5
雫と軽々しく約束をした壮馬だったが、実はこの病院は、壮馬の家から全く近くないという事実を完全に失念していた。病院から家まで帰ろうとすると駅まで歩いて、そこから電車に乗ることになるのだが、合計で1時間ほどかかった。そして学校から病院に向かう時も1時間弱かかるということに気付いたのは、始業式から直接バスで病院に到着した時だった。
不幸中の幸いというべきか、病院は駅前にあったため、バスの乗り換えをせずに到達出来た。それでも怪我が治ったら復帰しようと思っていたサッカー部の練習にはもう参加出来なくなる。二学期から始めようと思っていたバイトも、出来るものはかなり限られてくるだろう。
壮馬は病室までの廊下を歩きながら、渋い顔をしていた。いつもの調子で軽く約束してしまったが、これは少し予定を変更させてもらった方が良いかもしれない。そうだ、週二くらいに変更させてもらおう。雫だって俺の顔なんて毎日見たく無いだろう。「バカも休み休み言え」という言葉があるくらいなのだから、俺の顔も休み休み見せた方が良いに違いない、と謎の理論で自分を納得させていた。
あとは週二回をどう決めるかだ。いっそバイトのシフト表のようなものを作って雫に提出しようか、などと考えていると、病室の前にたどり着いていた。
いざ病室の前に立つと、やはり雫の顔が見たくなってくる。壮馬はドアの取っ手に手を掛けた。
低い、怒鳴り声のようなものが聞こえた。
思わず取っ手から手を離してしまう。
声は一つではない。怒鳴り声の他にも大声が聞こえる。しかしそちらはどこか細く、便りなく感じた。雫の声だ。壮馬は直感した。
今、ドアの向こうで何が起こっているのだろう。壮馬は今すぐ扉を開けた衝動に駆られた。しかし今開けて良いのか分からない。壮馬が迷っていると、更に大きな声が響いてきた。
「あんた誰のお陰で生きてられると思ってるの! 治療費も入院費も、もう払わなくても良いんだからね!」
ドアをビリビリと振動させて、外まで届いてくる声だった。壮馬は驚いて、一度位ドアを掴んでいた手を離してしまった。
一体扉の向こうでは何が起こっているのか、壮馬には全く分からない。だが、今怒鳴っている声が雫に向けられていると、壮馬には直感的に分かった。
「そんなに生意気言うんなら自分で治療費稼げば良いでしょ!」
壮馬が躊躇している間にも、怒鳴り声はキンキン響いてくる。迷っている暇はない。再び取ってを掴んだ。その手に汗が滲んでいた。
壮馬は力いっぱいドアを開けた。ドアフレームに、ドアストッパーが勢いよく当たって大きな音を立てた。病室中の注目が壮馬に注がれる。
壮馬は、勢い良く開けたドアとは対照的に、ゆっくり、静かに入って来た。しかし次の瞬間、盛大にずっこけた。まるで下手なプールの飛び込みのように、腹から床にダイブした。破裂音したような音が廊下に響き渡る。
ほぼ同時にカバンの中身が勢いよくぶち撒けられた。それがまたジャラジャラとやかましい。病院で出してはならない音を立て続けに出し続けた壮馬は、最早病室の外からも注目の的だった。
床に突っ伏していた壮馬が唐突に顔を上げる。
「いっけなーい! 眼鏡眼鏡! あれ⁉ どこにも落ちてないよぉ! それもそのはず。拙者、最初から眼鏡をかけておらぬのであった」
低い声で壮馬はキメ顔を作った。
病室内は静まり返っていた。先ほどまで野次馬に来ていた病室の外の人々も、興味を失ったように去っていく。
壮馬が雫のベッドの方を振り返ると、雫が目を丸くしてこちらを見ていた。その横に中年女性が表情のない顔でこちらを見ている。口は真横に結ばれていて、眉間が多くく縦に割れていた。そして、見覚えのある、切れ長の目。雫の母親だった。
壮馬は即座に笑顔を作った。
「いやぁ、大きな音を立ててすみません。僕、これから雫さんと約束があったんですけど、また出直した方が良いですか?」
内心では怒鳴られるのを覚悟していたが、雫の母親は黙っていた。雫と壮馬を交互に見ていたが、やがてため息を付いた。
「そうなの、邪魔してごめんなさいね。ゆっくりしていって」
彼女は言い捨てると、そのまま病室を出て行ってしまった。