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24・話し合い



 庭を落ち着きなくうろうろしながら待っていたイザベラは、普段と変わらない様子で帰って来たジーンの姿を目にすると慌てて駆け寄った。


「ベラ! ちゃんと結婚の許可をもらってきたよ」


 にこにこしながら見せてくれた婚姻に関するいくつかの条件を記した書類に、ジーンと、祖父、そして父の名が記入されているのを見て驚いた。


「実質的な結婚生活はきみがもう少し大人になってからだけど、先に籍だけは入れて、一緒に連れて行く許可はもらえた。やっぱり軍の礼服は年配の人に受けがいいよね」


 年配の人でなくても、ジーンの礼服姿は誰が見ても素敵だと思うはず。


 しかし祖父は別としても、あの父が軍人相手だからという理由ですんなりと認めたとは思えずに、ついそのサインを凝視してしまう。本物なのだろうか……と。


 半信半疑なイザベラに、ジーンは少しだけ迷ってから、それでも父の様子がどうだったかを包み隠さず教えてくれた。結局最後は祖父によって有無を言わさず署名させられ、後は用なしとばかりに退出させられたという。


「最後まできみのことを手放したくはないようだったけど……ごめんね、断れないようにちょっだけ誘導した」


 イザベラはやるせない気持ちのまま首を振った。きっとジーンがなにもしなくても、父が祖父に逆らい続けることはできなかっただろう。


 最後の最後まで、父は祖父の言いなりだった。それだけの話だ。


 これで完全に縁が切れたということなのだろう。


 もう父との繋がりはなにもない。……なにも。


 悲しいわけでも、かと言って清々したというわけでもなかった。


 形容し難い複雑な感情を持て余しながら父の名を眺めていると……。


「……僕では代わりにはならない?」


 その躊躇いがちな問いかけに、思わずばっと顔を上げた。


 そんなことはない。代わりどころか、どちらかを選ばなくてはならないのなら、ジーンを選ぶ。一択だ。


 彼は屈託なくにこりと笑って、「これで外堀は埋めたから……」と、イザベラの頰を撫でる。そして指をかけ顎を少し持ち上げられると、視線を絡ませながら、茶目っ気たっぷりに囁いた。


「後は、きみをしっかりと口説き落とすだけかな?」


(……!?)


 ぶわりと頰に熱が集まり、イザベラは目線をうろうろとさせる。


「またはつかねずみについて行かれても困りものだからね」


(あ、そういえば、マーティン……)


 きょろきょろとしたが、あのかわいいはつかねずみの姿がない。


「ああ、マーティンは大丈夫。今はきっと……セカンドハウスの内見中?」


 ぼそりとつぶやかれた最後の言葉はうまく聞き取れなかったが、ジーンが大丈夫というのならそれを信じる。


「うーん、そういう素直なところがかわいい反面、心配でもあるな……」


 そう言いながら当然のように肩を抱かれる。戸惑うイザベラに気づいたのか、ジーンはいつもの距離感に戻りながら苦笑した。


「こう見えてね、結構浮かれてるんだよ。もし恋人ができたらしたかったことが、今なら全部できるんだって思ったら、なんか楽しくなって」


 急に距離を詰めてごめんね、と肩をすくめる彼に首を振って、自分から抱きついた。なんとなくセシルの気持ちがわかる。ずっとくっついていないと、ふらりとどこかへ行ってしまいそうで怖い。


 彼の手が一瞬宙を彷徨ってから、イザベラの頭にぽんと置かれた。髪の流れに添って何度も撫でられると心地よくて幸せな気持ちになる。


「本当は、こういうの、ずっと憧れてた。全部諦めたふりをしながら、幸せになっていく友人たちを祝福して……。自分には愛してくれる家族がいるから十分だ、うん、誰も僕の事情に巻き込んだらいけない……ってね」


 彼はとことん優しい人だ。そして臆病なのかもしれない。誰かと傷つきながらもともに生きる道ではなく、傷つけないようひとり別の道を選んでしまう。大切な相手なら、なおさら。


「きみのこともね、本当は僕の犠牲にはしたくなかったけど、それ以上に手放したくないって思ったし、物理的に離れたらきっと、心も離れていくんだろうなと思ったら、なんか、思った以上に焦った自分に驚いて。ただ、こういう執着や独占欲って、実はあまり抱いたことのない感情だから、どうつき合って行けばいいのか……なかなか難しいね」


 イザベラも同じだ。これまでなにを奪われても仕方ないと諦めてきた。どうせはじめから自分のものではなかったのだと割り切ったふりをして、悲しい気持ちを押し殺して。


 だけどなにを奪われても、この人に見捨てられるのだけは、嫌だった。


 執着や独占欲というのなら、イザベラの方がそうだ。


 彼と離れないためなら、きっとなんだってする。


 どんな愚かな決断だって、できてしまえる。


(わたしは……)


 イザベラは精一杯顔を上げて、仕草と眼差しだけで彼へと誓った。


(わたしはあなたに、この声を捧げます)


 イザベラが紙とペンなしで意思疎通できるのは、この世界でただひとりだけ。


 そしてイザベラが今後もし声が出るようになったとしても、ジーン以外の誰かと話すことはない。


(あなたとだけ)


 全部、ジーンとだけ。


 そうすることで自分を縛りつけ、彼を自分に縛りつける。


 彼と離れてしまわないように。


 彼が離れて行かないように。


 ジーンはぽかんとしていた。


「……え。なんか今、すごい告白をされたような気がするんだけど……冗談?」


 静かに首を振る。元から筆談なしで話せるのは彼だけだったので、イザベラの決意以外、これまでとなにも変わらない。


「しゃべらないの?」


 こくり。


「誰とも?」


 ジーンとだけは話す。もし声が出たら、の話ではあるのだが。


「そっか……僕だけ? ……ふ、ははっ、いつも予想外のとのところで、思い切ったことするなぁ、きみは!」


 ジーンが腹を抱えて笑い出す。


 いつもと言われても、イザベラにはどこのことかわからなかった。強いて挙げるのなら、マーティンと夜歩いていた日のことか、それともジーンの肩に考えなしにキスしたことか、はたまた二階から飛び降りたことか……確かに、要所要所で思い切ったことをしているかもしれない。


 笑いが引いて、ジーンはちょっとだけ真面目な顔をして、中庭へと誘った。


「ねぇ、ベラ。ちょっと話そうか?」


 林檎の木の下に敷物を広げて、ふたり肩を並べて座る。イザベラが来たばかりのときから一生懸命巣を作っていた小鳥は、卵を産み、孵った雛たちがぴぃぴぃ鳴きながら、巣から顔を覗かせていた。


 クレアの薬草畑の香りが風に乗って流れて来ると、ほっと息をつきたくなる気分になる。この感情の名前を、イザベラはまだ知らない。


「なにから話そうか……たぶん気づいていると思うけど、僕は半分、王族の血を引いていて」


 やはり、と思った。そしてそれは彼にとって苦痛しか与えないことも知っている。


「だからずっと自分の子供はいらないと思ってきた。火種になりそうなことは避けるのが正しい。守るべきものは極力少ない方がいい。今でもそう思う。でもね、もし――」


 それ以上は聞いたら言い出せなくなる気がして、イザベラは慌てて彼の口を手で塞いで、瞬く彼へと首を振った。


 自分も正直に話さなくてはと、少しずつ黒板に書いた。


『わたしは手術を受けました』


「……うん。知ってる」


 そうだろうなと思いながら続きを書く。


『医者は問題ないと言いました』


「うん」


『子供を産むことはできる、と』


「うん」


『だけど、』


「うん」


『妊娠できる、とは、言わなかった』


 あの医者は、子供を産むことはできると主張していた。産むことに問題はない、と。


 産むことと、孕むことは、イコールではない。


 うまく妊娠すれば、産むことはできるのだろう。


 だけどその部分肝心な部分を、あの医者は保証しなかった。


「ベラ」


 呼ばれても顔を上げられずにいると、ジーンに肩を抱き寄せられた。


「子供ができずに苦しんでいる夫婦は、きみが知らないだけでたくさんいるよ。それはどちらかが悪いわけではないんだ。……僕の言い方が悪かったかな。不安にさせた?」


 首を振る。違う。イザベラの問題なのだ。


「いや、違うんだ。もしきみが子供を望むのなら最低でも五年は待ってほしい、って言おうとしたんだ。きみとふたりきりの生活でも僕は全然構わない。なにより大切なのは、きみだから」


 子供よりもイザベラの方が大切なのだと、驚くことに彼は本心からそう言っていた。


「その頃には陛下の子が立太子されているだろうし、王子か王女かわからないけど、もうひとりくらいは直系の王族が増えていると思う。僕はこの血から解放こそされないが、僕を排する優先順位は限りなく低くなる。……まぁ、実は今でもそれほど高くないんだけどね。念のため、ね」


 ジーンの言葉を聞きながらはじめて考えた。


 自分が、子供をほしいかどうかを。


 そういう考え方を、これまでしてこなかったことに、本当にたった今気がついて動揺した。


 なぜなら子供は必要な存在だったからだ。後継を産むことだけがイザベラの唯一の価値だった。


 結婚して一番大切なのは、子供を産むこと。その家を継ぐ男児を産むこと。感情など二の次で。


 だけど全部、間違いだった。


 これまで植えつけられていた価値観の最後のひとつが、ようやく壊された音がした。


「きみはね、子供を産むための道具じゃない」


(わたしは……道具じゃない)


 そうだ。心のない人形ではない。


 そう思ったからあの日、逃げ出したのだ。


 それなのにまだ、囚われ続けていたのかもしれない。


「それに医者がなんと言ったか知らないけど、クレアは、おそらく問題ないだろうって」


(え……?)


 なぜここでクレアの名前が出てくるのだろう。


「クレアは元軍医だ。きみを処置した医者を探し出して話を聞きに行き、術後の経過観察もしていた。ハーブティーと称して睡眠剤やら鎮痛剤やら抗炎症剤やらあれこれ飲まされていたの、やっぱり気づいていなかったかぁ……」


 イザベラは目を白黒させた。まったく気づかなかった上に、普通においしいハーブティーだと思って飲んでいた。


 だが確かに、ここに来てから体調はよくなった。痛みもなく、体が軽かった。重責から解放されたおかげかと思っていたが、全部クレアのおかげだったらしい。


「彼女、万一のためにと、僕に避妊効果のある薬草を飲ませていたし」


(えっ!?)


「本当に余計なお世話だよ。手を出すはずがないのに。信用がなくてつらい……」


 憐れっぽく頭を寄せてきたが、状況がまだ飲み込めていないので、適当にしか慰められない。よしよしとしてみるが、したことがないのでどうにもぎこちない。


「ベラ、ちゃんとわかってる?」


(……?)


「結婚したら、遠慮せず抱くよ?」


(……!?)


「ベラが僕の生活に慣れることがなにより最優先だから、それまでは絶対手を出さないつもりだけど。二年、いや、余裕を持って三年かな。……自分で言っておいてなんだけど、先は長いなぁ」


 なんとなく、白い結婚になるのではないかと思っていた。そんなことはなかった。全然。


 嬉しい。それなのに、どうにもそわそわ落ち着かない。さっきまで普通にしていたはずなのに、触れ合っている箇所が急に熱を持ちはじめた。彼の髪が肌に触れただけで肩が跳ねそうになる。


 彼はイザベラの考えていることなどお見通しなのだろう、くすりと笑う。


「これまでできなかったことをしたいって言っただろう? ……女性と関係を持つのはかなりリスクが高かったし、なにより、裏切られるのが怖かった」


 彼はそうやって、これまで色々なことを諦めてきた人だ。


 楽しそうに振る舞いながらも、きっと、周りの人をうらやましく思っていたのだろう。


 彼にあれこれと世話を焼いてもらうことに気が引けている部分があったが、むしろイザベラの非力さは、彼にとっては安心要素だったのかもしれないと思い直した。


 弱い自分でいいのかもしれない。


 ただ守られるだけの自分でも。


 この弱さこそがもしかするとイザベラの強みなのかもしれない。


 そんなことを考えていると、喉に彼の指が這わされた。


「無理して声を封じなくてもいいんだよ?」


 イザベラを首を振る。揺るがない意思に苦笑いされてしまった。


「それなら僕は、きみの翼になろうかな」


 はっとして彼を見る。


「きみがどこまでも自由に飛んでいけるように」


 思いがけず涙が溢れそうになった。


 あの日、少しの勇気を振り絞って逃げ出していて本当によかった。


 こんなに幸せな日が訪れるなんて、あのときは想像もしなかった。


「ああ、でも。ぼくの目の届く範囲で、と注釈はつくけども」


 イザベラだって彼が見えない場所にいたら不安になる。


「無垢な女の子を自分仕様に染めていくのって、やっぱりいいな」


 そうつぶやいたジーンが、イザベラの顔を覗き込みながらにこりとする。精一杯微笑み返そうとしたしたイザベラだったが、唇が弧を描く前に、彼の唇が重ねられた。


 ほんの一瞬の、触れるだけのキス。


 目をぱちくりとさせている間に、いたずらっぽく笑った彼がまた、ついばむようにイザベラの唇を食み、ちゅ、と音を立てて離れた。


 さすがに頰が赤く熱を持ちはじめたところに、もう一度。


 心臓が暴れはじめて、壊れてしまうのではないかとぎゅっと目を瞑ると、また。


(こっ、こん、こんなに何回もするのもの……?)


 唇がわずかに触れたまま、くすりと笑う気配。


「何回もするものだよ?」


 そう嘯いて、角度を変えてもう一回。


 永遠に終わらないのではと思うほど長い時間をかけてイザベラの唇を味わい尽くし、彼は名残惜しそうに離れた。


 ようやく解放されたイザベラは、呼吸困難と心臓の暴走で自力で体を支えていられず、へなへなと彼の胸に寄りかかる。


「ここから先は、もう少し大人になってからかな」


 ジーンはいつも子供扱いするが、イザベラは世間的にはもう大人なのだ。


 デビュタントだって、と思ったところで、彼がはっとしたように声をあげた。


「ああっ、そうだった! ベラのデビュタント用のドレス!! 忘れてた……まずいな、早く用意しないと間に合わない」


(え……?)


 さすがにそれは……と気が引けて断ろうとしたが、よく考えると婚約者が用意することはおかしな話ではなかった。


(婚約者……)


 頭でわかった気がしていたが、じわじわとその言葉の意味が心に浸透してきた。結婚はまだだが、もうすでに婚約者なのだ。


 飛び出してしまいそうな心臓を押さえ込むように胸に手を当てていると、ジーンがその場で片膝をついて、いつもの茶目っ気たっぷりの笑みでこう言った。


「僕に、エスコートをする名誉を与えてくれますか?」


 こんなの、うなずく以外の選択肢があるのなら教えてほしい。


 イザベラは物語のお姫様ではない。


 だけどきっと、普通の女の子だって、こう言ってもいいはずだ。


 はい、もちろんです、と。




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