12
絵を描こうと決意した日、壮馬は早速「一週間ほど病院に行けない」と雫にメールを送っていた。絵を完成させるためだった。
そして雫に拒絶されてから十日ほど経った日。壮馬は恐る恐る、病院の休憩室を覗き込んでいた。雫は休憩室の端っこに座って絵を描いていた。
以前と変わらない雫の姿に、壮馬は胸をなでおろした。
「久しぶり」
壮馬は雫の隣に腰を下ろしながら言った。雫は一瞬身体を震わせ、壮馬を見て目を見開いた。壮馬だと認識したのか、徐々に目から警戒の色が薄まっていく。
「来てくれたんだ」
雫の声は小さかったが、そこに壮馬を非難するような棘は無かった。むしろ顔は綻んでいた。以前会った時はあんな別れ方をして不安だったが、雫も壮馬と会いたいと思ってくれていたのだと、その表情で分かった気がした。
「おや? 俺が来なくて寂しかった? ねえ寂しかった?」
「もう。本当、すぐ調子に乗るんだから」
雫はため息をついたがやはり笑顔だった。壮馬も笑っていたが、急に真面目な顔で雫を見つめた。
「この前は無神経なことしてごめん」
壮馬は真っすぐ頭を下げた。
「もっと雫の気持ちを考えてあげるげきだったのに、気付いてあげるべきだったのに、傷つけることになって、本当に申し訳なかった」
雫から返答がない。暫く沈黙が流れた。休憩室には他に人が居らず、静寂が二人を包んでいた。
「顔を上げてよ、壮馬くん。私こそあの時感情的になってごめんね」
「そんなの雫が謝ることじゃ……」
壮馬が顔を上げると、雫の目は潤んでいた。その目でじぃっと壮馬を見つめた。
「あの日、私の誕生日、病院に来てくれたのは壮馬くんだけだった。お母さんは、来てくれなかった」
壮馬は浅く頷いた。彼女の母親がどういう人物か、今まで何度も見て来たし、雫の口からも聞いていた。それでも娘の誕生日にまで来ないとは思わなかった。
「後で電話で話したんだけど、お母さん、私の誕生日忘れてたんだって」
雫はまるで自嘲するように言った後、顔を伏せた。彼女にとってほとんど唯一の肉親に誕生日さえ忘れ去られることは、彼女の自己肯定感を大きく傷つける行為に違いなかった。それはあまりにも残酷だと思った。
「普段からそんなお母さんと居たからかな。あの日まで、壮馬くんは私のことを全部分かってくれる人だって、勝手に決めて、勝手に舞い上がってた」
雫は一度、窓の外に目をやった。寒々とした色の希薄な空に、薄い雲が浮かんでいた。
「だけど、壮馬くんは私と違った。あ、気を悪くしたらごめんね。嫌な意味じゃなくて、本当に一人の人間として違うって言いたいの」
「ああ」
「だけどあの時の私にはそれが分からなくて。服を渡された時、結局、壮馬くんも私の痛みとか苦しみとか、理解してくれないんだと思ったら、凄く悲しくなっちゃって……壮馬くんを傷つけるようなこと、一杯言っちゃった。本当にごめん。あの服すごく可愛かったよ。本当は着たかった」
雫の頬には涙が流れていた。同じだ、と壮馬は思った。
壮馬は雫に拒絶されて、自分の無神経さを憎んだ。罪悪感で夜も眠れなくなった。しかし、それは雫の方もだった。彼女も壮馬を傷つけたことに胸を痛めていた。きっと、今日壮馬が来るまで、後悔し続けていたのだろう。
壮馬はハンカチで雫の涙を優しく拭いた。二人の目が至近距離で合った。急に恥ずかしくなって、壮馬はそこで目をそらしてしまった。
「そ、そうだ。雫、俺も絵を描いてきたんだ」
壮馬はぎこちない動きで、鞄から黒いタブレットを取り出した。中古ショップで売られていた物を、「何とか安く売ってくれないか」と店員にギリギリまで値下げ交渉を行い、頼み倒し拝み倒し、渋い顔をされながら半額近くまで値下げしてもらい、何とか入手した物だ。
タブレットを入手した壮馬は早速絵を描き始めた。当然だが最初は全くうまくいかなかった。基礎が何も出来ていない状態でいきなり上手い絵を描こうとするのは、キャッチボールもろくにしたことが無いのに、時速150キロの速球を投げようとしているようなものだと悟った。
そこからは動画サイトを見て絵の描き方動画を見漁り、放課後はずっと絵を描く練習をしていた。土日はほぼ一日中絵を描いていた。試行錯誤を繰り返し、何度も描き直し、ようやく完成させた。
「その絵見せて!」
雫は目を輝かせている。
「本当に見せなきゃ駄目?」
「見せてよ。私のために描いてきてくれたんでしょ?」
いざ描いてきたものの、壮馬は直前で見せるのが恥ずかしくなっていた。しかし雫に見せて見せてと頼み込まれ、ようやくタブレットを差し出した。
タブレットの画面に表示されていたのは、富良野のラベンダー畑の絵だった。以前雫に行ってみたい場所を尋ねた際、このラベンダー畑だと答えたからだった。一面に紫色が満ち、どこまでも広がっている。
壮馬は自分の絵を見て顔をしかめた。やはり上手く描けているとは言い難い。線はガタガタで、塗りもはみ出たりしている。
「これ、初めて描いたの?」
雫は絵を見つめたまま言った。
「まあ美術で何度か絵を描いたことはあるけど、初めてと言っても間違いないかな。そもそも俺、美術という授業を真面目に受けたことないし、自画像を描きなさいっていう課題も棒人間描いて提出してたし、何と言うか絵を描く作業って本来俺が持っているクリエイティビティと違うっていうか、元々の俺の力が100%発揮されないっていうか……あとこの絵とかずっと家で描いてたんだけど隣の家が昼は解体工事、夜はロックフェスティバル、朝はそうめん流ししててうるさくて集中できなかったんだよね。俺って見かけによらず精密機械みたいに繊細な人間だからさ……」
壮馬は予防線を張る作業に余念がなかった。
「この絵凄い! 壮馬くん才能あるよ!」
「でしょ? 俺もそう思ってたんだよ。描いてる最中『あ、俺才能あるわ』って即座に気付いたよね」
壮馬は鼻から息を漏らした。
しかし内心では分かっていた。初めてまともに絵を描いたやつの絵が上手いはずがない。雫は壮馬を気遣って褒めてくれている。
「特にこのラベンダー畑の紫色……デジタルでこの色感を出すのって結構難しいはずなのに違和感があんまり無くて、よく背景に溶け込んでる感じがする」
「そうだろ? 俺の中のもう一人の俺が指示をくれるのさ。我が内なる【アートモンスター】が」
壮馬は両手で前髪をかき上げた。お世辞だと分かっていても褒められるのは気持ちよかった。
「それに……この低い構図に、遠近感がすごく効いてるというか……。何だろう、すごく、見る人の目線を意識した構図だよね」
壮馬は雫の言葉にハッとした。
雫の言葉で壮馬は本来の目標を思い出した。褒められて嬉しくなっている場合ではない。
「雫が描いたキャラクタの絵を一つ、メールに添付して送ってきてくれない?」
「どうして?」
「いいから、いいから」
雫は言われるがまま絵を送った。
「ということで、この絵を透過して、サイズを合わせて、位置はこの辺りかな……」
「ねえねえ、何してるの?」
「まだ見せてあーげない」
雫はその様子を見ようと覗き込んでくるが、壮馬は頑なに見せようとしなかった。そして、いじけた雫の頬がちょっとずつ膨らんできた頃
「出来た!」
***
この十日間、壮馬の意識の根底には、ある思いがあった。
それは「雫を旅に連れ出したい」ということだった。壮馬は作画の基礎を反復しながらも、ずっと頭の中を占めていたのはその思いだった。
雫は外に出たいと思っている。自由に、色んな場所に行ってみたいと思っている。
「イメージしろ、理想の場所を」
壮馬は両手で机に肘を付き、頭を抱え込みながら何度も自問した。刷り込んだ。
ペンを取る。
引く一本の線。
その一本の線が、世界を創り上げていく。
その一本の線が、より合わさって花になった。空になった。晴れ渡った花畑になった。
鳥が、木が、川が、壮馬のペンから次々に生み出され、世界を構成する要素となった。
イメージしろ、イメージしろ、イメージしろ!
俺の絵で雫を外に連れ出してあげるんだ!
壮馬は液晶に穴が開くほど凝視しながら絵を描き続けた。
***
壮馬はタブレットの画面を雫に見せた。それを見て、雫は目を瞠った。そこには壮馬が描いたラベンダー畑の中に、雫のキャラクターがレイヤーとして合わさったものだった。
それはサイズ感や光の調整をしているため、まるで絵の中に、キャラクターが本当に迷い込んでいるように見えた。
「これって……」
雫はタブレットから顔を上げた。
「前の失敗で色々考えたんだ。本当に雫が喜ぶことって何なのかって。何をしたら一番雫のためになるのかなって」
「色々考えたけど……結局、人が一番求めているのは、人と同じ気持ちを体験することなんじゃないかって俺は思ったんだ。だから俺は絵を描いた」
壮馬は雫が持っている自分のタブレットを指さした。
「雫言ってただろ。『色んなところを旅したい』って。だけど今は治療に専念すべきだし、旅行に行くのは現実的じゃない。でも絵の中ならどこにでも行ける。雫が描いたキャラクターに着たい服を着せてるみたいに、俺なら色んな場所に行かせてあげられる。どこでも旅させてあげられる。そして、そうやって雫と二人で絵を描いて、同じ気持ちを感じたいって思ったんだ」
雫は真剣な眼差しで、頷きながら聞いていたが、途中からふわりと笑顔になった。
「つまり……これから一緒に絵を描こうってこと?」
壮馬が頷くと、雫もゆっくり頷いた。
「私、確かにずっとお絵描きする友達は欲しかった。でもそれって凄く贅沢なことだと思ってた」
雫は一度前髪を気にする仕草をした後、壮馬をまじまじと見た。
「だけど壮馬くんがこれから私と一緒に絵を描いてくれるなら、それって何よりかけがえのないプレゼントだね。素敵な誕生日プレゼントありがとう。こんな嬉しい誕生日プレゼント、産まれて初めてだよ」
雫は壮馬の右手を両手で包みこんだ。壮馬はその手を優しく、ゆっくり握り返す。
二人分の手のぬくもりを感じながら、二人は微笑みを交わした。