表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/27

8・はじめて触れた外の世界



 書庫もとい書斎は、窓すら本棚で半分埋まっていた。これはやはり書斎ではなく書庫だとイザベラは思う。


 本棚の詰め込みすぎで、内開きのドアを全開にすると本棚にぶつかる。どん、と派手な音がして、ジーンが「しまった」と顔を顰めた。


「どうしてもぶつけてしまうんだよね」


「ジーン様は記憶力がよろしいのに、こればかりは不思議なことですね」


 クレアがおっとりと頰に手を当てながら首を傾げると、ディノがドアと本棚の両方に傷がないかの確認をしながら言った。


「いっそ深層心理ではぶつけたいという欲求を持っているのかも知れませんよ」


「ああ、なるほど。そうかもしれない。太鼓のようないい音だから」


「納得しないでくださいね」


 軽口を交わしながら、ジーンはひとつきりしかない椅子をイザベラのために引いてくれたので目を丸くする。こういうときは身分の高い人から座るのではないだろうか。


(……わたしが座ってもいいのかしら)


 内心びくびくしながら顔色を窺うと、彼はにこりとしてうなずいて見せる。


「もちろん。きみがこのまま座るか、ひとまず僕が座って、膝にきみが座るかの、ふたつにひとつだ。ちなみに後者の場合、お互いいたたまれない気持ちになること必至だけどね」


 ジーンをクッションにするわけにはいかないので、イザベラは濃い飴色の木製の椅子へと腰を下ろした。


 そっと触れたなめらかな机の天板には、使いかけのインクと羽ペン、ペーパーウエイトなどが置かれていて、隅には封の開いた手紙がいくつか積まれていたが、ジーンがすぐにそれらを引き出しへと突っ込んだ。


 ちらっと目に入った宛名には、住所は書かれていたが、大事なものが欠けていた。名前だ。ジーンの名がないことを奇妙に思う。


 イザベラとて出す相手がいなくとも私信の書き方くらい教養として習っている。父に届くものならば、ルーゼット卿だったり、ルーゼット侯爵邸グラヴィス様、など、届ける相手が誰であるか記されているのが普通だ。


 差出人があえて、ここに誰が住んでいるのかを伏せているような書き方……。もしかしてジーンは、誰かにつけ狙われて、隠れているのだろうか。そういえば最初、ディノが襲撃があったのかと血相を変えていたし、クレアはこの屋敷をセーフティハウスと呼んでもいた。


 これまで疑問に思わなかったが、冷静になって考えると普通ではない……かもしれない。残念ながらイザベラの思う普通と世間の普通が一致しているとは限らないのだ。これまで習ったものがすべて間違っている可能性だってある。なにせ家族だと思っていた人は、赤の他人だったのだから。


 貴族同士の争いなどどこにでも存在し得るし、腹の探り合い、化かし合い、足の引っ張り合いなど、貴族社会においては日常茶飯事だと聞く。政敵に暗殺者を放つことだって、実は物語の中だけの話ではないのだ。そう考えるとルーゼット侯爵家が不用心なだけで、世間では名前を伏せるのが普通のことなのかもしれない。そう納得した。


 だがもし、ジーンが狙われていると仮定すると、見ず知らずのイザベラを招くのには、普通に人を招く以上の神経を使ったのではないか。そう思うと急に申し訳なくなった。怪しい者ではないと言いたいのに言えないもどかしさや葛藤、罪悪感などで胸が苦しくなる。


「……なにか落ち込むことがあった?」


 イザベラは弱みを見せないよう、あまり表情を表に出さないよう日頃から気をつけて生きてきたのに、ジーンはそれをあっけないほど簡単に見抜いてしまうので、少々自信をなくす。


 自分はそれほどわかりやすい顔をしているのだろうか。むしろつまらない辛気臭い顔ではないだろうか。窓ガラスに映る顔は相変わらず人形めいて見える。


 頰に触れてみるが、表情筋はぴくりともしなかった。


「顔? ……ああ、なるほど。確かに顔色はかなり読みにくい方だと思うよ」


 だったら、なぜ。そこまで正確に読み取れるのか。


「目の動きや仕草でなんとなく察しているだけで……いや、きみに問題があるわけでなく、僕が深読みしすぎるだけだ。ほら、これが画集」


 目の前に淡い色合いで描かれた海辺の街の風景画が差し出された。高台から見下ろした街の、ほんの刹那の光景が、そのまま切り取れたような絵に圧倒される。


(海……?)


 青くきらきらと光を反射するコバルトブルーの海を指でなぞる。知っているが見たことのないもののひとつだ。


「見たことない?」


 ない。なかった。


 ジーンはくすっと笑って記憶をたぐるように絵を眺めた。


「池とは別物だね。優雅で広大で、どこまでも続く水平線と空とのコントラストが最高。圧倒的な自然を前に、自分がちっぽけな存在だと打ちのめされるほどの畏怖もある。波があって、生き物みたいにざざんと鳴いては寄せては返し、独特の香りがして。あと、しょっぱい」


(え? しょっぱい? と、いうことは……)


「うん。興味本位で飲んだ。山の湧水が一番だと再認識したよ」


 これほど綺麗なのに、おいしくはないらしい。新事実だ。


 ジーンが次に開いたのは緑豊かで長閑な農村の風景だった。そのままパラパラと、各地の風景にひと言ずつ感想を添えながらめくっていく。


 はじめは感心しきりだったが、だんだん気づいてくることがある。


(もしかして……ここにある場所全てに行ったことが?)


「うん」


(うんって……)


 あっさり言うが、旅人でもない限りあちこち足を運ぶ理由も時間もないはずだ。商人ですら、商売に関係しない土地にまでわざわざ足を伸ばしたりはしない。


 イザベラの知らない地名が記されている絵もある。外国にも行ったことがあるのだろうか。


(外交官とかなのかしら……?)


 詮索しないように、画集へと静かに視線を戻す。


「画集ではないけど、これなんかもお気に入り」


 ジーンが持ってきたのは大きさの違ういくつもの紙の束。くるりと巻かれて紐で縛られていたそれを解いていくと、たくさんの絵が現れた。イザベラの知らない街並み、知らない人たち、知らない世界――。


 画集のようなはっと目を引く美しさはないが、人々の暮らしをありのままに描いた、あたたかみのある絵ばかりだった。


 イザベラの心がにわかに浮き立つ。行ったことのない場所なのに、なぜか懐かしさすら覚える絵もあった。


 もしかして彼が描いたのだろうか。


「そうだったらいいんだけど、あいにく絵にそこまでの才能はないかな。これは画家志望の青年や絵の心得があるお爺さんまで、その土地土地の人たちに依頼して描いてもらったんだ。いい小遣い稼ぎになるってみんな快く引き受けてくれたよ」


 だからかと腑に落ちた。その土地で暮らす者だからこそ表現できる、故郷に対する愛着のようなものを感じる。愛はわからなくても、愛着くらいなら、なんとなく理解できる。


「ああ、これもいいね。女性の絵だからかな、柔らかくて愛情が感じられる」


 ジーンが選び抜いて見せてくれたのは、優しいタッチで描かれた港街の風景画だった。


 道端にさりげなく咲いた花や、塀の上で寝そべる野良猫……。風景画なのだが、街の片隅に添えられている小さな生き物たちにこそ、焦点が当てられているような気がした。


 素敵な絵だ。


 だからこそ、色がないことだけが、少しもの寂しい。


 それを察したのか、ジーンもイザベラと似たような感情を見せながらその一枚を手に取った。


「いろんな後悔でね、ある日突然世界から色がなくなってしまったらしい。だから灰色の世界しか描けないと言っていたかな」


(後悔……)


「絶対手を離してはいけない人の手を離してしまった、って」


 恋人だろうか。


 だけど生きていれば、生きてさえいれば、また会えるかもしれない。


 素敵な絵なのだ。いつか色のついた絵を見てみたいと思う。


「……もしかしてベラは旅に興味がある?」


 視線を彷徨わせてから、わからないふりをした。


 嘘だ。本当は自分の目で、この広い世界を見てみたい。


 それが叶わぬ願いだと、わかっていても……。


「それなら、今度一緒に行く?」


 散歩の誘いくらい軽いノリで問いかけられたせいか、深く考えずうなずきかけたところで頭が静止する。そのまま顔の向きを変えて真意を探るように彼を見つめる。


(冗談……?)


「きみがそう思うのなら、そうなのかもしれないね」


 考えても言葉の意味がわからず、戸惑っている間に書斎にまでふんわりとあまい香りが漂って来た。


「そろそろ焼き上がる。行こうか」


 


 光の降り注ぐ中庭は、屋敷正面の庭と違って憩いの場にふさわしい様相をしていた。広さはさほどないが野原のように名もなき小さな花が一面に咲いている。東家と魚が二匹だけの人口の池、そして中央には林檎の大きな木があり、その木の根本に布を敷いて焼き菓子やほかにも軽食が詰まったバスケットを置かれた。


 ちちっ、と鳥の鳴く声がして、上を見上げる。青々と茂る葉の切間に、ちらりと作りかけの鳥の巣が見えた。


「ベラ、早く! 刻一刻と萎んでいく!」


 急かされて、イザベラはジーンがばしばしと叩いていた場所に腰を下ろすと、ソーサーに乗せたココット皿を手渡された。それは確かに、厨房で粉砂糖を振りかけたときよりも小さくなっていた。


「はい、スプーン。さあ、ディノとクレアもどうぞ味見を」


 ディノはスプーンを受け取りながら、ぼつりと心情を吐露した。


「毒見にならなければよいのですが……」


「クレアがいるから軽い腹痛くらいなら平気じゃないか?」


 ふたりのやり取りを聞きながら、イザベラはスプーンで掬って口に入れた。ふわふわした食感に驚いている間にしゅわりと溶けて消えてしまう。目をぱちくりとさせて、もうひと口掬った。あまくて、優しくて、不思議な味。ほかの誰のものでもない、ジーンがイザベラのために作ってくれたものだ。


(お姫様にではなく、わたしに……)


 顔を覗き込むようにして、ジーンが感想を待っている。


「どうかな? 素人なりによくできたと思わない?」


(……おいしい)


 なぜか胸が詰まってうなずくこともできなかった。ここに彼らと一緒にいるはずなのに、自分はまだ五歳のままで、意識だけが違う場所からこちらを見つめているような、奇妙な錯覚に陥った。


 遠くから呆然と、うらやましそうに、こちらを見つめている幼い瞳と目が合う。泣きそうに、顔を歪ませた自分――イザベラ。


 どちらが本当の自分なのかわからなくなる。もしかするとこれはすべて夢で、自分はまだ五歳のままなのだろうか。


 境界線が曖昧になる。今が、自分が、わからない。心が闇に囚われかけたとき、誰かの手に両頬を包まれ、思い切りぐいっと引き寄せられた。その勢いに、手からスプーンがこぼれ落ちる。


 ぱちりと瞬いた。ジーンの強張った瞳の中に、蒼白になったイザベラが映っていた。自分の、今の自分の姿。唯一の価値さえを失い逃げてきたイザベラ――ベラ。


 唐突に我に返った。吐息が触れそうなほど近くにあるジーンの顔に驚いた。薄茶色だと思っていた瞳は、本当は琥珀色だったのだと知った。


「はぁーー……よかった」と、囁くようにつぶやいて、ふにっと頬を摘まれる。「こんなにいい男を前に、よそ見なんていけない子だな」


 芝居がかった口調で言いながら、ジーンはイザベラの頰からぱっと手を離した。視野が広がり、今の惨状を目にして、別の意味で蒼白になる。


(わ、たし……ああっ、なんてことを!)


 手にしていたはずのココット皿が倒れている。スプーンもどこかへ飛んでいってしまっていた。叱られると萎縮していると、ジーンの手が伸びてきて、咄嗟にきゅっと目をつむると、一瞬怯んだその手が、宙を彷徨ってから、ぼんっと頭に置かれた。


(え……?)


 ぽん、ぽん。頭でジーンの手が軽く弾む。泣いている子を慰めるための仕草だと知ってはいるが、されたことがないのでどう反応していいかわからない。


 戸惑っている間も、ぽんぽんとその手が跳ね続ける。


「すぐには信用できないと思うけど、すべての人がきみの敵じゃない」


(……)


「かと言って味方であるとも限らないのが、難しいところだが」


 弾んでいた手のひらが、いつの間にか髪を滑り下りて肩に乗せられていた。


「だけど少なくとも、きみがここにいる間は、僕が保護者だ」


(保護、者……?)


「ここはタウンハウスじゃなくてセーフティハウス。世間の目を逃れて束の間羽根を休める場所。貴族らしくなくてもいい、そのことを後ろめたく思う必要もない。つまらないことでめくじらを立てたりしないし、帰りたくないのなら、ずっとここにいてもいい。僕がいなくても自由に過ごしていて構わない。だから、つまり、なにを言いたいかと言うと……」


 ジーンは一度咳払いをしてから言った。


「そんな風に、怯えないでほしい」


(……え?)


 ジーンはさっきのイザベラの反応を思いのほか気にしているようだった。彼を恐れたのではない。おかしいかもしれないが、彼を怖いと思ったことなんて一度もない。それを伝えなければと思うのに、未だ声は行方不明で、マナーも教養も知性すら反旗を翻して出てこない。


 どうしようもなく泣きそうな気持ちで、彼の手を取った。その手のひらに、子供みたいに思ったことだけを思ったままに指で書いた。


『あなたは、怖くない。わたしが出会った人の中で、一番いい人だと思っています。いい男だとも思います』


 文字を綴る指先をしっかりと見ていたのか、くすりと笑ったディノが便乗する。


「確かにジーン様はいい男です」


 さらにはクレアも。


「ええ、ジーン様はとてもいい男です」


「そこ引っ張る? きみたちなかなか意地悪だな」


 男前です、紳士の鑑、などと散々持ち上げられて、少し拗ねた横顔は子供っぽく見えた。


 帰りたくないのならずっとここにいてもいい。そんなこと可能なのかわからない。だけど、このまま好意にあまえたままではいけないとは思う。帰りたくはないが、泊めてもらう代わりの対価は必要だ。


 イザベラは躊躇って、でも、ジーンの袖をしっかりと掴んで、書いた。


『ここに置いてもらう代わりに、ここで働かせていただけませんか?』


 古今東西、労働は対価の定番だ。


 この場所では貴族でなくていいのなら、働いてもいいはずだ。


『体で払います』


「……は?」


 たぶんなにかを決定的に間違えたことはわかったが、彼の呆けた顔は、なかなかに見ものだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ