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9・専属侍女ごっこ



「お似合いですよ、お嬢様」


 詰襟のシックな深緑のワンピースに白のエプロンというクレアのお仕着せを借りたイザベラは、長い髪を邪魔にならないようにと高い位置で結んだ。


 彼女よりもイザベラの方が背が高かったので、踝が出てしまわないようにと、ものの数分でレースとフリルを縫いつけてくれたのはついさっきほどのこと。


 お仕着せというにはかわいらしい装いとなっているが、お嬢様と呼ばれるような華やかさはない。


 これからは客人ではなく同僚で、むしろイザベラの方が後輩なのでへりくだらなくてはならない立場のはずなのに、クレアの態度ははじめから一貫してお嬢様扱いだ。


 そうだ、とイザベラは閃き、ジーンにもらった小さな黒板を取り出した。本ほどの大きさで、短い文章程度なら書いたり消したりできる優れものだ。細い円柱状の金属の先端にある白い石灰の塊で、こりこりとできるだけ簡潔に文字を書く。


『お嬢様ではありません』


 子供が書いたようにがたついているが、なんとか書ききれた。


「では、ベラ様と。これ以上の譲歩はいたしませんよ」


 そこの線引きは譲れないようなので、引き下がるしかない。


 なんだか子供のごっこ遊びのように思われていそうな気がする。


「ベラ様にはジーン様のお世話をお願いいたしますね。とはいえ、あの方は基本的にひとりでなんでもこなしてしまうので、先回りして行わなければなりません」


 食事の好みや習慣などを聞きながら、クレアに連れられてジーンの私室の扉の前に立つ。


「こちらがジーン様のお部屋です。入室するときはわたしと一緒のときのみでお願いしますね」


 警戒されているのかと視線を落とすと、クレアはなんと説明すればよいかと迷うように頰に手を当てた。


「……お忘れかもしれませんが、ベラ様は未婚の女性です。ディノはもちろんのこと、ここの主人とはいえジーン様とも、密室でふたりきりになるべきではありません」


 言われてみればその通りだ。病から目覚める前までは、イザベラにも常に侍女が張りついていたことを思い出した。まだそれほど前の話でもないのに、遠い昔のことのように朧げに感じる。


「あまり男性と接したことがないですか?」


 父のような間違いが起きないようにと、イザベラの周りからは徹底的に異性が排除されていた。祖父と父以外、男性とまともに会話したこともない。イザベラのよく知る男とは、ほぼ物語の登場人物だ。つまり創作物。素直にうなずくと、クレアは深々とため息をついた。


「よろしいですか、ベラ様。たいていの殿方は、羊の皮の下に狼を隠しているものです。見知らぬ男性の甘言には、ぜひお気をつけください」


 ほかの男性のことは知らないが、ジーンだけは違う気がする。イザベラが小首を傾げているとクレアをますます困らせてしまった。


「あの方の理性はそうそう揺らがないでしょうが……これまで抑えてきた反動で、思いもよらない行動を取らないとも限りませんし、誰がどのような嗜好を隠し持っているかなど、誰にもわからないのですよ」


 ノックをして入室すると、手の甲で口元を隠して笑いをこらえるディノと、執務机に頬杖をついて満面の笑みを浮かべたジーンが迎え入れてくれた。


「クレア? 誰が女に飢えた変態嗜好の獣だって?」


「あら、聞こえていましたか? 申し訳ございません。ですがこれも教育指導の一環なのです。行儀見習いとして向かった先で騙され、弄ばれる娘が少なからずいることをご理解ください。ベラ様にはもう少し異性に対する警戒心を持っていただくために、ジーン様には率先して犠牲になってくださいますよう」


 二度と体で払うなどと愚かなことを口走らないように、ときつく念押しされていたたまれない。まさか体で払うという意味に性的な奉仕をすることが含まれているとは思わなかったのだ。


(やっぱり本は最後まで読まないといけないのね……)


「実践として変態っぽく迫った方がいいかい?」


 揶揄うようにジーンは、ガオー、と爪をひらめかせて狼の真似をする。凄みがないので説得力に欠ける。隠しきれない愛嬌のせいで微笑ましいとさえ思う。


「こちらのジーン様の寝室へ繋がるドアです。誘われても決して入室しませんように」


 クレアがジーンをさらりと流してドアの方へ向かうのでイザベラは彼女とジーンを交互に見てからクレアに続いた。今滞在している客間よりも広いが、調度品はあまりない。寝台もすでに整えられているかのように寝乱れた様子がなかった。


 寝台横のサイドテーブルに、乾燥したラベンダーの花束と、栞の挟まれた本が一冊。きっちりと閉ざされたカーテンと窓を、クレアが開けて光と風を入れ込む。


 ほのかに林檎の香りがする涼やかな風が吹き抜けると、ジーンが追って来た。


「仕事熱心なのはいいことだけど、無視されるとちょっと切ない」


「ああして同情を引いて誘い込むのは悪い男の手口です」


「なんか今日はやけに男を敵視していないかい? ディノ、きみなにかした?」


 ジーンが振り返ると、ディノはなにかを思い起こすように視線を上げてから肩をすくめて首を振った。


「いいえ、彼女は元々あんな感じです。男が多い組織にいれば、嫌なことのひとつやふたつあったでしょう。彼女、見た目はおっとりとしていますから」


 男が多い組織とはどこのことだろうか。イザベラは疑問に思いつつも、今はそこに所属していないのだからいいかと頭の片隅に寄せておいた。クローゼットの中をクレアと見上げる。


「向かって左が普段着です。右が外出着。そのさらに奥がパーティーや夜会用の正装となっております。ですが人の多いところには好まれて行かないので、活躍の場は少ないのがもったいないですね」


 普段着は肌触りは上質だがシンプルなシャツ。落ち着いた色合いのベストと揃いのズボン、それに合わせた上着などが多い。カーディガンも数があるので、肌寒いときには羽織ったりするのだろう。


 こうして服だけを手にしてみると、思いのほか大きく手足が長いのだということがわかる。顔立ちだって整っているし、気安い雰囲気でなにより優しい。彼を好きにならない人などいないのではないだろうか。正装して夜会に行けば女性に囲まれることが容易に想像できた。


 もしジーンのような相手ならば、イザベラも無駄な抵抗をすることなく父に従い、それどころか喜んで結婚したことだろう。もちろんそんな恋物語のような幸運があるはずないことは重々承知している。


 もらってくれる奇特な人がいるだけでも感謝しないといけない。それがイザベラの立場。弁えている。エプロンをきゅっと握り込む。


「本当に残念です。軍の礼服などとてもお似合いでしたのに」


 思いがけない言葉に、一瞬で現実へと引き戻された。

 

(軍って……あの軍?)


 特に隠してもいなかったのか、ジーンはあっさりと認める。


「昔はね。自分と家族の安全を考えると、軍に所属するのがちょうどよかったから。今も籍はあるけど。仲間はいいやつが多かったな。まぁ、戦争になれば国のために戦うだろうけど……本音を言えば、争いは好きじゃない」


 彼は人に優しすぎるから。争って誰かが傷つくのが嫌なのだろう。


「だから国境あたりで揉めごとが起きないように監視して、なにか起きたら対処して回るのが今のお仕事」


『外交官?』


 こりこり書いて黒板を見せる。彼はその文字をさっと布で拭ってしまった。


「内緒」


 小さく囁き、もうこの話は終わりとばかりに、一着服を手に取り自分の体にあてがった。


「せっかくだからお着替えさせてみる?」


「ジーン様、お戯が過ぎますよ」


「僕の専属だろう? 可愛い女の子に着替えさせてもらえるなんて、男のロマンじゃないか」


 それを聞いていたディノが、胸元を押さえて悔しげに呻く。


「くっ……申し訳ありません。私が男なばかりに、愉しみを提供できず……」


「いや、ごめん。冗談だから」


「もちろんわかっております。ですが……そうですね。確かにジーン様のおっしゃる通り、一度くらいはお召し替えの練習をした方がいいかもしれません」


「だから冗談だって」


 そんなふたりの本気か冗談か判断のつかないやり取りを黙って見ていたクレアが、イザベラを気遣うように見やってから口を開いた。


「ディノの冗談はさておき、ジーン様のお体は少々、女性には刺激が強いと思うので、いい機会かもしれませんね。万が一なにかの拍子に目にしてしまうよりかは、今なら卒倒されてもわたしどもが控えておりますし」


 クレアがなにを危惧しているのかわからないが、ジーンの体には卒倒するようななにかがあるらしい。イザベラは無意識に自分の腹部に触れていた。体にある悍ましいもの。たいていは傷。


 軍にいたのなら、大小傷があるのは想像できる。さすがに卒倒はしないはず。


「見たくないものをあえて見させる。なんて残酷な教育だ。ベラも嫌なら嫌と意思表示をしないと、このふたりに遊ばれ続けるよ? このふたり、真面目な顔して揶揄ってくるから」


 それはふたりがジーンのことを揶揄わずにいられないくらいに愛情を持って接しているからではないだろうか。イザベラはいつもそばにいた侍女たちとですら、これほど気安い関係を築けたことはなかった。


 なにはともあれ、着替えの練習は必要だろう。イザベラはクレアにこくりとうなずいて見せた。クレアはディノに、ディノはジーンに、無言で意思を伝える。


 はぁ、と大きく嘆息して、ジーンは諦めたように両腕を軽く広げた。


「どうぞ? 煮るなり焼くなり、好きにしてくれ」


 イザベラはまず彼のベストのボタンをぷつぷつと外していく。思いのほか距離が近く、そわそわ落ち着かないが、なんとかすべて外し終えた。それから指示されるまま片腕ずつ抜き取っていこうとするが、何度かジーンの腕を捻りかけた。


「ぎこちなさが初々しくて、なんかすごい背徳感。こうして悪い大人ができ上がっていくのか……」


「ジーン様、お静かに」


「はいはい、わかったよ」


 頭上のやり取りが耳に入らないくらいに、人の服を脱がせるという作業が思った以上に難しいことを知った。腕は引っかかるし、服は伸びる、なにより静電気がいただけない。


 イザベラに仕えていた侍女たちの仕事は素晴らしかったのだと今さら気づき、なんの労いもなく父の手先だと苦々しく思っていたことを深く後悔した。彼女たちに嫌われていたのはきっと、自分の態度が悪かったのも理由だったのだ。


 どうにかベストを脱がせ終え、シャツのボタンに手をかける。ぷつ、ぷつ、と真ん中まで外したとき、イザベラの手首をジーンが掴んだ。


「本当に最後までする?」


 イザベラよりもジーンが気乗りしない様子で、もし彼が嫌だと思っているのならやめた方がいいかと、小首を傾げてシャツから手を離そうとしたが。


「いや、僕は結構楽しいけど……。怖くない?」


(怖い?)


 ジーン自身を怖いと思ったことなど一度もない。こんなに優しすぎる人もなかなかいない。


 再びボタンを外しはじめると、彼は諦めたようにイザベラの手首を離して、唆したディノとクレアに、ちょっと不貞腐れたような一瞥をした。


 ボタンできっちりと閉まっていたシャツが緩く開くと、鍛えられた腹筋がちらりと覗く。慌てて視線を引き剥がして、そそくさと腕を引き抜こうと、肩口を露わにした瞬間、ひゅっと息を呑んだ。声が出せていたら小さく悲鳴を上げていたかもしれない。


 彼の左肩には事前に想像していた通り、古傷があった。しかしイザベラの想定するどれよりも酷く、あまりにも痛々しい痕だった。それこそ、自分の傷など全然大したことがなかったのだと認識が丸ごと書き換えられるくらいの。


 普通に暮らしていたらできるはずのない裂傷の痕が、肩を掴むような形で広がっている。傷を受けたときにかなり抉られたのか、周囲よりもその部分はへこんで見え、皮膚の色も肌の色とは違った。


「……ほら。だから言ったのに」


 呆れ混じりのジーンの声が耳に入ってこないくらいに、動揺で視界が揺れる。彼の苦痛までもを想像してしまい、鼻の奥がつんとして呼吸が苦しくなった。


 痛かったなんてものではないだろう。これだけの傷だ、生死を彷徨ったに違いない。そっと指で触れると、ジーンの体がびくっと震える。痛かったのだろうかと不安げに見上げると、めずらしく本気で困惑したような顔がそこにあった。


「痛くはないよ。ずっと昔、子供の頃の傷だから。……たまに疼くときはあるけど」


 おずおず触れると、思ったよりもつるつるとしていた。諦めたのか、ジーンはされるがままだ。


「まさか触られるとは思っていなかった。気味が悪いだろうに」


 イザベラは少しだけ考えてから、静かに首を振る。これが見知らぬ誰かならば驚いたし、場合によっては恐怖を抱いたかもしれないが、ジーン相手にそれはない。全身優しさでできている彼が、恐怖の対象になることなどあり得ない。それで彼が損なわれることなどないのだから。


 完全にシャツを脱がせてしまうと、左肩以外にも数多の傷があらわになったが、それでも、一番酷いのはあの裂傷だった。


 子供の頃のものが治癒してこの状態なのならば、きっとこれ以上よくはならないのだろう。嫌がられないのをいいことに、もっとよくなりますようにと心で願いながら触れて、おまじないのようにそっと唇を寄せると、ジーンから「うわっ!」とうわずったような声が上がった。


 すぐに肩を掴まれて、引き剥がされる。


「それはまずいって。本気で無意識? え、誘われてる? あっぶな……理性持っていかれるかと思った」


 ジーンが動揺している。ふと視界に入ったディノとクレアは、笑いを堪えるような仕草でそれぞれ明後日の方向を向いていた。


 またなにか間違えたらしい。


 恋物語ではよく、王子様が、薔薇の棘で傷つけてしまったヒロインの指先を吸っていた。それに、動物は傷口を舐めて癒す。決しておかしなことではないはずなのに。


 その後、男の肌に口づけるのははしたないことで、それをしていいのは夫が相手のときのみだと、懇々と言い聞かされた。


 それなら舐めるのはいいのか問うと、ジーンが頭を抱えてしまったので、この知識は封印することとなった。



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