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22・プロポーズ



 しかしいくらジーンが平気そうに見えても、いつまでものしかかったままではいけないと思い、離れようとしたイザベラだったが、今さらながら窓から飛び降りたことへの恐怖が追いついてきたのか、手足が震えてうまく力が入らず自力で立ち上がることすらままならなかった。


「大丈夫? 怪我はない?」


 こくりとうなずくも、どこか納得していない表情のジーンだったが、追及することなくイザベラを支えながらその身を起こした。


(どうしてここに……?)


 それに、この礼服は一体。


「ああ、これ? どうかな? 似合う?」


 その軽い問いかけに、イザベラはしっかりと確固たる意思を持ってうなずいた。クレアが惜しんでいた気持ちがよくわかる。まるで物語の中のお姫様を守る近衛騎士のようだ。


 軍の礼服ならば勲章や憲章で階級などがわかるはずなのだが、イザベラの知識ではジーンがどこの所属かすらもわからなかった。


 ただ、胸に星がみっつ縦に並んでついているところが、アクセサリーのようでちょっとかわいい。


 しかし、だ。本当に、彼はなぜここにいるのだろう。未だ状況が飲み込めていないイザベラに、ジーンは悪戯な笑顔のまま、紅い髪を掬い上げてそこに口づけを落とした。


「逃げた花嫁を取り戻しにね」


 イザベラは慌てた。逃げたわけでもなければ、知らない間に花嫁になっている。


 否定しようにもイザベラの声は相変わらずで……。


(あ……でも、さっき……)


 彼の名を叫んだような気がする。


 唇に触れていた指を喉へと移動させて声を出そうと試みたが、すぐに咳き込んでしまった。うまく発声することができないとわかると、期待してしまった分、落胆した。


 話したいことがたくさんあったのに。


「今は無理しなくていいよ。……酷いこと、されなかった?」


 気遣わしげに頬に手を添えられてはじめて、そこを侍女に打たれていたことを思い出した。だがこんなもの、大したことではない。むしろ父と祖父の方が……と、イザベラは一瞬ためらいはしたが、それでも、大丈夫だとこくりとうなずいた。


 ジーンが来てくれたから、恐ろしい目に遭うことはなかった。だから、それだけで十分だ。


 ジーンはおそらくなにかは察しただろうが、無理に聞き出そうとはせず、そっとイザベラを抱きしめた。その心遣いがありがたかった。


 慰められながらふと二階の窓を仰ぐと、呆然とした顔のままこちらを見下ろす父がいた。目の前で飛び降りたのだから驚いて当然だが、果たしてそんな顔をする資格があるのだろうかと疑問に思わざるを得なかった。


 イザベラが飛び降りたのは受け止めてくれるジーンが下にいたからだが、飛び降りることを選択させたのは、間違いなく父だ。


 あの人にとってのイザベラは、いつまでも、なにもできない無力な籠の小鳥のままなのだろう。


 囀ることすらできない小鳥など、助けを呼ぶことも抗うこともできないのだと、見下していたに違いない。


 だけどイザベラは父とは違う。祖父の籠の鳥のままの父とは違うのだ。


 何度心を折られたとしても、飛び立つための羽が折られていない限り、きっと籠の外へと飛び立たずにはいられない。


 自らの力で一度でも自由に大空を羽ばたけたのなら、きっと一秒先の墜落すらも誇らしい。


 少なくともイザベラはそうだった。


(さようなら……お父様)


 もう二度と、あの人のことを父親だと思うことはないだろう。


 便宜上は父と呼ぶしかないが、もうイザベラの心に父親はいない。


 そんなもの、はじめから存在しなかったのだ。


 そう思ってこれから先の人生を生きて行くことを決めた。


 決別とともに静かに頰を流れた滴を、ジーンは優しく指で拭う。

 

「全部捨てて、僕と来る?」


 はっとして、俯きかけていた顔を上げる。真意を探るように彼の瞳を覗く。琥珀色の瞳にはこれまでなかった不思議な感情が揺らいでいるように見えた。


「各地を転々としないといけないし、今のような暮らしはさせてあげられない。僕がきみにあげられるのは僕自身しかないけども、それでもいいのなら……一緒においで? ……いや、違うな……一緒に来てくれないかな?」


 ジーンの照れた様子に、その言葉が本心であることをまざまざと理解すると、つられるように頰が染まった。


 連れて行ってくれるのだと、今、彼は、確かに、間違いなく、そう言った。


(本当に……?)


「嫌ならうちの屋敷や姉上のところにいてもいいけど……」


 提案を引き下げられてしまう前に慌てて首を振る。そして精一杯気持ちを伝えるために、彼の首へと腕を回して抱きついた。言葉で伝えられない以上、行動で伝えるしかない。


 この場所から逃げたかった。


 ずっとどこか遠くへ行きたいと願っていた。


 そして今は少し、欲張りになった。


 ひとりではなく、ジーンと行きたい。


 行きつく先がどこでも、彼とともに見たことのない景色を見たいと、心からそう思った。


「本当にいいの? このまま攫って行くよ?」


 イザベラは、こくりとうなずく。


 何度も、何度もうなずく。


 身分も、肩書きも、家族でさえも、すべて捨てても惜しくはなかった。


 だって、はじめからイザベラのものなど、なにもなかった。


 そんな空っぽのイザベラを認めて優しくしてくれたのは、彼だけだった。


 当たり前のように恋をした。


(わたしは、この人が……ジーン様が)


 好き。


 大好き。


 好きだから、一緒にいたいと願った。置いて行かれることを悲しく思った。


 本当に夢のようだ。……もしかして、夢なのだろうか。頰を摘んでみたが、あまり痛くなくて、少し不安になった。


「はぁー……またそうやって無意識に煽って……っと。のんびりしている場合じゃなかった」


 飛び降りたイザベラを目撃した使用人がいたのか、にわかに屋敷が騒がしくなった。


 イザベラが逃げ出したことが祖父に知られるのも時間の問題だ。


 家のことにジーンを巻き込みたくなかったのに――と、そう思ったところで、はたと気づく。


 彼はなぜ、イザベラの家を知っていたのか。


 もしやとっくに、素性が知られていたのだろうか。


 言葉の出ない唇を震わせながら青ざめていると、急に横抱きにされ、慌てて彼の首へとしがみつくしかなかった。思考は一瞬でどこかへと飛んで行った。


 彼の目線を追うとちょうど屋敷から使用人たちが出て来るのが見え、二階からは使用人たちに命令する父の鋭い声が降って来る。


「イザベラを! 娘を捕まえろ!!」


 指示に従い、使用人たちが一斉にこちらへと向かって来た。本能的に震えていると、


「しっかり捕まっててね」


 ジーンはイザベラを抱えたまま、外へと向かって走り出す。


 庭を駆け抜け、イザベラを片腕で抱えたまま木の枝を掴み、軽い身のこなしで塀を乗り越えたジーンの身体能力を前に、しっかりと首にしがみつく以外にできることはなかった。


「ジーン様、こちらです!」


 声のした方へと視線を向けると、ディノが馬車と待機しているのが見えた。その馬車へと乗り込んで走り出すとようやく、イザベラはジーンにしがみついたまま詰めていた息を吐き出した。


 馬車はみるみる速度を上げ、屋敷から遠ざかっていく。


 あの家がこの先どうなるのか、考えると憂鬱になるが、イザベラにはもはやどうすることもできない。あの家の本当の娘ではないのだから。


 落ちかけた視線を少し上げて、ジーンを見た。


 彼はもう、知っているのだろう。イザベラの素性を。


 だけどあの父が復讐のために隠し続けてきた悍ましい真実までは知らないはずだ。


 どう伝えるべきか逡巡していると、ちゅう、というかすかな鳴き声がどこからか聞こえてきて、周囲を見渡し、そして、自分の肩に白いはつかねずみが乗っていることに気づくとイザベラは大きく目を見開いた。


(マーティン!)


 そういえば色々ありすぎて、マーティンのことをすっかりと忘れていた。もしかしてずっとそばにいたのだろうか。


「マーティン、またきみなのかい?」


 呆れ顔のジーンが手を差し出すが、イザベラの肩から降りる気配はない。当然だがマーティンは髭をゆらゆらとさせるだけで答えることはなかった。


「ベラの肩が気に入ったとか?」


 それは少し誇らしい気持ちになる。指先で優しく頭を撫でると、嫌がらずにじっとしていてくれた。


 ちょんちょん触っていると、ジーンが考え込むように腕を組んでから、ぽつりとつぶやく。


「最初からはつかねずみの手のひらの上だったのか……?」


(……?)


 はつかねずみは手のひらの上ではなく、肩の上だ。


「いや、そういうことじゃなくて……。普通はね、はつかねずみを肩には乗せたりしないし、まず真っ先に悲鳴をあげて卒倒すると思う。男でも」


 そういうものなのか。白くて小さくて、こんなにもかわいいのに。


「まぁ、だからこそ僕はきみを警戒しなかったわけだが……」


 やっぱりマーティンのおかげですんなりと受け入れてもらえたのだ。この小さな友人には感謝してもし足りない。


「繊細なベラを劣悪な環境に連れ回すのは不安だったけど、ねずみが平気なら、案外どこへ行ってもやっていけそうな気がしてきた。うん」


 劣悪な環境……設備が整っていないような、僻地ということだろうか。


 イザベラは侯爵家にふさわしい暮らしをしてはいたが、そのどれもに魅力は感じたことはなかった。最高級の葡萄酒よりも山の湧水やしょっぱい海の水に惹かれるし、今では虫食い跡のあるもぎたての野菜だったり、皿の上の料理を指でつまみ食いするのが一番おいしいことを知っている。


 つまりイザベラは、わりとジーンの暮らしに馴染んで、染まっていた。


「改めて訊くのはなんか照れるけど、僕と結婚して一緒に来てくれる、ということで合っているよね?」


 ジーンと一緒に行ける。その歓喜と高揚感で失念しかけていたが、イザベラには消えない傷跡がある。それをどう伝えようかと両手を腹部へと置くと、その手に彼の手が重ねられた。


「知っていたよ、最初から」


(!?)


「軍人は普通の人よりも多くの負傷者を目にするんだ。……いや、違うな。見慣れている、と表現すべきか。歩き方ひとつで、どこが悪いのかなんとなくわかるんだよ。隠していても」


 子供に問いかけるような優しい顔で彼は続けた。


「ベラは僕の体の傷を醜いと思う?」


 そんなことは一度も思ったことがないと首を横に振った。


「僕も同じだよ。きみにどんな傷があっても、それはきみがこうして生きている証として、むしろ誇らしく思う」


 だが、だとしても。


 ジーンの気持ちは、本心は、どうなのだろうか。


 責任感でイザベラを娶ろうとしているのなら、素直にうなずけない。イザベラのいまいち煮え切らない態度に、ジーンはすっかり忘れていたとばかりに膝を打った。


「あっ、ああ! そうか、まずはその誤解を解いておかないと」


(誤解……?)


「僕と姉上の間に、家族愛以上の感情はない。お互いに」


 それはジーンがそう思っているだけなのではと思ったが、彼はきっぱりとその可能性を否定した。


「姉上にはね、心に決めた相手がいるんだ。身分差がある相手だったから公にはしていないし、今もほとんど手紙でしかやり取りしていないけど、いずれはその相手と結ばれると思うよ。できないことなどなにもないと言い切ってしまえる、強い人だから」


 リリーベルに想い人がいるのだとしても、だからといってジーンの気持ちがわかるわけでもない。イザベラには彼のように、人の心を読めるような洞察力は持ち合わせていないのだ。


 ジーンは髪をくしゃりとして、諦めたように嘆息してから、イザベラの肩を引き寄せた。


「もっと雰囲気のいいところでしたかったんだけど……」


 そんなかすかなつぶやきとともに、額に柔らかなものが押し当てられた。それがジーンの唇だと気づくと、イザベラの顔はこれまでにないくらい真っ赤に染まった。


(……!?)


「本当はこっちにしたいところなんだけど、さすがに最初が馬車の中って味気ないから。それは今度ね?」


 イザベラのわななく唇を、ジーンが思わせぶりに指の腹でなぞる。


 普段の茶目っ気にほんのり色気が足され、初心なイザベラの心臓は鼓動するのに大忙しで気絶しそうだった。


「僕の肩にキスしたときは平気そうだったのに」


 そう言ってくすくす笑われる。


(あれはっ、動物が傷を舐めて治すのと同じような意味合いであって……)


 いや、だが、よく考えるとやっていることは同じだった。むしろ剥き出しの肩にキスをしたイザベラの方が大胆な行為だったかもしれない。


 そう気づいたら今さら羞恥心の嵐が襲ってきた。


 熱い頰を隠すように包んでいた手を取り、優しく握られる。


「僕が好きなのはきみだよ、ベラ。……イザベラ」


 イザベラは瞠目した。


 はじめて、本名を呼ばれた。


 たったそれだけのことなのに、どうしてだろう、涙が溢れて止まらない。


 ベラとしてだけでなく、あの頃のイザベラごと、彼に救われたような気がした。


 肩を震わせたせいか、マーティンが腕をするする伝い降りて、今度はジーンの膝に飛び乗った。持ち上げた鼻先をひくつかせながら、ちょうどいい安息の地を探してうろうろとしている。


「改めて。僕と結婚してほしい」


 真摯なそのプロポーズに、イザベラは信じられない気持ちのまま、それでも涙を拭って、しっかりとうなずいて見せた。


「それなら、正式に婚約の打診をしないとね」


(……え?)


「書類だけは作成してあるんだ。なぜか、ね」


 ジーンがディノのいる御者台の方へと物言いたげな目を向けたので、答えは明白だった。ディノが勝手に気を利かせて作っておいたのだろう。


 婚約の打診ということは、もう一度直接ルーゼット家にジーンが訪問するということだ。


 血統主義の祖父ならば喜んでイザベラを差し出しそうだが、復讐のためだけにイザベラに固執する父は受け入れられないだろう。


「このまま連れ去ってもいいんだけど、やっぱりそこは筋を通さないと男じゃないだろう?」


 茶目っ気たっぷりのジーンは、蒼白でふるふると首を振るイザベラの頭をぽんぽんと撫でた。


「大丈夫。交渉こそ、僕の仕事みたいなものだから」


 そう言ってジーンは普段と違い、どこか不敵に笑って見せた。



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