7・焼き菓子作りの見学
「ジーン様、お嬢様が置いて行かれていますよ」
「やっぱり強引すぎた? 実はお礼って言うのは建前で、身につけたばかりの焼き菓子の腕前を誰かに披露したくて、ひそかに機会を窺っていたんだよね」
作業台で意気揚々とシャツを腕まくりをするジーンを、イザベラはなぜか用意されていた椅子に座って見学していた。
服の上からではまったくわからなかったが、こうして見ると腕にはしっかりと筋肉がついていて、筋張って固そうだった。父や祖父のものとは全然違うことは体を支えられたときに気がついていたが、優男風の顔立ちと気さくな雰囲気とはまた違う一面に、少なからず驚いた。
なにより、腕には古い傷痕がうっすらとだがいくつも残されている。どう見ても普通に生活してできた傷ではない。ますますこのジーンという青年貴族が何者なのかわからなくなった。
「ちょっと前に辺境の街でおいしい焼き菓子を見つけて、お土産に持って帰ろうとしたんだけど、残念ながら日持ちしないと言うじゃないか。だから代わりに作り方を教えてもらったんだ」
鼻歌でも歌いそうに陽気なジーンに、ディノが調理器具を準備しながら苦笑する。
「普通、レシピなど気軽に教えてはもらえないはずですが」
「それを難なく成し遂げてしまうのがジーン様なのでしょうね」
クレアは粉やバターなどジーンに指示された通りに材料を用意し、黒いエプロンを着るジーンの腰ひもを、コルセットのようにぎゅっと結んだ。
「うっ、ちょっと苦しい」
「ずり落ちるといけません。我慢してください。衣類を汚さないためのものですから」
「わ、わかったよ。……まずは」
メモもないのに、ジーンは手際よく分けたり混ぜたり焼いたりしていく。クリーム色のどろどろが、焼くとふわふわになるらしいが、実際目にしないと信じられないくらいに見た目が酷い。
イザベラにとって料理とはすでにできあがったものを食べるだけのものであり、作られる過程を見たことなど一度もない。しかし本からの知識ならばあるので、あの表現はこういう意味だったのかと照らし合わせる作業はおもしろかった。
粉を振るうというのは粉をぶんぶん振り回すことではなく、細かい網目のついた器具で粉の塊をなくすことだったし、卵の透明の部分をひたすら混ぜるとふわふわのメレンゲになることも驚いた。
やってみる? と混ぜる工程を体験させてもらったが、数回かき混ぜただけで腕の筋肉が悲鳴を上げた。あんなに速く混ぜるには、ジーンのような筋肉が必要らしい。
しかし労働者には筋力や体力が必要かもしれないが、貴族に筋肉は必要ないと思う。
頬に粉がついていたので指摘すると、彼は手で拭ってさらに粉の範囲を広げていた。拭うたびどんどん顔が白くなっていくのがおかしい。
ジーンは数度瞬いてから、ディノに手渡された濡れたハンカチで顔を拭きながら、茶目っ気たっぷりにウインクする。
「これもお菓子作りの醍醐味だよ。それに、白粉を塗りたくるよりもチャーミングじゃないか」
「自分で言いますか」
呆れたディノにハンカチを突き返して、ジーンはイザベラへと冗談めかせて問いかける。
「貴族がお菓子を作れても意味がないと思った?」
図星を指されて答えに窮する。
せっかく身につけても生かす場所がないのではと思っただけで、見苦しいとか貴族らしくないと非難しているわけではないのだ。
「なにがどこで生きてくるかわからないのが世の中だよ。知識なり、力なり。備えあれば憂なし。どこかの国の諺にもある」
(知識ならば……理解できる。権力も)
だが力は必要だろうか。荷物が重たければ、使用人に持ってもらうのが貴族だと教え込まれている。
イザベラは誰かに持ってもらうほどの荷物すらも持ったことがなかった。自分で好んで買うものと言えば本くらいで、それだってお抱えの商人が直接屋敷に持って来るものだ。そしてその多くは、父によって取り上げられた。
「いやいや。ある程度力は必要だよ」
(……本当に?)
「疑っているな? 確か最近流行の恋物語の中で、新婚初夜に夫が妻を抱き上げて寝室まで運ぶ描写があって、巷でちょっと流行ったはずだ。さすがに自分の妻を、荷物みたいに使用人に運ばせるわけにもいかないだろう? そんなことをされたら、新妻だって幻滅だ」
イザベラは父に取り上げられた本の中に似たような描写があったことを思い出した。あのときは特になんとも思わなかったのに、ジーンに言われると説得力の差なのか、そんな気がしてくるから不思議だった。
つい、自分がジーンの逞しい腕に抱えられて運ばれる姿を想像してしまって反省する。
(わたしったら、なんて失礼なことを……)
身近にいる人で想像するのなら、目の前のディノとクレアで想像すればよかったのに。なんておこがましい。羞恥に顔が赤くなっていなければいいと思いながら、視線を逸らして頬に触れた。
少しの沈黙に気まずくなりジーンを窺うと、彼はちょっと困った顔をしてイザベラを見ていた。
「……ごめんね? いきなり初夜の話なんかして。女性に対して少し配慮が欠けていた。恋人が怪我をしたときに抱き上げて運ぶとか、暴漢から婚約者を守って戦うとか、ほかの話から例を出せばよかったのに」
(そういうわけでは……!)
大慌てで否定する。両手で本を開く仕草をして、こくこくうなずく。
「読んだことがあった?」
こくり。少し、と親指と人差し指で隙間を作る。
「途中まで? それなら最後まで読んだ方がいいよ。前半はよくある恋愛小説の流れに沿った内容だけど、後半意外な展開が続くから。うちにもあったんじゃなかったかな? クレア?」
「ございますよ。後ほどお待ちいたしましょう」
これだけ勧められて断るのも申し訳ないので後で借りることにした。確かに最後の最後で思いがけないオチがついている物語もあると聞く。そうなると父に取り上げられてきた本の結末も意外なものがあったのかと気になってくる。
これから先、読む機会があるだろうかと考えて、すぐに、そんなことを考えてしまった自分の愚かさに自嘲した。
優雅に本を読んでいる余裕などきっとない。
自分はもう、貴族令嬢に戻ることはできないのだ。
これまでずっと、決められた道筋を歩くだけだった。それは確かに正しく安全な道だったのだろう。
だけど自分からその道を踏み出した。
横道に逸れてしまった今、先のことはなにも見えない。それでも、真っ暗闇でないだけ充分だ。
「もしかして本が好き? 最近は規制も緩くなって、恋物語もたくさん出版されていると聞くからね。ベラもやっぱり、恋愛ものが好き?」
恋物語に限らず、たぶん物語全般が好きだった。現実逃避できる唯一の方法であり、知識の宝庫でもあった。本を読んでいる間はその世界に浸かっていられる。現実を忘れていられる。
好きか嫌いかと聞かれれば、好きな方だと思う。だけど主人公の感情が理解できるかと問われたら否だ。ジーンはどうなのだろうか。
「展開次第かなぁ。王道系だと、女の子の理想は高いな、と思う。ひとりの女性を巡って男たちが決闘する場面とか、自分だったら一歩引いてしまうだろうな、とか。……まぁ、誰ともつき合ったことがないから、なんとも言えないけども」
(……え?)
素直に驚いた。彼ならば望めばいくらでも恋人ができるのに。
(恋人を作る気はない、ということかしら?)
きっとそうなのだ。つき合ったことがない、というより、つき合う気がないのだろう。
「きみは? 恋人や、好きな人とか、いたりする?」
そんな酔狂な人はいない。それにこれまでの人生で身内だと思っていた人たちを除くと、一番長く接した異性はジーンに違いない。それくらい、免疫がない。
いない、と首を振って伝えると、彼はお揃いだねと笑った。
話しながらジーンはどろどろを入れたココット皿を焼き釜に入れると、ひと息ついてミトンを外す。
「ああ、そうだ。うちの書庫でよければ、自由に使っていいよ」
(書庫……)
素敵な響きだった。
「書庫というほど立派なものではないただの書斎だけど、それなりに蔵書はあるんじゃないかな。実家に比べれば全然だけど……画集はうちの方が多いかもしれない」
(画集?)
「あまり見たことがない? じゃあ、焼き上がるまで書斎で暇を潰そうか。お茶会はやめて、画集を開いて旅行気分に浸りながらピクニックでもしよう」
ピクニック。
その言葉で、五歳の頃に見た父とお姫様の光景が過ぎり、ぎくりとした。
ずっと、何度も何度も、繰り返し夢に見た。
楽しげで、幸せそうで。
うらやましかった。
どうして自分はそこにいないのだろうと、悲しくなった。
期待しないと身を守りながらも、本当は愛されたかったのだ。――父に。
それももはや遠い遠い過去のこと。
愛されない理由を知り、納得した。たぶん折り合いがついたのだ。
もう二度と、心の中でも父の愛を求めないだろう。
それでも、これまで傷ついた自分が報われないことが悲しい。
「ベーラ?」
顔の前で手を振られ、短い幻影が消えてジーンの顔が目に映った。あのときのお姫様のように、こちらに笑いかけてくれる人がいることを不思議に思う。
そういえば彼ははじめから、イザベラに笑顔を向けてくれていた。
この人が優しいのは、きっと家族に大切にされて育ってきた、たくさん愛情を知っている人だからだろう。
だからイザベラにもその優しさを分けてくれる。
こんななんの価値のないイザベラにも。
「行こう」
差し出された手に束の間逡巡した。この手を握ったら、二度と離したくなくなる気がして、少し怖くなった。
でも。
まだ粉の残るその手を握る。
なぜだろう。この手を掴んでさえいれば、どこへでも行けるような気がした。