更に奥へ足を進めていくと、木立を抜けて広場へ出る。広場と言ってもそれ程大きくはなく、奥には小さなお堂が建っていた。村の鎮守の神様と言ったところだが、随分古びており、観音開きの扉は堅く閉ざされている。歴史を感じさせる柱や屋根は、苔むして所々色褪せ朽ち果てていた。

 お堂の状態や、木の枝や落ち葉が散乱した広場の様子から、あまり人が来ていないのは明白で、化け猫による殺人事件がなければ、見向きもされない場所だったはずだ。

 周りは雑木林に囲まれて薄暗く、真上に見える青空が更に木々のシルエットを更に濃く見せる。境内はシンと静まりかえって、時折囀る鳥の鳴き声が、やけに響いて薄気味悪い。

 こんな所じゃ普段人が来ないのも当たり前だと思い、陸は一通り探索してから後にしようと決めて、行動を開始する。

「しかし、気味悪いよ。早く終わらせよう」

と呟いた後、イカンイカンと首を振り、表情を真面目なものに変えた。

(ここに化け猫が、潜んでいない可能性はない。それに自分の落ち度は、自分で何とかしなくてはいけない。だから、気を抜いちゃいけないんだ)

 そう心に強く念じると、お堂へ向けて慎重に歩いていく。

 目、鼻、耳、肌、使える全ての器官を動員して、化け猫の痕跡を捜すが、何も感じられない。それでも警戒を解かずに、お堂の側へ行くと、その脇に木でできた何かの残骸があるのに気づいた。

 昨日ここに来たときは、殺人現場である雑木林内に集中して、お堂のある一帯は、殆ど素通りしたと言ってもいい。だから、お堂の存在など気にも止めなかったし、ましてや目の前の残骸に気づかなかったのも当たり前である。

「これ、何だろう」

 残骸に興味を示した陸は、近くに寄って注意深く観察し始める。

「もしかして、これって祠だったんじゃないか」

 確かに残骸をよく観察すると、破壊された屋根や柱らしい物があり、かなり小さいものの、どことなく隣に建つお堂の形状と似ていた。壊されてから大分経っているようで、残骸自体も朽ち果てており、祠が建っていた場所は、地面が荒らされグシャグシャになっていた。おそらく誰かが悪戯半分で壊してしまったのだろう。

「罰当たりな奴がいるモンだ。おそらく大信みたいな奴だな」

 意地悪で気の強い友人の顔が思い浮かんだが、同時に微かな疑問が陸の心に残る。

(でも、この祠には、いったい何が祀られていたんだろう)

 暫く探索した後、どうやら、ここには化け猫は潜んでいないと判断した陸は、境内を抜けてその場を後にした。

 もと来た道に戻ると、太陽は前より高くなっている。

「そう言えば朝飯を食べてなかったっけ」

 思い出した途端腹の虫が大きく一声鳴いた。


 威勢の良い大声が、辺りに響く。

「へ~くしょん!」

「何だ風邪か? それとも町長さんが着けていたコロンがまだ鼻に残っていたのか?」

 歩きながら突然大きなくしゃみを一発放った大信に、千里が無表情な顔で言葉をかける。

 無表情と言っても、千里自身は本心から心配しているのだが、顔に上手く表情を出せないので、その感情は相手に伝わりにくい。それは本人の悩みの種でもあった。

 一方の大信は、千里の鉄面皮を十分承知しているので、気にした様子はない。

「いや、多分誰かが俺のことを噂してるんだと思うぜ。例えば、昨日町役場前で見かけた背の君とか」

「それは、お前が一方的に見かけただけであって、向こうはお前の事なんてこれっぽっちも知らないぞ。それにいつの間に、背の君なんて名付けたんだ。やけに時代がかった言い回しだな。もう少しましなモノは、なかったのか?」

「例えば?」

大信の質問に、暫し立ち止まり思案に入る千里。

 そんな千里を放置して、大信は先を行く。 

 彼らは宿泊地である駅前のビジネスホテルを後にして、商店街の通りを歩いていた。どこの店も開店直後の準備に大わらわの状態で、ある種の活気で沸いている。店先には軽トラやワゴン車が止まって、慌ただしく荷を下ろしており、パン屋からは焼きたてパンの香ばしい香りが流れてきて、大信の鼻をくすぐり、思わず舌なめずりをしてしまう。

 そして、置いてけぼりにされた千里が追いついてきた。

「おいてくなよ」

 抗議の声を上げる千里に、

「考え込むと動きが止まるお前が悪い」

 と大信は軽く言い放つ。

 悪態をつかれて千里は、多少気分を悪くしたのかムッと黙り込むが、相変わらず顔は無表情で変化がない。

 そんな彼の様子を、大信は悪戯っ子ぽく楽しそうに眺めながら、千里との関係について過去の記憶を紐解いていた。

(俺とこいつ、お互いいつもライバル関係にあったよなぁ……)

 

 千里は『山月五家』と称される山月村の五つの名家において、第三位に位置する五十嵐宗家の嫡男である。

 対して大信は父親が不在で誰だか分からない、いわゆる私生児として生を受けた。

 出自から正反対の二人は、『学校』に入れられた時から、お互いを強烈に意識していた。

 特に、剣術の稽古で大信、千里、二人の組み合わせになると、凄まじい攻防戦が繰り広げられる。

 お互い習ったばかりの剣技を繰り出し、持っている得物が練習用の木刀でありながら、真剣を構えたような迫力で、休むことなく撃ち合いを続けてしまう。

 過去に一度、強烈な撃ち合いで二人の持っている木刀が真っ二つに折れてしまう事態となり、それでも両者とも引かず、素手で殴り合いを始め、最後には取っ組み合いの喧嘩にまで発展し、陸が無理矢理引き剥がして終わらせた事があった。

 それ程までに二人のライバル心は、苛烈なモノであると言える。

 だが、相性は悪いわけではなく、むしろ逆に親友同士と言っていいほど親密な関係だ。

 時折、昨晩のビジネスホテルでの一件のように、我の強い大信が突っかかって衝突する事もあるが、暫くすると何事もなかったかの如く笑顔で会話を交わしている。

 大信、千里それに陸を加えた三人は、平時からいつも行動を共にしており、仲が良かった。

 攻撃的で負のイメージが強い大信も、名門出身を意識されるのが嫌な千里も、髪や目の色が違うことで虐められていた陸も、三人が一緒に行動することで平穏と安心感を手にすることができ、外部からの雑音に気を取られることもなくなった。口には出さないが、お互いがお互いを大切な存在だと認識しているのだ。

 

 大信の笑顔が、微妙に優しいものへ変化する。

 千里や陸と出会えて自分はどれだけ救われたのだろうかと思うと、自然に心が暖かくなるのだ。

 だからと言って、からかうのを止める気は毛頭ないのだが。 

 一方、言い負かされた千里は、反撃したい気持ちを心に押さえこんで、今後の行動について大信と話し合う。

「それより、どうやって化け猫を捜す? 規模の小さな町だとは言え、町中に逃げ込まれた以上、そう簡単には見つけられないだろう」

「そこら辺でくたばってくれてりゃ、楽なんだけどよぉ」

 楽観的な大信の言葉。しかし、あくまで希望を込めた意見であり、実際、自分たちが化け猫に負わせた傷の具合を考えると、重傷まで持っていったものの、その怪我で化け猫が命を落としたとは、到底思えなかった。

「まあ、確かに。だが、恐らく奴は生きている。そして、この町のどこかに潜んで傷を癒しながら捲土重来の機会を窺っているだろう。それに、このまま放置しておけば、この町の印象が更に悪くなる可能性もある」

「つまり、化け猫がまた人を襲うってことかい。ああいう類の化物は喰らうことで力を貯める傾向にあるからな。又佐って言ったっけ、あのクソ化け猫の今の状況は、まさに羊の群の中に置かれた狼と一緒、喰いたい放題ってわけだな」

「これまでの慎重な行動と怪我の具合を考えると、いきなり人を襲うような真似はしまい。まずは残飯を漁り、鼠を捕食し、そして徐々に大きなものへ獲物を変えて、最後に人間を……」

 言いかけて、千里は右手を広げ、かぶりつくようなジェスチャーを示す。そして、言葉を続ける。

「それに、化け猫は変化が出来る化け物だ。違うものに姿を変えて、こちらの追跡から逃れようとしているだろう。考えられるのは化け猫になる前、本来の姿である普通の猫に成り済ましている可能性が、最も高い。それに女、老婆に変化する場合もある。鍋島の猫騒動の時も、お豊の方という女性に化けていたし……」

 千里の蘊蓄を含んだ説明に対し、感心したように聞き入っている大信。

「……お前。これは全て『学校』の授業で習った話なんだが、もしかして全然聴いてなかったのか」

 思い返せば、剣術の稽古など体を動かす訓練は熱心に取り組んでいたが、一般教養や、狩りの相手である化け物の予備知識といった机の上で学ぶ授業では、安らかな寝息を立てている大信の姿を毎回見ていた憶えが、千里にはあった。

「だってよぉ、俺は実戦で力を発揮するタイプだぜ。んな細かいもんに、かまってられっかよ。要は目の前にいる獲物をぶった斬ればいいんだろ」

「細かいことではなく、相手の特性を知るのは基本中の基本なんだが……」

 と千里は愚痴りつつも、大信だからしょうがないかと、諦め半分の溜息をついた。

「やっぱ、手当たり次第、虱潰しに捜すしかねえかぁ。こうなると昨日の夜の雨が恨めしくなるぜ。血とか臭いの残りそうな証拠を全部流してくれたからなぁ。ちくしょうめ」

 口元を歪ませると、大信は近くにあった電柱に拳で殴りつけて八つ当たりする。

 衝撃で電柱は微かに揺れ、電線にとまっていたカラスが迷惑そうに一声鳴いて飛び立ち、少し離れた電線に再び止まる。

「面倒だが仕方がない。幸い今は天気も良いし、注意深く探索すれば、化け猫の痕跡ぐらいは見つかるはずだ。それに風も吹いているから、奴の臭いを運んでくれるだろう。とにかく最善を尽くそう」

(良いとこの坊ちゃんらしい正しく真っ直ぐな意見だこと)

 大信は千里のくそ真面目な意見を、半ば呆れ気分で聞いていた。そして、お坊ちゃん、という言葉から思い出したのか、疑問を口にする。

「あのさぁ、ちょうど良い機会だから聞くけど、何でお前って実家の話になると不機嫌な態度を取るわけ。自分の家が、そんなに嫌いなんか」

 突然、化け猫とは関係ない質問をされて千里は面を喰らったが、暫く黙って考え込んでいる。あまり取り上げて欲しくない話題らしく、なかなか喋ろうとはしない。

 だが、覚悟を決めたのか、ようやく重い口を開き始めた。

「いいか、これはお前だから話すんだぞ。別に俺は実家と仲が悪いわけでもない。家族が嫌いだとか、そんなことも思っていない。逆に五十嵐という家名を誇りにしてるし、両親も尊敬に値する人間だ。ただ……」

「ただ?」

「……周りに寄ってくる人間が嫌いなんだ。昔から少しでも甘い汁を吸おうと、子供の俺にまで媚びへつらう連中が寄っくるんだが、そのくせ陰では悪口を並び立て、正直何を考えているか分かったモンじゃない。それに、特権意識に凝り固まった他の四家の奴らも嫌いだ。実力もないのに、名門出身を鼻に掛けて威張り散らしている」

 そんな外側だけで中身のない存在にはなりたくないからこそ、剣術や符術の難しい技を次々と習得し、また技術面だけでなく精神面でも立派になろうと日々精進を重ねてきた。

 千里が持つ飽くなき向上心を、大信は知っている。大信だけでなく陸や周りの人間も承知している。だが、媚びる連中にしろ、尊大な名家の連中にしろ、人それぞれ事情があるし、故に諸々の事情を汲み清濁飲み込んでこそ大人だと言える。それが出来ない千里はまだ子供なのだ。

「お前もまだまだガキだね。俺と同じで、安心した」

 豪快に笑いながら、大信は友人の背を何度もバシバシ叩く。

 対して千里は、言わなきゃ良かったと後悔し、気恥ずかしさから頬を赤く染め仏頂面になる。

 そんな二人の前方から、セーラー服姿の女の子三人組が歩いてくる。

 近所の中学生らしき三人は、手にテニスラケットを持っているところから、学校のクラブ活動にでも行くのであろうか、仲良くお喋りしながら二人の横を通り過ぎていった。すれ違う瞬間、彼らを一瞥すると何事か囁きあい、通り過ぎた後、黄色い声をあげる。

「な、な、な、もしかして俺ってもてるんかな」

 期待に目を輝かせながら大信は千里に同意を求めるが、

「いや、あれだろ」

 通り過ぎた女子中学生達とは反対側にある本屋を指さす。本屋の店頭には、人気男性アイドルの大きなポスターが張ってあった。

 淡い期待を裏切られて大信は、面白くなさそうに道に落ちている小石を蹴飛ばす。

 ふてくされた大信の姿を、無表情ながらも何とか笑いを堪えて見ていた千里は、ふと気づいたことがあった。

(自分達は、世間の物事を全くと言って良いほど知らない……)

 同年代の人達が何を話題にしているのか、好きなアイドルや流行の音楽、ファッション、美味しいお菓子、面白い漫画やゲーム。

 知識として世間一般の常識はわきまえているが、後は剣術、符術と言った、普通の中学生とはかけ離れた物事しか知らないし、身につけていない。『学校』の寮に置いてあるテレビから憶えた知識で、多少の流行廃りは頭にあるものの、自分達は世間一般からは、確実に浮いた存在なのだと思い知る。

「だから実習は必要なのか」

 実習は、ただ実戦を重ねて剣の腕を鍛えるだけではない。世間の中で活動し、揉まれることによって経験を積んで、様々な一般知識を叩き込んでいくのも大切なのだ。

「どうした、千里?」

 また立ち止まって考え込んでいる相方に、大信は声をかける。

「いや何でもない。それより早速行動しよう」

 実習に出た自分たちの置かれた立場、自分たちの命題を再確認した千里は、横にいる精悍な顔付きの親友を促すと、小走りに駆けていった。

「ところでさっきの話だけど、マドンナってのはどうだ?」

「……おまえもセンス古ぃよ」

 

 その頃、立場上三人の保護者である朱鷺野は、駅近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。別に化け猫捜索を少年達に任せっきりにしてサボっている訳ではなく、用事があって、とある人物と待ち合わせをしていたのだ。

 店に入って何本目かの煙草を吸い終わった時、店の扉が開いて乾いたベルの音が鳴り響く。

 いらっしゃいませ、と店の従業員に迎えられた客は、申し訳なさそうな顔で朱鷺野がいる席に近づき、対面の椅子に腰を下ろした。そして、店員にコーヒーを注文すると、朱鷺野へ顔を向けて軽く頭を下げる。

「遅れてすみません、朱鷺野さん」

 蜂蜜色の髪の毛に同じ色の瞳。背は高く体つきもガッチリしており、グレーのスーツを見事に着こなしていた。顔の彫りは深く、どう見ても日本人ではない。欧米人である。右手には鞄を持ち、大きな風呂敷包みを脇に抱えている。

「いえ、別に気にしなくてもいいですよ。それよりこちらこそ呼び出したりしてすみません、マックイーンさん」

「これも私の仕事ですから。それで、今回は息子がご迷惑をお掛けしたみたいで……。本当に申し訳ない」

 椅子に腰掛けると、もう一度頭を下げた。

 流暢な日本語を話す彼の名前はウォレス・マックイーン。

 受けた依頼について事前に調べ上げて調査書を作成したり、依頼人と金銭面での交渉などを行ったりする、山月村所属の調査員であり、藤堂陸の実の父親でもある。

「ははは、初めての実戦で、いきなりやらかしてくれましたよ。でも、今はその汚名を晴らそうとして、そこら一帯を駆けずり回っている頃です。相変わらず必死で頑張っていますよ、彼は。何なら会って行かれますか?」

「それは遠慮しておきますよ。陸は私を憎んでいますから。あの子は、私が妻と別れたことをまだ許してはくれていません。仕事にかまけて、自分達を捨てていったと思っていますから。会っても顔を逸らして、目を合わせてはくれないでしょう」 

 ウォレスは寂しそうに口を閉ざす。

 山月の女と出会い結婚したウォレスは、村へ入り調査員となった。しかし、調査員の仕事は日本全国を東奔西走せねばならず、多忙を極めていた。自然、妻と顔を合わす時間もなくなり、結果として夫婦間の溝が深まって、離婚という結末を迎えてしまった。

「妻は、私のいない寂しさを陸に愛情を注ぐことで慰めてました。溺愛と言っても過言ではないでしょう。その所為か、過保護に育てられた陸はどうも外部からの重圧に弱くなってしまって。正直、『学校』に入れて妻から引き離したのは、良かったと思ってます……」

 幼い陸を『学校』に入れたその日、母親が追いすがり半狂乱になって泣き喚いた話を朱鷺野は知っている。村では有名な話だ。

(なかなかヘヴィーな話だな)

 重くなった空気を取り除くため、朱鷺野は話の本題に移る。

「で、今後の日程についてなんですけど、本来なら昨日で狩りは終了し、今朝には次の目的地へ向かうはずだったんですが、結果、一日ずれてしまって……」

「それなら心配は無用です。昨日の夜に連絡を受けてから、すぐに変更した日程表を制作しました。いや、その、大変でした……。他のグループと依頼を入れ替えたり、村に問い合わせて新規の依頼を入れたりと。何より、息子の醜態を村へ報告するのが辛かった」

「私も、上から電話で散々嫌みを言われましたね。幸い五十嵐家が押さえ役にまわってくれたお陰で、それ以上のことはありませんでしたが、任務途中で引き上げて来いと言われやしないか、内心冷や汗ものでしたよ。それこそ、指導員として当に屈辱ですから」

 受け取った日程表に目を通しながら、朱鷺野は思わず苦笑いをする。お互い大変なのだ、中間管理職は。

「それで、今日中には何とか決着はつけそうですか。息子のこともありますが、それ以前に、この事件の担当調査員として気になりますのでね。依頼人との今後のやり取りにも響きますし」

 運ばれてきたコーヒーに口をつけて、ウォレスは朱鷺野に尋ねる。

「正直なところ分からないですね。しかし、町の中へ逃げ込んだ猫一匹見つけられないのなら、それこそ『虎』として失格。すぐに実習を切り上げ、村へ帰って猛特訓ですよ。これから先もっと難関な依頼をこなさなければいけないのに、この程度でもたついていては困りますから。予定外の事態とは言え、あいつらには良い経験ですね。今回の件は」

 厳しい意見だが、もっとな言い分である。

 朱鷺野は、陸達について危惧しているところがあった。

 同年代の『虎』達の中で、確かに彼ら三人は実力上位の存在である。だがそれは『学校』内で受けた訓練による格付けであって、その順位は実習を重ねることで簡単に入れ替わってしまう。育ち盛りであるこの年頃の少年少女は、数回の実戦を経験しただけで、大きく成長する場合がある。実際、『学校』では目立たなかった人物が、実戦を体験して上位の者を追い抜いてしまった例は、よく耳にする。

 陸達三人は、追いかけられる立場にいる。だからこそ、他の者に追い越されない為にも、様々な経験を積ませて、今以上の実力をつけて欲しいと、朱鷺野は願うのであった。

(上に何の思惑があって、爪弾き者の俺にあの三人を任せたか知らないが、預けられた以上、とことん鍛え上げていくつもりだ。問題児揃いとは言え、逸材であるのには変わりない。その能力を伸ばせずじまいとあっちゃあ、俺の沽券に関わる問題だ)

 朱鷺野はコーヒーのおかわりを注文すると、話題を変え、今後の日程についてウォレスと細かい打ち合わせを開始した。

 喫茶店の窓から見える景色は、午前中の爽やかな日差しに包まれて、水彩画のように潤いのある色彩で彩られていた。


 捜査を始めてから数時間、太陽は空の上高く昇っているが、反対に陸の心は深く沈んでいた。

 町中の路地を力無く歩く後ろ姿は、どことなく煤け見える。化け猫の姿どころか足跡さえ見つからない状況に、陸の心の中は焦りと失望が同居して目の前は真っ暗、何をどうしていいのかサッパリ分からない。肩に掛けた竹刀袋の中から、歩く度に得物がカチャカチャ音を立て、重みで紐が肩に食い込んで痛い。それに朝から何も食べていないのも響いた。

「早く化け猫を捜しなきゃ……でも腹減った~。昨日の今頃は、初めての中華料理をたらふく食っていたのになぁ」

 思い返すだけで、涎が口の中一杯になる。お金は全て朱鷺野が管理をしており、陸達三人は一銭も持ち合わせていない。せめて百円でもあれば、コンビニでパンかおにぎりの一つは買うことが出来て、多少は飢えから凌げるのだが。

 虚ろな目でふらふら歩いていると、いきなり腹に激痛が走った。

(よく思えば、昨日の夜からトイレに行ってなかったような……)

 陸の顔色が見る見る青くなる。

「こ、これはマジでやばい……」

 痛む腹を押さえながら辺りを見渡す。

「どこか便所はないか。いや、便所じゃなくても、どこか人目につかないところ」

 一刻を争う緊急事態である。すると、少し離れた場所に茶色い箱形の建物が見えた。芝生の緑と駐車場のアスファルトの黒で囲まれたその建物は、外壁が煉瓦づくりでできており、入り口の自動ドアの上に銀色の文字で大きく『図書館』と書かれていた。

「図書館……。あそこなら便所がある!」

 猛スピードで駆け込みたい心境だが、彼の猛スピードは走る自動車を優に追い越してしまう。山月村ならともかく、一般人のテリトリーであるこの町で、人通りの多いこの時間帯で、それをやるのは流石に拙い。陸は軽く深呼吸をして心を落ち着かせると、一般人に合わせた速さで駆けていった。

 目指すは図書館内の男子便所。


 学校を休んでしまった事による授業の遅れを取り戻す為に、ちか子は図書館で勉学に励んでいた。

「ちょっと疲れたかな。ジュースでも飲んで一休みしてこよう」

 真面目な性格であるちか子は、万事に置いて最善を尽くすタイプである。中学三年生となり、来年の冬に高校受験も控えている身としては、多少の遅れとは言え気になるものだ。

(やっぱり、図書館で勉強することにして正解だったなぁ。家にいたら、テレビとか漫画とか誘惑してくる物が多いけど、その点、図書館なら静かで勉強にも集中できる。ついでに本も借りていけるしね)

 腕を伸ばして背伸びをすると、ジュースを買うために、図書館の入り口近くに設置してあった自動販売機へ向かう。

 閲覧室から出て、階段を下りながら、ちか子は昨日拾ってきた猫のことを思い出す。

 出かける前に部屋の隅に置かれた箱の中を覗き込むと、猫は丸まって寝ており、時折、耳や足をピクピク震わせて、何かに反応している様子だった。猫も、人間と同じように夢を見ると言う話を聞いたことがある。この猫は一体どんな夢を見ているのであろうか。箱の脇に置いていた餌は、なくなっていた。餌を全て平らげる程、猫の体力が回復したのだと確認できて、ちか子はホッと胸を撫でおろした。

「そういえば、猫に名前を付けてなきゃね。どんな名前がいいかしら」

 あーでもない、こーでもないと、拾ってきた猫に付ける名前を思い浮かべながら、屋外へ通じる図書館の自動ドアをくぐろうとする。

 そんな彼女の目の前に、必死の形相で駆けてくる、学生服に身を包んだ少年の姿があった。

(もしかして、このままだとぶつかる?)


 陸が図書館の自動ドアから出てきた少女に気づいたときは、もう遅かった。

 かわそうにも、スピードに乗った体は制御が効かず、しかも余裕もない。今の陸に出来ることは、相手の女の子を怪我させないよう、自分の体を盾代わりにすることしかなかった。

「危ない~ジャンプして避けて~。絶対無理だろうけど」

「え、きゃぁぁぁぁぁ~」

 陸の無茶な要求に反応できるはずもなく、ちか子は突進してくる陸と盛大にぶつかった。

 ぶつかって倒れた瞬間、思わず目をつぶったちか子だったが、その後に来るはずの床との激突による衝撃はこなかった。代わりに何か柔らかいものがお尻の下にあった。

「あいた~、ごめん大丈夫?」

 ちか子の下には、床から庇うように、うつ伏せに倒れていた陸が、顔をしかめて痛そうにしている。

「きゃっ、こちらこそごめんなさい」

 慌てて陸の上から退くと、自らの手を差し出して起きあがらせる。

 起きあがった陸は、服に付いた誇りを叩き、ちか子に向かって深々と頭を下げた。

「ごめん、本当にごめん。急いでいたもんだから、ちゃんと前を見てなくて。大丈夫? 怪我はない?」

「いえ、大丈夫ですよ。こちらこそ御免なさい。ぼ~っと考え事をして、気づくのに遅れてしまって。どうか、頭を上げて下さい」

 ちか子は、照れくさそうに頭を上げた少年の顔をじっくりと見る。

 蜂蜜色の髪を真ん中で分け、大きな目には髪の毛と同じ色の瞳が浮かんでいる。色白で、背はちか子よりも少し低く、華奢な印象を与えた。そして、どこか人を惹きつける魅力を感じていた。

(この子、ハーフだよね。初めて見た。でもうちの学校には、いない子だ。別の学校の生徒かしら。あ、照れてる顔が可愛いなぁ)

 同じクラスの男子とは違う雰囲気を持った陸に、彼女は興味津々で目を離せないでいた。

 一方の陸も、普段同世代の女の子とふれあう機会が全くなかったので、ちか子を目の前にして完全に舞い上がっていた。

(うわ~女の子とこんな間近で話すなんて、久しぶりだな。束ねた黒髪が綺麗だし、眼鏡に白のブラウス、薄い緑のスカートがすっごく似合ってる。顔立ちも整っていて、清楚な感じがいいなあ。ふぁ~、女の子とはこういう生き物なんだ。村の逞しい女子とは大違い)

 お互い緊張して、次の言葉が出ないまま向き合っていたが、不意に陸がよろめいて片膝を床につけてしまった。

 ちか子が驚いて駆け寄り、俯いた陸の顔を覗き込むと、その顔色は真っ青で今にも倒れそうである。

「だ、大丈夫ですか。もしかして、さっき打ち所が悪かったとか。きゅ……救急車呼びましょうか?」

「い……いや、そんな大げさなモノじゃないから。それより、どっか休める場所はないかな?」

 さすがに腹が減って立ちくらみがしたとは、恥ずかしくて言えない。それに、朝からずっと歩きっぱなしだった疲れもあるだろうと、取りあえず体を休ませることが出来る場所を、陸は訊ねた。

 心配そうな素振りを見せるちか子は、陸の手を繋ぐと、図書館内にある飲食コーナーへ連れていった。

 ちか子の柔らかい手の温もりが陸の掌に伝わる。

 その柔らかな暖かさに、思わず陸は赤面してしまうが、見れば誘導しているちか子の耳も真っ赤だった。向こうも照れているのだ。

 

 雑誌が置いてあるスペースを通り抜けると、ガラス張りの壁に囲まれた広いスペースがあった。そこでは、ソファーに座って買ってきたジュースを飲んだり、煙草を吸ったりと、人々が思い思いにくつろいでいる。

 目の前の空いているソファーに陸を座らせると、寄り添うようにちか子も隣に腰を下ろす。

 柔らかいソファーにもたれかかり、陸は安堵の溜息をつく。考えていた以上に体力を消耗していたらしく、ぐったりと動けないでいた。

「ありがとう、こんなとこまで面倒見てもらっちゃって……」

「いえ、いいんですよ。困ったときはお互い様です。それより気分はどうです?」

「ん、ちょっと持ち直したみたい」

 ははは、と明るい笑顔を見せる陸。それは相手を心配させないために作った笑顔だ。

 陸はよく笑うが、その笑顔の大半はご機嫌を取ったり、気を配ったりと、他人の為の笑顔であって、自分の為の笑顔ではない。

 媚びる笑顔、取り繕った笑顔、

 だから、陸は自分の笑顔が大嫌いだった。

 そんな自分の感情を素直にさらけ出せる相手は、肉親を除けば、大信と千里だけ。

 だが、いつも一緒にいる二人は、今この場所にはいない、見知らぬ土地に自分一人だけいるのだ。不安になった陸の心の中に冷たい風が吹く。

「あの~、どうかしました?」

「え、何でもないよ」

 自分の考えに浸っていた陸は、ちか子に声をかけられ現実に心を戻した。

「そうですか。いえ、顔は笑ってるのに目はやけに寂しそうだったから。あ、気を悪くしたら謝ります」

 ドキッとした。

 まるで心の中を覗かれたような、ちか子の発言。

(もしかしたら、この子は自分の本心を読みとったのかもしれない。初めて会ったのに、凄い子だ)

 感心した陸はジッとちか子の顔を見つめていた。

 その刹那、陸の心の奥底で何かが目覚め雄叫びをあげる。

 それは遙か昔から受け継いできた虎人の血、野生の本能。普段は理性で押さえつけているものだった。

(何で、こんな所で目を覚ます。『詩』も詠っていないのに)

 体中から冷たい汗が吹き出し、震えが止まらない。このままでは危ない、と理性が警鐘を鳴らすが、野生の雄叫びが、それをかき消す。

 肩に手を置かれて、そちらの方を振り向くと、心配そうなちか子の顔が窺えた。

 心の中で『虎』が陸に囁く。

 

『綺麗な娘だ。その柔らかい首筋に牙を立てたら、とろけるように甘い血肉が口の中を覆うだろう。ああ、噛みつきたい。そして餓えを満たしたい』

『さあ、犯せ、襲え、食いつくせ。本能の赴くままに、野生を解放しろ』

『汝の本性は虎なり。そして人は虎の獲物なり。我らの性欲を食欲を破壊欲を満たすだけの弱き物なり』


 絶え間のない野生からの欲求と、それを押さえつけようとする理性との板挟みで、気が狂いそうになる中、陸は何故自分の心の奥で眠っていた野生が首をもたげたのか理解できた。

 飢えである。

 虎人は、普通の人間より多くの食物を摂取する。常識はずれの肉体を維持するのに必要なのもあるが、一方で食欲を過剰に満たすことによって『虎』としての貪欲な欲求を大人しくさせていたのもある。

 陸は、一刻でも早く化け猫を探し出したい一心で、朝から何も飲まず食わずで動いていた。その負担が、ここにきて理性を鈍らし押さえつけられていた野生が首をもたげたのだ。

「本当に大丈夫です? やっぱり救急車呼びましょうか」

 まるで、苦痛から耐えているように視線を固定したまま脂汗を流して動かない陸の姿に、ただ事でない気配を察したちか子は、電話をかけるために席から立ち上がるが、

「余計なことはするな!」

 陸から出た強い拒否の言葉に吃驚して、動きを止めてしまう。驚いた表情で陸を見つめたちか子だったが、そのまま背を向けて何処かへ去っていってしまった。

 小さくなっていくちか子の後ろ姿を眺め、陸は自責の念に捕らわれる

(くそっ、もっと違う言い方があるじゃないか。あんなに優しくしてくれた子に向かって怒鳴るなんて。あ~、俺の馬鹿、最低だ~)

 俯いて自分自身を罵倒するが、それを嘲笑うかのように野生からの欲求は強くなる一方だ。水でも、ご飯粒でもいいから口に入れないと、このままでは『虎』になって建物内の人間を食い殺してしまい、化け猫事件の比ではない大事件を起こしてしまう。

 そんな極限状態に置かれた陸の目の前に、清涼飲料水の缶が飛び込んできた。無我夢中で缶を手で掴むと、プルトップを開けて中身を一気に飲み干す。冷たい液体が胃の中へ流れ込むと同時に、煩かった野生の咆哮が消え大人しくなっていくのを感じ取ることが出来た。

 当座の飢えを凌いで平常心を取り戻した陸に声がかけられる。

「よかった、飲んでもらえて。水分を取れば多少は落ち着くんじゃないかと思ったんだけど、具合はどう?」

「きみは……。うん、かなり良くなったよ。あの、さっきは怒鳴ったりしてごめん」

 そこに立っていたのは、ちか子だった。

「いいよ。気分が悪くて静かにしてたいのに、余計なお節介をかけようとした私も悪いし。それより、もう一本いる?」

 ちか子が更に缶を差し出す。恐らく自分が飲む分として買ってきた物だろう。流石に、それは頂けないと断ろうとした陸だが、何時また自分の中の野生が目を覚ますか分からないので、有り難く受け取ることにした。

「そう言えば、私達自己紹介まだだったよね。私の名前は、和田ちか子。中学三年生よ」

 怒鳴られたことを全く気にしていない、明るい笑顔で自己紹介をする。

「……俺は藤堂陸、十四歳。よろしく」

 つられて陸も笑顔が零れる。それは何の飾り気もない素顔の笑みだった。

「あ、やっと、本当に笑ってくれた」

「そ、そうかな。言われると照れるなぁ」

 微かに頬を赤らめて陸は頭を掻くが、リラックスしたのか今度は腹が痛くなり始めた。そして、一連の騒動で忘れていた、自分がこの図書館へ訪れた目的を思い出す。

「ごめん、便所ってどこかな。腹痛くなってきた……」

 女の子に便所の場所を聞くなど、恥辱の極みである。それでも、親切丁寧に教えてくれたちか子に礼を言い、陸は情けない気持ちで一杯になりながらも、急いでトイレへ駆け込んでいった。


 数分後。用を済ませてスッキリした顔でトイレから出てきた陸は、図書館のある一各区に目がいった。

 そこは郷土史や昔話など、この町に由来のある出来事を取り上げた本を集めたコーナーで、その内の何冊かが、表紙を表にして棚に飾られている。

 陸が興味を持ったのは町の昔話を集めた本で、小学生向けらしくイラストがふんだんに盛り込まれており、内容も分かりやすく簡潔に纏められていた。

 その本を手に取った理由は、表紙に書いてある文字を読んだからだ。

「猫合戦……」

 この町で、今起きている化け猫事件に関係があるのだろうか。気になって中身を読もうとしたとき、ちか子が陸の側にやってきた。

「どうしたの、藤堂君。これ昔話の本よね。こういうのに興味があるんだ」

「あ、うん。まあね」

 曖昧な返事をする陸だが、それとは反対にちか子は熱のこもった言葉を返してくる。

「私も古典とか昔話とか大好きなの。小さい頃よくお祖母ちゃんに読んでもらったんだ。今は、図書館から借りている源氏物語を読んでいる途中なの。昨日、やっと中巻まで読み終えて、今日は下巻を借りてくの」

 陸が自分と同じ趣向を持っているのが余程嬉しかったのだろうか、ちか子は一方的に話し続けている。

 一方の陸は、少々面食らっていたが、源氏物語の名前を聞いて、思わず相手には気づかれない軽い苦笑いを浮かべてしまう。

「俺の持っている得物も源氏物語と関係があるんだよな」

 小さな声で呟く。

 

 虎人達が得物として使う武器は、全て山月村で作られる。

 山月の刀匠達が腕を振るい作り上げた武器は、人間が作った品と比べて遙かに丈夫で、滅多に刃こぼれしない強度を誇っている。そんな刀匠達の中でも、名匠と称される達人が鍛えた銘入りの業物を手に入れるのが、虎人達のステータスであるのだが、陸達三人の持つ得物が当にそれであった。

 銘入りの武具には刀匠の銘以外に、その作品自体にも銘が入る。鍛えた刀匠によって名付け方に様々な特徴があり、三人の得物は同じ刀匠の作だが、全て源氏物語の巻の名前から取られていた。

 陸の持つ刃渡り二尺の打刀が『若紫』、それより長い二尺三寸ある大信の刀は『夕顔』、そして前出した二振りの中間に位置する長さの刀、『夢浮橋』が千里の得物である。

 優美な男女の恋物語を描いた源氏物語の名を、戦の道具である刀に付けるとは、何たる皮肉であろうか。

 陸の苦笑いには、そんな意味があった。

 

 ぐぐぎゅ~。

 いきなり腹から空腹を知らせる音が響いて、陸は気恥ずかしさに顔を真っ赤にした。

 ちか子もその音で我に帰る。

「御免なさい、お腹空かせてるのも知らないで、私ばっかり一方的に喋り倒しちゃって。嬉しくなって、つい」

「別にいいよ、どうせ食べ物買うお金もないし。でも、昔話とか本当に好きなんだね」

「うん。実はね、私の昔話好きってのは藤堂君が持ってる本にちょっと関係してるんだ。この本に『猫合戦』て話が載ってるんだけど、話の中に出てくる登場人物が、私のご先祖様らしいの。これってちょっとした自慢、凄いでしょ」

 少し誇らしげにちか子は本を指さして、表紙に載っている『猫合戦』の文字をなぞる。そして、感心しながら頷く陸の姿を見て、嬉しそうな表情を作った。だが、すぐに、すまなそうな表情に変わる。

「私、これから自分の勉強に戻らないといけないの。ノートとか出しっぱなしだから、もうそろそろ行かないと。藤堂君はまだ暫くここにいるの?」

「え! あ、うん。多分……」

「それじゃ、また会えるかもね。あ、それと……」

 ちか子は財布から五百円玉を取り出すと、陸の掌に乗せて手を握らせた。

「これで何か買って食べてね」

「いや、それは悪いよ。さっきジュースも貰ったのに」

 陸は慌てて返そうとする。中学生の五百円はその年齢で貰えるお小遣いから換算すると、社会人の同じ金額に比べて、遙かに価値が高い。そんな価値のあるお金を、貰うわけにはいかない。しかも出会って、それ程時間も経ってない初対面の人間から。

 しかし、ちか子は意に介した様子もなく、差し出された掌を優しく返した。

「言ったでしょう、困ったときはお互い様だって。もし藤堂君の気が済まないなら、また会った時に返してくれればいいよ。じゃあ、行くね」

 ニッコリ微笑むと、ちか子は名残惜しそうに小さく手を振って閲覧室へ続く階段を昇っていった。

 残された陸は、うわずった溜息をつくと、本を持って先程座っていたソファーへ向かって行った。渡された硬貨から、まだ微かに残っている彼女の温もりが伝わってくる。 

 他人からあからさまに好意を寄せられるという体験は、陸にとって初めてだった。大体、奇異の目で見られ、馬鹿にされるのが殆どだ。

『また会えるかもね』

 別れ際に言われたちか子の言葉が、頭の中で何度もリフレインする。夢心地気分のままソファーの前へたどり着くと、ゆっくり腰を下ろしページを開いて『猫合戦』の話を探し始めた。


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