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「小説の中でだけ、あなたと私は出会った」

作者: 茅ヶ崎渚&希望の王

この物語は、作者:茅ヶ崎渚と希望の王による共同作品です。

挿絵(By みてみん)

表紙


朝 会社の一階エントランスには、始業の時間に向けて社員たちが次々と足早に通り抜けていく。 それぞれが自分の部署へと急ぐ中、入り口近くの壁際で一人、じっと同僚を待つ女性の姿があった。


彼女の名前は――白井若葉。 若菜はスマートフォンを手にし、画面を眺めながら何かを確認している様子だった。 姿勢はリラックスしているが、その目はどこか緊張したような色を帯びている。


挿絵(By みてみん)


その時、自動ドアが音もなく開く。 一歩足を踏み入れてきたのは、黒のスーツに身を包んだ一人の女性。 左腕にはタブレット、もう片方の手では後ろに続く数名の男性社員たちにテキパキと指示を出していた。


彼女の姿がフロアに現れた瞬間、それまでざわついていた空気が一変する。 ざわめきが薄れ、人の流れが自然と分かれていく。 まるで、海が割れていくように。 堂々と歩を進めるその女性の前には、誰の指示もないのに自然と道ができていった。


彼女の名は――黒川若菜。 この会社で、彼女の存在を知らない人はいない。 圧倒的な美貌、そしてそれ以上に際立つ仕事の実力。 芯のある態度と判断力の鋭さは、時に“下手な男よりも男らしい”とすら言われる。 毅然とした佇まいに、憧れと畏敬を抱く女性社員は数知れない。


挿絵(By みてみん)


彼女がエントランスに姿を現すと、自然と空気が変わった。 一瞬、ざわついたかと思うと――誰からともなく、声が漏れはじめる。


「わっ……黒川さん」


「今日もかっこいい……」


「ねえ、見て。あの黒スーツ、完璧すぎない?」


「ほんと、惚れ惚れする……」


「綺麗だし、背筋がいつもピンとしてて……ああいう大人になりたい」


「絶対目が合わないようにしちゃう。緊張するもん」


「だけどちょっと、あの眼差しに憧れるよね……」


若菜が歩くたびに、彼女を中心に空気が揺れ、視線が集中していく。 部下たちを引き連れているはずなのに、誰よりも存在感がある。 まるで、そこだけが別の時間を生きているかのように。 彼女の姿が進むにつれて、エントランス全体が小さな波紋のようにざわめき続けていた。


ちょうど、黒川若菜がエントランスの中央を通り過ぎようとしたその瞬間だった。 彼女はふと、視線を横に向けた。 その視線の先にいたのが――白井若葉だった。


若葉は、無意識のうちに彼女を目で追っていた。 気づけば、指先はスマートフォンの画面の上で止まり、ただただその姿に見入っていたのだ。 そして、ふたりの視線が――重なった。 一瞬、時間が止まったようだった。 周囲のざわめきも、朝のざわついた喧騒も、遠くに霞んでいく


。 黒川は、若葉の方へわずかに顔を向けたまま、静かに微笑んだ。 柔らかく、けれどどこか芯のある、あたたかな表情だった。 その一瞬の微笑みが、若葉の胸にそっと入り込んだ。


――目が合っただけ、ただそれだけなのに。 若葉は息を呑み、全身がふっと強張るのを感じた。 まるで、心の奥深くに何かを刻まれたような感覚だった。


彼女の姿が視界から遠ざかっていっても、若葉はしばらくその場から動けなかった。 目が合ったその瞬間が、心のどこかに焼き付いて離れなかった。 この時、若葉はまだ知らない。 あの何気ない視線の交差が、やがて彼女の人生を大きく揺らすことになることを……。


挿絵(By みてみん)


若葉の所属は、事務部企画課。 その中でも出金や入金の管理を担当する、比較的地味な経理的ポジションだった。 書類と数字に囲まれたデスクで、いつも通りパソコンに向かっていた若葉の隣の席で、同僚の麻生千尋が声をかけてきた。


「ねえ、若葉。今朝、黒川さんと目が合ってたよね?」


若葉は一瞬手を止め、思い出すように眉をひそめた。


「ああ……うん。でも、たまたまだと思うよ」


「え?でもちょっとニコッてされてなかった?」


「……たぶん、気のせいだよ。話したことなんて一度もないし……。黒川さんって、なんだかもう“神様”みたいな人だから」


千尋はクスッと笑って、くるくるとペンを回した。


「確かにねぇ。私たちなんかと、住んでる世界が違うって感じするもん」


「うん……ほんとに」


若葉も微笑みながらうなずいたが、その目はどこか遠くを見つめていた。


千尋は肩肘を机に乗せたまま、ぽつりと呟く。


「でもさぁ、黒川さんって本当にかっこいいよね。あんな風にバリバリ仕事して、しかも美人で……。ああいう女性になれたらなぁ」


若葉はしばらく黙っていた。 そして小さく首を横に振る。


「ううん……私には、よく分からないんだ。すごい人ってことは分かるんだけど……。どこか、私には遠すぎて……」 言いながら、若葉の声は少しだけ曇っていた。 尊敬というよりも、理解できないままに眺めている――そんな距離感。


千尋はその表情に気づいたのか気づかなかったのか、何も言わず、ふたたび仕事に戻っていった。 若葉は再びパソコンに向き直しながらも、どこか心が上の空だった。 さっき見た、黒川若菜の微笑みが、胸の奥でまだ静かに余韻を残していた。


その日、一日の仕事を終えて、オフィスの片づけを始めていた時だった。 隣の席の麻生千尋が、少しだけ遠慮がちに声をかけてきた。


「ねぇ、若葉。今日このあと時間ある?」


手に持った書類を鞄にしまいながら、若葉は申し訳なさそうに微笑んだ。


「ごめんね。今日は家に荷物が届く予定があって……。ちょっと早めに帰らないといけないんだ」


「そっか、残念。また今度誘うね〜」


「うん」


千尋が軽く手を振るのを見届けると、若葉は深く頭を下げて静かにオフィスを後にした。 会社の外に出ると、夕方の風が涼しく頬を撫でた。 どこにでもあるような一日だったけれど、若葉にとってはここからが“自分に戻る時間”だった。


挿絵(By みてみん)


彼女には――もうひとつの顔がある。 それは、ごく限られた人しか知らない、趣味の小説家としての一面だった。 本名ではないペンネーム渚で、SNSに作品を投稿している。 プロでも何でもない。ただ、自分の物語を綴ることが好きだった。


小説を書いているときだけは、自分の中の余計な感情や悩みが、すっと遠ざかっていく。 誰かに気を遣う必要もなく、自分の頭の中だけに集中出来る。


嫌なことも、言えなかった言葉も、全部物語の中に溶かしていける―― それが、若葉にとっての救いだった。 駅から数分ほど歩いて、小さなワンルームのマンションに戻る。 部屋に入ると、カーテンを閉め、部屋着に着替える。 そして何よりも早く、デスクの前にあるノートパソコンの電源を入れた。


「ただいま」と言う代わりに、彼女は物語の世界へと帰っていく。


しばらくは、自分が投稿している小説の続きを読み返しながら、少しずつ文章を整えていく。 改稿しながら新しいシーンを書き進めるその時間が、何よりも落ち着く。 区切りの良いところまで書き終えると、ふぅっと息をついて、ひと休み。


挿絵(By みてみん)


「読んでくれてる人、今日もいるかな……」 自分の投稿ページを確認し、いいねの数やコメントをチェックする.こんな私の作品を読んでくれている人が少しでもいてくれると、それが若葉にとってのモチベーション 1人だけでも自分の事を見つけて読んでくれている。


それがたまらなく好きになっていた 気になっていた“あの人”のアカウントをそっと覗く。 その人は、自分と同じように物語を投稿している匿名の書き手だった。


アカウント名は希望の王、彼女が描く世界には、どこか惹かれるものがあった。 そのページには、いつも登場する狐の女の子がいる。 不思議で、可愛くて、時々とても切ない表情を見せるキャラクター。 若葉はその狐の女の子が大好きだった。


気がつけば、毎回彼女のコメントをチェックするようになっていた。 更新があれば心が踊り、嬉しくなる。


「……今日こそ、送ってみようかな」


迷いながらも、若葉は思い切ってその人にダイレクトメッセージを送ることにした。 誰かに言葉を届けるのは、少しだけ勇気がいる。


でも今夜は、何かが少し違っていた。 画面に映る小さな文字を打ちながら、若葉の心はほんの少しだけ高鳴っていた。


「ふぅ……」


深く息を吐いて、黒川若菜はようやく一人きりの部屋へと戻った。 自動で点いた照明の下、バッグを床に置き、ヒールを脱ぎ捨てるようにして玄関を抜ける。


「今日も、よくやった……私」


誰に言うでもなく、ぽつりと呟いたその声には、少しだけ疲労の滲んだ笑みがあった。 スーツのジャケットを脱いでハンガーにかけ、部屋着に着替えると、ソファへと身を沈めた。 クッションに背中を預けた瞬間、全身から力が抜ける。


「疲れたぁ……」


その一言に、若菜自身の緊張がふっとほどけていく。 オフィスでの完璧な姿とは違い、ここには気を張らない彼女の素顔があった。 足を投げ出しながら、片手でスマートフォンを手に取る。 特に目的があるわけでもなく、なんとなくSNSを開いてみた。


挿絵(By みてみん)


仕事のメールはもう見たくない。 だけど、物語の世界だけは、少しだけ自分の心を休ませてくれる。 Twitterの通知欄に目をやると――見慣れない表示がひとつ、目に飛び込んできた。


「……DM?」


普段、ダイレクトメッセージは“受け付けていません”とプロフィールにも明記している。 たとえ届いても、ほとんどが見ずに流してしまうのが常だった。


でも、その日はなぜか気になった。 通知をタップし、メッセージを開く。 そこに表示されたのは、短くて丁寧な一文。 はじめて見る名前のアカウントからだった。 若菜は少しだけ見てみようとそして――静かに読み始めた。


一通目「はじめまして。いつもイラスト可愛くていいなぁって思ってました。 よかったら、これからもどうぞよろしくお願いいたします。茅ヶ崎 渚」


二通目「ごめんなさい DMダメだったんですね。 失礼しました 」


思わず、微笑んでしまった。 送信者の名前は「茅ヶ崎渚」。


初めて見るアカウントから届いたそのDMには、彼女のイラストに対する素直な言葉だった (……ちゃんとプロフィールにDMは受け付けてませんって書いてたのに) そう心の中で思いつつも、不思議と嫌な感じはしなかった。 むしろ、どこかくすぐったいような気持ちになった。


(最初はちゃんと読んでなかったけど……なんだろう、この人。気になる) 文体も、言葉の選び方も、素直で。 それでいて、直ぐにごめんなさいと反省の文章 若菜は思わず微笑んでしまった 素直さがにじんでいた。


若菜はもう一度DMを読み返し、ゆっくりと画面をスクロールした。 その名前――「茅ヶ崎渚ちゃん」という響きが、静かに胸の中に残っていた。


(……返してみようかな) 普段なら、見ずに流していたはずのDM けれどその日、若菜の指先は自然と返信画面に動いていた。


若葉は、パソコンに向かって静かにキーボードを叩いていた。 物語の続きを考えながら、頭の中で言葉を紡いでいると―― ふいに、手元のスマートフォンが小さく震えた。


(通知……?)


何気なく横目で画面をのぞき込んだ瞬間、若葉の目が大きく見開かれた。


「えぇ〜〜!? 嘘……!?」


思わず声が漏れた。 そのまま慌てて携帯を手に取り、指先が震えそうになりながら画面をタップする。 そこには、信じられない名前が表示されていた。


『結衣と姉 希望の王』 憧れの人… ずっと見続けてきた、あの“狐の女の子”を描く人からの返信だった。 まさか、本当に返事が来るなんて。


胸がどくどくと高鳴り、文字を読む前から息が詰まりそうになる。 嬉しさと驚きが一気に押し寄せてきて、頭の中が真っ白になった。


(本当に……私に……?)


若葉はしばらくのあいだ、ただ画面を見つめたまま、動くことができなかった。


一通目:こちらのポストから、失礼します。 はじめまして。渚様☺いつもお世話になっています。 感謝のDMなどに関しては、その限りではないです(非公式ですが)とても嬉しいです☺ こちらこそ、これからもよろしくお願いします☺


それからというもの、ふたりの距離は驚くほど自然に、けれど確実に近づいていった。


きっかけはたった一通のダイレクトメッセージ。


白川若葉――ネット上では「茅ヶ崎渚」と名乗っている彼女は、ずっと憧れていた“あの人”から返信をもらった日のことを、今でもはっきりと覚えている。


「結衣と姉 希望の王」 それが相手のアカウント名だった。


物語の中にだけ生きるような、幻想的な世界観。 そこに登場するキャラクターたちはみな繊細で、時に強く、時にとても可愛くて―― 若葉はいつの間にか、その世界に心を奪われていた。


返信が来たその時から、渚は自然とメッセージのやり取りが始まった やりとりが始まってから渚にひとつの“贈り物”が送られてきた。


渚をイメージした狐の女の子 「渚ちゃん、私の中ではこんなイメージ。気になって……描いてみたくなっちゃいました」 思わず「かわいい〜、すごい嬉しいです」そう伝えると「良かったら使ってね…プレゼント」と返ってきた あまりの可愛さに、「この子携帯の待ち受けにします」と伝えると希望の王様は喜んでくれているようだった。


それをきっかけに、「希望の王」は渚のために、Twitterのページを整え始めた。 プロフィール、ページの華やかさ、時には投稿するための準備まで―― まるで本の編集者のように、渚の創作の世界を、ひとつひとつ丁寧に形にしてくれた。


「見てくれる人が、寂しくならないようにね」


そう言って、彼女は自分の時間を惜しまず、渚の世界に寄り添ってくれた。 それはアドバイスというより、ひとつひとつが“優しい贈り物”のようだった。


SNSの中――顔も本名も知らない相手。 けれど茅ヶ崎渚にとって「結衣と姉 希望の王」は、誰よりも信頼できる存在になっていった。


渚は、希望の王様に一つのお願いをした。 「希望の王様、王様の事をベルおねーちゃんと読んでもいいですか?」と


すると王様からは 「いいよ、私は渚ちゃんて呼んでいくからね」


これがきっかけで 2人の距離感が、一気に縮まって行った 渚はベルおねーちゃんとの時間が楽しくて嬉しくてそして今、確かに彼女の心を支えてくれている存在に変わっていた 翌朝。


目を覚ました渚は、しばらくのあいだ天井を見つめたまま、ぼんやりと横になっていた。


――夢だったのかな。 昨夜のことを思い出そうとすると、胸の奥がふわりと温かくなる。 けれど、それがあまりに嬉しくて、現実味がない気さえしてくる。


「えっ……ちょっと待って」


半分寝ぼけた頭で、渚は慌ててベッドから身を起こし、手探りでスマートフォンを探した。


画面に指を滑らせて、自分のブログのページを開く。


――そこには、間違いなく、昨夜「結衣と姉 希望の王」から贈られた、可愛く整えられたページがあった。 色合い、アイコン、キャラクター…… まるで小さな物語の世界がそのままそこに広がっていた。


「本当に……夢じゃなかったんだ」 声には出さず、心の中でぽつりと呟く。 ページを見つめたまま、渚はそっと微笑んだ。


胸の奥に、じんわりと込み上げてくる感謝の気持ちを抱えながら、静かに心の中で呟いた。


「……ベルおねーちゃん、本当にありがとうございます」


画面の向こうの“まだ知らない誰か”に、そっと、心の中で手を合わせるように――。


いつものように電車に揺られ、駅から歩き、会社のエントランスを抜ける―― 何ひとつ変わらないはずの朝の風景なのに、白川若葉――ネット上では「茅ヶ崎渚」として活動する彼女の心は、今朝に限って軽やかだった。


理由ははっきりしている。 頭の中は、昨夜からずっと“ベルおねーちゃん”…… そう呼んで親しみを込めるあの人のことでいっぱいだった。


思い出すたびに、自然と口元がほころんでしまう。 誰にも気づかれないように、ちょっとだけ下を向きながら、それでも隠せない嬉しさが胸の奥に広がっていた。


(ほんとに……夢みたい)


渚にとって、“小説を書くこと”はずっと一人きりの趣味だった。 物語を通じて誰かと交流したことも、ましてや尊敬している書き手と直接言葉を交わすなんて、想像すらしていなかった。


でも、昨夜から現実が少しずつ変わりはじめている。 「同じ小説家同士として、言葉を交わした」 ――それだけのことが、渚には奇跡のように思えた。 ベルおねーちゃんが、自分の世界を見てくれた。 そして、受け取ってくれた。 あたたかな言葉で返してくれた。


そのすべてが、まだ胸の奥で優しく響いている。 会社に向かう足取りは、いつもより少しだけ早く、そして軽かった。 これまでと同じ景色のはずなのに、すべてがほんの少し輝いて見える朝だった。 会社に到着し、いつものように事務部企画課のフロアへ向かうと、白川若葉のデスクの隣にはすでに麻生千尋の姿があった。


「おはよう」


千尋が先に声をかけてきたので、若葉もにこやかに「おはよう」と返す。


すると―― 若葉の顔をじっと見つめた千尋は、目を細めてにやりと笑った。


「若葉……なんかいいことあったでしょ?」


突然の指摘に、若葉は少しだけ驚きながらも、すぐに微笑んだ。


「……まぁね」


その笑顔に、千尋の目がさらに鋭くなる。


「えっ、なに? なに? なにがあったの? ちょっと、早く教えてよ〜!」


勢いよく詰め寄ってくる千尋に、若葉は肩をすくめておどけてみせた。


「ないしょ」


「えぇ〜〜っ!? ずるい! 教えてよ、若葉ぁ〜」


千尋は軽くむくれたように唇を尖らせたが、若葉が本気で話す気がないとわかると、あっさりと手を引いた。


「……ま、いいけどさ。でも、ニヤニヤしすぎて怪しいよ?」


「してないってば」


「してるしてる。ジュース買いに行こ」


「うん、行こっか」


ふたりは笑い合いながら立ち上がり、並んで自販機の方へと歩き出した。 窓から差し込む朝の光の中、若葉の心は、昨日から続く“うれしさ”でまだぽかぽかと温かった。


挿絵(By みてみん)


自販機の前に着くと、千尋は迷いなくボタンを押して、いつものお気に入りのジュースを買った。 ガタンという音とともに缶が落ち、千尋はそれを片手で受け取る。 次は若葉の番だった。


彼女は、色とりどりのドリンクが並ぶ自販機のパネルをじっと見つめたまま、腕を組んでうんうん唸っている。


「うーん……緑茶かなぁ。でも、炭酸も気分だし……いや、やっぱりコーヒーも……」


悩むその表情は真剣そのもの。 一方で、千尋はそんな若葉の後ろが気になって、そっと視線を背後へ向けた。


――その瞬間、思わず小さく息を呑んだ。 若葉のすぐ後ろに、黒川若菜が立っていたのだ。 黒川さん。 会社中の誰もが一目置く、あの完璧な女性上司。


シュッとしたスーツ姿に、どこか凛とした空気を纏っている彼女が、今、若葉のすぐ後ろに無言で並んでいる。 千尋は焦った。 思わず若葉の腕をつつきながら、小声で急かす。


「若葉、ちょっと……早く決めなよ……!」


しかし、若葉は振り向かずに首を傾げながら、自販機とにらめっこを続けている。


「えーだってぇ、こんなに種類あるんだもん。迷うよ〜」


そののんびりした口調に、千尋は半ば呆れながらも、さらに声をひそめて言った。


「いいから早くしなって! 並んでるんだから……!」


その一言で、ようやく若葉は状況を察した。


(え、並んでる……?)


そう思いながら、ゆっくりと後ろを振り返った。 そして、目に飛び込んできたのは――あの、黒川若菜の姿だった。 予想もしていなかった人物を目の前にして、若葉は思わず硬直した。


あまりの驚きに手元がふらつき、持っていたスマートフォンと財布を、ぱたりと足元に落としてしまった。


「わっ……!」


挿絵(By みてみん)


その音に千尋もハッとした表情で振り返ったが、若葉よりも先に、黒川若菜がすっと前にしゃがみ込んだ。


彼女の動きはとても自然で、周囲の視線など全く気にしていないようだった。 拾い上げたスマホの画面がふと光る。 そこに表示された待ち受けを見た黒川は、ほんの一瞬、驚いたように目を見開いた。


画面には、可愛らしい狐の耳をつけた少女のイラストが映っていた。


この絵って、まさか…… 黒川は 「かわいい待ち受けね。……狐?」 静かに、でもどこかやわらかい声で、黒川がそう話しかけてきた。 突然の言葉に若葉は目を瞬かせ、緊張しながらもうなずいた。


「は、はい……そうです。この子 昨日……あの、憧れの方からプレゼントしていただいたばかりで……」


声が少しだけ震えていた。けれど、どこか嬉しさも滲んでいた。 黒川は画面をじっと見つめたまま、小さく笑みを浮かべた。


「なんか、いいなぁ。……私も、欲しいなぁ〜」


その意外な言葉に、若葉は思わず目を見開いた。


――黒川さんが、欲しいって……? 戸惑いながらも、若葉は小さく息を吸い、はっきりと答えた。 「わ、わかりました。無理かもしれませんが……今日、帰ったらお願いしてみます!」 すると黒川は、若葉の名札に目を落とし、ふと優しい表情を見せた。


「若葉ちゃん……っていうんだ。そっか。 なんだか、不思議な縁ね。白川若葉ちゃん。 私、黒川若菜って言うの、名前も似てるね。」


その名前の響きに、若葉も千尋も一瞬息をのんだ。 偶然にしては出来すぎている―― どこか“物語の導入”のような気すらしてしまう、そんな出会い。


黒川の柔らかな口調は、社内で噂されている“厳しい完璧主義者”のイメージとはまるで違っていて、ふたりはそのギャップにも驚いていた。 そのあと、千尋と若葉が自分たちの部署が企画課であることを伝えると、


「じゃあ明日、ちょっと顔出しに行こうかな。……楽しみにしてるから、よろしくね」 そう優しく言い残して、黒川若菜はすぅっとその場を離れていった。


去っていく背中を、若葉はただ見送ることしかできなかった。 胸の鼓動が、まだずっと速いまま……。 自販機の前に取り残されたまま、若葉と千尋は顔を見合わせていた。


ふたりとも言葉を失ったようにしばらく黙ったまま、ただその場に立ち尽くしていた。 いつも通りの朝だったはずなのに…… たった今まで、あの黒川さんと、まさか会話を交わすことになるなんて。


現実感が追いつかず、思考がふわふわと宙に浮いているような気がした。 しばらくして、千尋がぽつりと呟いた。


「……話しちゃったね、黒川さんと」


その言葉に、若葉はゆっくりと頷いた。


「……うん」


短い返事だったけれど、その声には驚きと喜びが、まだ余韻のように残っていた。


ふたりの間に流れる静かな空気。 けれど、その沈黙は決して重くなく、むしろ胸の奥がじんわりと温かくなるような、特別なものだった。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


ある日、いつものようにDMで語り合っていた時のことだ。


『渚ちゃん、何か、私たちだけの秘密のアイテムが欲しいな。毎日頑張ってる渚ちゃんが、ふと見たら「私も頑張ろう」って思えるような、そんなお守りみたいなもの』とベルおねーちゃんが切り出した。


若葉は胸がときめいた。形のない繋がりが、もっと具体的なものになる。


「わぁ、素敵ですね!どんなものがいいですか?」若葉はすぐに返信した。


『うーん、腕時計なんてどうかな?時間を確認するたびに、私のことを思い出してくれたら嬉しいな』


「腕時計!いいですね!どんなのがいいですか?」若葉は興奮してキーボードを叩いた。


『シンプルなものがいいけど、ちょっと可愛いのも欲しいな。たとえば、文字盤に桜の花びらが舞ってるような、白いBABY-Gとか…どうかな?』


その言葉に、若葉の視界が一瞬で明るくなった。桜の文字盤のBABY-G。想像するだけで、ベルおねーちゃんの優しくて洗練された雰囲気が目に浮かぶようだった。


「桜の文字盤!それ、すごく素敵です!まさにベルおねーちゃんって感じです」


『じゃあ、お揃いにしちゃおっか。渚ちゃんがもし嫌じゃなかったら、なんだけど』


「嫌なわけないです!むしろ、すごく嬉しいです!ありがとうございます、ベルおねーちゃん!」


若葉は翌日、早速家電量販店へと足を運び、ベルおねーちゃんが言っていた通りの、白い桜の文字盤のBABY-Gを見つけた。腕に嵌めた瞬間、心がふわりと軽くなった。この腕時計は、ベルおねーちゃんとの秘密の証。毎朝身につけるたびに、画面の向こうの彼女との絆を感じ、どれだけ心が温かくなったか、どれだけ励まされたか知れない。


「ありがとう、ベルおねーちゃん」


若葉はその腕時計をなでながら、何度そう呟いただろう。それが、事務仕事の単調さや、人間関係のわずらわしさから彼女を救ってくれる、小さな「心の支え」となっていた。


挿絵(By みてみん)


[近づく距離、募る思い]


翌日、若葉は普段よりもソワソワしながら仕事に臨んでいた。黒川若菜が企画課に顔を出すと言った言葉が、頭から離れない。デスクに座っていても、視線は入り口の方を無意識に追ってしまう。千尋はそんな若葉の様子に気づいているようだったが、何も言わず、時折ニヤニヤと笑いかけるだけだった。


午前中の会議が終わった頃、フロアの空気が一瞬にして変わった。まるで、強い光が差し込んだかのように。入口に立っていたのは、やはり黒川若菜だった。凛としたスーツ姿は昨日と同じなのに、今日はどこか柔らかい雰囲気も纏っているように若葉には見えた。


黒川は若葉のデスクの方へ真っ直ぐに歩いてきた。周囲の視線が集中する中、若葉は緊張で心臓が破裂しそうだった。


「若葉ちゃん、おはよう」


黒川は優しく微笑みかけた。その声を聞いただけで、若葉の頬が熱くなるのを感じた。

「お、おはようございます、黒川さん」


千尋も隣で固まっている。黒川はそんな二人の様子を楽しんでいるかのように、小さく笑った。

「昨日言った通り、顔を出しに来たわ。少し、企画課の仕事について教えてもらえるかしら?」


それから黒川は、数日にわたって企画課に顔を出すようになった。若葉は黒川の補助として、仕事内容の説明や資料作成を手伝うことになった。最初は緊張でまともに話すこともできなかった若葉だが、黒川はどんな質問にも丁寧に答え、若葉の拙い説明にも真剣に耳を傾けてくれた。


黒川は仕事の合間に、ふと雑談を振ってくることもあった。


「若葉ちゃん、最近何か面白いことあった?」

「あ、あの……特には……」


若葉は咄嗟に「ベルおねーちゃんとのやり取り」が頭をよぎり、口ごもってしまう。

「そう?でも、なんだかいつもより楽しそうに見えるわよ」

黒川の言葉に、若葉はドキリとした。彼女は、私の心の変化に気づいている?


ある日、休憩中に二人きりになった時、黒川は若葉が身につけている白い桜の文字盤のBABY-Gに目を留めた。

「その時計、可愛いわね。桜の模様、素敵」

「あ、ありがとうございます……これは、大切な人とお揃いなんです」

若葉は思わず、そう答えていた。まさか、その「大切な人」が目の前の黒川本人だとは知らずに。


黒川は「そうなの」とだけ言って、優しく微笑んだ。その時の彼女の瞳は、どこか遠くを見つめているようだった。若葉は、それがどんな意味を持つのか、その時はまだ分からなかった。


黒川と接するうちに、若葉は彼女に対する感情が「畏敬」から「憧れ」、そして「親愛」へと変化していくのを感じていた。会社での完璧な姿だけでなく、時折見せる茶目っ気や、仕事に対する真摯な姿勢、そして何よりも、若葉のような末端の社員にも分け隔てなく接してくれる優しさに、若葉は惹かれていった。


しかし、同時に若葉の心には小さな葛藤も生まれていた。ベルおねーちゃんへの深い感謝と、黒川への募る思い。二つの感情が若葉の中で複雑に絡み合っていた。もし、ベルおねーちゃんが、黒川と同じくらい素敵な人だったら……。そんなありえないような夢想が、若葉の頭をよぎることもあった。


挿絵(By みてみん)


[「希望の王」からのメッセージ]


そんなある夜、若葉はいつものようにパソコンに向かっていた。新しい物語の構想を練りながら、ふとベルおねーちゃんとのDMのやり取りを読み返す。


『渚ちゃん、最近どう?新しい物語、進んでるかな?』


『ベルおねーちゃん、はい!少しずつですけど、頑張って書いてます。でも、最近ちょっと、現実世界で気になることがあって……』

若葉は、黒川との出会いを遠回しにベルおねーちゃんに打ち明けた。


『へぇ、気になること?それはどんなこと?』


『えっと……会社に、すごく素敵な女性の先輩がいるんです。いつも完璧で、みんなの憧れで……でも、時々すごく優しいんです。私なんかにも、気さくに話しかけてくれて……』


『そうなんだ。渚ちゃんがそんな風に話すなんて、よっぽど素敵な人なんだね』


『はい……。なんだか、ベルおねーちゃんと同じくらい、尊敬できる人だなって』


若葉は、自分の心の中の率直な気持ちを伝えた。まさか、その相手が目の前のベルおねーちゃんだとは夢にも思わず。


『ふふ、それは嬉しいな。でも、憧れの人がいるって、いいことだよね。その人に少しでも近づこうって、自分も頑張れる。渚ちゃんも、その素敵な先輩みたいに、もっと輝けるよ』


ベルおねーちゃんの言葉は、いつも若葉の背中を優しく押してくれた。この温かい励ましがなければ、若葉は会社の仕事も、小説を書くことも、こんなに楽しんで続けられなかっただろう。この白い桜の文字盤のBABY-Gは、まさにその温かさの象徴だった。


挿絵(By みてみん)


[予期せぬ発表]


数週間後、社内に衝撃が走った。黒川若菜が、海外事業部の立ち上げのため、近々海外転勤することが発表されたのだ。発表は朝礼で、役員から淡々と告げられた。その瞬間、フロア全体がざわめき、若葉は心臓が冷たくなるのを感じた。


(黒川さんが……転勤?)


信じられなかった。ついこの間まで企画課に顔を出して、若葉に優しく接してくれていた黒川が、この会社からいなくなるなんて。若葉はショックで、その日の仕事が手につかなかった。千尋も同じように落胆している様子で、「信じられない……黒川さんロスだわ」と呟いていた。


転勤まであと数日というある日の夕方、若葉は会社の近くのカフェで一人、うなだれていた。黒川との出会いが、自分の日々にどれほど彩りを与えていたか、改めて痛感していた。もう、あの優しい笑顔を見ることも、話すこともできないのか。そう思うと、胸の奥が締め付けられるようだった。


スマートフォンを手に取り、いつものようにベルおねーちゃんのページを開く。何か、励ましの言葉が欲しかった。しかし、そのページには、数日前から新しい投稿がなかった。若葉は不安になり、DMを送ろうか迷ったが、結局何も打てずに画面を閉じた。


「疲れてるのかな……ベルおねーちゃんも」


自分と同じように、誰かの支えを必要としているのかもしれない。若葉は自分のことばかり考えていたことを反省した。


挿絵(By みてみん)


[落とし物と真実]


黒川若菜の最終出勤日。エントランスはいつも以上に社員たちでごった返していた。皆、黒川に一目会おうと、彼女の姿を探しているようだった。若葉もまた、彼女を見送りたい一心で、少し離れた場所に立っていた。


黒川は、いつもと変わらぬ凛とした佇まいで、社員たちに挨拶を交わしていた。その表情には、一切の疲れや感傷が見えない。まさに“完璧な黒川若菜”だった。しかし、若葉の目には、どこか寂しげな色が宿っているように見えた。


黒川がエントランスを通り過ぎ、自動ドアへと向かっていく。その背中を見つめながら、若葉は心の中でそっと別れを告げた。もう、会うことはないだろう。そう思うと、瞳の奥が熱くなった。


その時だ。黒川が歩いていた場所から、何かがひらりと落ちた。若葉の視線は吸い寄せられるように、その小さな紙切れへと向かった。周囲のざわめきにかき消され、誰もその落とし物に気づいていない。


若葉は反射的に駆け寄り、屈んでそれを拾い上げた。それは、航空券だった。黒川若菜の名前と、数日後の海外便の記載。


「……!」


若葉がその航空券を手に取ったその瞬間だった。航空券のすぐそばに、もう一つ、白い光が目に入った。


白い桜の文字盤のBABY-G。


黒川の腕から滑り落ちたのだろうか。床に転がるその腕時計を見た瞬間、若葉の心臓が、大きく跳ね上がった。まるで頭の中に雷が落ちたかのような衝撃。視界がぼやけ、周囲の喧騒が遠のいていく。脳裏に、あの時のベルおねーちゃんとのDMのやり取りが、鮮明にフラッシュバックする。


『文字盤に桜の花びらが舞ってるような、白いBABY-Gとか…どうかな?』

『嫌なわけないです!むしろ、すごく嬉しいです!ありがとうございます、ベルおねーちゃん!』


目の前の床に転がるその腕時計と、自分の腕に嵌められたそれ。まったく同じ、ホワイトの桜の文字盤のBABY-G。


「まさか……」


言葉にならない呟きが、若葉の喉からこぼれた。凍りつくような感覚と同時に、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。これまで会社で黒川若菜と交わした言葉。自販機での偶然の出会い。あの時の優しい微笑み、そして、狐の女の子のイラストへの興味。そのすべてが、一瞬にして繋がっていく。


黒川若菜と、SNSの向こうにいた**「結衣と姉 希望の王」**、そして、若葉が「ベルおねーちゃん」と慕っていた存在が、まさか、同一人物だったとは。


信じられない。けれど、紛れもない現実。若葉の瞳には、驚きと、信じがたいほどの喜びと、そして、これまで匿名で支え続けてくれた人への感謝の気持ちが、ごちゃ混ぜになって溢れそうになっていた。


「ベルおねーちゃんが……黒川さん……」


その事実に、若葉の全身から力が抜け、胸が震えるほどの感動が押し寄せた。


若葉は転がる腕時計と航空券を強く握りしめ、顔を上げた。自動ドアはすでに閉じられ、黒川若菜の姿はもう見えない。けれど、若葉の胸には、新たな決意が宿っていた。


彼女は、拾い上げた腕時計と航空券を抱きしめるように胸元に押し当てると、全速力で自動ドアへと駆け寄った。


「黒川さん!ベルおねーちゃん!」


若葉の声が、がらんとしたエントランスに響き渡った。彼女の目には、もう涙が溢れていた。これは、別れの涙ではない。新たな始まりの、希望の涙だった。


挿絵(By みてみん)

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