4・絶望、希望、そして逃亡
起きて最初にイザベラに待ち受けていたのは、祖父からの殴打だった。
「この役立たずが!」
寝たままのイザベラは抵抗もできずに殴られて、身を守るために腕で体を庇うと、父が慌てた様子で止めに入った。
「目覚めたばかりの子に、なんてことをするんだ! あなたはそれでも人間か!」
父が激昂する祖父を力ずくで部屋から追い出した。だが夢現つに父の独白を聞いていたせいか、なんの感動も感慨もなかった。
ぐるりと部屋を見渡す。デビュタント用のドレスが斜めに引き裂かれているのが見えたが、やはりなにも感じなかった。
「大丈夫か?」
父に問われるが、質問が漠然としていて答えられなかった。なにが大丈夫だと言うのか。病のことなのか。祖父に殴られたことか。ドレスのことなのか。それとも父に――父だと思っていた人に、心を折られたことなのか。
イザベラが答えずにいると、父は顔を顰めた。
「あのやぶ医者め、麻酔だと言って変な薬を使っていたが、そのせいでおかしくなったんじゃないだろうな……」
ぼんやりとして反応らしい反応を示さないイザベラに、噛み砕くようになにがあったのか説明しはじめた。
「いいか、おまえは部屋で意識を失って倒れたんだ。すぐに医者を呼んだが、治すには腹を切らないといけない、一刻を争うと言われて、仕方なく了承した。そして一命は取り留めたが、おまえの腹には悍ましい傷がある。あの人はそれが気に入らないんだ」
最近抱えていたあの痛みはなくなっているが、別の痛みがその上に存在している。しかし理由もわからない痛みより、お腹を切られたことによる明確な痛みの方がまだ安心感がある。傷さえ癒えたら痛みはなくなるのだ。違和感は残ったとしても。
「私は傷があるくらいでおまえを捨てたりはしない。この家に必要な人間だ。今はゆっくり治すことだけを考えろ」
ああ、白々しい。
必要だと思っているのは父だけではないか。
祖父はもうイザベラに見向きもしないだろう。それが正しい。だってイザベラは赤の他人なのだから。
それでもここで生きていかなければならない。
はい、と言おうとして、口を開く。
「っ、……、……っ!?」
イザベラは目を見開いた。喉元を手で触れ、もう一度はいと言おうと息を吸う、が。
声が、出ない。
(出し方がわからない……?)
必死に声を絞り出そうとするイザベラに、父が愕然としながらみるみる蒼白となっていく。
「おい、どうした……? 喉がおかしいのか……?」
はい、その一言が声にならない。たったそれだけの言葉なのに、口の形は作れるのに、息は吐き出せるのに、意味のない音はもれるのに、言葉が形作れずに息を呑む。
なぜ。
どうして。
焦燥に駆られて必死に声を出そう試みるが、ますます発声の仕方がわからなくなっていく。
そんなイザベラの様子に父は大きく目を見開き、わななきながらも正解を導き出した。
「もしかして、話せない、のか……?」
父の白かった顔が、怒りに赤く染まっていく。
「――ッ、あのやぶ医者め!!」
激昂した父が乱暴にドアを押し開け飛び出して行く。
待って、行かないで。そばにいて!
(お父様――!!)
その切実な懇願は、父の背には届かなかった。
どれくらいそうしていただろう、閉ざされた扉へと伸ばした手を静かに下ろす。
とうとう本当の人形になってしまったイザベラには、自嘲することすらできなかった。
すぐに引きずられるようにして連れて来られた医者が精神的なものと診断したが、当然父は納得しなかった。治療が失敗したのだと決めつけ、医者を屋敷から叩き出した。
幸いなのか、医者が経過観察せずとも自然の治癒力で傷口は塞がり、少しずつ元の生活ができるようになっていく。
人とはなんてしぶとい生き物なのだろう。
食べられるようになって、動けるようになって。
それでも決して、戻らないものもあった。
なんとかひとりで歩けるようになった頃、祖父から離れへと移るよう命令が下った。
その頃にはもう、父も顔を見せなくなっていた。
離れでの生活はひとりきりで単調だった。なにをするでもなく、日のほとんどを寝台で過ごしている。
朝と夕に本邸から派遣されてくる使用人が食事を持ってくるので、完全に見捨てられてはいないようだった。
まだどこかへと嫁がせる気はあるらしい。貰い手が見つかるまでは、養うつもりなのだろう。
体に傷があり、口まで利けない女に、まずまともな相手は見つからない。探しているのは嫁ぎ先ではなく、つまるところ売却先だった。
いや、父はまだ諦めていないかもしれない。ようは子供さえ産めればいいのだ。
この離れで、子供を産むためだけに生かされ続けるのかもしれない。
想像して、途方もない恐怖に震えた。
毎日毎日、見知らぬ男たちが入って来るのではと恐怖で怯え、日が昇るとようやく安堵の息をつく。その繰り返し。
明かりのない部屋で、いつものように寝台でまんじりともせずにいると。
ふいに視界の端を白いものがよぎった気がした。
まさか、幽霊だろうか。
震えながらぐるりと室内を見渡すと――いた。
「ちゅう」
イザベラはそれを見つけて、こぼれるほどに目を見開いた。幽霊ではない。あれは……。
(……ねずみ?)
どこから入って来たのか、真っ白のはつかねずみが、さもはじめから置かれていたかのような顔をして、テーブルに載っている。
首にリボンが巻かれているが、どこかのペットが逃げて来てしまったのだろうか。
窓からやんわりと差し込む月明かりを浴びて、テーブルの花瓶の花を見上げている様は幻想的だ。まるで絵本の一ページみたいで……と思ったところで、ここが離れなことを思い出してなんとも言えない気持ちになった。
離れのお姫様はもういない。お姫様は本当のお姫様になり、離れはただの離れになった。予備の備品が持ち出された今、壊れたがらくたを詰め込んでおくだけの物置小屋に過ぎなかった。
ねずみは後ろ足で立ち上がったまま、つい、と花を見上げ、鼻をひくつかせる。それは茎を切ってからもとても長持ちする花らしく、公爵家の令嬢が髪に直接編み込んだ髪型を夜会で披露して以来、貴族の間で大流行しているというものだった。このねずみも、香水いらずとも言われるそのあまい香りに誘われて来たのかもしれない。
驚いて逃げてしまわないように、イザベラは近づくことなく観察する。
(あなたは、迷子?)
心の中で問いかけると、花を一心に見つめていたねずみがこちらを向いた。まるでイザベラへと返事をするかのように、ちゅうと鳴く。
(もしかして、心が読めるの?)
それにはなにも答えず、こちらを見つめながらゆらゆらとひげを揺らしているだけだ。
非現実的な光景に囚われかけていたが、冷静になるとだんだん恥ずかしさが込み上げて来た。
(そう、よね……、ねずみが人の言葉を理解するなんて、あり得ないのに)
だけどペットならば、人にも馴れているだろうし、言葉を理解するまではいかなくても、こちらの気持ちくらいは伝わるかもしれない。
ふと思い立ち、サイドテーブルの引き出しからクッキーの包みを取り出した。おそらくハルベリーのものだろうが、きっと彼女はもうここへは戻って来ない。食べ物をこのまま放置してだめにするよりは、ねずみの餌づけに使った方が有効的だろう。
包みをかさかささせると、耳をぴくりとさせたねずみが、テーブルから降りて特に警戒することもなく寝台に登って来た。やはり人馴れしている。
イザベラがおずおずとクッキーを差し出すと、ねずみはそれを器用に持ち、さくりと齧る。
(食べた……!)
このまま触ってみてもいいのだろうか。ペットを飼ったことのないイザベラにとって、動物との触れ合い自体はじめての経験だ。勝手がわからない。手をうろうろさせていると、ねずみのリボンの裏地になにか文字が書いていることに気がついた。
(ねずみさん、ちょっとリボンを見せてもらってもいいかしら?)
ねずみはちらりとこちらを見たが、またクッキーを齧ることに集中する。許可を得たということにして、リボンの端を摘み裏返す。そこには、『マーティン/ロシェット伯爵家』とやや拙い文字が刺繍されていた。
(マーティン……?)
文面を見た感じだと、ロシェット伯爵が飼っているマーティンという名前のはつかねずみ、ということらしい。
王都にある伯爵邸となると、三十〜三十五地区あたりだ。こうしてペットが逃げ出して来ているのだから、きっと歩いて行けない距離でもないのだろう。伯爵とは直接面識はないが、大きなかわいい犬を飼っている大変な愛犬家だということは有名なので知っている。動物全般好きなのだろう。マーティンが迷子ならば、早く家に帰してあげないと。伯爵家の人たちも心配しているに違いない。
(連れて行ってあげたいけれど……)
今のイザベラが離れから出たいと言ったところで許されるはずもない。こっそり忍び出てもし見つかりでもしたら、逃げたと思われて、離れに見張りを置かれて今以上に窮屈な生活を強いられることが想像に易い。
そして売られるのだ。物のように。
だけどイザベラが物でなかったときがあっただろうか。
壊れているかいないかの違いしかない。
結局自分はなんのために生まれて、なんのために生きてきたのだろう。
こうなるとわかっていたら、父が叫んでいたように、父と母の政略結婚自体が無駄だったと言わざるを得なかった。祖父がはじめからハルベリーを認めてさえいれば、イザベラが生まれることもなかったし、こんな惨めな思いをせずに済んだ。父だって、もっと幸せになれたはずなのに。
生まれたことを両親に喜ばれることもなく、使い道がなくなったら厄介払いのように追い出され、そこから先の生活の保証などなにもないのに身ひとつで向かわなくてはならないのだ。
イザベラが生きていても死んでいても、もはや誰も気に留めない。
こんなことならば、目覚めるのではなかった。
あのとき病で死んでいたかった。
そうしたらなにも知らずに済んだのに。
父を、本当の父だと思ったまま死ねたのに――。
「ちゅう」
ねずみが鳴き、我に返る。鬱屈していた気持ちがねずみによって束の間取り払われる。ペットが癒しを与えるとは、こういうことなのだろうか。
クッキーの催促の声だと思ったが、ねずみは背を向け窓の桟に飛び乗った。一度こちらを振り返り、不思議そうに小首を傾げる。
(帰るの……?)
ねずみはなにも言わずに、こちらに顔を向けたまま佇んでいる。
(もしかして、一緒に行こうって、言っている……の?)
ここは一階なので、窓から外に出てもすぐ庭だ。本邸からは距離があるので、この時間ならば出歩いていようと夜の帳が隠してくれる。裏口から、いや、こうしてねずみが侵入できているのだから、探せば人目につかない抜け道があるのかもしれない。
……このままついて行っても、いいのだろうか。
逡巡は一瞬ではなかった。だけど根気強くマーティンは待っていた。
不安はある。
下手すれば簡単に人攫いに捕まるだろう。声も出せないからきっと助けを呼ぶことも叶わない。おもちゃのようになぶられて尊厳を奪われて最後には殺されるかもしれない。生かされたとしても、死ぬよりつらい目に遭わされて、いらなくなったら外国に売り飛ばされるかもしれない。
と、そこまで残酷な未来を考えて、その結末が今とさほど変わらないことに気づいてしまった。イザベラを売るのが祖父か、人攫いかの違いだけだ。
(そう……ここにいても、外に出ても、結果はおんなじなのね……)
だけど自分で選んだ結果後悔したとしても、自分で選ばず後悔するよりよほど人間らしいのではないか。
真っ白なはつかねずみを見る。その小さな生き物の大きさだけ、イザベラの中に光が灯ったように思えた。
イザベラはこれまで、丁寧に舗装された道を誘導されて歩いていた。その生き方しか知らないし、それ以外の道を想像するだけで恐くて震える。
だけどもう、前も後ろも絶望しかない。はじめから希望なんてものは存在しなかった。
きっとこれが最後の機会。自分で未来を選ぶことのできる、最初で最後の。
(……逃げ、ないと……)
逃げなければ。
この場所から、逃げ出さなければ。
小さなポシェットに、急いで換金できそうなアクセサリーやお菓子を詰め込んだ。
靴を引っ張り出してきて、足に履く。少し小さいが、履けないことはない。窓を開け放ち、窓枠に足をかけると、飛んだ。草の伸び切った庭へと。
傷口がずくんと痛む。でも、転ぶことなく着地した。
それだけでなにか成し遂げたように、自然と顔が前を向く。
マーティンが腕を伝って肩に乗り、ちゅう、と鳴いた。まるで出発の合図のように。
そうしてイザベラは、生まれてはじめて、自分の足で一歩踏み出した。
もう後ろを振り返ることはなかった。