つかぬことを伺いますが ~絵画の乙女は炎上しました~
※こちらは短編『つかぬことを伺いますが ~伯爵令嬢には当て馬されてる時間はない~』(N9156IS)のその後の話ですが、読まれていなくても大丈夫です。
あちらの短編を長編(短編連作)に改稿作業中につき、短編から世界設定、人物設定など、一部変更があります。
前作よりミステリ寄りで、事件の内容上、念のためR15推奨になっております。
よろしくお願いいたします。
たとえばステーキと生クリームの乗ったケーキが好物だったとして、一緒に口に入れたいとは思わない。
フランシス・ブロードベントは今まさに、そんな気分を味わっていた。
久しぶりのおでかけと事件発生現場の指紋採取は、彼女にとってそんな取り合わせだった。
「それ、今じゃないと駄目でしょうか……」
フランシスの語尾は瞬く間にしなびていった。
丸く優しげな青い瞳は、正面に立つ40がらみの警部の困り顔と、その背後で煤にまみれている建物の間をさまよった挙句、足元に落ちた。
彼女を恨めしそうに見返してくるのは、真新しい清楚なグレーのワンピースの裾と踵高めのパンプスだ。いや、そう見えるのはもちろん、フランシスの気持ちの投影で。
――春の初めに買って、終わるころにやっと袖を通せたし履けたのに。
一年365日中350日は――要するに動きやすさ最優先のパンツスタイルで日常を過ごしている彼女には珍しい格好だった。
身分差がだいぶ縮まった昨今とはいえ、伯爵令嬢にも関わらず社交は最低限。スカートは特別な用事でもない限り着ない。しばしば這いつくばる実習の邪魔になるから。
「駄目なんでしょ。証拠は時間と共に失われるって君の口癖だよね」
からかうような声音にフランシスが顔を上げれば、語尾をしなびさせた理由のひとつ――レイモンド・ストウの口元が笑っている。
一年前、追い詰められていたフランシスが初対面で結婚を申し込んでしまってから、紆余曲折あった末に付き合い始めた同い年の青年だ。
二人は、春に魔法学院の大学部で三年生になった。フランシスは魔法が絡む医学とその法医学・法科学を学び、レイモンドは法学部で検事を目指している。
学部も違えばそれぞれ師事する教授の用事もある。専門科目の履修も増えて、二人で会う機会も時間も減ってしまった。顔を合わせれば勉強の話か、課題を互いに手伝ったりするだけ。
さすがに研究熱心な彼女でもゆっくり話がしたかった――研究や論文以外の、たとえば美味しいケーキとか面白かった本とか、最近の個人的な心配ごととか。
だから積み上がりかけた課題を先に片付けて、予定を調整し、今じゃないと駄目な案件をお互いに片付けて。
やっと久々に休日のお出かけが叶って……そこで通りすがりに、ふと目を向けた裏路地で、火事の跡と顔見知りを見付けてしまったのだ。
しかもその顔見知りが警部で「お嬢さんは今暇か」と声を掛けられたとなれば、これはもう事件に違いなく、休日が潰れるのは確定的だ。
幸か不幸かフランシスはいつもの癖で、絆創膏と同じ扱いで指紋採取キットを鞄に入れていた。
フランシスは、レイモンドに「何で笑っているんですか」と言い返しそうになって口を閉じた。
黒髪の下の怜悧な薄青はこうなることが分かっていたというように見つめてきて、いつものように背中を押してきたから。
「……分かってます。……警部さん、でもせめてレイモンド様とお別れして、着替えてからでもいいでしょうか」
「後者は僕もお勧めするけど、別れる必要はない。今日は一緒にいるって言ったよね」
警部にたずねるフランシスは隣でレイモンドに意味ありげな視線を向けられ、再度抵抗を諦めるはめになった。
――事件を放っておいたままにしたくないのも、離れたくないのも、見透かされてる気がする。
フランシスはいつだって、彼の手のひらの上で転がされているような気がする。
それがちょっと悔しくて、埋め合わせでは驚かせてみせようと密かに誓った。
***
近くの雑貨店で適当な服と靴を調達したフランシスは、青みがかった灰色の髪をそのまま黒いゴムでまとめ、小ぢんまりとした一軒家の敷地に足を踏み入れた。
事件発生から数日経ち、炎どころか煙も野次馬も残っていない。
立ち入り禁止を示す頼りないロープをまたいで玄関扉をくぐれば、二階への階段と、奥へと続く扉が見えた。扉の方からは木の焦げた臭いが漂ってくる。
警部に誘われ居間を抜け、応接間に案内されるその途中には警察と鑑識とが調べ回った痕跡があった。
「指紋を採取して、父に鑑定してもらえば良いでしょうか」
魔法法医学者見習いの顔になったフランシスは、顔見知りの――正確には、法医学者である父親の仕事関係者の――警部に確認する。
父親が伯爵としての収入と給与からかなりの額を研究費に突っ込んでいるおかげで、大学でなくとも家にそこそこの機材が揃っていることを、この警部も知っているのだ。
そして正規ルートでの依頼でないということは、急ぎなのか、個人的な疑問があるのだろう。
「お嬢さんで十分だ。下足痕が火事と消火のどたばたで解析に時間がかかっててな。それと不自然な点がないか、気付いたことがあるなら教えてくれ」
「はい」
「ここんとこ、妙な盗難事件が起こってるんだ。大した価値のない美術品を盗んでいく、っていうな。
聞き込みの結果、どの家も盗難の数日前に見知らぬ若い男が訪ねてきていた。ここが三件目――で、今回は火事になっちまった」
「若い男性……ですね」
フランシスはぐるりと、趣味の良かったであろう部屋を見ながら相槌を打った。
火事の被害はここ一階奥の応接間、暖炉から中央のソファセット周辺。多くの調度品は焼けずに無事だったが――消火活動でびしょ濡れになったことを除けば――炎は天井まで焦がしていた。
原因とみられる暖炉は、春になった今ではほとんど使われていなかったそうだ。
「それだけじゃないぞ。火事を目撃した近所の住民によれば、最初に虹色の炎を見たんだとか。これが放火かどうか、どうやって起こったのか知りたい」
「虹色なんて目立ちますね。一番に気付きそうなご家族はその時どちらに?」
「虹色には驚かないのか? 家族が小旅行に行っている間に入られたんだ。使用人は一人、通いのメイドで当日は休み。今までの二件も家族と通いのメイドが不在の時間って条件は同じだ」
「不在で不幸中の幸いって感じじゃなさそうだね。……転ばないようにね」
家具と床の隙間を屈んでのぞき込んだり、背伸びしたりを始めたフランシスの白手袋をはめた手を、同じように手袋をしたレイモンドが取る。
「はい。転んだら証拠を台無しにしてしまうかもしれませんから、気を付けます」
「そういう意味じゃないんだけど」
「……そうですね、留守を知っていて入っています。それとこれは多分人為的な火災です。どこまで意図的か、までは分かりませんが」
フランシスは手を離し、その場に魔力と呪文の痕跡がないことを確認してから――魔力の残滓と呪文の解析が可能であることが、フランシスが呼ばれた理由であることも分かっていた――応接間の中央に燃え残る真っ黒な木材の一部を割ると、断面を見て思考する。
現場に集中していれば、もうデートのことはほとんど頭から消え去っていた。
「理由は?」
警部に問われてフランシスは、円形の木材の断面を指さした。ソファの足らしきそれは表面からぐるっと数センチ炭化しているが、心材は明るい色だ。
「火元に近い割りに、深部まで焦げていません。対して天井は焦げています。きっと時間をかけずに一気に燃え上がる原因――燃料が、この位置ならそうですね、テーブルの上にあった可能性があります。
わざと燃料を使ったか、事故か。わざとならたとえば……保険金絡みだと思いますか?」
フランシスが意見を求めるようにレイモンドを見やれば、小声が返ってきた。
「僕の好みを聞く時より、生き生きしてない?」
「そういうこと人前で聞かないでください」
どうした、と警部に問われて慌てて首を振ったフランシスは、鞄からピンセットを取り出し、これも何かにつけ便利だからと持ち歩いている袋に、木材や布の破片を納めていく。
少し口角が下がってしまうのは、警部の前でからかわれたくないのは勿論、彼を意識したら仕事に集中できなくなってしまいそうだからだ。
幸いレイモンドはすぐに真面目に返答をして、警部に視線を移してくれた。
「家主も怪しいと思うか、って? 家のことなら、この火災規模だと降りる保険金の額に見合わないんじゃないかな。……警部、美術品に保険はかかっていましたか」
「保険は一般的なものだけだったはずだ。ただ盗まれた絵などとは別に、有名画家のシャリエが売れる前に描いた絵が……『麗しの乙女』とかいう名前だったか、それがここに飾ってあったらしい」
警部は壁紙が燃え尽きた壁の前で、金属製の額縁を指さした。横には裏庭を臨むガラスの割れた両開きの窓があるが、太枠でそれよりも大分大きい。
絵の説明を警部がしたのは、額縁に嵌っていたはずのキャンバスも焦げており、そして何より、内枠に沿って絵が描かれていたはずの布が刃物で乱暴に切り取られていた跡があったからだ。
「鑑識がいうには、燃える前に切り取られているそうだ。盗むには大した金額じゃないにしても……この扱いじゃ小銭稼ぎどころか無価値になっただろうな」
「今まで盗まれたのも油絵ですか」
レイモンドが思い付いたようにたずねると、フランシスの視線は額縁周辺に向いた。その辺りの壁と床は、暖炉側以外では最も焼け焦げている。
割れた窓ガラスの一部は、ひしゃげたガラス片となって床に散らばっていた。
「ああ。それとここの主人は油絵が趣味で、二階の書斎で他の絵や画材を保管していた。盗まれた絵もそっちにある」
「絵の具の種類が聞きたいですね。絵に使われた絵の具の色とここにあったかもしれない画材、目撃者の証言を合わせれば虹色の炎の説明は付きそうです」
「絵の具?」
レイモンドの言葉に首を傾げる警部に、フランシスが答える。
「画家の使うような絵の具の一部には、様々な鉱物が使われています。鉱物は燃える際に色々な炎を出すので……簡単に言えば、花火と同じです」
「確かに白や赤や、色々あったな」
「ええ、切り取って燃やしたのかもしれないです。何故そんなことをしたのか――可能性で、画材かもしれませんが――分かりませんが、窓際にあったなら見えてもおかしくありません。ところで、この窓は消火時に割れたのでしょうか」
「犯人の線で考えてる。
目撃者っていうのが隣家の人でな。旅行に行くとは知らず玄関扉を叩いていたら、室内の奥の方から物音がしたから裏庭まで回り込んだそうだ。
それで、ちょうどこの窓の向こうから多色の炎を見ている。そのうち赤い炎があがって我に返り火事だと通報、間もなく消防隊によって消火された」
犯人にとって運が良かったのか悪かったのか、と警部は言ったが、家主には災難極まりなかっただろう。
「消防署員も、玄関扉の鍵を壊して入ったと聞いてる。室内に破片が残ってるんだから、やはり泥棒の進入時じゃないか? 他の二件は鍵のかけ忘れの可能性もあるらしいが。……何か気になるのか?」
「……ガラスの厚みと溶け方が気になるんですよね」
フランシスは持ち歩いている簡易指紋採取キットの粉を、火事や消火の被害を受けていない、めぼしい場所にくっつける。
指紋は、警察が犯人の特定法を確立しようとしていた時代、特に注目された個人識別法。
そしていまだに、裁判で根拠として採用される、きわめて有力な証拠のひとつだ。
一時期フランシスは指紋研究に夢中になっており、彼女がレイモンドと個人的に仲良くなったきっかけも、父親の協力を得て開発したブロードベント式指紋採取法の証拠能力が法廷で認められたからで――警部に信用され頼まれる理由でもあった。
「……この水差し……?」
部屋をつぶさに観察していたフランシスは、部屋の片隅に転がったままのガラス製の上等そうな水差しに目を止めた。
その内部に残る雫に違和感を覚えて、適当な布で拭ってみる。
「どうかしたの? ……これは油?」
「そうですね。水差しに油をたっぷり入れた跡が残っています」
隣に並んだレイモンドに頷きつつ、入念に持ち手の指紋を浮かび上がらせ、テープに写し取ってから、フランシスは警部にたずねる。
「メイドさんは今どちらに?」
「ニレ通りの自宅アパートで待機中で、明日には一家と後片付けに来るそうだ。さすがにお嬢さんに聞き込みは許可できないんで、知りたいことがあったら俺が聞いておこう」
「では今までの二件のメイドさんと同一人物なのか確認する必要がありそうですね」
「それはもう調べが付いてる……今、部下が監視中だ。良く分かったな」
目を丸くする警部に、フランシスは微笑んだ。
「さすがに警部は早いですね」
「引っ張る証拠がない」
「あの、先入観だけで追い詰めるのは、やめてくださいね。あくまで実際どうだったのかという確認です。立証するために無理に証拠を当てはめるのは――」
彼女はレイモンドを一瞥する。
今は涼しいくらいの顔をしている。でもフランシスは過去、彼の祖父が無実の罪で容疑をかけられ、苦労したことを、今でも影響が残っていることを知っていた。
「証拠はあくまで、今の時点の技術で分かること、それも一面の提示でしかありません。どう扱うかは法医学者でなく警察と検事のお仕事の範疇ですが、私はそう思います」
「お嬢さんに言われなくても、分かってるつもりだぞ?」
「お願いします。では参考に、最近の来客について分かっていることと、その間の皆さんの行動の一部始終について教えていただきたいです。それから訊いていただきたいのは――」
***
警部から一通りの情報を得た後、フランシスたちは少し遅めの昼食をとるため、公園のベンチに座っていた。
お洒落に無頓着と言ってもいい彼女でも、春らしい色をまとった女性たちが行き交うのを見ればちょっとだけ気持ちが沈む。
手の中にある、警部におごってもらった苺のクレープの方が自分より余程華やかだ。
――クレープは好き。でも今日のお昼はあの美味しいって評判のお店に行ってみたかったのに。
あれから地面に這いつくばって煤にまみれた髪と極めてラフなシャツとズボンでは、小奇麗な店に入る気にはとてもならなかった。
そういえばレイモンドのジャケットの袖にも煤が付き、論文で切羽詰まっている時には跳ねている黒髪も、今朝ちゃんと整えられていたのに、少し崩れてしまっていた。
レイモンドが買ってきてくれたボトルの水を受け取り、横に座るのを眺めていれば視線が合う。
「ありがとうございます……」
自分で選んだこととはいえ、愚痴のひとつでもこぼしたい気分でいれば、彼の目はほんの少しだけ、面白いものを見るようだった。
「さっきはあれだけ生き生きしてたのにね?」
「……早起きしたんですよ」
正確には今日が楽しみでなかなか眠れなくて、とまでは言えない。
唯一残った目元の、アイシャドウの春らしいピンク色がレイモンドをほんの少し残念そうに見つめた。
学院で実験をするような生徒は、混入を嫌って化粧をしてもごく薄い。私生活でも勉強漬けの彼女が、本や資料、いつでも倒れ込みたい枕を汚すのを嫌ってほぼすっぴんでいる。
それに気付いたのかレイモンドの目が少し泳ぎ、それからすぐに表情は普段通りの落ち着きを取り戻す。
「どっちの君もいいと思うけどね」
「それは生き生きしてるのと、しょぼくれてる私とですか」
「……勉強熱心で理想に向かって努力する君と、僕のために普段と違う服装をしてくれた君と、かな」
フランシスから見たレイモンドは、普段、特に人前では口調のわりに表情がそれほど変わらない。彼との言い合いで必死になる自分と違って、いつも余裕があるように見えた。
だから少しだけフランシスは不安になるし、悔しい気持ちもある。自分だけ一人で喜んだり残念がったり、空回りしているような気がして。
「本当ですか」
「本心だよ。それからさっきの、警部に言った証拠の扱いの件もね」
「……警察組織の鑑識や、協力し合って起訴する検事と違って、法医学者・科学者たちは外部の組織の人間ですから」
学者たちは依頼されたものの調査と鑑定が仕事だ。捜査権もなければ現場にも出ないことの方が多い。
「現場の捜査も許可がなければ立ち入れず、鑑定を依頼されなければ、全体像もなかなか知りようがない、そんな不完全な立ち位置です」
「その中で君が真摯に向き合うたびに、いつかどこかで救われる人がいる」
「……そのせいで半日ばかりでなく、丸一日のお休みがなくなっても?」
フランシスは目の前を通り過ぎていくハイヒールの女性に目を細めた。翻るスカートと白い脚が美しくて、今の自分と違いすぎる。
でも、レイモンドと話していれば自分が「それ」になりたいわけじゃないことも理解している。
結局今頭に引っかかって離れないのは、ショーウィンドウのガラスではなく、焼け焦げた床に散らばるひしゃげたガラス片なのだ。
「調査はこれで終わりじゃないということ?」
「はい。……気にかかることが」
「知っての通り僕も犯罪に興味がある。僕も僕なりの予想を好きに話すから、君も話せばいい」
「……では、話しますね」
フランシスは警部から聞いた情報をまとめた。
三件の盗難事件が起きた家には、いずれも事件の数日前に来客があった。貴族の使用人を名乗ったその若い男は、主人がシャリエの大ファンで、若い頃の絵やそれに関わる物品を探していると話す。
絵画やまつわる品を確認した男はまた後日と帰り、その数日後に泥棒が入った。
来客時に家の住民が席を外したのは、いずれもわずかな間で、鍵などが盗まれた痕跡もない。
盗まれたのは油絵が数枚。三件目ははっきりと家の主がシャリエの古くからのファンだったせいか、スケッチと、彼が昔撮影したという写真のガラス乾板数枚も含まれていた。今は写真もフィルムが主流だが。
男は目利きができないのだろうか、いずれも市場価値がほぼないものだ。ただ、シャリエのマニアックなファンであれば欲しがる人もいるかもしれない、というもの。
「メイドさんの方は、三件とも名前も髪型も違いますが、髪と目の色、それにほくろの位置は同じ。鑑識の方が現場の指紋を調べているそうなので、午後には結果が聞けるでしょう」
「同一人物だろうね」
「どれも絵画は飾ってありましたが、三軒目のガラス乾板は薄紙に包んだ上で箱に入れ、スケッチと共に二階の書斎に保管してありました。初見で盗めるものと思えません。
メイドさんが最近そこに立ち入ったのは火事の前日ですね」
メイドは主人夫婦の喉が渇いたのではないかと、トレイに載せた水差しとコップをふたつ持って来たのだという。
思い返せば不自然だったと主人が話したのは、妻が一階で編み物をしていたことと、コップにはすでに水が注がれていたこと。
レイモンドもまた思い出すように続ける。
「水差しとふたつのコップに水を入れて持って来たが、一人しかいないと分かると、水の入ったコップをひとつだけ書斎の机に置いた。
その後で主人は少し、日課で新聞を取りに行くためにほんの数分、席を外した。入れ違うように、メイドは残りの水差しとコップを持って部屋を出た。
……メイドが一階の妻の存在に気付かないとは思わないし、わざわざコップに水を入れてから階段を上がる理由がない。こぼす可能性を考えればね」
レイモンドは自分の分の、ハムと野菜をくるんだクレープを咀嚼し終えると、考えをまとめる。
「水を出すのは口実か。同時に、君が見つけたように水差しに入っていたのが油なら『注いで出すわけにいかなかった』。では何故油を入れたか……何してるの?」
フランシスはボトル入りの水を目の前に掲げ、屈曲する水越しにレイモンドの顔を見る。
「これは、ボトルに入った水です。正確にはガラスと水の、ふたつの物質越しにレイモンド様を見ています。そして、少し曲がって見えます」
「光の屈折だね。桶の水に手を入れたりすると、上からでも折れ曲がって見える」
「はい。ものには屈折率があります。このボトルの中にガラス片を入れても存在を認識できるのは、ガラスと水の屈折率が違うからです。
それで……これは予想なのですが、ガラスと油の屈折率はほとんど同じなんです。だから、光はほぼ真っすぐ通り、透明なモノの境目が認識できません。つまり――」
フランシスの青い目が、ボトル越しにレイモンドの真剣な目線とぶつかった。
「――透明に見える。乾板の写真はもうひとつのコップの水で流せば像が消える。それから水差しの中にその乾板を入れて、部屋を出てしまえばいい」
「はい」
ボトルを下ろしてクリームが垂れそうなクレープを急いで食べ終えたフランシスは、水で喉を潤すと、立ち上がった。
「私、気になることがありますので今からもう一度現場に寄ってから、指紋を鑑定しに一度家に帰って、それから警察署へ行こうと思っているんですが――」
「忙しいね。じゃあ行こうか」
「……本当にいいんですか? 今年は忙しくて、去年より論文を書く時間もずっと減っていますよね」
「だから、今日は一日付き合うよ。僕もいずれ現場に立つつもりだから気にしないで」
――仕事が理由だけじゃなかったらいいのに。
つい「別の意味で気になります」と言いかけて、フランシスはまた口を噤んだ。
――こんなことじゃ、立派な学者になれない。彼の期待を裏切りたくない。
「……ありがとうございます」
でも同時に、付き合いたてのまま殆ど変化のないこんな関係がいつまで続くのか、いつまで続けられるのだろうと、不安を感じないでもない。
ちらりと表情を伺えば、レイモンドはやっぱり落ち着き払っている。
フランシスがそっと手を伸ばして、現場に戻るまでの少しの間、とレイモンドの指先を摘まめば、やっぱり何でもないことのように優しく手が繋がれた。
***
「燃えたっ……燃えただとっ!?」
警察署の鑑識課から廊下に出たフランシスたちと警部の目に飛び込んできたのは、やせぎすの老人が恰幅の良い初老の男性に叫んでいる姿だった。
「あれはいずれ買い直そうと思っていたのに……!」
「シャリエさん、うちは質屋じゃありませんよ」
「ああ分かってる、あのとき端金に困って売ったのは自業自得だなんてことはな」
がっくりと肩を落とし、ショックと後悔を表情に滲ませている老人は、くたくたのジャケットよりずっとくたびれて見えた。
なるほど彼がシャリエに違いない、とフランシスは納得する。
警部にも聞いていたがシャリエという画家は、金銭に固執しない種類の芸術家だという。
名声が上がってからは画商の助けを得られるようになったが、とにかく今描きたいものを描くことが第一で、値崩れなど気にしない多作で多売をしていた、描いて描いて描きまくった画家なのだという。
初老の男性――燃えた家の主人は学生時代にシャリエの個展でこの絵を買ったのだそうだ。個展にたびたび顔を出せば、知人のような関係になるのだろう。
「それにしたって、『麗しの乙女』と写真を、なぜ今になって……?」
「晩年になると若い頃の情熱が欲しくなるんだよ。この前のあれだよ、『墜ちる空』」
「新聞の芸術欄でも評判でしたね。うちで欲しいくらいでしたが、良い値が付きましたなあ」
「それで小金が入ったが、あれを描いたときに昔の絵がどうしても見たくなった」
「ああそれで」
「あんたのところにある一枚ならいつでも見れる、買い直せるかもしれないと思ったが、まさか燃えるとは……!」
フランシスは、レイモンドと、それから案内してくれた警部と顔を見合わせると、二人に近づいた。
家に寄ったついでに普段着に着替えて煤も拭ってきているので、安心して声が掛けられる。
「失礼ですが、写真には何が写っていたんでしょうか」
「モデルの女だよ、『麗しの乙女』の――ああ、売れない女優の。私もあの頃は同じように売れない画家で、練習のために安い金で引き受けてくれるモデルを探していた。
売れてはなかったが、なかなかいい表情をする女優だった。それでスケッチを何枚も書いた。出来のいい油絵がいくらか描けて」
「四枚でしたよ」
「そう四枚、うち二枚はこいつが買ってくれたんだ」
シャリエは語りたいタイプの芸術家でもあったらしい。あるいは、燃えたことを知って気持ちを整理したいのかもしれない。
フランシスもレイモンドも、警部から聞いて知っていた。他の二枚は、そう、二件の盗難事件で盗まれたものだった。
「もし覚えているようでしたら、モデルの方の名前は?」
「はっきり覚えている。エイミー・ペンドリーだ。赤みの強い茶色の髪が生命力を感じさせたな」
「……やっぱり」
フランシスが呟けば、警部が目つきを鋭くした。
「例のメイドが初めて名乗ったのと同じ苗字か? ……それで何がやっぱりなんだ?」
「……警部、少しお待ちください。……シャリエさんかご主人の家に、同時期に……エイミーさんがその場にいた時に描いていた油絵は残っていませんか。どうしても必要なんです」
――幸い、主人はシャリエの描いたという小さな風景画を二階の書斎に飾っていた。
フランシスはその絵を鑑識課に届けてもらうと、すぐに顕微鏡でくまなく調べ始める。
「……家の一階と二階の壁と手すり、それにガラスの水差しにはよく似た二つの指紋が残っていました。
先程結果がでましたメイドさんの指紋と、ご家族以外の指紋……おそらくもう一つの、訪ねて来た若い男性のものです」
「よく似た、か。指紋は大きく分けて三つだったな、渦状紋、蹄状紋、弓状紋。民族で割合に偏りがある」
といっても、偏り程度で犯人を決めつけることはできない。
「線の特徴や深さの一致などで――損傷がない限り生涯変化しないと言われているので、高い精度で犯人が分かります。
そして近年、汗孔が顕微鏡で観察できるようになってからは、更に指紋照合の精度が高まりました」
フランシスは顕微鏡を真剣に覗き、分厚く塗られた油絵の具でできた山脈を凝視する。
「指紋は付いた場所や現場、手の状態ですぐに消えてしまう場合もあります。でも、条件によっては数十年残っていることもあります」
「たとえば、乾く前の油絵を触ったりも含まれる、か」
レイモンドの声にわずかに緊張感が混じる。
「同じ部屋で描かれて油絵に残る指紋が、シャリエさんともう一人あれば――ありました。このかたち、おそらくエイミー・ペンドリーさんでしょう」
顕微鏡から顔を上げ、フランシスは笑顔を浮かべる。
細かい照合をする必要はあるが、これであの若い男性の正体に迫ることができる。
「指紋は双子でも細部は違い区別がつきます。逆に言えば、血縁関係である程度似ているということです。
よく似ている指紋が“みっつ”となれば、それは偶然とは言えません。三人はおそらく、祖母とお孫さんの関係です」
***
「どちら様でしょうか」
細いニレ通りから更に何本か路地を入った住宅地の、古めかしい一軒家の扉を細く空けて顔を出したのは、20代半ばの青年だった。
事前に警察から聞いていた背格好と、赤茶の髪と目の色は同じ。ついでに遠目に見せてもらったメイドと顔立ちもどことなく似ている。
出かけるところだったのか、泥棒の下見に来た時のようなお仕着せではなかったが、軽くジャケットを羽織っていた。
フランシスの一歩前で、正面から彼の不審者を見るような目つきを受け止めたレイモンドは、
「ケイシー・ペンドリーさんのお兄さん、ビリー・ペンドリーさんですね。……僕たちは今回の捜査の外部協力者です」
年下で、学生であることは見れば分かるだろう。侮られても自然だと想像していた――が、青年の顔は見る間に強張った。
暴力をふるう様子も逃亡する様子もないように見えたが、レイモンドはフランシスを庇い、かつ彼が逃げられない位置に立ちながら、更に彼を見据える。
「もし逃げるつもりなら、勾留――つまり逃げられないよう拘束される可能性が高くなります。お祖母さんのお世話が必要なら手配をしてからをお勧めしますね」
「……っ!」
青年が息を呑むと、奥から「どちら様」という年老いた女性の声がした。
青年は一度振り向き、取り繕った声で「何でもないよ」と返してから、レイモンドに向き直る。
「……外で話をしよう」
外に出た青年は玄関扉を閉めると、上半身を扉に預けながら頭をかいた。
その様子はわざわざ犯罪に足を突っ込むような暮らしぶりでも性格でもない、ごく普通の青年に見える。
「祖母は足を悪くしてから具合が悪いので、話を聞かせるのはやめてくれ。俺は……逃げたりしない。今から自首するつもりだった」
「認めるんですね。建造物侵入に窃盗、それから放火――」
「ああだけど、火事になったのは意図的じゃない!」
レイモンドはその感情的な反応に、少しだけ表情を緩める。
カマをかけたのだ、とフランシスには分かった。彼は証拠もなく決めつけたりはしない。
わざわざ危険を冒してここに出向いたのは、むしろ警部に口添えをする可能性があるからだった。
青年は肩で息を大きく吐くと、怒鳴ったことを恥じるように首を振った。
レイモンドはといえば表情を変えず、
「放火と失火では大分罪の重さが違います。偶然かどうかは鑑識の調査が入ればはっきりするでしょう」
「どうだろうな」
フランシスはレイモンドが自分を振り向いたので、強く頷く。それから発言しても問題ないだろうと口を開いた。
「三軒めの被害者宅にあった油絵についてですが、売却が目的なら切り取ったりはしません。
額縁から外すには大きすぎて玄関から運ぶには目立つからか……と思いましたが、合鍵を作っておけるような内部の共犯者がいるなら、絵の大きさは事前に分かっていたことのはずです。
だから、絵の処分が目的だと思いました。それで、もしかしたら最初から燃やすことも計画のうちならば、ガラス乾板も一緒に処分できてお得だなと」
「……」
「現場に残ったガラスには、厚みと溶け方が違う二種類のガラス片がありました。窓を割って侵入に見せかけつつ、ガラスを混ぜておけばバレにくいですし。更にいくらか熱でゆがんでしまえば、もっと区別はつきにくいですから。
……どうでしょうか」
フランシスの淡々とした言葉に、青年は観念したように目を閉じた。
「妹は前の二件も、俺に言われて鍵の型を取っただけだ」
「あと翌日の犯行を見越して乾板を水差しに入れ、一階に運んでおいたのもですね」
「……そうだ。そこまでお見通しなんだな」
青年が語った犯行の一部始終はこうだった。
玄関から合鍵で侵入。二階の書斎からあらかじめ場所を聞いていた『麗しの乙女』のスケッチを取り出し、一階に降りるとキャンバスを切り取り暖炉で燃やす。
それから一階の隅に置いてあった水差しから写真のガラス乾板を取り出す。
合鍵を使ったことが解らないように、外部からの侵入に見せかけるために窓を開けて腕を回してガラスを割る。ガラスの破片は、乾板と一緒に少し炙ってその下にばらまく。
それだけのつもりだった。……しかし、突然の訪問者に驚いた彼は、急いでいたため水差しの油を肘にぶつけて、床に零してしまった。
暖炉の前に敷かれた絨毯にしみ込めば見る間に炎が燃え移った。
消火する時間はないと思った。庭を回って声が近づいてきたので、玄関から慌てて出て鍵だけはかけた。
「動機は……何でしょう」
「祖母は若い頃、売れない女優だったんだ。ひとつふたつ舞台に立ってやめてしまったけど。その頃に今は有名画家になったシャリエのモデルも引き受けていた」
「……」
「シャリエはモデルとして祖母が気に入ったようで、まあ、それぞれ夢に向かっていたことで気も合ったと言っていたよ。
一時期は毎日のように絵を描いていて、気安さもあったんだろう、その中にはごく薄着でくつろいでいる姿もあった。
疚しい関係ではないと祖母は言ってたけど、そうも捉えられるような絵でね」
フランシスにも想像がつく。
その頃は良くても、年月を経て、またシャリエが金に困って売ってしまい、方々へ散る可能性を考えれば、気が気でなかっただろう。
「取り戻したいと祖母が思ったきっかけは……お堅い職業の祖父と結婚するのが決まってから。
結婚前に取り戻そうとしたけどシャリエは根っからの芸術家で、この絵はこの絵として存在するのがいいのだと……最後に折れて、もし買うなら売ってもいいと言ったけど、金銭的に裕福でない祖母が金を貯める前に売られていったらしい」
その後も、エイミーはそれを気にかけていた。何せシャリエはだんだん有名になり、何かのはずみで夫や子供たちの目に触れないとも限らなかったからだ。
「心配は現実にならなかった。でも、年老いて寿命が見えて来て……足を悪くした祖母が憂いを残さないようにと、盗んで燃やした」
青年は壁に向かって振り向く。
そこにあった窓越しに老婆が手を振るのが見えた。開いたカーテンの向こうには小さな暖炉があって、小さな火が燃えていた。
――今日は春の日差しが暖かいのに。
フランシスはエイミーの体調が悪いせいかと思いかけて、ふととある可能性に気付いてドアノブに飛びついた。
「……済みませんっ!」
「フランシス嬢!?」
「証拠が!」
レイモンドの制止を振り切るように、驚いて前のめりになる青年と扉の間に入って開け放つ。
玄関から見通せる小さな居間。燃えゆく紙片が薄い炭となって、暖気に舞い上がって漂っていた。
「水……っ」
鞄から水のボトルを取り出したが、間に合わないことは明白だった。紙の束だったものはもう、いくらかの石炭と共に黒々とした炭の欠片になってしまっていた。
「……祖母の目の前で証拠を焼かないと安心できないと思ったので」
背後から青年の淡々とした、でもどこかほっとしたような声が聞こえる。そして続けて、
「やっぱりねえ、悪いことはできないものよ、ビリー」
「……おばあちゃん」
目を見開いて立ち尽くすフランシスとレイモンドの視界に、窓際から足をぎこちなく引きずって現れたのは、白髪をまとめた老婦人だった。
若い頃はさぞ美しかったのだろうと思ったが、それは顔立ちだけでなく纏う雰囲気のせいだ。
そしてその手にはまだ一枚、古びたスケッチが握られていて――まだ若い頃の彼女の姿が残っていた。
瑞々しい肢体に薄いローブをまとってソファに沈む彼女は楽しそうに微笑んでいる。たなびく髪がシャリエの言った通り生命力を感じさせた。
「あの頃は二人とも若かった。……一時期は『半裸の乙女』なんて題もついていたから、見知らぬ他人に見られたくはないけれどね。あの頃の私の若さと彼の情熱があったから、それぞれ次の一歩を踏み出せた。悪い思い出ばかりじゃないのよ」
フランシスはエイミーに向けてすっと手を伸ばす。
個人として何も権限はなく、事情を知る限りで個人的な同情を抱いてもいたが、見習い学者として信条は裏切れなかった。
「それは証拠品です。指紋を、採取させてください」
「持っていくの?」
「この絵は捜査資料として調べた後に、持ち主の元に返すことになります」
引き取ったレイモンドは冷静に答える。薄い青い目は青年をもう見ておらず、真っすぐにエイミーを見つめていた。
「ただあなたは窃盗犯ではない。善意の第三者のようなものです。交渉次第では持ち主の方が譲ってくださるかもしれません」
フランシスは目を瞬いてレイモンドを見直した。
検事は犯罪を肯定するわけにはいかないし、彼自身そう思っているはずだ。何があっても法の番人であろうと。それでも。
「そう。スケッチの一枚くらい買える蓄えはあるわ」
「手続きに法律上の問題はないでしょう」
「チャンスをありがとう。優しいのね」
「……いえ。ただの知識の共有です」
そう答えてレイモンドは口を閉じて視線を床に落とす。
選択肢を示したに過ぎないが、それは明確に彼なりの手助けだった。
「まだ学生だからって……公私混同か。それとも、モラトリアムか」
自首をしにビリー・ペンドリーが警察署に入るのを、数メートル後ろからで見届けたあと。
まるで自身に言い聞かせるようなレイモンドの複雑そうな声に、フランシスは自分たちも後を追いながら、鞄の上から証拠品のスケッチに触れた。
若き日の情熱もたらすものは、この行動と選択が正しいのかなんて死ぬ間際になっても――死んでも正しいかなんて分からないに違いない。
それでも、フランシスは今この瞬間、彼を信じていた。
「単純に、お年寄りに親切なだけです」
「……君にも親切だと思うけど」
「そうですね。今日は特に」
いつも通りの声音に戻ったのを確認して、フランシスはレイモンドにいたずらっぽく微笑んで見せた。
***
警察署を再び出た時には、もうすっかり夜の帳が降りて明るい月が紺色の空を彩っていた。
「もういい時間だからね。送るよ」
警部とのやり取りを終え、ほっとして、解決して良かったと話し合った後。
両目に映る夜空に我に返ったフランシスは、傍目にも分かるほどに肩を落としていた。
「いつの間に夜になっていたんでしょうか……」
「門限、言われてるんだろう。僕も君のお父上と、君と節度ある付き合いをするって約束してるからね」
「何ですかそれ。私のいないところで」
少しも未練を見せないレイモンドに、フランシスはむっとして眉を上げる。
そもそも、そう、レイモンドは彼女の実家に寄っても、たびたび、父親と二人きりの会話に時間を費やしているのだ。
父親が彼を気に入っていることもあって、時には書斎でずっと話し込んでいることもある。
「お父上は君が大事なんだよ。
それにいくら貴族と庶民の垣根が低くなって伯爵が寛容だからって、うちみたいに祖父に嫌疑がかかった家との付き合いなんて、なかなか許可できるものじゃない」
「……やっぱり、私よりお父様と仲良いじゃないですか」
「それに将来検事になるには、約束は大事だからね」
フランシスも、レイモンドが昔から検事になりたいことは知っていたから、どうやって就職するかは調べた。
法律の大学院を出てから研修をして、人柄を見られ、清廉潔白の身でないと検察官に採用されないのだ。採用されなければ弁護士か裁判官の道を選ぶことになる。
父親に人事権など勿論ないが、警察、そして協力関係である検察から間接的に依頼を受ける身なのだ。悪い噂は避けたいだろう。
「タクシーを拾おうか」
「いえ。歩くのはどうでしょう」
「徒歩? ちょっとかかるよ。君も疲れているみたいだし」
「ではせめて馬車で……」
お世辞にも体力があるとは言えないうえに、治安と気を遣わせることを考えてしまえば、それは徒歩は無理だろう。
フランシスの頬は恥かしさに赤らむ。
そんなことは分かっている筈なのに提案して、断られてしまう浅はかさを――自分から休日を潰してしまったのに未練がましい自分を見られてしまった。
レイモンドが呼び止めた小さい箱型馬車に乗り込む。まだまだ車の利用は過渡期にある。警察の車両に採用されてきたのも最近で、この都市でも馬車は現役だ。
馬車の外の方が明るくて車内は見えにくいが、だらしない姿を晒しそうで、小窓のカーテンを引いてしまう。
「……今日も、話していたのは事件のことばかりでしたね。これって、節度ある交際といえるのでしょうか」
不純異性交遊ではないにせよ。父親の言う節度あるお付き合いと、恋人の会話に入るのかは分からない。今回は死体も流血もなかったが。
「いえ、そもそも、交際と言えるのかもあやしくて……済みません」
「大丈夫だよ」
そうは言っても、会いたくてもきっとこれからも事件を優先してしまう予感がある。だから見捨てられないかなと。
だからといって事件を放置するのも、ためらわれる。
レイモンドは余裕ありげに微笑むが、フランシスは自分の中に芽生えてしまった感情を、それがもたらす不安を、不安を抱く自分を、こうして二人きりになることで余計に自覚させられる。
洒落っ気のないズボンと革靴の爪先に目を落とした。
「最近私は、感情的になり過ぎです。レイモンド様が評価してくれたような、ブロードベント式指紋採取法を考えていた時の、過去の私では考えられないくらいに」
一度言葉を切って、思い切って言う。
「つかぬことを伺いますが、もし私がレイモンド様を研究より優先しだしたら、自分が研究の邪魔になるからって別れるつもりだったり……しませんか?」
思い切った割には、不安を吐露するフランシスの語尾は消え入りそうだった。
ゆらゆら揺れる爪先を見ていると、何秒か置いてレイモンドのいつも通りの声が耳に入った。
「もちろん邪魔はしたくないよ。君の研究が僕を救ってくれたから。それに君が学問について語っているときの表情が好きだからね」
「ほら、やっぱり。……いえ私も、どちらも好きなんです。だけど自分の中でもやもやしてしまって。
事件が目の前にあるのに残念だなんて学者を目指すものとして駄目じゃないかとか、期待を裏切るとか、でも……」
以前と変わってしまって、自分の感情に戸惑うことばかりだとフランシスは思う。
「……この一年間レイモンド様がいてくれたから、私は前よりもっといろいろなものが見えましたし、頑張ろうって思えているのも確かで」
「僕は結果として、君が研究できる環境を得られるならそれが最善だと思っている」
顔を上げれば、真剣な眼差しがフランシスを見つめていた。思わず鼻の奥がツンとして、「私の同意を得てからにしてください」と言いそうになった時、レイモンドが続けた。
「だから、僕が君に研究できる環境をあげたい。僕よりも、そんな環境を作れる男が出てこないように頑張ろうと思っているというのは駄目かな」
その言葉に、フランシスの涙腺の奥から涙が引っ込んだ。
頬は知らず知らずのうちに熱くなる。出会った一年前、彼女が婚約破棄をしたその場でも彼は同じことを言っていた。
「それにね、僕も似たようなものだよ。これからも多忙で君を放っておく日もあるかもしれないけど、今までも君は僕を手伝ってくれた。
夢を諦めたくないけど、君に割く時間を無駄だと思ったことはない。むしろ検事になりたい理由が増えた。
――だからこその節度だよ」
医学も法学も、見習い時代が他学部と比べて長い。
自立するまで隣にいたいなら、どうしてもフランシスの両親を納得させる必要がある。
「たとえば来年には隣国で、君が行きたいって言ってた国際犯罪学会がある。一般講演も沢山あるから、二人で行くならご両親の許可が……僕への信用が必要だね」
きっとそれぞれの師事する教授と共に参加したり、フランシスの父親に着いてくという方法もあるはずだ。
ただそれを彼が言い出したということは、二人きりで、旅行を兼ねてということなのだろう――そこまで思い至って、フランシスの頬にもっと分かりやすく赤みが差す。レイモンドにもきっとバレているだろう。
好きな講義だけ聞きたいとか、小回りが利くとかいう理由だけではないなら。
少なくとも一年後も、一緒にいたいと思ってくれているのだと思って。
「……で、では。その節度が何かについては、議論の余地があるのではないでしょうか」
「今それを聞くんだ。……僕を困らせたいの?」
「困らせたくないから困ってるんじゃないですか……。
今日はその……少しは……寂しかったんです。ですから……統計上多くの恋人が人前でしていることでしたら、両者の合意の形成が前提ですが、一般的に節度を守っていると思うので。……今までしたことだって」
言いながらフランシスは向かいに座るレイモンドの、少し余裕のある両脇のスペースに気付く。
詰めれば座れるかも。……もう少し近づくのは許されるんじゃないかと、ふと思った。それとも馬車でわざわざ隣に座るのは、節度がないのだろうか。
フランシスの視線に気付いたのかどうか、レイモンドの口元が微笑する。
「まあ、ご両親よりも、君の信用と同意を一番得たいのは確かだからね……ちょっとずるをする時でもね」
「……ずる」
自分で言っておきながら、自分の信条に反するのか躊躇いがちに彼は口を開く。
「馬車にちょっと遠回りするようにお願いしたりとか」
そこまで口にした時、石に車輪を乗り上げたらしい馬車が急にがくんと揺れた。疲れていたフランシスの身体は踏ん張れずに前方に投げ出される。
衝撃はなく――暖かいものに抱き止められる。
「……大丈夫?」
「はい」
頭の上、すぐ近くで声が響く。
すぐ離されると思ったのにそんなことはなく、フランシスの鼓動は早くなり始める。
手を繋ぐことはあったけれど、こうして抱きしめられるのは、付き合い始めたあの日以来だった。
「……不可抗力を続けるのも、ずるかな。……あと少しこうしていてもいい?」
「大丈夫です。これはちゃんと一般的な節度の範囲内だと思います」
揺れは収まったが、フランシスの指先がすがるようにジャケットを掴んだ。努めて冷静を保とうとするが、あんまり上手くいっていない気がする。
「はい、あの、ずるといえば……まだ皮膚上についた指紋を採取する方法は確立されていないんですよ」
「あのね、君は無自覚なんだろうけど……僕の我慢強さに感謝した方がいいと思うよ」
少し呆れたような、諭すような声。
それから一拍置いて、腕の力が強くなる。
「フランシス……と、今だけ呼んでも」
固くて真摯な声にフランシスは背を空いた手のひらでそっと辿り、はいと小さく頷く。
彼女の身分を、彼は色々慮ってくれている。人前では爵位を気にした呼び名ではあるが、伯爵家の出身であることは彼にとってたまたまで、優先順位が低いと、理解しているつもりだ。
「はい。……いえ、今だけでなくあの、今後もこういった、それにもう少し……恋人らしいことをするときは」
「それは、君の思う節度の意味を確認していいってことかな」
フランシスは、頬に触れた彼の細い指の、戸惑うような動きに自身の指をそっと重ねた。
指が絡んで目線が合えば、たまにしか見れない優しく緩む目元を間近でずっと見ていたい誘惑にかられる。
それからしばらくして同意を求める囁きに、どちらを優先すべきかほんの一瞬考えて――フランシスは瞼を閉じた。