23・交渉人ユージーン・テレーゼ
「先ほどはお騒がせして申し訳ありません。改めまして、私はジーン……いえ、ユージーン・テレーゼと申します」
イザベラを幽霊屋敷、もとい自宅に送り届けた後、ジーンは再びルーゼット侯爵家へと赴いた。
そこは相変わらず混沌としたままの様子だったが、礼服のおかげなのか、それとも本名を名乗ったおかげか、娘を拐かした相手とわかった後でも丁重にもてなされて室内へと通された。
待っていたのは杖をソファの脇に置いた厳しい顔つきの老齢の男性――イザベラの祖父である前ルーゼット侯爵と、疲れをにじませた四十路前後の男性――イザベラの父であるルーゼット侯爵。
ふたりを前に、ジーンは軍人らしく胸に拳を当てて勇ましい礼をしつつも、顔にはにこりとした人好きする笑みをのせて初っ端から全力で懐柔を図った。
ついさっきこの家の娘を連れ去って逃走した無礼者のあいさつとは思えない気さくさに加えて、厳しい軍人のイメージとの乖離、そしてテレーゼという家名。それらに意表をつかれて戸惑った彼らの、その一瞬の隙に、ジーンはするりと懐へと入り込む。
「ルーゼット家のみな様におかれましては、さぞ驚かれたことかと思います。恥ずかしながら、大事な花嫁に逃げられたのかと焦ってしまい、なりふり構わず取り返しに来てしまった次第でして……」
ジーンは自分の失態を恥じるように人畜無害な顔で照れて見せた。
相手を拍子抜けさせることで怒りの継続を阻害すると同時に、印象深い単語を添えることでそちらに意識が向くように会話の流れを誘導する。
「は、花嫁……?」
「ええ。イザベラ嬢は、ルーゼット侯爵家のご令嬢で間違いありませんよね?」
まずここで否定はしないだろう。テレーゼ家と言えば公爵家であり、その家名を名乗るジーンがそれに連なる者、年齢的に嫡男であることも察しがつくはず。
そのジーンが花嫁と称してイザベラの名を出したのだ。普通ならば見初められたのだと浮き足立つ。
どこでどう出会ったかなどを詳しく問い詰められると困りものだが、程よく事実を織り交ぜた作り話でごまかす準備はできている。とはいえ、今の冷静さを欠いた彼らの状態ならば、おそらくその手の質問は出てこないだろう。
あえてこのタイミングで結婚の許可をもらいに来たのは、相手に冷静になる時間を与えさせないためでもあった。
すでに会話の主導権はジーンにある。
前ルーゼット侯爵、イザベラの祖父は、ジーンの想定通りにいかにも貴族らしい反応を示してくれた。
「なんと! うちのイザベラを!?」
ジーンは如才なくにこりと微笑む。
「ええ。私の妻に、と思っております」
この手の階級主義血統主義の老人は比較的扱いやすい。
ここ数代は王家と争ってはいたテレーゼ家だが、すでに表向きは和解しており、縁を繋いだところで王族の不興を買うこともない。テレーゼ家は元をたどれば王女が降下してできた家だ。薄くても王族の血を引いている。いわゆる、由緒ある血統だ。
そこに孫が縁づくとなれば否やと言うはずがないと思いつつも、言質を取るために重ねて尋ねた。
「お許しいただけますか?」
「それはもう、光栄なことです、が……」
「もちろん病気のことも知っています。それを含め、私は彼女がいいと思いました。ご存知でしょう、我が家の王家との確執を。テレーゼ家は、今でこそ王家と和解し互いに歩み寄る努力をしていますが、すべてを水に流すには、やはり私や姉では、当時を知りすぎているのです」
一定年齢以上の貴族ならば、誰もが知っていて、誰もが見て見ぬふりをしてきた、国王による公爵家への仕打ちの数々。内々に処理されたとはいえ祖父が切り伏せられたことは周知されていたし、ジーンの実母の件もある。苦労してきた父の背を、ジーンと姉は見て育ったことを想像したのだろう、目の前の老人はなんとも言えない顔で黙ってこちらの話に耳を傾けていた。
「当時を知らぬ次代――つまり我が家では幼い妹が婿を取って後を引き継いでいくと、陛下との話し合いも交えて内々に決定しているので私は後継を外れましたし、子供は必要としていません。そういう意味でも、彼女はちょうどよかった」
酷い言い方だが、目の前の相手を信じさせるにはこれでいい。
愛を知らないような人間相手に、イザベラを愛しているから結婚したいのだと求婚したところで、すんなりと受け入れられるとは思えない。
実際愛し合うふたりの仲を引き裂いた前科のある相手だ。訝られて反対されても困る。
ならばあえて瑕疵のある娘がほしかったのだと、政治的な理由によってイザベラを選んだのだと思わせておく方が手っ取り早く済む。
ついでにジーンが公爵家を継がない理由を、王家との話し合いの結果、として見るだろうから、一石二鳥でもあった。嫡男が爵位を継がないことへの疑念を抱かせないために、あくまでも王族の意向が強いのだと思わせておきたい。誰であれ、ジーンの出生を疑う余地は残しておきたくなかった。
交渉とはいかに相手に疑心を抱かせず、こちらの意のままに操り目的を達成するか。そして遺恨が残らぬよう、相手にもそれなりに満足な結果に終わらせられるかが重要だ。
王家や実家の名を利用するのは気が引けるものの、縁を結ぶことへのメリットを示すにはこれが最善であり最適解。使えるものはなんでも使う。プライドなど腹の足しにもならない。戦では生き残った者こそが正義なのだ。
イザベラの祖父からすれば、使えないと思っていた孫娘が、訳ありとはいえ思わぬ拾い物をしてきたようなもので、普通ならば諸手を挙げて喜ぶところだ。
案の定、心はこちらに大きく傾いているのが見て取れた。
そういうことならば、というイザベラの祖父の弾んだ声にかぶせるように、それまで黙っていたルーゼット侯爵、イザベラの父が声を荒げた。
「待ってください! イザベラは、この家を継ぐために婿を取ることになっています。あなたが婿養子になってくれると、そういうことでしょうか?」
「残念ながらそれは難しいですね。一度公爵家の後継を降りた私がこちらに婿入りして爵位を継いでは、おそらく王家への心象が悪くなるでしょう。それに私はご覧の通り、仕事が仕事なので。ひと所に留まってはいられないので侯爵の仕事はできないかと思います」
「だ、だったら……」
「確かこちらには、ご令嬢がもうひとりいるとお聞きしていますが?」
ジーンの問いかけに、彼は一瞬目を泳がせてから、焦りを隠すようにその目を伏せた。兄弟ということなら長男が家を継ぐのが慣例だが、姉妹ならばどちらが婿を取って家を継いだとしても構わないはずだ。そこに明確なルールはない。女性に爵位の継承権はないのだから。
それにそもそもイザベラは妹だ。正妻の娘だから、というのは家に縛りつける理由としてはやや薄い。
「いえ、あの子は……庶子です。教育も受けていない娘で……」
(庶子、ねぇ?)
ジーンは笑みを深めた。
「ご謙遜を。庶子と言っても、両親揃って貴族の血を引く、生粋のご令嬢ではありませんか。平民の血が混じっているような庶子とは、また違うでしょうに」
ジーンとしては血筋など、貴族だろうが平民だろうが、厄介でなけれそれに越したことはないと思っているが、あえて、そう口にした。
なぜか。隣の頭の固い老人に聞かせるためである。
ガチガチの旧時代的固定観念を持つ老人がそう簡単に翻意はしないだろうが、件の庶子の娘にも、婿を迎えて侯爵家を継いでいく正当な資格があるのだと吹き込んでおく。
そして父親の方も、愛娘が公に認められる存在であると理解を示すジーンの言葉を、否定しにくいものだろう。
私はあなたの味方ですよ、という顔は、得意中の得意だ。
「それは、そう、ですが……」
「そうですよね。“平民の血が混ざっているような庶子”とは、違いますからね」
同じ言葉を重ねて言うと、ルーゼット侯爵の顔色がわずかに変わった。
ジーンを見る目がどこか探るようなものになったのを感じ取って、内心口角を上げる。
(ようやく気づいたかな?)
まあ、気づいたところでもう遅いが。
交渉はテーブルについた瞬間からはじまるのではない。テーブルについた時点で、情報収集から戦略まで、綿密に練り終えていなくてはならないのだ。着席するまでの間に相手の情報をいかに多く有しているかで勝敗が決まると言っても過言ではない。
はじめから手札を用意していたジーンと、いきなり交渉の場につかされた彼ら。話しはじめた時点で結果は決まっているようなものだった。
家同士の交渉だとしても、国相手の交渉に比べたら気楽なものだ。もちろん、いついかなる場合も油断だけはしないが。
(……ああ、そうそう。念のため牽制もしておかないと)
ないとは思うが、もうひとりの娘を代わりにと差し出されては困りものだ。
「仕事柄、常に緊迫した国境付近を連れ歩くことになるかと思いますし、あまりこちらには帰って来られないでしょう。ご家族には寂しい思いをさせてしまうかもしれませんが、これも国のためですから」
危険な場所に赴くとあっては、愛娘をイザベラの代わりに、とは口が裂けても言えないだろう。この父親ならば特に。
この点に関しては虚言ではなく、概ね事実だ。ジーンが国境付近のごたごたを解決して回らなければ何度か小さな戦が起きていたはずであり、もちろんそのすべてが自分ひとりの手柄で鎮静化したというわけでもないが、ジーンに有用性があるからこそ軍は自分を重用している。普段は籍を置いているだけの幽霊のような人間に、顧問などという都合のいい肩書きを与えて、留め置いて。
もちろん国のためという部分は建前であり、あまりこちらに帰って来れないのは、ジーンが安心して王都に留まることができないからという個人的な理由に尽きた。
結婚はする。その覚悟はすでにある。だが、最低でも陛下の子が立太子されるくらいまでは、子供はいない方がいいし、作る気もない。
「私では、イザベラ嬢の相手としてふさわしくありませんか?」
彼らの立場では否定できないだろうことをわかった上でそう口にした。
「それは、いえ、滅相もありませんが……」
「グラヴィス! なにを迷うことがある、こんな話二度と来ないぞ!」
確かに、家同士の結びつきを強める婚姻ということなら、ここに来てはいなかっただろう。ルーゼット侯爵家と縁を繋いだところでテレーゼ公爵家にはなんの旨みもないのだ。
それをわかった上で未だうなずけずにいる。
この父親はまだイザベラを手放すのが惜しいのだ。
(そうだろうなぁ……だって)
くだらない復讐心のために、十六年もの間、血の繋がらない子供を我が子と偽り育て続けていたのだから――。
時間とお金と労力を考えれば、相応の収穫がなければなかなか手放す気にはなれないだろう。
こんなくだらない真実のために、イザベラがこれまでずっと傷つけられてきたのだと思うと腹が立つが、復讐から生まれるものなどなにもない。
復讐に復讐をぶつけるのは本来悪手だ。感情が先走り判断を狂わせ、大多数が自滅する。よほど上手く立ち回らない限り、必ずどこかに遺恨を残す。それが新たな火種となって、やがて大きな争いを生む。
ジーンは復讐の連鎖というものも、その結果も、よく知っている。
人を恨むことが生き甲斐であるうちはそうすればいいと思う。
ただ、そこに無関係な他人を巻き込むのはいただけない。
だから彼らに思うところはあっても、ジーンは自ら手を下そうとは思わないし、そうでなくとも私情で人を断罪する権利は誰にもない。
なによりイザベラ自身が望まないだろう。
これまでつらい人生だった分、あの子のこれからの人生が輝かしいものであるよう、ジーンがたくさん愛してあげればいい。復讐に勝るのは、やはり、愛ではないだろうか。
普遍的かもしれないが。
「お許しいただけますか?」
穏やかながら、有無を言わせぬ圧を込めて問いかけると、はいでもいいえでもない懇願で切り返された。
「娘と……娘と、話をさせていただくわけには」
「娘?」
間髪をいれず、訊き返した。本気で言っているのかと、失笑しながら。
祖父の方が怪訝そうにジーンを見たが、それでいい。その件を追及されてまずいのはジーンではないのだから。
本来このような交渉の場を設けずとも、もっと簡単な解決法があった。
彼女がこの家の娘でないことを伝えてしまえばいい。
そうすればこのふたりからわざわざ許可を得る必要はなくなる。
イザベラ・ルーゼット嬢がただのイザベラ嬢になったところで、ジーンは別に構わないのだ。いっそ貴族でない方が王族からの心象はいい。だからジーンは姉を通じて陛下には事実を伝えてもらうつもりでいる。それが簒奪を企んでいない証明にもなり、ひいてはイザベラの身を守ることにも繋がる。
しかしまぁ、そう簡単に手の内を見せるのもつまらない。
「大変恐縮ですが、ベラはあなたのことを、父親だとは思っていないようです」
「なっ……、にを」
「親としての愛情を注いでいないのに、都合のいいときだけ父親だと思えと言うのは、些か傲慢では?」
「ハッ! そら見たことか。あの娘ばかりかわいがってイザベラを蔑ろにしていたおまえに、口を挟む権利はないということだ」
自覚があるのか悔しげに唸った彼は、それでも、諦めた様子はない。……やれやれ。
「失礼を承知で言いますが、ベラはあなたに似ていませんね。普通、顔の造作が似ていなくとも、ともに暮らしていれば雰囲気や仕草が似るはずですが……あなたたちがふたり並んでいても、親子だと気づく人の方が少ないのでは?」
さっと顔色を変えた息子に気づくことなく、前ルーゼット侯爵がイザベラの実母のことを思い出したのか、不快そうに鼻を鳴らした。
「確かにあの子は母親似だな」
「あのとても綺麗な紅い髪はお母様譲りですか。私も各地を回っていますが、あのような綺麗な髪の女性に会ったことはそうありませんよ」
さほど興味なさげに相槌を打つ前侯爵の横で、グラヴィス・ルーゼット侯爵はジーンを凝視していた。
ジーンは気づかないふりで他愛ない話のように、それでいて殊更含みを持たせながら話を続けた。
「そういえば前に一度、似たような紅い髪の女性に会ったことがありますね。あれはそう……地方の港町でしたか。嵐で立ち往生していたときに親切に家に泊めてくださったご夫婦の奥様で、趣味で絵を――」
ガタ、と音を立てて、彼は立ち上がった。不作法を気にする余裕もなく、顔面からは完全に血の気が引いてしまっている。
「どうした、グラヴィス?」
「おや、大丈夫ですか? ずいぶんと顔色が悪い。少し休まれてはいかがですか?」
ジーン相手に不安と怯えがない混ぜとなった表情で立ち尽くす彼からは、なにを知っているのか、どこまで知っているのか、そう問い正すような目を向けられたが、それには反応せず、これでもまだ結婚に反対しますか? とばかりにジーンはにこやかに首を傾げて見せた。
交渉に、多少の脅しはつきものだ。
おそらく彼が知られたくないと思っていることのすべてをジーンは把握している。
だがそれらの事実を口外する気はない。
だから――。
「こちらの婚姻の書類にご署名いただいてから、後はゆっくりとお休みください」
乱暴な言い方をするのなら、サインだけしてとっとと失せろ、ということである。
動かない息子に痺れを切らした前侯爵が、無理やりペンを握らせ半ば強引にいくつかの書類に署名させた。
「後の話し合いはこっちで進める。おまえはもう休んでいろ。――連れて行け」
追い出されるように、彼は使用人たちに連れて行かれた。青ざめた顔でこちらを振り返り、なにか言いたそうにしていたが、ジーンは知らぬ存ぜぬで前侯爵と和やかな雰囲気で婚姻のための正式な取り決めを交わしたのだった。
前侯爵が婚姻に関する書類を読み終わるのを気長に待っていると、勝手にポケットに入り込んでいたらしいマーティンがひょこっと顔を出した。咄嗟にあたりを窺うが、誰も気づいた様子はない。軍服が白いので保護色となっているのだろう。
ほっとしながら目だけで見下ろしたマーティンは、物言いたげにこちらをじっと見上げていて、ジーンはわずかに小首を傾げた。
さすがに動物の心までは読めないけど……と思っていたが、意外とわかりやすく真意が伝わった。
(ああ、そういうこと?)
一度周囲を確認してから、どうぞ? というように、手のひらを向けると、マーティンはちゅうと鳴いて、ポケットから転がり出た。すんすんあたりの匂いを嗅ぎ回り、そのまま人の目に触れない死角から死角へとちょこまかと移動しながら部屋中を探索しはじめる。そしていたずらねずみがアンティークの机の脚を齧りはじめたのを見て、ジーンは心の中で、はは、と笑った。
これまで散々イザベラを傷つけてきたのだ。家を取り潰すなり乗っ取るなりしてもよかったところを、穏便に進めてあげたのだから、これくらいの腹いせなら安いものだろう。
復讐しないだけ、感謝してほしい。




