26・ハルベリー
ハルベリーの目線は確かにこちらにあって、考えるより先にイザベラの膝が震えてふらつき、とっさにジーンの腕にしがみついていた。
(あれはきっと……恋に落ちた顔)
うまく呼吸ができずに浅い息を繰り返す。
急に様子がおかしくなったイザベラに、ジーンが素早く周囲へと鋭い警戒を向けたが、キラキラした瞳でこちらを見つめるハルベリーを目にすると虚をつかれように一度大きく瞬いた。
ふたりの視線が、重なってしまった。それだけでイザベラの心に暗い陰が落ちる。そこからじわりと広がっていくのは、激しい焦燥。
取られる。
取られてしまう。
いつものように取り上げられてしまう。
ほかのものなら許せた。我慢できた。
だけどこの人は。
この人だけは――。
(……絶対に、嫌っ!!)
ハルベリーがまっすぐこちらへと、スキップするかのような軽い足取りで歩いてくる。
(やめてっ……!)
イザベラは無我夢中でジーンの前に飛び出した。毅然とハルベリーに向き合い、ふたりの間に立ちはだかった――が、
「あのっ、お名前を窺ってもよろしいですか?」
そう華やいだ声をあげるハルベリーの視線は、ジーンからも、イザベラからも、ほんの少しだけ違う方向にずれていて。
(……え?)
ハルベリーはジーン……ではなく、ロシェット伯爵へと、一心に恋する笑顔を向けていた。
(えっ? え……?)
「やっぱりなぁ……。言っただろう? 夢みがちな子ほど、ああいった見た目の男にころっと騙される」
ハルベリーは、すぐそばにいるイザベラやジーンなどまったく眼中にもないらしく、潤んだ恋する瞳でロシェット伯爵だけを見つめている。
(これは、つまり……)
ハルベリーが恋に落ちたのは、ロシェット伯爵、ということなのだろうか。
ほっとして、無意識に強張らせていた体の力が抜け落ちた。それと同時に急速に冷静さを取り戻したが、その代わりに、今や思考のほとんどを困惑が占めている。
恋に落ちる相手としては、あまりにも……あまりにも、難しい相手ではないだろうか。
当のロシェット伯爵は、普段からそういうことに慣れているのだろう落ち着きぶりで、一瞬眉を顰めはしたが、すぐに儀礼的な笑みを作ってそつなく名前だけを答えた。
「クロード・ロシェットと言います」
それ以上会話を続ける気もないのだろう。ハルベリー相手に特に心が揺らいだということもなく、この事態をめんどくさく思っていそうな気配すら感じられた。
いくらハルベリーが愛らしい容姿をしていても、彼は既婚者。しかも愛妻家と自称するくらいだ。妻以外の女性には、本当に興味がないのだろう。
イザベラは五歳の頃からずっと、離れのお姫様は誰からも愛される子なのだと信じて疑わなかった。そう自分に暗示をかけて、心を守り続けてきた。
実際この場にいる誰よりも天真爛漫で愛らしいのは事実なのだが……。
客観的に見ると彼女の振る舞いは礼儀を欠いており、決して褒められたものではないのは明らかだった。
いくら侯爵令嬢とはいえ、デビューしたての娘が伯爵相手に気安く話しかけるのはどう考えても間違っている。
イザベラの中の、離れのお姫様への幻想が少しずつ崩れていく。
(こんな子……だった、のかしら……?)
しかしよく考えるとイザベラはハルベリーのことなどなにも知らないのだ。結局イザベラの知るハルベリーとは、イザベラ自身が作り上げていた偶像に過ぎなかった。
ハルベリーは屈託ない笑顔で父に向かって弾んだ声をあげる。
「お父様! わたし、この人と結婚したいです!」
因果は巡るというのか、少し目を離した隙に恋してはいけない相手に恋に落ちた娘に、父が愕然としながら血相を変えて駆け寄ってきた。
「ハルベリー、この方はだめだ。すでに結婚しておられる」
話がわかる保護者が来たとほっとしたロシェット伯爵が、ええ、と短くうなずき同意した。
普通ならここで諦められるだろう。
だがハルベリーは違った。
「嫌です、お父様! この方がいいの、お願い!」
唖然としたのはイザベラだけではなかった。
ロシェット伯爵やジーンもだが、なにより、一番困惑しているのは父だった。
「既婚者と結婚はできない。まさか、愛人にでもなるつもりなのか?」
「だって、この人がわたしの理想の王子様だもの! お願いお願いお父様ぁ!」
そんなの無理に決まっている。
さすがに小娘の戯言だと割り切れなかったのか、ロシェット伯爵の顔が険しくなった。
その場で立ち尽くしたままだったイザベラは、ジーンに抱き寄せられて、彼らから距離を取るよう数歩移動させられた。
「今はあまり関わらない方がいい」
確かに周囲はこの小さな騒ぎに、気づいていないふりをしながらもしっかりと聞き耳を立てていた。
(でも……)
「きみまでつまらない醜聞に巻き込まれる。この手の噂はすぐに広がるから。……あれではまともな婿を迎えられそうにない気もするが、まぁ、爵位があるからそこまで酷い相手になることもないだろうし、放っておいても大丈夫だろう」
ジーンが言うのならそうなのだろうが、ロシェット伯爵は放っておいていいのだろうか。
ハルベリーは諭す父の言葉にもちろん耳を貸すことはない。これまでずっと、父は彼女をあまやかし続けてきたのだ。王子様の出て来る恋物語を読ませて、ハルベリーなら王子様と結婚できるのだと、幸せな夢を見させてきたのだ。今さら現実は厳しいものなのだと教えられたところで、理解できるはずもない。
「お父様、今の奥さんと別れるように説得して?」
これにはイザベラだけでなく、父も絶句していた。
「うわ……あれは酷いな。礼儀うんぬんの前に、教育不足だろう。五歳の子供なのか? セシルの方がまだ大人だ」
確かにそう思わざるを得ない言動に、イザベラの方が恥ずかしくなる。
ロシェット伯爵はもはや表情を取り繕えない様子で、不快感をあらわにハルベリーと父を揃って見据えている。公の場なので怒りを我慢しているのだろうが、内心かなり苛立っているのか、目元は獣のような鋭さを帯びていた。
「今のは聞かなかったことにした方がよろしいですか、侯爵?」
「え、ええ、ぜひ。……お願いいたします」
父は一気に老け込んでしまったような絞り出した声で懇願した。
「お父様!?」
「ハルベリー、彼とは結婚はできない。いいから、少し外の空気でも吸いに行こう」
背中を押されてこの場から連れ出そうとする父の腕をすり抜けて、ハルベリーはロシェット伯爵の元へと戻ってしまう。
「嫌よ、この人が運命の王子様だもの! ……そうだわ、きっと政略結婚させられたのよ! わたしが救って差し上げないと!」
呆れた言い分に一瞬場が静まり返った。
ロシェット伯爵も怒りを散らすような深い息を吐いてから、どうにかにっこりと紳士的な表情を取り繕った。目は全然笑っていないが。
「政略結婚? いいえ。私は妻の実家が多額の借金を負うように裏で画策して、借金の担保として妻を無理やり拐って来ましたが?」
内容はとても紳士的とは言い難かったが、ジーンは特になにも言わなかったので、イザベラでは本気か冗談か判断できず真相は闇の中だ。
「私が愛している女性は妻だけですし、妻と別れることになったら傷心で死ぬ自信がありますよ」
ジーンがぼそりと、重っ、と言ったが、イザベラはロシェット伯爵のその気持ちはわかる気がした。ジーンに置いていかれたら、塞ぎ込んで死んでいたかもしれないと思うと他人事ではなかった。
ロシェット伯爵は、ぽかんとしているハルベリーから、父へと見定めた。
「今ならまだつまらない冗談として流しますが、これ以上つき纏うのでしたら、こちらも相応の対処をさせていただきますが?」
父の方が爵位こそ上だが、ロシェット伯爵は名を知らない人は少ないくらいに有名な人だ。そうでなくともさすがに状況が悪過ぎる。
こんなことになるとは想像もしていなかっただろう。ハルベリーが無邪気に恋に落ちなければ、誰かに見初められていた可能性は十分にあったのに、すべてがふいになった。ほとぼりが冷めるまでは社交界に出て来られないだろう。その間に教育し直せたらいいのだが。
「申し訳なかった。すぐに連れて帰ります」
嫌がって喚くハルベリーを父が強引に会場の外へと連れて行く。
そのときようやく、父はそばにイザベラがいたことに気づいたらしい。一瞬目が合い、なにか言いかけた気がしたが、ハルベリーが泣き出したのでその視線はすぐに逸らされた。どれだけ醜態を晒しても、やっぱりこの人は自分の娘がかわいいのだろう。失恋した娘を慰めながら去って行く父の姿は、どうしようもなく父親に見えた。
彼らの姿が見えなくなる最後までまだ目で追いかけ続けていると、ジーンの手が肩に触れた。なにも言わず、慰めるように、ただ載せられる。その気遣いがとてもありがたかった。
ふたりがいなくなって、こちらを窺っていた人たちの興味もそれぞれ別のところへと移り、ロシェット伯爵が安堵の息をついたところで、ジーンが労うように彼の背を軽く叩いた。
「自分の鬼畜の所業を利用してまで拒絶するとは、愛妻家の名は伊達ではないね」
「それはどうも。腹が立ったのもあるし、このまま変な女に絡まれ続けるよりは、自分の愚行を語って幻滅してくれればと思ったんだよ」
「ぽかんとしてたね」
「ぽかんとしてたな」
ふたりはたまらず噴き出した。本当に仲がいい。ジーンは涙さえにじませている。
「明日からの噂が楽しみだ」
「期待しているところ悪いが、俺の評判はいいんだ。きっといいように噂されるに決まっている」
「きみ、外面だけはいいからなぁ。そこに愛があってもただの犯罪者なのに」
うぐ、とロシェット伯爵が胸に致命傷を受けるのを笑って見届けてから、ジーンはイザベラの髪を耳へとかけ、剥き出しになった耳朶へと囁いた。
「ちょっとだけ踊ろうか?」
ロシェット伯爵とは違う類の致命傷を胸に負いながら、うなずく。
今の一件のおかげか、ロシェット伯爵にすり寄る女性はいなくなった。今近寄ればハルベリーと同類だと思われるのは間違いなく、自分の評判を落としてまで声をかけるほど、ここに集う淑女たちは愚かではない。
ロシェット伯爵も行ってこいというように軽く顎でフロアを示した。
「お手をどうぞ」
差し出された手にそっと手を重ねる。
あまり目立つつもりはないからか、隅の方で控えめに踊りはじめた。
ダンスの練習は教育のひとつとしてある程度させられていたが、女性の家庭教師相手のときとはやはり全然違う。
ジーンのリードが巧みなのだろう。自分の体が軽く感じる。羽のように、イザベラを自由に飛ばせてくれる。彼の目の届く範囲で。
「さっき、あの子がこちらへと向かって歩いてきたとき、僕との間に立ち塞がったよね? あの子が恋した相手が自分じゃないってわかってはいたけど、あれ、結構嬉しかったな」
イザベラとしては勘違いをして早合点してしまったことへのきまり悪さがある。
「取られると思った?」
図星を指されてステップを踏み間違えてしまい焦る。ジーン相手に隠し通せるはずがない。
ねぇ、と。彼が片手でイザベラの頰を包み、顔を寄せていたずらっぽく笑う。
「キスしてもいい?」
(!?)
曲が終わるとフロアから連れ出されて、夜風のあたるバルコニーの分厚いカーテンの影で、背中に片腕を回されてぐっと引き寄せられた。靴の踵が浮き、慌てて彼の肩を掴むと、その肩越しに星が煌めく夜空が見えた。
「ベラ」
目を戻すと琥珀色の瞳は愉快そうな色を孕んでいて、一瞬で心が奪われた。もう、星の輝きすら見えない。
まつ毛をふるりと揺らして瞼を伏せると、ゆっくりと、唇が重なった。
フロアでは踊る人たちのための音楽を背景に、まるで物語の幸せな結末のようだなと思っていると、
「物語ならここで終わりかもしれないけど、僕らはね、これからがはじまりなんだよ」
それはなんと素敵で甘美な言葉だろうとイザベラは思った。
「この前軍に行ったときに、また厄介な仕事を依頼されてしまってね……。実はすぐにでも行かないといけない」
長年暮らした王都を離れる。
それなのに、イザベラの心は期待でいっぱいだった。
怖いものなんてなにひとつない。
大好きな人と一緒に歩いて行けるのなら、そこが奈落の底でも幸いだ。
外の世界を知らないイザベラは、きっと迷惑をかけるだろうし、足手纏いにもなるだろう。ジーンにおんぶに抱っこで、寄りかかって、自分の情けなさに打ちのめされて――それでも。
自分の足で立って歩いていける強い女性ならば、彼はイザベラを拾ってはくれなかっただろう。
だからこのままでいいのだ。
今のままの、イザベラで。
「一緒に来てくれますか、ベラ?」
「はい、もちろん」
久しぶりに出した声は掠れていてとても聞けたものではなかったけれど、ジーンは美しい小鳥の囀りでも聞いたかのような幸せそうな顔をしていた。




