表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/47

14

 


 雫と出会ってから8ヶ月以上が過ぎ、壮馬は高校生になっていた。といっても壮馬の高校は中高一貫校のため、通学時間も同級生の面子も変わらない。勿論、病院までの距離も変わらなかった。


 壮馬がバスの中から風景を見ていると街路樹の桜が満開に咲いていた。桜の柔らかく優しい色は、見ているだけで優しい気持ちにさせてくれる。しかし、壮馬はまた別の感情も抱いていた。それは焦りと不安の入り乱れた感情だった。


「雫、俺に何かしてもらいたいことはない?」

 雫は絵を描く手を止め、壮馬の方を見た。

「急にどうしたの?」

 戸惑ったように笑っている。


 雫の病状があまり良くないことを、壮馬は彼女を担当する金田医師から聞かされていた。断定されたわけではないのだが、雫の病状について聞くと、それまで理路整然と答えていた彼が急に歯切れ悪くなる。

 色々質問攻めにしてみて分かったのは、どうやら今の雫は以前より薬を増やして、何とか現状維持をしているという状態ということだった。



 壮馬はもどかしかった。医療のことは何も分からない。分かったとしても、治す手立てが無い。自分に出来ることは無いのかと色々考えたが、現状出来ることは限られている。だからこそ、今、この瞬間、できる限り雫のわがままを聞いてあげたいと思った。

 彼女は自分から積極的に主張する性格ではないため、こちらから聞いてあげた方が良いと思った。


「いいから、遠慮するなよ。俺の黒歴史ノートが見たいとか腹踊りが見たいとか、何でも言ってくれ」

「どっちもあんまり見たくない」

「どうして遠慮するんだ」

「してないよ」


 雫は顎に手を当てて考えていたが、「あっ」と手のひらを打った。

「この病院の1階にさ、絵の展示スペースがあるんだよ。あるのは前から知ってたんだけど、どうしても一人だと中々行く気にならなくて……看護師の仲村さんも忙しそうだし付いてきてもらうのも気が引けてたんだ」

「よし分かった。俺が連れて行くよ!」


 壮馬は雫を車椅子に乗せ、1階、絵の展示スペースに赴いた。雫は現在も一人で歩くことも出来るが、何かあった時のためにこの選択をしたのだった。


 展示スペースは入院棟と本館を結ぶ通路の直ぐそば、入院棟側の一室にあった。

 絵を飾ってある病院は少なくないが、この病院の特異なところは、一室をまるまる展示室としてあてがっているところだった。勿論、各階の廊下にも絵画は飾られているのだが、この部屋は元々絵画好きな院長の強い意向で作られたものだという。



 展示されている絵の数はそこまで多くないが、著名な画家の絵が幾つか飾られているのだと雫から聞かされた。

 その展示室に行くと言われても、壮馬はさして興味をそそられなかった。彼が描いている絵柄的にも、普段から見ているのはアニメ風の背景がメインで、一般的な油絵や水彩画を好き好んで見ることはなかった。


 しかしいざ車椅子を押して展示スペースに入った瞬間、空気が変わった気がした。


 彼が想像していたよりも、展示されている絵は巨大で、圧迫れるようだ。壮馬の身長を超えるものさえある。それは彼がそれまで見てきた絵とは違う、迫ってくるような存在感を感じた。


壮馬がきょろきょろと飾られた絵を見回していると、不意に雫が立ち上がった。迷うことなく一つの絵の前に歩いて行く。

「雫?」

返答は無かった。まるで壮馬の声が聞こえていないかのようだった。雫は直立不動になると、絵を見上げ、目を瞠っていた。壮馬も急いで近付いていく。


 「ねえねえ、何見てるの?」

 後ろからのぞきむと、それは雲海に浮かぶ山を描いた油絵だった。「大山」と、絵の下に題名が書かれている。その「大山」の異質さには直ぐに気付いた。物理的な大きさだけではない。その絵の持つ臨場感は瞬く間に壮馬をも飲み込んだ。



 「大山」に一歩踏み出すごとに、自分の存在がどんどん小さく感じられた。確かな迫力を持っていて、押しつぶされそうになる。

 

 徐々に、絵と壁の境界が曖昧になっていく。

 視界が闇に溶けて行く。



 不意に草の匂いがした。

 風は顔に冷たく当たり、唸り声のように獰猛に吹き付ける。両手を寒さで握り締めた。

 壮馬は山の頂上から、向こうに見える、更に標高の高い山を見ていた。紅に染まる空。揺れ動く雲。上る太陽が、雲海に浮かぶ山を鮮やかに浮き彫りにし、空の下に濃い闇を落としている。まるで天上の国のようだ。寒いが、それが心地良い。

 ずっとここで、この景色を、見ていたい。


「壮馬くん……壮馬くん?」

 雫に肩を揺すられて、はっとした。前に雫の顔があって、心配そうに壮馬を見上げている。

「ごめん、ちょっとトリップしてた」

「え、とり、それ大丈夫なの?」

「大丈夫大丈夫、もう帰って来たから」


 茶化しながらも、壮馬は自分の手足が震えていることに気付いた。激しい衝撃だった。

 生まれてこれまで、こんな、何かにとり憑かれたかのような、脳みその中で雷が落ちたかのような驚愕は、経験したことが無かった。


 キャンバスから漂う力強さ、色彩の深み、筆使いの繊細さ。どれも壮馬が全く及ばない技工の数々。そして何より、彼はその油絵の持つ、絵の中を旅させる力に衝撃を受けていた。


 壮馬は言葉に出来ない感情が自分の心の中で渦巻いているのを感じた。


 今までの、絵を描いたことのない壮馬であれば、こんな感銘を受けることも無かっただろう。

 どうして俺はあの絵に、あんなに心を動かされたのだろう。

 この時壮馬は以前にも増して「人の心を動かせる画家になりたい」と、より強く思うようになった。




*****




「あんなに凄い絵がこんな近くにあったなんて知らなかったよ」

雫の車椅子を押し、病室に戻る途中壮馬が言った。いつもより高い声は壮馬の興奮を伝えていた。

「そうだね」雫は頷く。

「私達の絵も飾られて、こんな風にみんなに見てもらえたらって思うよ。私の元々の夢だったし」

それは、他愛ない会話から出た言葉だった。

個展を開いてみたい。絵を沢山の人に見てもらいたい。多くの人の心を、絵の力で動かしたい。

雫には絵を描き始めてから、そういう願望が芽生えていたのは事実だ。一度は本気で目指していたこともあった。

しかし、今となっては絶対叶わないと夢だと思っていた。雫からすれば、「健康になれたら良いのにな」というくらいの、現実感のない願望だった。


実際、二人は描いた絵をSNSにアップロードしていたが、ほとんど評価されなかった。今までで獲得した最も高い評価の数は10いいね程度だった。雫はそのことを気にしているわけでもなく、「素人が描いたものだし、まだまだ下手な絵だから評価されなくて当然だ」と考えていた。壮馬は評価に全く納得していないようだったが……。


「見てもらおうよ」

壮馬が言った。

唐突に、一つのアイディアが、彼の頭に閃いた。意味を測りかねたように雫は首を傾げた。壮馬は彼女の正面に回り込み、肩を掴んだ。


「展示スペースを借りて、俺達の絵をみんなに見て貰うんだ」

壮馬は力強く言った。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ