第8話
何度も通った道だから、聖堂には辿りつけた。
重たい鉄扉を押し開けると、ちょうど内部では少年たちが賛美歌を練習している最中だった。
天上からはバラ窓やステンドグラスの光が注ぎ、祭壇にはたくさんの蝋燭が温かく周囲を照らしている。
木製の長椅子に座り、じっと耳を傾けていると、隣に修道服姿の女性が座った。おだやかな灰色の瞳をした、年配の女性だった。
「あなたのような若い娘さんがどうして泣いていらっしゃるの?」
小さな声で尋ねられた。声色にさえ慈しみに溢れている。
私はここで初めて、自分が涙を流していたことに気が付き、彼女が差し出したハンカチで涙を拭わせてもらった。
顔を上げたとき、薄暗さの中で、彼女はまじまじと私を見つめていたことに気付く。
「もしも違っていたら申し訳ないのだけれど……あなたは、マルグリット? リケの家の……」
突然、私の名前が出て来たので、驚く。
「そうですが、その、あなたは……? 申し訳ありません、お顔に見覚えがないもので」
仕方ないわ、と女性はふくふくと微笑んだ。
「会ったのはほんの小さなころだもの。昔ね、ルイのところに来ていたあなたと会ったことがあるの。ふふ、見違えるほどきれいなお嬢さまになられたわね。さっきも近くを通った時、もしかして、と思ったのよ」
ルイは、昔から私によくしてくれる母方の叔父だ。
「叔父をご存知なのですね」
「昔からの友人なの。修道院にも寄付してくださってね。私も修道院長をしているから、今でもたまにお会いするの」
『マルグリット。その道はつらくないかね? おまえは十分がんばりすぎている。背負う必要はないんだ。こういう時は、おじさんを頼っていいのだよ』
先日、倒れた際も、叔父からそう言われたばかりだった。
叔父は私の意思を尊重してくれていたけれど、心配しているのか、私に逃げ道を用意してくれようとしている。でも。
――だめだわ、叔父様に頼るわけには。お母様の意思を継いで、家を支える。それが私の役目だから……。
「マルグリット。手が震えているわ」
知らず知らずのうちに膝の上でドレスの布を握りしめていたらしい。女性の手が私の手に重なり、ゆっくりとこわばりを解いていった。
「差し出がましいと思うけれど、なにかつらいことがあるのではないかしら?」
「そんなことは……」
彼女の目を見られなかった。
「実はね、私もあなたぐらいの年頃にたくさん悩んだわ。親のため、家のために嫁がなければならないと聞かされていたし、私の父などは特に娘の気持ちなんておかまいなしに勝手に縁談を持ってきたぐらい。息苦しくてしょうがなかった」
彼女も貴族の家の生まれだったという。不思議と私も自分自身に重ね合わせて聞いていた。
「好きでもない相手と結婚させられそうになった時、それまで父に何も言えなかった母が初めて反対したの。父が隣にいるのに『ほかに好きな相手がいて、覚悟があるなら行きなさい。家のことならどうとでもなるから』と啖呵を切ってね」
「……では結婚なさらずに修道院へ?」
「いえ、そのまま結婚したのよ。好きな人も特にいなかったから。修道院に入ったのは夫が死んでから。ただね、本気でそういってくれた母の気持ちがうれしかったという話」
にっこり笑った彼女は私の手を握りながら諭すように言う。
「私はね、あなたの母君とそう何度もお目にかかったわけではないけれど、私の母と同じじゃないかと想像するの。あなたが笑顔で生きていられたらそれでいいって。つらいならつらいと吐き出してしまえばいいのよ。私も、そういうことが言えない人間だったから、代わりに母が汲み取ってくれたけれど。……今のあなたをルイは心配していると思うわ。彼は愛情深い人だし、ただひとりの姪だもの。とてもかわいがられているでしょう?」
「でも私……叔父を心配させたくありません。それにリケの家は、叔父と母が生まれ育ったところで、母の守りたかった場所です。私も守ると誓ったんです……」
「そう。あなたほど親思いの子もなかなかいないでしょうね」
少しだけ困った顔をした彼女は、「手を開いてみて」と促した。
言われるがままに拳を開いてみる。
彼女は、飴玉をひとつ、てのひらに置いた。彼女の目に茶目っ気の色が垣間見える。
「じゃあ、おまじないね」
まるで詩を口にするかのような心地よい声が耳に染み入ってくる。
「今、マルグリットには呪いがかけられています。本当の気持ちが言えない呪いです」
「それは……?」
しっ、と彼女は口元に当てた人差し指で私を制すると、もう一度同じ台詞を繰り返す。
聖堂には今も、賛美歌の旋律が揺蕩っていた。
「あなたにあげた飴には呪いを解く力があります。舐めたら本当の気持ちを言えるようになります。なぜならば、この飴はとっても甘いから、氷みたいにかちこちになった心もほぐすこともできるのです。……ほら、マルグリット。舐めてみて」
女性に囁かれるがままに、包み紙をとって飴を舐めてみる。
ほんのり赤みのある飴からベリーの甘みが舌に広がっていく。
甘味を口にしたのは、久しぶりだった。
『つらかったら思い切ってだれかに頼ればいいんだよ。きっと、君を知る人の中で、君を助けたいと思っている人がいるはずだから』
先日助けられた彼の言葉がふと胸に蘇ってきた。理由はよくわからなかったけれど、私の中に光が一筋差した心地がした。
その衝動のままに、私は、と言いかけたのだけれども、その途端、涙が止まらなくなってしまった。しゃくりあげて、嗚咽をもらして、顔をぐちゃぐちゃにして。自分でも押さえが利かなかった。
隣の彼女は、私の背をさすりながら、やがてぽつりと。
「マルグリット……つらかったわね」
「……つ、つらい、です。たくさん、たくさん、がんばったのに……もう、どうしたらいいのかわからなくて……! 消えてなくなってしまいたくて……」
「そう。そうなの……」
私を母のように抱きしめた彼女は、私の要領の得ない訴えを根気強く相槌を打ちながら、私が泣き止むのを待った。
「本当にここであなたに逢えてよかった。私ならあなたを助けたいと思う人のところに連れていってあげられる。あなたは十分がんばったわ。難しい話は年上の大人たちに任せてしまいなさい」