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雫が来たのはそれから30分ほど後で、美咲は既に帰っていた。玄関から、仲村さんに付き添われながら入って来る雫が見えた。
車いすには乗っていない。自分の足で立って歩いて来ていた。
雫の服装はフリルブラウスにドロップショルダーのカーディガン。ボトムズには Aラインのミディスカート、そして靴はローファーだった。全て澄香のお下がりだった。澄香が、身体のラインが出ない服装を真剣に選んでくれたのだった。
壮馬は居ても立っても居られず駈け寄って行った。
「雫!」
「壮馬くん」
雫は嬉しそうに手を振っている。「ライブで見てたよ。凄い人だったね! 私、夢でも見てるのかと思ったよ」
「ああ」
壮馬は午前中の人ごみを思い出して、あの場に雫がいなくて本当に良かったと思った。客の中には雫の顔を知っている者もいる。もし彼らが雫を見つけて駆け寄れば、他の観客も興味を持って押し寄せて危なかったもしれない。
「それから、今聞くことじゃないかもしれないんだけど……」
雫は何故か躊躇いがちな視線を壮馬に向ける。
「壮馬くんと一緒にグッズ売ってた女の子って誰?」
雫は笑顔だが、その声がいつもより低い気がした。
「ああ、美咲のこと?」
何故雫がグッズ売り場の様子を知っているかと言うと、客足も落ち着いてきたころ、姉の澄香がスマホを持って展示会場の中を回ったり、グッズ売り場を写したりしていたのだ。その際
「いえーい、雫ちゃん見てるぅ?」
と、よく分からないノリでカメラに向かって手を振っていた気がする。
「美咲はクラスメイトの女子だよ。ほら、話したことあるだろ。ちょっと言葉足らずなところはあるけど、凄く優しい奴でさ。今日も別に手伝ってくれる予定じゃなかったのに、俺がもたもたしてるのを見てヘルプに入ってくれたんだ」
壮馬が話していると、何だか雫の視線がじっとりしてくる。「どうした」と言いかけた時、急に雫が壮馬の頬をつねった。
しかし力がこもっていないため全く痛くなかった。
「えっと、どうしたの?」
壮馬はつねられたまま聞いてみる。
「何でもない」
雫はもう片方の手でも壮馬の頬を掴んだ。
「離して?」
「やだ」
「離してくれないと手を繋げないよ」
「んー」
雫はゆっくり両手を離した。代わりに頬を膨らませている。ずっと見ていたいくらい、雫の表情は可愛かった。
「行こう」
壮馬は雫の隣に立った。彼女に向けて、手を差し出す。雫は遠慮がちに周囲を見回した。人前で手をつなぐのが恥ずかしいらしかった。壮馬は雫の右手を、ぎゅっと握った。いつもより温かい手が、控えめに、だがしっかり握り返してきた。
「じゃあ私は外で待ってるね」
壮馬が雫の手を握るのを待っていたかのように、仲村さんはその場から離れていった。
壮馬は仲村さんに礼を言った後、雫とゆっくり目を見合わせる。
「じゃあ、入ろうか」
雫はゆっくり頷いた。
展示会場の中は、薄いオレンジ色の光で満ちていた。その中で、20枚並んだ雫たちの絵画は、下からの間接照明で照らされていた。描かれた幻想的な雰囲気も相まって、それらは神秘的に浮かび上がっていた。
遠目に見たら、立派な絵画展に見える。とても素人二人が描いた展示物人見えなかった。
当初思っていたよりも、会場の空気づくりにはかなり成功していた。
薄闇の場内を、二人は手をつないで歩いた。ふと、まるで二人で、夕焼けの道を歩いているみたいだと壮馬は思った。
雫の柔らかな手の感触が、体温が、伝わって来る。
雫の目の輝きが、壮馬の心を抱いている。
このまま時が止まって欲しいと、壮馬は思った。
「このまま時が止まったら良いのに」
口にしたのは雫だった。
雫は壮馬と同じことを思ってくれていた。通じ合った。壮馬は身体の芯が熱くなるのを感じた。
「私、久しぶりに外に出たんだ」
雫は前を向いたまま言った。目が潤んでいる。雫にとって、この一瞬一瞬が、どれだけ貴重な時間なのだろう。
「本当に良かった。ここを出たら、またどこか遊びに行く?」
雫は首を振った。
「外出の時間は決められてるんだ。1時間くらいしたら帰らないといけないよ」
壮馬は何も答えられなかった。雫も、それ以上そのことには触れなかった。あと1時間しか居られないのなら、その時間を濃いものにするしかない。
各絵の前にだいたい一人、二人のお客さんが居て、じっと絵を見つめている。
「お客さん、私たちの絵を見てくれてるね」
雫は小声で言ったが、心躍るのを抑えきれないように声が弾んでいた。
「そうだな」
「みんな、何でこんなに私達の絵を熱心に見てくれるんだろう」
薄暗い中で、雫の瞳は爛々(らんらん)と輝いていた。
この時になると、壮馬は既に客がこんなに入っている理由と、何故熱心に絵を見ているのかという理由も知っていた。
「雫の絵には、人を感動させる力があるんだよ。だからこんなに人を惹きつけることが出来るんだ」
それはお世辞ではなかった。本当にそう思っていた。
集め方に、まあ多少の問題があったにせよ、雫の絵を見るために、こんなに多くの人が集まってくれた。それは紛れもない事実で、壮馬は雫との約束を無事果たせたのだ。
壮馬はそれがとても嬉しかった。雫の貴重な外出時間を、彼女の夢を実現するために使えて、本当に良かったと思った。
「壮馬くん、本当にありがとう。君のお陰で私の願いが叶ったよ」
雫が壮馬の顔を見上げてくる。彼女は満面の笑顔になって「私、今すごく幸せ」
と言った。
その言葉を聞いた瞬間、壮馬は今日まで張りつめていた自分の心に、深い充足感が広がっていくのを感じた。誇らしかった。今までの疲れが、全て吹っ飛んだような気持ちだった。
それと同時に、熱い気持ちが胸の奥から湧いてきた。
壮馬は雫の手を握る力をわずかに強めた。
「まだまだ、これは始まりだ」
壮馬は雫の目を真っすぐ見つめた。
「世界中で俺達の絵画展を開こう。もっともっと、世界中の人たちに俺達の作品を見てもらうんだ! 今日みたいに、いや今日よりもっと多くの人に見てもらうんだよ!」
雫は驚いたように壮馬を見ていたが、やがて静かに、繋いでいない方の左手を壮馬に差し出し、小指を立てた。
「約束、するんでしょ?」
壮馬は深く頷いた。
「ああ。約束だ。そのために、まず絶対世界的な画家になるよ」
小指を重ね、薄暗い中、影絵のようなお互いの姿をしばしの間見つめ合っていた。
世界中の人々に見てもらうのは雫の元々の夢だった。それがこの瞬間、壮馬と二人の夢になった。
「雫、好きだ」
自然と言葉が溢れてきた。
雫の目が大きく見開かれた。まじまじと壮馬の顔を見つめている。その目じりから、一筋の涙が伝った。
「お、遅くなったけど、俺と、その、付き合ってくれないか」
壮馬は普段の饒舌さとは程遠い、歯切れの悪い口調で言った。今まで何人かの女子と付き合ったことはあったが、自分から告白したのは初めてで、かなり勇気を振り絞らねばならなかった。
「ふふっ、本当に遅すぎるよ」
雫は涙を拭い、改めて壮馬の顔を見つめた。
「喜んで」
二人は、どちらからともなく抱き合い、幻想的な光の中で、しばらく互いの温もりを確かめ合っていた。