25・デビュタント
好きな人にエスコートされて社交界デビューをすることになるなんて、少し前の自分ならば想像もしなかっただろう。
それは物語の中だけの奇跡だと思っていた。
手を添えるイザベラから緊張による震えを感じ取ったのか、ジーンは安心させるようににこりと笑った。
今日はイザベラの引き立て役に徹すると決めているらしく、その装いは控えめだ。それでも、彼の素晴らしさはなにひとつ隠し切れてはいなかった。
周りを見るべきなのに、淑女の振る舞いとしてはまったく正しくないのに、どうしても吸い寄せられるようにジーンをを見てしまう。
「ずっと僕だけ見ていてもいいよ? それにベラよりも僕の方がマナーに関しては不安が多いから、大丈夫」
それは大丈夫なのだろうか。
だけどそう言われて逆に冷静になった。背伸びしてでも、彼の隣に立つにふさわしくありたい。
会場に入ってすぐ、イザベラにはたくさんの視線が集中し、反射的に固まったが、そのほとんどがジーンに向けられたものだったので拍子抜けしてしまった。
あまりこういう社交の場に姿を見せないジーンに対する興味や好奇、女性たちからの秋波めいた熱い眼差し、そして、王族席からの視線。
国王陛下はその座にふさわしい、威厳と慈愛に満ちた表情をしていたが、隣に座る王妃はジーンに対する棘のある感情を隠しきれていなかった。
(棘……というよりも、威嚇……?)
ジーンにも、順位としては低いが王位継承権がある。そのことを知っているのなら、そのあたりに起因しているのではないかと推察したのだが、
「ごめん。王妃様は昔から姉上のことを敵視しているんだ。姉上は才色兼備で、陛下とも親しいから。簡単に言うと、嫉妬だね」
もっと俗物的な感情だった。
あえてそうごまかしたのかもしれないが、それもまた真実なのかもしれない。
王族から話しかけられることがなければ、こちらから話しかけることはない。そして向こうから話しかけて来ることは、永遠にないような気もした。
本来ならばイザベラはあいさつをしに行かないといけないのだが、むしろ行かない方が正解なのかもしれない。そのあたりはジーンの采配に任せるしかない。
王族に背を向け会場の人混みに紛れていると、少し離れたところに知った顔を見つけ、思わず足を止めた。父だ。前々から決まっていた通りに、ハルベリーをエスコートしている。
見覚えのあるドレスを身に纏ったハルベリーは無邪気にその瞳を輝かせていて、楽しそうな娘の姿に父の表情も和やかだ。
もういい加減、無益な復讐などに囚われることをやめ、吹っ切れたのだろう。
あれが……あれこそが、ルーゼット家の本来あるべき姿だ。
イザベラも悲しみを乗り越えて、どうにか受け入れられるようになった。
あの日以来顔を合わせていないが、きっとこれでよかったのだろう。会えばまた父は復讐に囚われる。だから、このまま他人のまま、気づかないふりをして通り過ぎるのがお互いのためだ。
イザベラの視線を追ったジーンが、気遣わしげに訊いてくる。
「あいさつする?」
イザベラは目を伏せて首を横に振った。
「もう正式に僕の婚約者だから、無理に連れ戻すような愚かなことはしないと思うけど」
そうではない。
そうではないのだ。
イザベラは手を添えていたジーンの腕をきゅっと握った。
「ベラ?」
俗物的な感情がここにもあった。
父にあいさつしに行けば、その隣にいるハルベリーとも顔を合わせることになる。
ハルベリーにジーンを見せたくないのだ。……その逆も。
できれば一生、出会ってほしくない。
それがわがままだと、わかっていても。
「……」
めずらしくジーンが無言で、ちらりと見上げると、彼は片手で赤くなった顔の半分を隠していた。
「あー……まずい。僕の婚約者がかわい過ぎてつらい」
そんなことをそんな風に照れた顔で言われると、イザベラの方が恥ずかしくなって俯いてしまう。おそらく顔は真っ赤だろう。
「ベラが嫉妬してくれるのは嬉しいけどね、杞憂だよ。僕は人に親しみを感じてもらえる顔立ちはしているけども、一目惚れされるような美形ではないからね」
そうだろうか。イザベラからしたら、今会場にいる誰よりも素敵で輝いて見えるのに。
「いや、それは素直に嬉しいけど、一般的に目を引く容貌というのは…………あ、ほら。彼みたいな人のことを言うものだよ」
ジーンが示した方向にいたのは、銀の髪を後ろに流して整えた、端正な顔立ちの男性だった。ジーンと同じくらいの歳だろうか、確かに彼だけひときわ目立っているように見えた。慣れた様子で女性たちからのうっとりとした視線を軽く微笑んで受け流しながら、談笑している。
遠巻きに観察していると、彼はこちらの視線に気づいたのか、その目をわずかに見張った。
そしてジーンが軽く手を振ると、一瞬微笑みを引き攣らせ、それから取り巻いていた人たちにひと言葉断りを入れてから、ずかずかとこちらへと向かって来た。どことなく不穏なオーラを纏っており、気圧されたイザベラはたじろぐ。
「怖がらなくて大丈夫だよ。彼は僕の友人のクロード・ロシェット伯爵。例のマーティンの飼い主の」
「やつを一度でも飼った覚えはない! 勝手に住み着いただけだ!」
会話が聞こえたらしいロシェット伯爵が、間髪をいれずジーンにそう噛みついた。
ロシェット伯爵の態度にもだが、それ以上に放たれた言葉に驚き首を傾げる。
(……え?)
名前入りの刺繍がされたリボンをつけて、かわいがられていると思っていたのに、違ったのだろうか。
混乱するイザベラに、ジーンが笑みを噛み殺しながら種明かしをした。
「マーティンはペットではなくて、彼の奥さんの小さな友人なんだ」
リボンにはロシェット伯爵家と記されていたのでロシェット伯爵のペットだと思っていたが、あのリボンを結んだのはロシェット伯爵夫人の方だったのだ。
ロシェット伯爵は愛犬家と聞いていたので、動物全般好きなのだと勘違いしていた。
「マーティンは百数十匹のはつかねずみ一家の長的存在らしい」
「ハハ……、いつの話をしている? やつらはすでに、四桁の大台に乗る目前だ……」
力なく笑うロシェット伯爵の目はほとんど死にかけていた。一匹ならばかわいいが、確かに千匹のねずみと暮らすのは、少し、勇気がいるかもしれない。
それはもはや、屋敷を乗っ取られているのではないだろうか。
「ああ、それなら大丈夫! 安心するといい、クロード! マーティンには移住できそうな屋敷をひとつ紹介しておいたから、大台に乗るのは免れるはず」
「ジーン、おまえ……」
ロシェット伯爵は感動と絶望をない混ぜにしたような不思議な目でジーンを見つめていた。
伯爵は見た目とは違って、おもしろい人なのかもしれない。ジーンの雰囲気も普段よりもずいぶん軽い。本当に親しい友人なのがわかる間合いだった。
「改めて、紹介するよ。僕の婚約者のイザベラ・ルーゼット嬢」
ロシェット伯爵は気を取り直したのか、イザベラへと向き直って丁寧にあいさつをした。
「はじめまして、イザベラ嬢。私はジーンの友人のクロード・ロシェットです。噂通りのお美しい方だ」
(噂……?)
「僕が言ったんだ。美少女を拾ったってね」
お世辞だとわかっているが、反応に困る。美少女というのはハルベリーのようなこの子のことを言うのだ。
イザベラが困っていると、ロシェット伯爵も困った様子で、揃ってジーンへと眼差しで助けを請う。
「あっ、そうそう。彼女は僕以外とは話さないから。口説こうとしても無駄だ」
「人聞きの悪いことを言うな! 口説いてない!」
噛みつくロシェット伯爵にもジーンはどこ吹く風だ。
「実はきみにはあまり会わせたくはなかったんだ。きみ、顔だけはいいだろう?」
「そうだとしてももっとオブラートに包んでものを言えないのか? 顔以外にも取り柄はある。俺は愛妻家で通ってるんだ」
ロシェット伯爵は誇らしげに胸を張る。愛犬家も相まって、つい、大きな犬っぽいと思ってしまった。
「その奥さんの姿は見えないようだが?」
「妊婦を連れて来るわけないだろう」
ロシェット伯爵夫人は妊娠中らしい。幸せそうな素の顔が一瞬だけ垣間見えた。
「だがきみの場合、愛妻家と知れ渡っていてもパートナーがいないと大変だろう」
それには否定することなく、ロシェット伯爵は肩をすくめて見せる。ジーンと目が合ってすぐにこちらへ向かって来たのは、旧友との親交を深めるため以上に、彼を狙う女性たちからこれ幸いと逃げるためだったのかもしれない。
「デビューしたての夢みがちな女の子は特に、きみのその顔と爵位を見てときめくのだろうね。きみがいかに奥さんに執着していて、いかに残念な男か、知らないから。かわいそうに」
ジーンがイザベラを窺うように見たので、彼の腕に添えていた手に少しだけ力を込めた。
イザベラにとってはジーンだけが特別な存在だ。
彼がいなければきっとこの煌びやかな会場どころか、目に映る世界がすべてが色褪せていたことだろう。
気持ちが伝わったのか、彼は嬉しそうな顔で、そして少しの安堵をにじませて笑った。
「ベラがクロードに一瞬でも目を奪われなくてよかった」
自分だけではなかったのだ。同じ不安を抱えていたのだと思うとくすぐったい気持ちになる。
「そんな浮ついた人間となんか、結婚を決めないだろう、おまえは。イザベラ嬢には申し訳ないが、少しの間だけでも隠れ蓑にさせてほしい」
本当に困っているようなので、イザベラはジーンへとうなずいて見せた。
「ベラはもっとわがままを言ってもいいと思う」
困っている人を放ってはおけない。ジーンの友人ならなおさらだ。
「じゃあ、踊るのは後にしようか。あんまり長居はできないから、一曲だけ」
イザベラがこくりとうなずくと、ロシェット伯爵もひそめた声で同意した。
「確かに長居はしたくないな。王族席からの視線が居心地悪い」
「きみは王族に覚えがめでたい伯爵様だろうに」
「気になるものは気になるんだ。おまえも、少しくらいなにか食べておかないと、逆に警戒していると疑われて面倒だぞ」
ジーンはここに来てからなにも口にしておらず、イザベラも、極力飲食はしないよう出がけに言われていたので、水すら口には入れていなかった。
もしものときは先にジーンが毒味をすると言っていたが、彼に毒味させるくらいなら、どれだけ飢えていても我慢する。そのせいか、ロシェット伯爵がさりげなく毒味役を買って出てくれることになった。
「ごめんね、ベラ。クロードの食べかけで」
「人を汚いみたいに言うな!」
おそらくジーンは、照れ隠しでロシェット伯爵を揶揄って遊んでいるだけだろう。彼のことは全面的に信頼しているのだ。一朝一夕では得られない、長年の信用と信頼が積み重なったその関係性がうらやましい。
ロシェット伯爵が毒味を終えて受け取った皿からジーンも少し口に含み、イザベラの口にも入れてくれた。
ジーンがイザベラに給餌する姿を、ロシェット伯爵が目を丸くして眺めている。
「……人前でもお構いなしにいちゃつくような人間だったんだな、おまえ」
「というか……まぁ、うん。仲の良いところを見せつけるのは弱点を晒すみたいで不安ではあるけど、一方で、牽制にもなるだろう? どこが僕の逆鱗か、この機会にしっかりと伝えておくのもありかとね」
「そこは惚気でいいだろう、別に」
「…………そっか。そうだな、うん。いちゃいちゃしたいからだった」
「だろうな。そうだと思った」
ロシェット伯爵がにやりと笑う。
「ひとり寂しく参加している友人にここぞとばかりに見せつけたかったからだった」
「おい」
ジーンがまたロシェット伯爵を揶揄って笑う。
なんとなくジーンが彼を気に入っている理由がわかった気がする。伯爵はすぐ感情が顔や声に出る、非常にわかりやすい人だからだろう。
ジーンはロシェット伯爵に愛犬の話を振り、彼はそれに嬉々として答え、イザベラはちょっと太めのかわいいわんこの姿を想像して和んでいると、ふと、すぐそばにハルベリーがいたことに気づいて瞠目した。
いつの間にそこにいたのだろうか。近くに父がいないことを怪訝に思いながら見やった彼女は、どこか陶然とした面持ちで胸の前で指を組み、こちらを食い入るように見つめている。
その表情の意味を理解した瞬間、全身の血が凍りついた。
そしてイザベラの直感を肯定するかのように、ハルベリーのその可憐な桃色の唇が、「わたしの、王子様……?」と、言葉を紡いだのだった。




