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 ブラシが風切り音を立てて通り過ぎた。壮馬の頭上横数センチのところだった。

 ブラシは壁に飾られた卒業生のデッサンに当たり、鈍い音を立てて床に落ちた。

 かなりの音がした。しかし周りの美大予備校生達は眉一つ動かさず自分のイーゼルと向かっていた。

 鉛筆を滑らす乾いた音だけが室内に規則正しく響いていた。


「何だこのデッサン。寝てんのか」

 髭の濃い、この塾の塾長である徳田久人が、壮馬の顔と彼が描いたデッサンを交互に睨みつけた。50も近い彼の髪白髪が混じっていたが、目つきは鷹のように鋭かった。

「寝てません」

 壮馬は徳田の顔を真っすぐ見た。

「加藤、お前がここに入って何か月になる」

「一年二か月になります」

 徳田は壮馬を見下ろしている。

「そうか。それで、何でデッサンの一つもまともに描けないんだ」

 壮馬は何も答えられずにいると、先ほど壮馬が描いていたデザイン紙を取り上げた。

「どうしてこんなものしか描けないんだと聞いている」

 それにも壮馬は答えられなかった。今まで色々と返答はしてきたが、どう返答しても怒鳴られるだけだった。今回も恐らく同じだろう。

「やる気が無いんならやめろ」

「嫌です。やめません」

 これには即答した。

「じゃあ何でこんな中途半端なことをする。そんなことする奴が東方芸大の油画科に受かるのか?」

「受かりません」

 徳田は口をすぼめて息を吐くと、壮馬のイーゼルに先ほどの紙を置いた。

「何度も言っているがお前は形の捉え方が甘すぎる。それを補おうとして無駄な線も多いし、その無駄な線だって陰をうまく付けられていない。分かるか?」

 徳田は壮馬の隣に丸椅子を持って来て、自ら鉛筆で描き直しながら指摘を始めた。



 ***



 壮馬が美大受験専門の予備校を探したのは、絵の展示会を終わってすぐのことだった。壮馬は会場の中で雫と交わした「世界的な画家になる」という約束を果たすためには、まず画家としての地力を付ける必要があるとと考えた。

 幾らも調べないうちに、美術大学の中で最も環境が整っていて、最も卒業後のサポートも最も手厚く、そして日本で最も入学難易度の高い大学の存在を知った。

 それが東方芸術大学だった。


「世界的な画家になるためには先ずここに入学するしかない」と考え、壮馬は東方芸大受験のため、予備校に通うことを決めた。

 東方芸大は国立大学のため、共通テストの点数も必要だが、この大学を美術系大学の最難関と言わしめている理由は実技試験の方にあった。

 特に壮馬が目指す油画科では倍率が30倍を超すこともあった。全国から屈指の実力者が揃うこの試験では、高い創造性が必要とされ、技術力は最早あって当たり前。その上で独自の視点や、芸術的な感覚を示さなければならなかった。


 油絵どころか、鉛筆でのデッサンでさえ一度もやったことがなかった壮馬が油画科を志望した理由は、一度病院で見た油絵に衝撃を受けたからだった。

 その時から「自分でもあんな油絵が描きたい」と密かに思っていた。


 そして近場で、最も東方芸大に受かる確率が高い予備校を探したところ、見つかったのがこの「徳田塾」だった。予備校講師は全部で三人。どちらかというと画塾に近い所だった。

 しかし前年も前々年も東方芸大に合格者を出していて、何より「少数授業でしっかり指導します」という文言が気に入った。

 油画の指導は全て塾長の徳田講師が担当するらしい。




 ***



「君は何故東方芸大を目指すのか?」

 早速塾を訪れた壮馬に塾長の徳田は聞いた。時間外だったらしく、ビル内の一室を借りたアトリエのような教室には二人だけだった。

「恋人と約束したからです」

 書類を見ていた徳田の眼差しが、壮馬に向けられた。

「約束?」

「世界中で自分たちの絵画展を開くのだと約束しました。そのためには有名な画家になる必要がある。そして有名な画家になるためには、東方芸大に入るのが一番良いと思ったからです」

 壮馬は素直に雫の病気のこと、そして自分たちの夢について話した。その上で、ほぼ毎日お見舞いに行くので塾に来る時間が遅れると、正直に言った。


 それが駄目だと言われたら、ここへの入塾は諦めるつもりだった。徳田は少し考えこむように両腕を組んだ後

「君が今までに描いた絵を見せてくれないか」

 と言った。

 壮馬はスマホで保存していた画像を何枚か見せた。

 徳田は何も言わずにじっと眺めていた。

 数分、無言の時間が過ぎた。その間徳田は指先しか動かさなかった。

 流石に壮馬も何か言おうとした時

「分かった。君の入塾を許可する」

 入塾を拒否されるものとばかり思っていたので、壮馬は驚いた。



「ただ、加藤くんがお見舞いに行っている間もライバル達は力をつけている。だから浪人が前提だと思って欲しい。本気で絵描きを目指すってことは、それ以外の道を全て捨てるってことだ。君は自分の一番大切な時期を棒にふる覚悟が本当にあるかい?」

 と問われた。壮馬は一も二もなく首を縦に振っていた。


 しかし張り切って入塾した壮馬を待っていたのは怒鳴る、物を投げる、人格を否定する、といったおおよそこの令和の世に揃ってはならない三拍子の揃った講師、徳田久人だった。

 その怒り狂う姿からは入塾の際の、あの落ち着いた雰囲気は完全に消え失せていた。


 そこまで来て、壮馬もようやく「この塾は少数授業を目指しているわけではない。殆どの生徒が辞めるから少数授業になるのだ」と悟った。

 壮馬の他にいる生徒たちの男女比はほぼ半々だったが、全員少々の物音にはビクともしない。どれだけ徳田から怒鳴られても泣かない。何があってもただただ作業に没頭するという、鉄の心臓を持った絵を描くロボットのように壮馬には映った。


 壮馬は本当に彼らが笑わないのか確かめたくなった。やり方は簡単だ。一息つこうと水を飲んでいた塾生に向かって、両手で精いっぱい頬をつねって、変顔をしてみたのだ。

 眼鏡を掛けたその塾生は、水分を全て吐き出す勢いで口と鼻から水を噴いた。

 結果、彼の描きかけのデッサン駄目になってしまうし、壮馬だけでなく、その塾生も廊下に立たされることとなった。このご時世に廊下に立たされるという体験を、壮馬はむしろ新鮮に感じた。


「僕まで立たされたじゃないか」

 吉川というその塾生は小声で文句を言った。「こんな所で立っている暇はないんだ。早く先生の指導を受けたい」

 壮馬は小声で謝った後、以前から気になっていたことを聞いてみた。

「吉川くんってマゾなの?」

「……君は何を言ってるんだ」

「いやだって、普通あんなに怒鳴られたら辞めるぜ? 吉川くんだけじゃなくて、塾生みんなに言えることだけども」

「何を言っているんだ。徳田先生の授業を受けられるなんて、凄いことなんだよ?」

「あの徳田って人、そんなに凄い人なの?」

「君、本当に何も知らないのか」

 吉川は眼鏡を掛け直しながら言った。

 徳田久人という男は、若いころから油画家としてパリやニューヨークなどでも成功を収め、コレクターや美術評論家から高い評価を得ている存在だった。しかし5年ほど前、いきなり一線を退いてこの塾を開いた。

 講師としての腕も確かで、僅かご5年の期間に、10名を超える生徒を東方芸大に送り出しているのは、壮馬もホームページを見て知っている通りだった。

「君も随分と怒られているが、あれは期待の裏返しさ。先生のお気に入りらしい」

 吉川の言葉には全く同意出来なかった。お気に入りならもっと丁寧な対応を受けているはずだ。

「気に入られてるって、それ『標的になってる』って意味じゃなくて?」

「違う」

 吉川は即答した。

「僕はもう三浪目だから東方芸大に受かった人を何人も見たけど、だいたい君みたいな怒られ方をしてたよ」

 そう言われても、壮馬はやはり吉川に同意できなかった。


 何はともあれ、彼ら塾生たちが辞めないのにも、確かな理由があるのだと知った。徳田は確かにパワハラ気質だが、吉川の言う通り、講師としての腕は確かだったからだ。怒りはするが、その後に技術的なことは分かりやすく教えてくれる。何が良くないのかを的確に言語化する能力を徳田は持っていた。


 お陰で壮馬はこの一年でメキメキと力を付けた。ただそれはスタート地点の壮馬と比べてのことであり、周りの塾生と比べても、そして芸大を受験するライバル達と比べても、実力が劣っていることは明らかだった。

 受験は来年ということもあり、壮馬は焦りを抱え始めていた。



 *****



 その日、壮馬はいつものようにバスに揺られ、病院を目指していた。もう9月も下旬だというのに、日中の気温は30℃を超え、夏と何ら変わらない日々だった。


 そんな気温とは逆に壮馬の心は沈んでいた。雫と会った後、あの予備校に行かなければならない。また怒鳴られるのも目に見えていた。明るい壮馬も、変顔事件以降おふざけをするわけにはいかなくなった。

「次やったら絶対に退学させる」と明言されていたからだった。


 壮馬が窓の外の入道雲を眺めているとスマホが鳴った。画面を見ると、「病院」と記されている。

 もしもの時のために、と壮馬は看護師の仲村さんからスマホの番号を聞かれていた。

 もしもの時のために。

 その病院から着信があったということは。


 にわかに胸騒ぎがし始めた。壮馬は表示されたボタンを押し、スマホを耳に当てた。

「はい、加藤です」

 バスの中だったが、居てもたってもいられなくなっていた。

「壮馬くんの携帯電話で合ってるね?」

 仲村さんの声がした。声が固い。一瞬で嫌な予感が駆け巡る。

「はい。どうかしたんですか」

「落ち着いて聞いてね」

 仲村さんはゆっくり前置きをした。

 そこから、再び彼女の声が聞こえるまでの、ほんの数秒が、30秒にも1分にも感じた。

「雫ちゃんの病状が悪化したの。これから病院に来られる?」

 壮馬は全身が凍り付くように冷たくなっていくのを感じた。



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