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翌日も壮馬が休憩室の前を通ると、例の少女がタブレットを操作していた。松葉づえを突きながら近づくと、音に気付いたのか、少女はこちらを振り返った。長い黒髪が美しい曲線を描いた。その横顔は絵画を切り取ったかのようだと壮馬は思った。
「そこのお嬢さん、何をしているんだい?」
壮馬は出来る限り低い声で尋ねてみた。
「何だ、あなたですか」
少女は正面に向き直ると、興味を失ったようにため息をついた。壮馬が隣の席に腰を掛けた時には既に、タブレットの画面は黒かった。
「昨日も言いましたけど、あなたには関係ありません」
「あぁ、邪魔しちゃったのはごめん。謝るよ。でも、どうしても気になってさ」
壮馬は頭をかいた。
「何でそんなに気になるんですか」
少女は怪訝そうな顔で壮馬を見る。壮馬の目が小魚のように跳ね回った。幾ら人見知りをしない壮馬でも、昨日会ったばかりの少女に「一目ぼれしました」などという勇気は備えていなかった。
「いや、それは、ほら、俺、気になったら眠れなくなる性格じゃん」
「ほぼ初対面ですが」
「だからさ、1分だけ俺にくれない?」
壮馬は人差し指を立てた。「これはウィンウィンな提案だと思うんだ」
それは、壮馬が予め考えてきた台詞だった。
「どういうことですか?」
少女は首を傾げた。
「入院して思ったんだけど、娯楽って少なくない?」
「それはまあ……」
少女は目を伏せた。表情は見えないが顔に陰りが見えた。
「俺の名前は加藤壮馬。実はこう見えて人を笑かすのが得意なんだよ」
「そう、なんですか?」
「時間は取らせない。今から1分で君を笑わせて見せる。約束する」
「成程、あなたのギャグで笑ったら、私が何をしているかあなたに教えれば良いんですね?」
「流石お嬢さん。察しが良いね」
少女はため息をついた。
「私の名前は水瀬です。水瀬雫」
「雫ね。綺麗な名前だ」
壮馬は聞いた情報を反芻するように何度か頷いた。
「じゃあ早速行くぜ」
壮馬は突然スイッチが切れたように、いや、入ったように真顔になった。俊敏に頭を抱え、膝から崩れ落ちる。
「くそっ、ターバンを頭に巻こうとしたら、間違って足に巻いちゃったよお!」
壮馬は自分の足のギプスを指さす。「ナマステー!」
その後、休憩室を覆った空気がいかについては、筆舌に尽くし難いがため敢えて言及しない。
唯一言えることは、片足不自由な壮馬が、匍匐前進するように休憩室から逃げて行ったということだった。
ところが壮馬は次の日もやって来た。
「チャレンジが一日だけとは言っていない」と言い張り、毎日毎日つるつるつるつる、スケートリンクのようによく滑る一発ギャグを披露し続けた。そして彼が手段を択ばすあの手この手で笑わせようとすればするほど、休憩室の静寂は確固たるものになっていった。
最初はサクッと笑わせて、少女に一目置かれるつもりだった壮馬だったが、一向に笑わない雫を笑わせることにだんだん意地になっていた。
こんなに毎日毎日押し掛けてくれば、雫の方から拒絶されるなり、病院側に報告されるなりしてもおかしくなかった。しかし呆れた顔はするものの、彼女は壮馬を拒むことはなかった。
一週間が過ぎた。
「どうして笑ってくれないんですか!」
壮馬は膝をついて両手で地面を叩いて泣いた。あんな自信満々の宣言をした男と同一人物とは到底思えない、非常にみじめな姿だった。
「何でそんなに私に構うんですか」
少女はため息交じりに言う。
「そりゃ本気になるでしょ! だって今まで俺のギャグで笑わなかった人なんて居なかったよ?」
「それはみんな、あなたに気を使って笑っていただけじゃないですか?」
「いやそんなわけないでしょ! ……そんなわけなくない? そんな、わけ……あれ? そういえばあの時……待てよ、だったらあの時も、みんなのよそよそしさと辻褄が合う……」
壮馬は地面にひれ伏したまま頭を抱えた。彼の記憶がフラッシュバックしながらトラウマに書き換えられていっているようだ。
「ふふっ」
細い笑い声だった。壮馬は顔を上げた。無機質な病院の休憩室に、一輪の白いユリが花開いたかのようだった。
美しいと、ただ、そう思った。
しかし、次の瞬間には「笑った」という言葉が壮馬の脳を満たしていた。
「あ、笑った! 今笑ったよね! 俺の勝ち! 俺の勝ち! 俺の勝ちいい!」
「いつから勝負してたんですか」
雫は再び小さく笑った。
その日から、二人は互いのことを色々と話すようになっていった。