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壮馬と雫は、あれからも休憩室で毎日のように話をしていた。壮馬が得意だと自負する一発ギャグや一人コントの類はあまり受けなかったが、彼は話術において一定のスキルがあった。壮馬は口から出まかせに嘘を言う反面、嘘を交えて盛ったエピソードで笑いを取るのは上手かった。
壮馬の話を聞いて雫はいつも笑っていた。
壮馬も雫の笑顔を見るのが好きだった。どんな表情も可愛かったが、笑顔が一番お気に入りだった。彼女の笑顔が見ると、一日がとても幸せだった。何より、自分が雫を笑顔にしているという事実が壮馬にい深い満足感を与えていた。
ただ、雫と会い始めて気になったことがあった。彼女に会いに来る見舞客がほとんど居ないことだった。壮馬は一度だけ、雫の母親を見たことがあった。
休憩室に来て「雫」と呼びかけたその女性は、切れ長の釣り目をしていた。あまり雫には似ていないようだった。彼女が雫の母親だと分かったは、雫が
「お母さん」と固い声で返したからだった。
母親と一緒に休憩室を出て行った雫は、ものの5分ほどで戻って来た。
「もう大丈夫なの?」壮馬が聞くと「うん、忙しいからもう帰るんだって」と雫は笑顔だった。その後も特に変わった様子は見られなかったが、壮馬は何となく、母親の話題に触れるのは避けておいた。
夏休みも終わりに近づき、少しづつ日が落ちるのが早くなってきた頃、壮馬は退院することになった。怪我はまだ完治はしていないが、このまま松葉杖生活を一か月も続ければ、骨はくっつくだろうと担当の医師に言われた。
「俺、もっと入院していたいです」
壮馬は退院を告げる医師に言った。壮馬はもっと雫と一緒に居たいと思った。学校が始まって、あの生活が無くなってしまうのを受け入れたくなかった。
それをどう受け取ったのか、医師は壮馬の肩に手を置いた。
「分かるよ。先生も夏休みの宿題は最後までやらない派だったから、学校行くの嫌だよな。でも、人生ってやらなきゃいけないことが一杯あるんだ」
「いや、宿題じゃなくて、やらなきゃいけないことは病院にあるんです」
「ここでやらなきゃいけないこと? それは何だい?」
「それは退院するまでの秘密ってことで」
「今日退院するんだよ君は」
「お願いします。あと少しだけ入院していたいんです」
「入院していたいなんて変わってるね、君。でもいつまで入院しているつもりなんだ」
「あと三年くらい」
「駄目です」
壮馬のわがままが通るわけもなく、退院のため、壮馬は持ち込んだ私物を全て片付けることになった。まだ雫には退院することを言えていない。しかし、このまま居なくなることは絶対に出来ないと思った。
壮馬はいつもの時間に休憩室へ向かった。
「そっか、壮馬くん退院するんだ。良かったね」
退院することを告げると、雫は笑顔で言ってくれた。しかし、どこかその笑顔は寂しげに見えた。
「ごめん、言うのが直前になっちゃって」
「ううん、そんなの気にしなくて良いよ」
会話を交わしながら、壮馬の心には「自分が居なくなったら、雫は一人になってしまう」という考えがつっかえていた。お見舞いに来る人は殆ど居ない。雫は仲村さんという看護師と仲が良いと言っていたが、その人も常に雫に構えるわけではない。
彼女を、孤独にしたくないと壮馬は思った。その思いが雫の寂しそうな顔を見ると余計に高まった。
「実はさ、この病院って俺の家から近いんだよね」
気付いたときには既に壮馬の口は動いていた。
「そうなの?」
「うん。だから学校帰りに毎日ここに来るよ。毎日俺の面白トークを聞かせてやろうぞ」
「何それ」
雫は口に手を当てて笑った。控えめな笑顔だったが、先ほどよりもよっぽど明るかった。
「本当に、毎日来てくれるの?」
雫は壮馬を伺うように上目遣いになった。
「そりゃ来れない日もたまにはあるよ。でもその時は事前に連絡するさ」
雫はスマホを持っていなかった。代わりにウェブメールアドレスを交換していたので、そこ宛に連絡すると言い添えた。
「こういう時はメールがあると便利だね」
笑顔だった雫は急に真剣な顔で、壮馬の顔を覗き込んだ。
「約束、してくれる?」
初めて見る、雫の真剣な眼差しだった。大きな黒い瞳に見つめられると思いのほか迫力があった。壮馬は息を飲んだ。
「ああ」
壮馬は小指だけを立てた手を、雫の前に差し出した。首を傾げる雫。
「指切りしようぜ」
雫の顔がパッと明るくなった。壮馬の意図が分かったらしい。壮馬の小指に、白く、小さな小指が絡んだ。細く、それでいて、温かい手だった。
二人の目が合った。どちらからともなく、頷いた。
「約束だ」