27・エピローグ
「準備できた?」
しばらくお世話になった部屋をちょうど片付け終えたところで、ジーンがひょいっと顔を覗かせた。
元々纏めるような荷物もないので作業もあっという間に終わったほどだ。ジーンがくれた服を、持っていけるだけ鞄に詰め、必要のないドレスはクローゼットに置いていく予定になっている。
「……不安じゃない?」
もちろん不安もある。だけどそれ以上に楽しみなことの多さと言ったら。
旅をするなんて、ずっと叶わない夢だと思っていた。夢見ることすら難しかったのに、今こうして、イザベラは、出立の準備をしている。
これが夢だったらどうしようと、朝から何度も摘んでいたせいで赤味が引かなくなってしまった両頬に、とうとう我慢できなくなったらしいジーンが、ふはっと噴き出した。
「ははっ、そのりんごほっぺ! どうやったらそんな真っ赤になるんだ?」
笑うジーンから隠すように両手で頰を包み込んだ。もはや少し触るだけで皮膚がひりひりとして痛いので、これが現実なことは間違いなかった。
イザベラは元々着の身着のまま出て来た身なので持ち物はないに等しいが、ジーンの方は荷造りか終わったのだろうか。
未だ笑いが尾を引く彼は、笑みを噛み殺しながら、イザベラの疑問に答える。
「荷物は少ない方が身軽だろう? 必要なものはその都度手に入れればいいし……まぁ、なにも持たずに家を飛び出して来たきみには敵わないかもしれないけども?」
揶揄われているのはわかるので、むっとした反応をして彼をさらに楽しませたいと思うのだが、どうしても嬉しさが優ってしまう。
ジーンに構われるロシェット伯爵が、実はかなりうらやましかった。あんな気の置けない関係になるまでどれだけ時を重ねればいいのだろうか。
「え、クロードに嫉妬したの? あはは、それを教えたらものすごくげんなりされそうだ」
嫉妬なのかはわからないが、ロシェット伯爵からすると迷惑な話だろう。
ハルベリーは未だ彼のことを諦め切れていないようで、ルーゼット家の評判は下降の一途をたどっていると聞いている。
あの家がこの先どうなるかはわからないが、それはもはや、イザベラの考えることではなかった。
ジーンが王都を離れる前にと、さっさと籍を入れてしまったので、イザベラは正式にあの家から出たことになっている。
だが、きっと大丈夫だろう。
彼らはきちんと血の繋がった家族なのだから。
乗り越えられるはずだ。
どんな困難だって……。
家族、なのだから……。
「大丈夫。きみの実家だから、悪いようにはならないように、うちの両親がほどよいところで手を回してくれると思う」
イザベラの憂いをあっという間に取り除いてくれる彼は相変わらず魔法使いのようだ。
ジーンの両親は一度顔を合わせたが、息子が結婚すると聞き、驚きとともに涙ぐむほど喜んでくれた。
本当に自分でいいのだろうかと思ったものの、彼らの中にあるのは息子への深い愛情のみで、なんとなく、ジーンがいいなら誰でもいいという気持ちが透けて見えたが、受け入れてもらえないよりはずっといい。
それくらい期待されていない方がイザベラとしても気持ちが楽だった。
完璧な淑女でなくとも、声が出なくとも、孫の顔が見られなくとも、そんなことは二の次で、息子の幸せだけを切に願っている。これが過保護というものなのだろう。
彼らと接してわかったが、家族間で愛してると伝え合うのは、テレーゼ家では普通のことらしい。リリーベルにジーンのことを愛していると言われたときは打ちのめされたが、今はそんな誤解はしていない。ジーンの両親はリリーベル以上に、たまにしか会えない息子へと溢れんばかりの、それこそ溺れてしまいそうなほどの深い愛を伝えていたから。
「そうだ、今度ロシェット伯爵邸にも遊びに行こうか? はつかねずみがいっぱいで、楽しいところだよ」
イザベラはすぐにこくこくうなずいて同意し、小さなかわいいはつかねずみたちが揃ってお出迎えしてくれる想像をして、しばし夢見心地になった。
ジーンに荷物を持ってもらい、用意された馬車まで行くと、すでに準備万端のディノとクレアが待っていた。
彼らふたりも一緒に行くと聞いたときは心強く嬉しく思ったが、屋敷の管理はいいのだろうか。
「すでに引き継ぎは済ませてある。このふたりはベラも気心がしれてるし、なによりきみを守る人が必要だからね」
それを聞いていたディノが冷静に口を挟む。
「ジーン様。そこは、僕が守る、などと言うべきところではないでしょうか? もちろん我々もそのつもりではありますが、ベラ様もジーン様に守られたいはずです」
守ってもらえるだけありがたいのだが、それは心に秘めておいた。
「言われなくても守り抜くよ。もちろん慢心だけは絶対しないが……。守るべき人がいるって、不思議な気持ちだね。もっと気負うかなと思ったけど、むしろ、無敵になった気さえする」
ジーンがイザベラと目を合わせてはにかんだような表情をすると、クレアが怪訝そうにつぶやいた。
「ですが、ジーン様は元々、無敵でしたでしょう? 毒も薬もいまいち効きませんし……」
「クレアはまず、黙って人に薬を盛るのをやめようか?」
確かに黙って薬を盛るのはよくないが、そのおかげで体が楽になったイザベラが言えることはなにもない。感謝しかない。
「そうですよ、クレア。ジーン様の真価は肉体よりも精神の強さにあります。その不屈の自制心は同じ男として驚嘆に値します」
「ありがとう。きみたちの存在が僕の自制心をさらに強固なものにしてくれると、信じているよ」
そう言ったジーンの目は不思議と笑っていなかったが、ディノとクレアは愉快そうだ。
「人のことより、自分の心配をしたらどうだ、ふたりとも? 独寝が寂しくなるくらい、場を弁えずにいちゃいちゃするかもしれないよ?」
ジーンがイザベラを抱き寄せて、見せつけるように頭頂へとキスを落とす。幸せなとばっちりを表す言葉がないことを残念に思う。
(……でも、あれ……?)
そういえば、ふたりは夫婦なのではなかったのか。てっきりそう思い込んでいたのだが、違ったのだろうか。
さすがに放置しておけない問題なので、黒板に思ったことをこりこりと書く。
『おふたりは、夫婦ではないのでしょうか?』
「えっ!? きみたちって、結婚していたのかい……?」
「いいえ? ベラ様はおそらく、我々の指輪で誤解されたのかと」
ディノはクレアと同じ指輪をした手をジーンへと軽く持ち上げて見せた。
「ああ……それか。人が知らないところでひとつの恋物語が生まれて結実していたかと思った」
クレアがくすりと笑ってイザベラへと種明かしをした。
「これはジーン様に忠誠を誓ったという証なのです」
言われてみれば指輪についた琥珀は、ジーンの瞳の色によく似ていた。
「あー、びっくりした。僕だけ蚊帳の外かと思った」
ディノとクレアが揶揄いまじりに笑い、ジーンは安堵している。
だけど、と、イザベラは思う。
(結婚は否定したけれど、つき合っていない、とも、言っていないような……?)
ジーンに忠誠を誓った証ならば、別に揃って左手の薬指に嵌めなくてもいいのではないだろうか。
真相はわからないが、もしあの洞察力に優れたジーンにも隠し通せているのだとしたら……。
実はこのふたりも、只者ではないのかもしれない。
もし隠しているのなら、あまり詮索しないように気をつけなくては。
クレアは元軍医と聞いていたが、ディノもそうなのだろうか。
「ディノは父上が僕につけてくれた護衛のひとり。戦い方を教えてくれた師匠でもある。兄みたいなものかな」
だから気安い関係なのだろう。
「嬉しいお言葉ですね。感激して泣きそうです」
ディノはハンカチを目元に当てているが、全然泣いてはいなかった。むしろ口の端が弧を描いている。きっと照れ隠しなのだろう。
「ふたりは僕が軍に入るときに、父上の命令でついて来てくれたんだよ」
「命令ではありましたが、ジーン様について行けて本望でした」
「わたしもです。それに、お金も後ろ盾もない女の身で、普通に暮らして医者の肩書を手に入れられることなど、まずありませんから、運がいいと思ったものです」
確かに薬師ならば女性の方が多いが、女性の医師というのはめずらしい。
軍ではきっと、知識や経験がある者の方が重宝される。それが男であるとか女であるとかは、二の次なのだろう。
「優秀な部下のせいで出世してしまって、軍でのらりくらりと生きていくつもりが気づけば中将……。今だって退役したはずなのに認められず籍だけ残されて、顧問だなんだと持ち上げられてこうして使いっ走りをさせられて……」
ディノが肩をすくめ苦笑した。
「情報漏洩などの問題もありますが、ジーン様のような便利で使い勝手のいい方を、軍もみすみす逃がさないでしょう」
「これからは今まで以上にお励みくださいね? もし戦争になりでもしたら、ベラ様を出征先まで連れては行けないのですから」
戦争になればジーンと生き別れることになる。想像だけで震えてしまった手を、ジーンが握って笑った。
「そうならないようにするのが、僕の仕事だ」
繋いだ手を引かれて、行こう、と彼が誘う。それが出発の合図だった。
イザベラは微笑み、すべてを捨てて彼とともに歩む未来へと踏み出した。
だけど最後に。
一度だけ、お世話になった屋敷を振り返る。
(いってきます……!)
心の中でしばしの別れを告げ、後はもう、まっすぐ前だけを向いた。
この道の先は、まだ見ぬ世界へと続いている。
愛する人とともに歩む、明るい未来へと続いているのだ。
最後までお読みいただきありがとうございました!




